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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

『柿本人麻呂歌集』から(巻第12)

巻第12-2841~2843

2841
我(わ)が背子(せこ)が朝明(あさけ)の形(すがた)能(よ)く見ずて今日(けふ)の間(あひだ)を恋ひ暮らすかも
2842
我(あ)が心(こころ)ともしみ思ふ新(あら)た夜(よ)の一夜(ひとよ)もおちず夢(いめ)に見えこそ
2843
愛(うつく)しと我(わ)が念(も)ふ妹(いも)を人みなの行く如(ごと)見めや手にまかずして
   

【意味】
〈2841〉私の夫が朝早くお帰りになる時の姿をよく見ないで、一日中物足りなく寂しく思い、恋しく暮らしています。
 
〈2842〉私の心は満たされない思いでいっぱいです。せめて、来る夜ごとに一夜も欠かさず夢に姿を見せてください。

〈2843〉おれの恋しい女が今あちらを歩いているが、それを普通の女と同じように平然と見ていられようか、手にまくことなしに。
 

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。

 2841の「朝明の形」のアサケはアサアケの約で、夜明けに家を出て帰って行く夫の姿のこと。「よく見ずて」は、よく見ずして、よく見ずに。「今日の間」は、日が暮れたらまた来るものとして、それまでの待ち遠しい気持で言ったもの。夜から翌日が始まるとされていたための表現。「恋ひ暮らすかも」の「かも」は、詠嘆。結婚後間もないころの若い妻が夫に贈った歌とされ、後の後朝(きぬぎぬ)の歌に類する歌。万葉時代においても、結婚した夫婦は別々に住み、夫が妻の家に通ってくる場合が殆どでしたから、こういう歌が成り立ちます。斎藤茂吉は「簡潔にこういったのは古語の好い点である」と述べています。

 2842の「ともしみ思ふ」の原文「等望使念」は難訓とされ、ネガヒオモハバ、ノゾミシオモフ、あるいは「望使」を「無使」の誤りとして、スベナクモヘバと訓む説などがあります。「ともしみ思ふ」は、物足りないと思う。「新た夜」は、新たにめぐってくる夜。「一夜もおちず」は、一夜も欠かさずに。「見えこそ」の「こそ」は、願望の意の補助動詞「こす」の命令形。結婚後、男に疎遠にされている女が、男を恨み、通ってくれなくともせめて心の中で思っていてほしいと訴えている、あるいは新婚の女性の切実な願いを歌った歌ともいわれます。

 2843の「愛しと」の原文「愛」で、ウツクシミ、ウルハシトなどと訓むものもあります。ウルハシは、男性、上司、貴人にを称える場合に用いられるのに対し、ウツクシは妻や子をいつくしみ思う心の場合に用いられることから、ここはウツクシトと訓む立場に従っています。「人みなの」は、世間の人すべての。「行く如」は、道を行くように。行きずりに、と解するものもあります。「見めや」の「や」は反語で、見ていられようか、いや見ていられない。「手にまく」は、手枕にする意。あるいは玉に喩えて身に添える意とする見方もあります。武田祐吉は、「自分の愛している人を、世間の人の行くと同じように見得ないことを述べているが、かなり複雑な内容を、よく表現している」と述べており、斎藤茂吉は、「人みなの行く如見めや」の句を「強くて情味を湛え、情熱があってもそれを抑えて、傍観しているような趣が、この歌をして平板から脱却せしめている」と評しています。

巻第12-2844~2847

2844
このころの寐(い)の寝(ね)らえぬは敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まきて寝(ね)まく欲(ほ)りこそ
2845
忘るやと物語りして心遣(こころや)り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり
2846
夜(よる)も寝(ね)ず安くもあらず白栲(しろたへ)の衣(ころも)は脱かじ直(ただ)に逢ふまでに
2847
後も逢はむ我(あ)にな恋ひそと妹(いも)は言へど恋ふる間(あひだ)に年は経(へ)につつ
 

【意味】
〈2844〉このごろ寝るに寝られないのは、妻と手枕を交わして寝たいと思うからだ。

〈2845〉忘れられるかと、人と世間話などして気を紛らせて、物思いを消し去ろうとしたが、いっそう恋心は募るばかりだ。

〈2846〉夜も寝られず、気も休まることがない。衣は脱がずにいよう、じかに逢うまでは。

〈2847〉「また後にはお逢いしましょう。私にそんなに恋い焦がれないで」と妻は言うけれど、恋い続けているうちに年月は過ぎてゆく。

【説明】
 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2844~2847は、旅にある男が妻に贈った歌。2844の「寐」は、眠りの名詞形で、ぐっすり眠る意。「寝」は、横になる、寝ること。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「栲」はこうぞ類の樹皮からとった繊維、またそれで織った布をいいます。「寝まく欲りこそ」の「寝まく」は「寝む」のク語法で名詞形。「こそ」は、下に「あれ」が省かれているもの。原文「寐欲」で、ネマクホリスル、ネマクホリスモなどと訓むものもあります。久しく逢えないので手枕を巻けない悩ましさを率直に言っている歌ですが、斎藤茂吉は、「無理がなく筋も通っているけれども、取り立てていうほどのものではなく、必ずしも人麿の手を待つまでもないと思う程度の歌」と評しています。

 2845の「忘るやと」は、恋の苦しみを忘れることができるだろうかと、の意。「や」は、疑問の係助詞。「物語して」は、会話をして、雑談をして。「心遣り」は、気を紛らせて、気を晴らせて。「過ぐせど過ぎず」は、忘れようとするが、忘れられず。過去のものとしようとするが、そうはならず。「なほ恋ひにけり」の「けり」は、気づきの詠嘆の助動詞。原文「猶戀」で、ナホゾコヒシキと訓むものもあります。島木赤彦は、「『物語りして心やり』が真実で甚だいい。それが『過ぐせど過ぎず』『なほぞ恋しき』に至って愈真実である」と、その真実の表白を評しています。

 2846の「安くもあらず」は、心も安らかでない。「白栲の」は「衣」の枕詞。「衣は脱かじ」は、寝ない意で言ったもの。男の真実一途の気持が歌の調子の上に躍動しており、窪田空穂は、「文芸意識を全く棄て、昂奮した気分を凝集させて、一句で切り、二句で切り、四句で切って、結句で言い据えているという特殊な形の歌である。それでいて一首としては安定感をもち、軽くないものとなっているのは、気分で貫いているからである。手腕ある作というべき」と評しています。
 
 2847の「我にな恋ひそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。おそらく上の3首を贈られた妻が「後に逢えるので私を恋しがらないで」と落ち着いて答えたのでしょう。この歌は、それに対するものと見られ、恋情を抑えきれない夫は、まるで駄々をこねているようであります。

巻第12-2848~2852

2848
直(ただ)に逢はずあるは諾(うべ)なり夢(いめ)にだに何(なに)しか人の言(こと)の繁(しげ)けむ
[或本の歌に曰く  うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
2849
ぬばたまのその夢(いめ)にだに見え継(つ)ぐや袖(そで)干(ふ)る日なく我(あ)れは恋ふるを
2850
うつつには直(ただ)には逢はず夢(いめ)にだに逢ふと見えこそ我(あ)が恋ふらくに
2851
人の見る上(うへ)は結びて人の見ぬ下紐(したひも)開けて恋(こ)ふる日ぞ多き
2852
人言(ひとごと)の繁(しげ)き時には我妹子(わぎもこ)し衣(ころも)なりせば下に着ましを
 

【意味】
〈2848〉じかに逢えないのはやむを得ません。けれども、夢の中で逢うだけなのに、どうして世間の噂がうるさくつきまとうのでしょう。(なるほど現実には逢えません。それにしても夢にまでも)

〈2849〉夜のその夢の中に、私の姿が見え続けていますか。涙で濡れる袖が乾く日とてなく、私は恋い焦がれていますのに。

〈2850〉現実にはじかに逢うことができないでいますが、せめて夢の中では目の前にいるかのように姿を見せてください。こんなに恋い焦がれているのだから。

〈2851〉人の見る上着の紐はきちんと結び、人の目に触れない下着の紐をあけて、あなたを恋焦がれる日が重なっています。

〈2852〉人の噂がこれほどひどい時には、いとしいあの子が着物であったなら、下着としてじかに着るのに。

【説明】
 2848~2850は「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2848の「諾なり」は、もっともだ。「夢にだに」は、夢に逢うだけでも。「何しか」は、どうしてか。「人の言の繁けむ」は、他人の噂の多いことであろうか。夢は他人に見られるものではないから、夢の中で人の噂が立つはずがない、それなのにどうしてという心です。2849の「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「その夢」は、相手の夢。「見え継ぐや」の原文「見継哉」で訓が定まらず、ミツギテヤ、ミツギキヤなどと訓むものもありますが、見え続いたか、の意。「我れは恋ふるを」の原文「吾戀矣」で、ワガコフラクヲ、ワガコヒシサヲなどと訓むものもあります。いずれも女の歌とされます。

 2850の「うつつには」は、現実には。「直には逢はず」は、直接に逢わず。原文「直不相」で、タダニモアハズ、タダニアハナクなどと訓むものもあります。「夢にだに」は、せめて夢にだけでも。「見えこそ」の「こそ」は、願望。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。旅先にある夫に妻が恋情を訴えた歌との見方がありますが、男女どちらの歌とも取れます。

 2851・2852は「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、紐に寄せての歌。2851は、女が、疎遠になった夫に贈ったとみられる歌。「人の見る」の原文「人所見」で、ヒトニミユルと訓むものもあります。「上」は、上着の紐のこと。「下紐開けて」の「下紐」は、下着の紐。原文「裏紐開」で、シタヒモトキテと訓むものもあります。「恋ふる日ぞ多き」は、単独母音オを含む許容される字余り句。万葉時代の男女には、下着の紐が自然に解けるのは、恋人に逢うことができる前兆だとの俗信がありました。そのため、自分でわざと紐を解けば、恋人に逢えるのではないかと、この作者は考えたのでしょう。「まことに稚気愛すべきとも評すべきか。その純情がいたましい」との評があります。

 2852の「人言」は、人の噂。「繁き時には」の原文「繁時」で、シゲカルトキニと訓むものもあります。「我妹子し」の「し」は、強意の副助詞。「衣なりせば下に着ましを」の「せば~まし」は、反実仮想。「衣なりせば」の原文「衣有」で、キヌニアリセバと訓むものもあります。この歌と同じような仮想は類例が多くあり、窪田空穂は、「心は一般的で、詠み方も平明」としながら、「食い入る力を持っている」と述べています。

巻第12-2853~2858

2853
真玉(またま)つく遠(をち)をし兼ねて思へこそ一重(ひとへ)の衣(ころも)ひとり着て寝(ぬ)れ
2854
白栲(しろたへ)の我が紐の緒(を)の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに
2855
新墾(にひはり)の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹(いも)が上のことを
2856
山背(やましろ)の石田(いはた)の社(もり)に心(こころ)鈍(おそ)く手向(たむ)けしたれや妹(いも)に逢ひかたき
2857
菅(すが)の根のねもころごろに照る日にも干(ひ)めや我(わ)が袖(そで)妹(いも)に逢はずして
2858
妹(いも)に恋ひ寐(い)寝(ね)ぬ朝(あした)に吹く風は妹にし触(ふ)れば我(わ)れさへに触れ
  

【意味】
〈2853〉私たちの将来のことを考えるからこそ、薄い一重の衣を一人寂しく着て寝ているのです。

〈2854〉私の下紐が切れないうちに、恋結びをしておきましょう、また逢えるようになる日まで。

〈2855〉新しく開いて今できたばかりの道は、清々しくはっきりしているが、そのように愛しい彼女のことをはっきり聞いたことだよ。

〈2856〉山背の石田の神社に、真心こめずに捧げ物をしたせいだろうか。彼女になかなか逢えないでいる。
 
〈2857〉じりじりと隅から隅まで照りつける日差しにさえ乾くことはない、涙に濡れた私の袖は。あの子に逢えないでいて。
 
〈2858〉あの娘に恋して眠れない朝に吹いてくる風よ、あの娘に触れているのなら、せめてこの私にも触れてくれ。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、2853・2854は紐に寄せての歌。2853の「真玉つく」は、真珠を付ける緒と続け、「遠(をち)」の「を」にかかる枕詞。「遠をし兼ねて」の「遠」は将来、「し」は強意の副助詞、「兼ねて」は、わたって、の意で、将来にわたって。「思へこそ」の原文「念」で、オモフニゾと訓むものもあります。「寝れ」は「こそ」の係り結び。女が男に贈った歌で、周囲の噂を憚り、男との交渉を絶って一人寝をしているのは、二人の関係の秘密を守って堅い関係を保とうとするためだと思いつつも、さすがに侘びしく感じています。更には、同じく侘しい思いをしているであろう男に対し、そうした女の心を誤解しないように、との弁明の気持ちも込められているようです。

 2854の「白栲の」は「紐」の枕詞。「紐の緒」は、下紐(下着の紐)。「恋結び」は、ここに出ているのみの語で、恋に関わる独特の紐の結び方か、恋人と結ばれることを願って、紐や草木などを結んだ呪(まじな)いの一種ではないかと見られます。夫が旅へ出て、久しく一人でいることになっている女の歌とされます。

 2855は、路に寄せての歌。「新墾」は、新しく開墾する意。新たに土地を掘り開いて、田畑や道などを造ることを「墾(は)る」と言います。上2句は、新道の遮るものがなくすっきりした感じから「さやか」を導く譬喩式序詞。「さやかに」は、はっきり、明瞭に。「聞きてけるかも」の原文「聞鴨」で、キキニケルカモと訓むものもあります。「妹が上のこと」は、妹に関する事。遠い地に関係した女のいる男が、女の様子がわからずにいたところ、図らずもそれを聞き得た歓喜をいった歌です。

 2856は、神社に寄せての歌。「山背」は、京都市の南の地域。「石田の杜」は、京都市伏見区石田にあった神社で、いま京都市伏見区石田森西にある天穂日命神社がそれだと言われています。「心鈍く」は、なおざりに、いい加減に、心の働きが鈍く、の意。「手向けしたれや」は、手向けをしたからだろうか。「や」は疑問の係助詞で、「逢ひかたき」が結びの連体形。窪田空穂は、「神に祈をしてその験(しるし)のない時には、わが真心が足りなかったゆえであるとして、責を自身に帰するのは、上代にあっては常識であって、ここもそれである」と述べています。

 2857は、日に寄せての歌。「菅の根の」は、ネの同音で「ねもころごろに」にかかる枕詞。「ねもころごろに」は、入念に、心を込めて、の意で、ここでは隅から隅まであまねく照らす日差しについての表現。「干めや」の「や」は反語で、乾こうか乾きはしない。恋しい妹に逢えずに泣く涙に濡れた袖が、じりじりと照る日光にも乾かないと嘆いており、巻第10-1995にも「六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖乾めや君に逢はずして」という似た歌があります。

 2858は、風に寄せての歌。「寐寝ぬ」の「寐」は、ぐっすり眠ること。「寝」は、横になること。「妹にし触れば」の「し」は、強意の副助詞。原文「妹經者」で、イモニフレナバと訓むものもあります。「我れさへに触れ」の「触れ」は命令形で、せめて私にも触れてくれ。逢えないのなら、せめて同じ風に触れていたいという、恋に悩む純朴な男心の歌。当時の人々は、思う人の身に触れた物を自分の身に触れさせることは、霊の交流のあることとして重んじていました。

巻第12-2859~2863

2859
明日香川(あすかがは)高川(たかかは)避(よ)かし越え来(こ)しをまこと今夜(こよひ)は明けずも行かぬか
2860
八釣川(やつりがは)水底(みなそこ)絶えず行く水の継(つ)ぎてぞ恋ふるこの年ころを [或本の歌に曰はく  水脈(みを)も絶えせず]
2861
礒(いそ)の上(うへ)に生(お)ふる小松(こまつ)の名を惜(を)しみ人に知らえず恋ひわたるかも
[或本の歌に曰はく]
巌の上に立てる小松の名を惜しみ人には言はず恋ひわたるかも]
2862
山河の水陰(みかげ)に生ふる山菅(やますげ)の止(や)まずも妹(いも)が思ほゆるかも
2863
浅葉野(あさはの)に立ち神(かむ)さぶる菅(すが)の根のねもころ誰(た)がゆゑ我(わ)が恋ひざらむ [或本の歌に曰はく] 誰葉野(たがはの)に立ちしなひたる
  

【意味】
〈2859〉明日香川の水量が増したのを避けて、遠く回り道をしてやって来たのだから、本当に今夜ばかりは明けないままでいてくれないものか。

〈2860〉八釣川の川底を絶えることなく流れる水のように、ずっと恋い焦がれています。ここ何年もの間を。(川筋も絶えずに)

〈2861〉磯の近くに立っている松のように、噂が立つのを恐れ、思う人に知られないままひっそりと恋い焦がれ続けています。
 
〈2862〉山川の水辺の陰に生えている山菅(やますげ)のように、止むことなく私はあなたを思っています。

〈2863〉浅葉野に立ち神のようになっている菅の根よ。その根のようにねんごろに心を尽くし、誰ゆえに恋をしようか。誰のためではなく、あなたのためにこそ恋をしている。

【説明】
 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2859の「高川」は、水面が高くなった川の意。「避かし」は「避く」の敬語で、お避けになって。「越え来しを」は、越えて来たものを。原文「越来」で、コエクレバ、コエテキヌ、コエテコシなどと訓むものもあります。「まこと」は、本当に。「明けずも行かぬか」の「ぬか」は希求を表し、夜が明けないでほしい。原文「不明行哉」で、アケズユカメヤと訓み、夜が明けずに帰って行けようか行けないだろう、のように解するものもあります。女が男の苦労を察して、感謝の気持ちをうたった歌とされますが、通ってきた男の歌とする見方もあります。

 2860の「八釣川」は、桜井市に発し明日香村の八釣山麓を流れる川。上3句は「継ぎて」を導く譬喩式序詞。「継ぎて」は、続いて、絶えずに。「年ころ」は、最近の数年間のこと。男が求婚の意を、初めて女に訴えた形の歌です。以上2首は、河に寄せての歌。

 2861は、松に寄せての歌。「磯」は、ここは大岩、巌か。「小松」の「小」は、小さいという意味ではなく美称。上2句は、磯に立つ松は人目につくことから名を付けられる意で「名」を導く序詞。「名を惜しみ」は、浮名の立つのを恐れて。「人に知らえず」は、思う相手に知られずに、打ち明けずに。あるいは「人」は、親しい第三者をいっているのかもしれません。「恋ひわたるかも」は、恋い続けていることだ。

 2862・2863は、草に寄せての歌。2862の「山川」は、山の中を流れる谷川。上3句は「止まず」を導く同音反復式序詞。「水陰」は、水辺の物陰。「山菅」は、野生のスゲ、またはヤブランの古名。斎藤茂吉は、この「水陰」という語に心を惹かれると言っています。「この時代の人は、幽玄などとは高調しなかったけれども、こういう幽かにして奥深いものに観入していて、それの写生をおろそかにしていない」と。また窪田空穂は、嘆きを言っているにもかかわらず明るい調べと評しています。

 2863の「浅葉野」の所在は不明。埼玉県坂戸市浅羽、静岡県袋井市浅羽などがあげられています。上3句は「ねもころ」を導く同音反復式序詞。「ねもころ」は、心を尽くして。「神さぶ」は、古めかしくなる。「我が恋ひざらむ」の原文「吾不恋」で、アガコヒナクニと訓むものもあります。女が男に、その恋情の強さを訴えた歌であり、窪田空穂は、「立ち神さぶ」「ねもころ誰がゆゑ我が恋ひざらむ」の表現など、「珍しいまでに重量のある歌である」と評しています。

巻第12-3127~3130

3127
度会(わたらひ)の大川(おほかは)の辺(へ)の若久木(わかひさぎ)我(わ)が久(ひさ)ならば妹(いも)恋ひむかも
3128
我妹子(わぎもこ)を夢(いめ)に見え来(こ)と大和道(やまとぢ)の渡り瀬(ぜ)ごとに手向(たむ)けぞ我(あ)がする
3129
桜花(さくらばな)咲きかも散ると見るまでに誰(た)れかも此所(ここ)に見えて散り行く
3130
豊国(とよくに)の企救(きく)の浜松ねもころに何しか妹(いも)に相(あひ)言ひそめけむ
  

【意味】
〈3127〉度会を流れる大川の川べりに立つ若い久木、その名のように我が旅が久しくなれば、家で待つ彼女は私を恋い焦がれて苦しむだろうな。
 
〈3128〉愛しいあの子が夢に出てきてほしいと願いながら、大和へ向かう道の川瀬を渡るごとに、私は幣帛(ぬさ)を手向けて祈っている。

〈3129〉まるで桜の花が咲いてすぐに散るのかと見まごうほどに、誰も彼も、現れたかと思うとすぐまた散り散りになっていく。
 
〈3130〉豊国の企救の浜松の根のように、ねんごろになぜ彼女と契りを交わすようになったのだろう。

【説明】
 「羈旅発思(旅にあって思いを発した歌)」。3127の「度会」は、伊勢の度会で、伊勢神宮鎮座の地。「大川」は大きな川の意で、宮川または五十鈴川。「久木」は、アカメガシワまたはキササゲの古名。上3句は「我が久ならば」を導く同音反復式序詞。「久ならば」は、旅が久しくなったならば。以下4首は、起承転結の一組となっており、若い頃の人麻呂の歌だろうとされます。

 3128は、公務を帯びた旅を終え、陸路、家の妹を思いつつ大和へ帰る時の歌。「我妹子を」の「を」は、呼びかけの「や」に近い用法。「大和路」は、大和へ向かう道。「渡瀬」は、歩いて渡ることのできる川の浅瀬。「手向け」は、道の神に幣帛を捧げて旅の無事を祈ること。「手向けぞ我がする」は、単独母音アを含む8音の許容される字余り句。

 3129の「咲きかも」「誰れかも」の「かも」は、疑問の係助詞。「見るまでに」は、見るほどに、見まごうほどに。「見えて散り行く」は、旅先の往来に現れては消えていく人の中に妻の幻影を見ている、あるいは旅を行く道に出会う人々が、行き交ってはまた別れていく様子を桜の花に譬え、出会いのはかなさを歌ったものとされます。この歌は、のちに蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(『後撰集』)に引き継がれています。

 3130の「豊国」は、豊前、豊後国(福岡県の東部から大分県)。「企救」は、北九州市の周防灘沿岸の地。「浜松」は、浜に立っている松。上2句は、その海岸の松の根から「ねもころに」を導く序詞。「ねもころに」は、心を込めて。原文「心哀」で、ココロイタクと訓むものもあります。「何しか」は、どうして~か。「相言ふ」は、契りを交わし合う。「けむ」は、過去推量。かりそめに女と関係を結び、恋の悩ましさからそのことを悔いている歌です。

巻第11・12について
 巻第11と12は、それぞれ「古今相聞往来歌類」の上・下とあり、姉妹篇をなしています。巻第12には短歌380首のみで、巻第11には旋頭歌17首のほか、短歌は473首ありましたから、それに比べると規模は小さくなっています。いずれの巻も『柿本人麻呂歌集』からとったと注記のある歌が冒頭に置かれており、人麻呂への崇拝の念が窺えるところです。
  

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略体歌について
 『万葉集』に収められている『柿本人麻呂歌集』の歌は360首余ありますが、そのうち210首が「略体歌」、残り150首が「非略体歌」となっています。「非略体歌」とは、「乃(の)」や「之(が)」などの助詞が書き記されているスタイルのものをいい、助詞などを書き添えていないものを「略体歌」といいます。

 たとえば巻第11-2453の歌「春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ」の原文は「春楊葛山発雲立座妹念」で、わずか10文字という、『万葉集』の中でも最少の字数で表されています。

 このような略体表記の歌の贈答(相聞往来)が実際になされたとすると、お互いに誤読や誤解釈のリスクがあったはずです。その心配がなかったとすれば、男女双方の教養が、同化して一体のレベルにあり、省略した表記を、双方が十分理解できていたことになります。一方で、秘密の書簡往来を行っていた証で、他者からの読解を防いでいたということなのかも知れません。後で人麻呂が歌を編集したときのの独特な表記方法だとみる解釈があるものの、非略体表記も存在しているので、説得力に乏しく、略体歌の存在は今も謎となっています。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

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『柿本人麻呂歌集』

『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

また詩人の大岡信は、これらの歌がおしなべて上質であり、仮に民謡的性格が明らかな作であっても、実に芸術的表現になっているところから、人麻呂の関与を思わせずにおかない、彼自身が自由にそれらに手を加えたことも十分考えられると述べています。

各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。

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