巻第19-4227~4228
4227 大殿(おほとの)の この廻(もとほ)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪そ 山のみに 降りし雪そ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は 4228 ありつつも見(め)したまはむそ大殿(おほとの)のこの廻(もとほ)りの雪な踏みそね |
【意味】
〈4227〉左大臣の御殿のまわりの雪を踏んではいけない。しばしば降る雪ではない、いつもは山にしか降らなかった雪なのだ。決して近寄るな、そこの人。踏んではならない、この雪は。
〈4228〉あるがままにご覧いただこう、この御殿のまわりの雪を踏んではならない。
【説明】
左注に次のような説明があります。「以上二首の歌は、三形沙弥(みかたのさみ)が贈左大臣藤原北卿(ふじわらのほくきょう)の言葉を受けて作り詠んだ。それを聞いて伝えたのは笠朝臣子君(かさのあそみこきみ)で、さらに後に伝え読んだのは越中国の掾(じょう)久米朝臣広縄である」。三形沙弥(三方沙弥)は伝不詳。贈左大臣藤原北卿は、藤原不比等の子で藤原北家の祖となった藤原房前(ふじわらのふささき)のことです。
この2首は、貴人の屋敷の周囲に降り積もった雪を喜び、決して踏み荒らしてはならないと人に呼びかけた歌ですが、一方では何某かの強い意趣が感じられる歌でもあります。天平1年(729年)、藤原四兄弟によるクーデターである「長屋王の変」が起きた当時、藤原房前は京を警護する中衛府の大将の職にありましたが、実際に挙兵して長屋王の屋敷を囲んだのは、難波で難波宮の造営長官をしていた藤原宇合でした。長兄の藤原武智麻呂が仕組んだ計画に房前が参加しようとしなかったため、急ぎ宇合を呼び寄せて事に及んだのでしょうか。
この政変での房前自身の活動記録は一切なく、さらには、変後に武智麻呂は大納言に昇進する一方で、房前は何の昇進にも与りませんでした。房前の藤原氏内での相対的地位は低下する結果となりましたが、これは、聖武天皇の下で長屋王を中心に藤原四兄弟が協力するという、かつて不比等が描いて元明上皇・元正天皇とも合意していた構想を継承しようとする房前と、あくまで藤原氏の独自政権を目指す武智麻呂の路線との違いが浮き彫りになった出来事だったともいわれます。
こうした経緯を踏まえますと、房前が三形沙弥に詠ませたというこの歌には、作歌の時期は不明確ながらも、元正天皇の寵臣らを踏みにじってはならないという、房前の強い怒りが込められているようにも感じられます。
4227の「大殿」は、房前の邸を尊んで呼んだもの。「廻り」は周囲。「な踏みそね」の「な~そね」は禁止の懇願。「ゆめ」は強い禁止。4228の「ありつつも」は、今ある状態で。
長屋王の変
天平1年(729年)、藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年9月、聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王が誕生した。この王は次の天皇たるべく翌々月に立太子したが、翌年に夭折した。ところがそのころ、聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積(あさか)親王を出産し、藤原氏に衝撃を与えた。聖武唯一の皇子である安積親王はやがて立太子し即位する公算が大きく、そうなると藤原氏は将来権力の座を追われかねない。そこで、場合によっては即位も可能な皇后の伝統的地位に目をつけ、夫人安宿媛を皇后にしようとした。そして、これに強硬に反対すると予想される長屋王を陰謀によって無実の罪を着せ自殺に追い込み、光明立后を強行した。
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巻第19-4242~4244
4242 天雲(あまくも)の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我(あ)がする別れ悲しみ 4243 住吉(すみのえ)に斎(いつ)く祝(はふり)が神言(かむごと)と行くとも来(く)とも船は早けむ 4244 あらたまの年の緒(を)長く我(あ)が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ |
【意味】
〈4242〉天雲のように、行ってすぐに帰ってくるものであろうに、私は物思いをすることだ、別れを悲しんで。
〈4243〉住吉神社の神官が神のお告げだとして言うことには、行きも帰りも船はすいすいと進むでしょう。
〈4244〉年久しく私がずっといとおしく思ってきた人と離れ、恋しくてならなくなるだろう、出発の日が近づいてきました。
【説明】
大納言藤原家で入唐使たちの送別の宴を開いた日の歌。「大納言藤原家」は藤原仲麻呂のこと。4242は、宴の主人の仲麻呂の歌。4243は、民部少輔(みんぶのしょうふ)多治比真人土作(たじひのまひとはにつくり)の歌。4243は、遣唐大使に任命された藤原清河(ふじわらのきよかわ)の歌。清河は仲麻呂の従兄弟にあたります。
4242の「天雲の」は「行き帰り」の枕詞。4243の「住吉」は、大阪市住吉区。ここでは海の守護神である住吉大社。「斎く」は、神に仕える、神を祭る。「祝」は神職、神に仕える人。4244の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年の長いことを緒に譬えた語。
なお、清河は天平勝宝2年(750年)9月に遣唐大使となり、同4年3月拝朝の後に入唐、阿倍仲麻呂とともに唐朝に仕えました。その後、帰国の途上に逆風に遭い漂着、同船の者は土人に殺されたものの、清河は助かって唐に留まり、結局、帰国することなく、宝亀9年(778年)ころ唐国で没しました。
巻第19-4245~4246
4245 そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波(なには)に下(くだ)り 住吉(すみのえ)の 御津(みつ)に船乗(ふなの)り 直(ただ)渡り 日の入る国に 任(ま)けらゆる 我(わ)が背(せ)の君を かけまくの ゆゆし畏(かしこ)き 住吉の 我(わ)が大御神(おほみかみ) 船(ふな)の舳(へ)に うしはきいまし 船艫(ふなども)に 立たしいまして さし寄らむ 磯の崎々 漕(こ)ぎ泊(は)てむ 泊(とま)り泊(とま)りに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(ゐ)て帰りませ もとの国家(みかど)に 4246 沖つ波(なみ)辺波(へなみ)な越(こ)しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊(は)つるまで |
【意味】
〈4245〉大和の国、この奈良の都から難波に下り、住吉の御津で船に乗り、まっすぐ海を渡って、日の入る唐の国に遣わされる我が背の君よ。口にするのも恐れ多い住吉大社の我らが大御神よ、行く船の舳先を支配なさるべく艫にお立ちになって、立ち寄る磯の崎々でも、停泊するどの港でも、荒い風や波に遇わせることなく、どうか平穏に導いて帰してやってください、もとのこの大和の国に。
〈4246〉沖の波も岸辺の波も、船べりを越すほどに立たないでおくれ。君の一行が船を漕ぎ帰り、この御津に停泊するまで。
【説明】
天平5年(733年)、入唐使に贈る歌(作者未詳)で、夫婦の別離を悲しんだ歌とされます。この時の遣唐大使は多治比広成(たじひのひろなり)で、ほかにも広成に山上憶良が贈った歌(巻第5-894~896)、笠金村が贈った歌(巻第8-1453~1454)があります。この時は、総員594名が4隻の船に乗って難波の港を出帆しましたが、船旅は悲惨な結果となり、広成は無事だったものの、2隻しか祖国に戻ってこなかったといいます。
4245の「そらみつ」「あをによし」「おしてる」は、それぞれ「大和」「奈良」「難波」の枕詞。それぞれの地名を美しく飾ることによって、地霊に挨拶し、加護を願う気持ちが込められています。「日の入る国」は中国。「住吉」は大阪市住吉区。「御津」は、官船の出入りする港を尊んで呼ぶ語。「かけまく」は、口に出して言うこと。「住吉の大御神」は、水上交通を守るとされた住吉大社。「舳」は船首、「艫」は船尾。4246の「辺波」は、岸辺に寄せる波。「な越しそ」の「な~そ」は禁止。
巻第19-4247
天雲(あまくも)のそきへの極(きは)み我(あ)が思へる君に別れむ日近くなりぬ |
【意味】
天雲の果てまでも限りなく思っている母上に、お別れしなければならない日が近くなりました。
【説明】
阿倍朝臣老人(あべのあそみおゆひと:伝未詳)が唐に派遣された時に、母にさし上げた悲別の歌。「老人」は名であって、年寄りの意味ではありません。「そきへ」は、遠方。敬愛する母を残して旅立つ子の苦悩であり、シングルマザーの一人っ子の歌のように感じられます。
巻第19-4262~4263
4262 唐国(からくに)に行き足(た)らはして帰り来(こ)むますら健男(たけを)に御酒(みき)奉(たてまつ)る 4263 櫛(くし)も見じ屋内(やぬち)も掃(は)かじ草枕(くさまくら)旅行く君を斎(いは)ふと思ひて |
【意味】
〈4262〉唐国に行かれて、十分に任務を果たして帰って来られる立派な男子に、御酒を捧げます。
〈4263〉櫛も使いますまい、家の中も掃きますまい。旅行くあなたの無事をお祈りして。
【説明】
天平勝宝4年(752年)閏三月に、衛門督(えもんのかみ)大伴古慈悲宿祢(おおとものこじひすくね)の家で、入唐副使の大伴胡麻呂宿祢(おおとものこまろすくね)らを餞する歌。「衛門督」は、宮中の諸門を守る衛門府の長官。大伴古慈悲は、藤原不比等の女を妻にした人で、禁固・配流の刑などの転変を経て従三位で没しました。また胡麻呂は、家持の叔父の田主か稲公の子とみられ、家持の従兄弟にあたります。
大伴胡麻呂は、遣唐副使として渡唐し、天平勝宝6年(754年)に帰朝しました。ずいぶん気骨のあった人のようで、渡唐後の使臣が集まる謁見の場で、新羅より日本の席が下位にあるのに強く抗議して席を交換させたという逸話が残っています。また、帰朝に際して唐僧の鑑真を伴ったのも胡麻呂でした。胡麻呂は遣唐大使の反対にも関わらず、ひそかに鑑真と衆僧を自分の船に入れて誰にも知らせなかったといいます。
この時の遣唐大使は、光明皇后の甥の藤原清河で、清河は帰りの渡航に失敗して帰国を果たすことができませんでしたが、副使の大伴胡麻呂は、失敗を重ねながらも何とか帰国。しかし、3年後に起きた橘奈良麻呂の乱に加担した罪で捕らえられ獄死してしまいます。帰国できなかった清河が唐で生き永らえたのに対し、帰国した胡麻呂はわずか3年後に政争(橘奈良麻呂の乱)に敗れて殺されてしまうという、何とも皮肉な結果に至りました。
なお、鑑真を乗せた船は、天平勝宝5年(753年)12月26日に大宰府に到着、翌年2月1日に難波に着き、4日に入京しました。この時の鑑真は67歳、やがて新田部親王(にいたべのみこ)の旧宅地を与えられ、ここに唐招提寺が造られました。
4262は、多治比真人鷹主(たじひのまひとたかぬし:伝未詳)の歌。彼もまた、橘奈良麻呂の乱で胡麻呂と運命を共にした人です。「行き足らはす」は、十分に行く、すなわち十分に任務を果たして帰って来るということ。「ますら健男」は、立派な男子。4263は、左注に大伴宿祢村上と同清継らが伝誦したとあり、元々は女性の歌だったかもしれません。古くから別れのときに歌われていた歌と見えます。「草枕」は「旅」の枕詞。「斎ふ」は、禁忌を守って吉事を祈ること。
巻第19-4260~4261
4260 大君(おほきみ)は神にしませば赤駒(あかごま)の腹這(はらば)ふ田居(たゐ)を都と成(な)しつ 4261 大君(おほきみ)は神にしませば水鳥(みづどり)のすだく水沼(みぬま)を都と成(な)しつ |
【意味】
〈4260〉大君は神でいらっしゃるので、赤駒さえも腹まで水に漬かる深田を、立派な都となさった。
〈4261〉大君は神でいらっしゃるので、水鳥が群がり騒ぐ水沼を、立派な都となさった。
【説明】
672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子は、明日香浄御原で即位し、天武天皇となりました。ここの2首は、その宮廷の造営を、あたかも神のしわざであるかのように讃えたもので、4260は、壬申の乱の功臣、大伴御行(おおとものみゆき)の歌、4261は作者未詳歌です。左注に、天平勝宝4年(752年)2月2日に家持が某人から聴取してここ(巻第19)に載せるとの記載があります。奈良盆地の水系の出口は大和川のみで、その中心部は、馬が腹まで漬かって耕作するほどの湿地帯だったことが分かります。
明日香浄御原宮は、天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。奈良県明日香村飛鳥に伝承地がありますが、近年の発掘成果により、同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっています。『日本書紀』には浄御原宮の殿舎として、新宮(にいみや)・旧宮(ふるみや)のほか、大極殿、大安殿(おおあんどの)、内安殿(うちのあんどの)、外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)、西庁(にしのまつりごとどの)などがみえます。
天武天皇は、新たな王朝の創始者にふさわしい偉大な天皇として、人々から畏敬されました。その理由の第一は、父母ともに天皇(父は舒明天皇、母は皇極/斉明天皇)という貴種中の貴種であったこと、第二は、壬申の乱では、わずかか30人ほどで吉野を発ち、たちまち強大な軍事力を得て1か月の短期間で勝利した英雄であること、そして第三は、政権の運営にあたっては一人の大臣も置かず、皇后をはじめとする皇親の補佐のみで権力をふるったことにあります。そのような認識を背景に、この時代に天皇の神格化が急速に進んでいくことになります。
なお、『竹取物語』に登場する「大納言大伴の御行」は、4260の作者の大伴御行をモデルにしているといわれています。
巻第20-4440~4441
4440 足柄(あしがら)の八重山(やへやま)越えていましなば誰(た)れをか君と見つつ偲(しの)はむ 4441 立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ |
【意味】
〈4440〉足柄の八重に重なる山々を越えて行ってしまわれたら、誰をあなた様と見てお慕いしたらよいのでしょうか。
〈4441〉しなやかなあなた様のお姿を忘れない限り、きっと命果てるまでもお慕いし続けることでしょう。
【説明】
上総の国(千葉県南部)の大掾(だいじょう)大原真人今城(おおはらのまひといまき)が、朝集使として京に向かうことになった時に、地元の郡司の妻女らが贈った歌。「大掾」は、国司の上席三等官。「朝集使」は、国庁から年4回、その国の貢物を奉じて中央政府に行く使者。大原真人今城は、敏達天皇の後裔で、はじめ今城王、後に臣籍降下して大原真人姓になった人。「郡司」は、その地の豪族が任ぜられる職。
ここの歌は、餞宴の席に侍していた郡司の妻が、盃を勧める際に詠んだ歌とみられます。4440の「足柄の八重山」は、神奈川県と静岡県の県境にある足柄・箱根山群の山で、東国と西国の境であるとも考えられていた難所です。「いましなば」の「います」は「行く」の尊敬語。「誰れをか君と見つつ」は、あなたに似る美貌の人は、他にはないの意。4441の「立ちしなふ」は、しなやかに立つ。京風の美として言っています。下官の妻が、上官の美貌をたたえるということは、宴歌にせよ稀有で、他に例のないもののようです。また、2首とも、あたかも恋人を送り出すかのような歌でもあり、すでに額田王の蒲生野唱和歌があったように、酒宴ではこうした際どい歌も許されたと見えます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(天武天皇)
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