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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

『柿本人麻呂歌集』から(巻第12)

巻第12-2841~2843

2841
我(わ)が背子(せこ)が朝けの形(すがた)能(よ)く見ずて今日(けふ)の間(あひだ)を恋ひ暮らすかも
2842
我(あ)が心 為(せ)む術(すべ)もなし新夜(あらたよ)の一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)に見えこそ
2843
愛(うつく)しみ我(わ)が念(も)ふ妹(いも)を人みなの行く如(ごと)見めや手にまかずして
   

【意味】
〈2841〉私の夫が朝早くお帰りになる時の姿をよく見ずにしまって、一日中物足りなく寂しく思い、恋しく暮らしています。
 
〈2842〉私の切ない思いは、どうしてよいやら手の施しようがありません。せめて、来る夜ごとに一夜も欠かさず夢に姿を見せてください。

〈2843〉おれの恋しい女が今あちらを歩いているが、それを普通の女と同じに平然と見ていられようか、手にまくことなしに。
 

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。

 2841は、結婚後間もないころの若い妻が夫に贈った歌で、後の後朝(きぬぎぬ)の歌に類するもの。万葉時代においても、結婚した夫婦は別々に住み、夫が妻の家に通ってくる場合が殆どでした。「朝けの形」は、夜明けに夫は家を出て行く時の姿のこと。斎藤茂吉は「簡潔にこういったのは古語の好い点である」と述べています。

 2842は、結婚後、男に疎遠にされている女が、男を恨んで訴えた歌で、通ってくれなくとも、せめて心の中で思っていてほしいと訴えています。「為む術もなし(等望使念)」の句は難訓で「ともしみおもふ」「ねがひおもはば」など諸説あります。「新夜」は、新たにめぐってくる夜。「一夜もおちず」は、一夜も漏れずに。「見えこそ」の「こそ」は願望。

 2843の「人みなの」は、世間の人すべての。「見めや」の「や」は反語。男による求婚の歌で、恋しい女を手にもまかずにいるのが辛いけれど、人目があるのでどうしようもないと言っています。「人みなの行く如見めや」の句を、斎藤茂吉は「強くて情味を湛え、情熱があってもそれを抑えて、傍観しているような趣が、この歌をして平板から脱却せしめている」と評しています。

巻第12-2844~2847

2844
このころの寐(い)の寝(ね)らえぬは敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まきて寝(ね)まく欲(ほ)りこそ
2845
忘るやと物語りして心遣(こころや)り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり
2846
夜も寝(ね)ず安くもあらず白栲(しろたへ)の衣(ころも)は脱かじ直(ただ)に逢ふまでに
2847
後も逢はむ我(あ)にな恋ひそと妹(いも)は言へど恋ふる間(あひだ)に年は経(へ)につつ
 

【意味】
〈2844〉このごろ寝るに寝られないのは、妻と手枕を交わして寝たいと思うからだ。

〈2845〉忘れられるかと、人と世間話などして気を紛らせて、物思いを消し去ろうとしたが、いっそう恋心は募るばかりだ。

〈2846〉夜も寝られず、気も休まることがない。衣は脱がずにいよう、じかに逢うまで。

〈2847〉「また後にはお逢いしましょう。私にそんなに恋い焦がれないで」と妻は言うけれど、恋い続けているうちに年月は過ぎてゆく。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2844~2847は、旅にある男が妻に贈った歌。2844の「寐」は眠りの名詞形。「敷栲の」は「枕」の枕詞。久しく逢えないので手枕を巻けない悩ましさを率直に言っています。2845の「忘るや」は、恋の苦しみを忘れることができるだろうか、の意。「物語して」は、話をして。ここでは雑談。「過ぐせど過ぎず」は、忘れようとするが、忘れられず。過去のものとしようとするが、そうはならず。

 2846の「白栲の」は「衣」の枕詞。「衣は脱かじ」は、寝ない意。国文学者の窪田空穂はこの歌について「文芸意識を全く棄て、昂奮した気分を凝集させて、一句で切り、二句で切り、四句で切って、結句で言い据えているという特殊な形の歌である。それでいて一首としては安定感をもち、軽くないものとなっているのは、気分で貫いているからである。手腕ある作というべき」と言っています。
 
 2847の「我にな恋ひそ」の「な~そ」は禁止。おそらく上の3首を贈られた妻が「後に逢えるので私を恋しがらないで」と落ち着いて答えたのでしょう。それに対し、恋情を抑えきれない夫は、まるで駄々をこねているようであります。

巻第12-2848~2852

2848
直(ただ)に逢はずあるは諾(うべ)なり夢(いめ)にだに何(なに)しか人の言(こと)の繁(しげ)けむ [或本歌曰 うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
2849
ぬばたまのその夢(いめ)にだに見え継(つ)ぐや袖(そで)干(ふ)る日なく我(あ)れは恋ふるを
2850
うつつには直(ただ)には逢はず夢(いめ)にだに逢ふと見えこそ我(あ)が恋ふらくに
2851
人の見る上(うへ)は結びて人の見ぬ下紐(したひも)開けて恋(こ)ふる日ぞ多き
2852
人言(ひとごと)の繁(しげ)き時には我妹子(わぎもこ)し衣(ころも)なりせば下に着ましを
 

【意味】
〈2848〉じかに逢えないのはやむを得ません。けれども、夢の中で逢うだけなのに、どうして世間の噂がうるさくつきまとうのでしょう。(なるほど現実には逢えません。それにしても夢にまでも)

〈2849〉夜のその夢の中に、私の姿が見え続けていますか。涙で濡れる袖が乾く日とてなく、私は恋い焦がれていますのに。

〈2850〉現実にはじかに逢うことができないでいるが、せめて夢の中では目の前にいるかのように姿を見せてくれ。こんなに恋い焦がれているのだから。

〈2851〉人の見る上着の紐はきちんと結び、人の目に触れない下着の紐をあけて、あなたを恋焦がれる日が重なっています。

〈2852〉人の噂がこれほどひどい時には、いとしいあの子が着物であったなら、下着としてじかに着るのに。

【説明】
 2848~2850は「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2848は、結婚後間もないのに、男に疎遠にされている女の歌。「諾なり」は、もっともだ。「夢にだに」は夢に逢うだけでも。「何しか」は、どうしてか。2849の「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「見え継ぐや(見継哉)」は訓が定まりません。

 2851・2852は「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2851について、万葉時代の人々は、下着の紐が自然に解けるのは、恋人に逢うことができる前兆だと考えていました。そのため、自分でわざと紐を解けば、恋人に逢えるのではないかと、この作者は考えたのでしょう。

 万葉の恋歌に多く見られる「下紐を解く(開ける)」という表現は、現代風に言えば「下着(パンティー)を脱ぐ」ことであり、この歌の解釈も、ありていに申せば「あなたと早くしたいから、パンティーを脱いで待っています」と言っているのと同じです。当時の下着は「裳」のようなものだったそうですから様子はかなり異なりますが、いずれにしても、熱い欲望の率直な吐露といいますか、かなりエロティックな内容の歌となっています。

巻第12-2853~2858

2853
真玉(またま)つく遠(をち)をし兼ねて思へこそ一重(ひとへ)の衣(ころも)ひとり着て寝(ぬ)れ
2854
白栲(しろたへ)の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに
2855
新治(にひはり)の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹(いも)が上のことを
2856
山背(やましろ)の石田(いはた)の社(もり)に心おそく手向(たむ)けしたれや妹(いも)に逢ひかたき
2857
菅(すが)の根のねもころごろに照る日にも干(ひ)めや我(わ)が袖(そで)妹(いも)に逢はずして
2858
妹(いも)に恋ひ寐(い)ねぬ朝明(あさけ)に吹く風は妹にし触(ふ)れば我(わ)れさへに触れ
  

【意味】
〈2853〉私たちの将来のことを考えるからこそ、一重の薄い着物にくるまって一人寂しく着て寝ているのです。

〈2854〉私の紐が切れないうちに、恋結びをしておこう また逢う日まで。

〈2855〉新しく開いて今できたばかりの道は、清々しくはっきりしているが、そのように愛しい彼女のことをはっきり聞いたことだよ。

〈2856〉山背の石田の神社に、真心こめずに捧げ物をしたせいだろうか。彼女になかなか逢えないでいる。
 
〈2857〉じりじりと照りつける日差しにさえ乾くことはない、涙に濡れた私の袖は。あの子に逢えないでいて。
 
〈2858〉あの娘に恋して眠れない朝に吹いてくる風よ、あの娘に触れているのなら、私にも触れてくれ。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2853の「真玉つく」は真珠を付ける緒と続け、「遠(をち)」の「を」の枕詞。「遠」は、将来の意。女が男に贈った歌で、周囲の噂を憚り、男との交渉を絶って一人寝をしているのは、二人の関係の秘密を守って堅い関係を保とうとするためだと思いつつも、さすがに侘びしく感じています。更には、同じく侘しい思いをしているであろう男に対し、そうした女の心を誤解しないように、との気持ちも込められているようです。

 2854の「白栲の」は「紐」の枕詞。「恋結び」は、ここに出ているのみの語で、恋人と結ばれることを願って、紐や草木などを結んだ呪(まじな)いの一種だったとされます。自然にほどけると恋人に会える前兆とされたようです。2855の「新治」は、新しく開墾する意。「さやかに」は、はっきり、明瞭に。遠い地に関係した女のいる男が、女の様子がわからずにいたところ、図らずもそれを聞き得た歓喜をいった歌です。

 2856の「山背」は、京都市の南の地域。「石田の杜」は、京都市伏見区石田にあった神社。2857の「菅の根の」は「ねもころごろに」の枕詞。「ねもころごろに」は入念に、心を込めて、の意。ここでは焼けつくような日差し。2858は、逢えないのなら、せめて同じ風に触れていたいという、恋に悩む切ない男心。当時の人々は、思う人の身に触れた物を自分の身に触れさせることは、霊の交流のあることとして重んじていました。

巻第12-2859~2863

2859
明日香川(あすかがは)高川(たかかは)避(よ)きて来(こ)しものをまこと今夜(こよひ)は明けずも行かぬか
2860
八釣川(やつりがは)水底(みなそこ)絶えず行く水の継(つ)ぎてぞ恋ふるこの年ころを [或本歌曰 水脈(みを)も絶えせず]
2861
礒(いそ)の上(うへ)に生(お)ふる小松(こまつ)の名を惜(を)しみ人に知らえず恋ひわたるかも
2862
山河の水陰(みかげ)に生ふる山菅(やますげ)の止(や)まずも妹(いも)がおもほゆるかも
2863
浅葉野(あさはの)に立ち神(かむ)さぶる菅(すが)の根のねもころ誰(た)がゆゑ我(わ)が恋ひざらむ
  

【意味】
〈2859〉明日香川の水量が増したのを避けて、遠く回り道をしてやって来たのだから、本当に今夜ばかりは明けないままでいてくれないものか。

〈2860〉八釣川の川底を絶えることなく流れる水のように、ずっと恋い焦がれています。ここ何年もの間を。(川筋も絶えずに)

〈2861〉磯の近くに立っている松のように、噂が立つのを恐れ、ひっそりと人に知られないまま恋い焦がれ続けています。
 
〈2862〉山川の水辺の陰に生えている山菅(やますげ)のように、止まずに私はあなたを思っています。

〈2863〉浅葉野に立ち神のようになっている菅の根よ。その根のようにねんごろに心を尽くし、誰ゆえに恋をしようか。誰のためではなく、あなたのためにこそ恋をしている。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2859の「高川」は、水面が高くなった川の意。2860の上3句は「継ぎて」を導く序詞。「八釣川」は、桜井市に発し明日香村の八釣山麓を流れる川。2861の上2句は「名」を導く序詞。「小松」の「小」は、美称。

 2862の上3句は「止まず」を導く序詞。「水陰」は、水辺の物陰。斎藤茂吉は、この「水陰」という語に心を惹かれると言っています。「この時代の人は、幽玄などとは高調しなかったけれども、こういう幽かにして奥深いものに観入していて、それの写生をおろそかにしていない」と。

 2863の「浅葉野」の所在は不明。上3句は「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、心を尽くして。女が男に、その恋情の強さを訴えた歌であり、窪田空穂は、「立ち神さぶ」「ねもころ誰がゆゑ我が恋ひざらむ」の表現など、「珍しいまでに重量のある歌である」と評しています。

巻第12-3127~3130

3127
度会(わたらひ)の大川(おほかは)の辺(へ)の若久木(わかひさぎ)我(わ)が久(ひさ)ならば妹(いも)恋ひむかも
3128
我妹子(わぎもこ)を夢(いめ)に見え来(こ)と大和道(やまとぢ)の渡り瀬(ぜ)ごとに手向(たむ)けぞ我(わ)がする
3129
桜花(さくらばな)咲きかも散ると見るまでに誰(た)れかも此所(ここ)に見えて散り行く
3130
豊国(とよくに)の企救(きく)の浜松ねもころに何しか妹(いも)に相(あひ)言ひそめけむ
  

【意味】
〈3127〉度会を流れる大川の川べりに立つ若い久木、その名のように我が旅が久しくなれば、家で待つ彼女は私を恋い焦がれて苦しむだろうな。
 
〈3128〉愛しいあの子が夢に出てきてほしいと願いながら、大和へ向かう道の川瀬を渡るごとに、私は幣帛(ぬさ)を手向けて祈っている。

〈3129〉まるで桜の花が咲いてすぐに散っていくように、誰も彼も、現れたかと思うとすぐまた散り散りになっていく。
 
〈3130〉豊国の企救の浜松の根のように、ねんごろになぜ彼女と契りを交わすようになったのだろう。

【説明】
 「羈旅発思(旅にあって思いを発した歌)」。3127の「度会」は、伊勢の度会で、伊勢神宮鎮座の地。上3句は「我が久ならば」を導く序詞。「久ならば」は、旅が久しくなったならば。3128は、公務を帯びた旅を終え、陸路、大和へ帰る時の歌。「大和路」は、大和へ向かう道。「渡瀬」は、歩いて渡ることのできる浅瀬。

 3129の「咲きかも」「誰れかも」の「かも」は疑問の係助詞。旅先の往来に現れては消えていく人の中に妻の幻影を見ている歌、あるいは旅先での出会いと別れを歌ったもので、若い人麻呂の歌だろうとされます。この歌は、のちに蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(『後撰集』)に引き継がれています。

 3130の「豊国」は、豊前、豊後国(福岡、大分県)。「企救」は、北九州市の周防灘沿岸の地。上2句は「ねもころに」を導く序詞。「ねもころに」は、心を込めての意。「何しか」は、どうして~か。かりそめに女と関係を結び、恋の悩ましさからそのことを悔いている歌です。

巻第11・12について
 巻第11と12は、それぞれ「古今相聞往来歌類」の上・下とあり、姉妹篇をなしています。巻第12には短歌380首のみで、巻第11には旋頭歌17首のほか、短歌は473首ありましたから、それに比べると規模は小さくなっています。いずれの巻も『柿本人麻呂歌集』からとったと注記のある歌が冒頭に置かれており、人麻呂への崇拝の念が窺えるところです。
  

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『柿本人麻呂歌集』

『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

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