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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌

巻第15-3723~3726

3723
あしひきの山路(やまぢ)越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
3724
君が行く道の長手(ながて)を繰(く)り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも
3725
わが背子(せこ)しけだし罷(まか)らば白たへの袖(そで)を振らさね見つつ偲(しの)はむ
3726
このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥(たまくしげ)明けてをちよりすべなかるべし
 

【意味】
〈3723〉山道を遠く越えて行こうとされるあなたのことが気がかりでならず、心が安まりません。

〈3724〉あなたが行く道の長さを思うと、それをたぐり寄せて折り畳み、焼き滅ぼしてしまいたい。そんな天の火があったらいいのに。
 
〈3725〉いとしいあなた、もしも遠くの国へ下って行かれるなら、真っ白な衣の袖を振ってください。それを記憶にとどめてあなたのことをお偲びしますから。
 
〈3726〉今のうちはまだ恋い焦がれながらも我慢できましょう。でも、一夜明けた明日からはどうして過ごしてよいのか分かりません。

【説明】
 巻第15の後半には、中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとかみのをとめ)の贈答歌63首が収められています。天平12年はじめ、中臣宅守が狭野弟上娘子を娶ったとき、勅勘にあって越前国(福井県)味真野(あじまの)に配流されました。狭野弟上娘子は伝未詳ながら、『万葉集』の目録には蔵部の女嬬(下級の女官)だったとあります。配流の原因ははっきりしていませんが、娘子が神に仕える役所の女嬬で、宅守自身も神祇官であったことから、当時の風俗に触れる禁じられた恋だったとする説が有力ですが、異説もあります(後述)。

 中臣宅守は、従四位下・中臣朝臣東人(あずまと)の七男で、天平12年(740年)に配流され、大赦によって復位後、天平宝字7年(763年)には二階級越えて従五位下に昇叙しますが、翌年9月の藤原仲麻呂の乱に連座して除名され、以後消息不明になっている人物です。狭野弟上娘子は、古写本によっては「茅上(ちがみ)」と記されたものもあります。贈答歌63首のうち宅守の歌が40首、弟上娘子の歌が23首あり、互いに贈り贈られを4回繰り返しており、最後に宅守の独詠歌が7首載っています。ここの4首の歌は、弟上娘子が宅守との別れに臨んで作った歌です。配流前夜に二人が逢ったことが後掲の3769の歌から分かり、出立を予測したこの4首はこの時に手渡されたもののようです。しかし翌日の出立時刻が分からず、弟上娘子は旅立ちを見送ることはできなかったのです。

 3723は悲劇の発端を告げる歌で、「あしひきの」は「山」の枕詞。「安けく」は「安し」の名詞形。3724の「長手」は、長い道のり。「繰り畳ね」は、たぐり寄せて畳んで。「天の火」は、雷火・稲妻。「もがも」は、願望で、娘子自身が火であるかのような、激しい情熱がほとばしっています。味真野は流刑地としてはそう遠くありませんでしたが。娘子にとって二人を引き裂く道のりは遥かに遠かったのです。斎藤茂吉はこの歌を評し「強く誇張していうところに女性らしい語気と情味とが存じている。娘子は古歌などをも学んだ形跡があり、文芸にも興味を持つ才女であったらしいから、『天の火もがも」』などという語も比較的自然に口より発したのかもしれない」と言っています。
 
 窪田空穂は、「行くべき道さえ無くなれば、行かずに済むときめての願望である。天の火はそうしたこともできるとし、その現われを願っている心で、さながら童のような空想である。しかし調べは、思い詰めた心よりの語であることを示しているものである。全く理を失って、いわゆる情痴に陥った心であるが、それをあらわす語は、続きが確かで、破綻のないもの」と述べ、一方、歌人で国文学者の土屋文明は、「『万葉集』の、ありのままの感情をうたう純な歌境にあっては、弟上娘子の歌は理知的であり、真率な心の叫びというよりは、かなり誇張したしぐさ、芝居じみた所が目立つ」と評しています。

 3725の「わが背子し」の「し」は、強意。「けだし」は、もしあるいは。「罷る」は、都を退去し地方へ下ること。「白たへの」は「袖」の枕詞。「振らさね」は「振れ」の敬語と、願望の「ね」。3726の「玉櫛笥」の「玉」は美称で、櫛箱(化粧箱)のこと。櫛には女の魂が宿るとされ、櫛は立派な蓋つきの箱に収めていました。その蓋を開けるところから「明けて」の枕詞。「をち」は、以後、将来。「すべなかるべし」は、手段のないことであろう。

 

巻第15-3727~3730

3727
塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我(わ)れゆゑに思ひわぶらむ妹(いも)がかなしさ
3728
あをによし奈良の大路(おほち)は行き良(よ)けどこの山道(やまみち)は行き悪(あ)しかりけり
3729
愛(うるは)しと我(あ)が思(も)ふ妹(いも)を思ひつつ行けばかもとな行き悪(あ)しかるらむ
3730
恐(かしこ)みと告(の)らずありしをみ越路(こしぢ)の手向(たむ)けに立ちて妹(いも)が名 告(の)りつ
 

【意味】
〈3727〉塵や泥のようにものの数にも入らない私のために、わびしい思いをして悩んでいる、そんな彼女がいとおしくてならない。

〈3728〉あの立派な奈良の都大路は通り易いけれども、遠い国へのこの山道は、何と通り難いことか。
 
〈3729〉素敵な人だとが思っている彼女を恋い慕いつつ行くから、この山道はこうもやたらと行き難いのだろうか。
 
〈3730〉恐れ多いからと口に出さずにきたが、越の国へ越えていく峠のこの手向けの山に立ち、とうとう彼女の名を口に出してしまった。

【説明】
 ここの4首は、越前国へ配流となった中臣宅守が、旅路についたときに弟上娘子への返歌として作った歌。弟上娘子から贈られた歌は「心に持ちて」「天の火」などの非凡な詞遣いにとどまらず、歌の心が躍動しており、とても情の豊かな女性だったようです。それに驚き喜んだ宅守は彼女の歌才に及ばないものの、遠く離れて初めて歌というものの有効性を知り、懸命になって歌を作り上げます。

 3727の「塵泥も」は、塵や泥のごとくの意で、価値がないことの譬え。3728の「あをによし」は「奈良」の枕詞。3729の「行けばかもとな」の「か」は疑問、「もとな」は、わけもなく、やたらに。3730の「み越路」の「み」は、美称。「越路」は、近江国から越前国へ越える道。「手向け」は峠の意で、峠には神が宿っているとされ、旅の安全を祈って道祖神に手向け(お供え)をしていました。また、謹慎の身であったため、それまで女の名を口にするのを憚っていたのでした。歩き慣れない険しい山道を行く、傷心の宅守の姿が目に浮かぶようです。配所までの道のりは、逢坂山から琵琶湖の北沿いに、塩津山を越えて敦賀に出るという辛いものでした。

 窪田空穂はこれらの歌について、3727は「純情ではあるが、気魄に乏しく、その上では娘子に圧せられる趣がある、3728は「単純に、他意なく詠んでいるところに、その人柄を思わせるものがある」、3729は「やや手腕ある作者なら、二首(3728と3729)を一首にしたであろう。宅守の正直な、よい歌をなどとは思わなかった人柄を思わせる」と述べ、3730に対しては、「宅守の歌は、その感性も鋭くはなく、詠み方も大体説明的で、線の細いものであるが、この歌は、感情の昂揚した自然の成行きとして、一首叙事的で、調べも張っており、宅守としては特異な趣を持ったものとなっている」と評しています。

 また、作家の田辺聖子は、「宅守の歌は娘子にくらべると地味で、ごつごつとしており、口ごもるような真率味がある。女問題で罪に問われるというには似合わしからぬ、誠実で几帳面な男、それゆえにこそ、いったん恋したら、一途で純粋だったのだろう。・・・『塵泥』の歌(3727)は、地味な中に男の深い愛情があり、これは宅守の卑下ではない、彼がいかに男らしかったかということの証しで、恋をしている最中も、自分を客観視できるところがある」と述べています。

巻第15-3731~3735

3731
思ふゑに逢ふものならばしましくも妹(いも)が目(め)離(か)れて我(あ)れ居(を)らめやも
3732
あかねさす昼は物思(ものも)ひぬばたまの夜(よる)はすがらに音(ね)のみし泣かゆ
3733
我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)の衣(ころも)なかりせば何物(なにもの)もてか命(いのち)継(つ)がまし
3734
遠き山(やま)関(せき)も越え来(き)ぬ今更(いまさら)に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
3735
思はずもまことあり得(え)むやさ寝(ぬ)る夜(よ)の夢(いめ)にも妹(いも)が見えざらなくに
  

【意味】
〈3731〉思う故に逢えるものであったならば、ほんのしばらくの間でも彼女と離れていられようか、いられはしない。
 
〈3732〉明るい昼は昼で物思いに沈むばかり、夜は夜で夜通し声を上げて泣けてくるばかりだ。
 
〈3733〉いとしい彼女の形見の衣、この衣がなかったら、何を頼りに私は命をつなぐことができよう。

〈3734〉遠い山々も関も越えてやってきた。今となっては、あなたに逢える何の手段もないのが寂しい。

〈3735〉あなたを思わずにいるなんてことが、本当にできるのだろうか。寝る夢の中にさえ、あなたが見えて仕方がないのに。

【説明】
 宅守が、配流地の越前国に着いて作った歌14首のうちの5首で、配流地からの第一報となります。宅守が着いたのは越前の味真野(あじまの:福井県武生市)。昔、武生に国府があり、その東南8kmほどの所に味真野神社があります。継体天皇が隠れ住んでおられたという伝説のある所です。3731の「思ふゑに」は、思う故に。「しましくも」は、暫くの間でも。「目離れて」は、遠ざかって、逢わなくなって。「居らめやも」の「やも」は、反語。3732の「あかねさす」「ぬばたまの」は、それぞれ「昼」「夜」の枕詞。「すがらに」は、その間ずっと、もっぱら。
 
 3733の「形見」は、離れている人を思い出す拠りどころとなるもの。当時、形見にはそれを贈った者の分割された魂の一部が宿っていると信じられており、宅守は、「形見の衣」によってのみ命をつなぐことができると言っています。「せば~まし」は、反実仮想。もし~だったら・・・だろうに。3734の「関」は、愛発(あらち)の関。当時、日本三関として、東海道には鈴鹿、東山道には不破、北陸道には愛発の関がありました。3735の「まことあり得むや」は、本当に居られようか。「さ寝る」の「さ」は、接頭語。「見えざらなくに」は、見えないことはないのに。

巻第15-3736~3740

3736
遠くあれば一日(ひとひ)一夜(ひとよ)も思はずてあるらむものと思ほしめすな
3737
人よりは妹(いも)ぞも悪(あ)しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
3738
思ひつつ寝(ぬ)ればかもとなぬばたまの一夜(ひとよ)も落ちず夢(いめ)にし見ゆる
3739
かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹(いも)をば見ずぞあるべくありける
3740
天地(あめつち)の神(かみ)なきものにあらばこそ我(あ)が思ふ妹(いも)に逢はず死にせめ
  

【意味】
〈3736〉遠く離れているから、一日や一夜はあなたを思わないでいるなどと思わないでください。
 
〈3737〉他の人よりも、むしろあなたが悪い。こんな苦しい恋をせずにいたものを、やたらに嘆かせるばかりで。
 
〈3738〉あなたのことばかり思って寝るせいか、むやみやたらと、一晩も欠かさずあなたの夢をみる。

〈3739〉こんなにも恋い焦がれ苦しむと、前々から分かっていれば、あなたに出会わなければよかった。

〈3740〉天地の神々がいらっしゃらなければ、私の思い焦がれるあなたに逢うこともなく、死んでいけただろうに。

【説明】
 宅守が、配流地の越前国に着いて作った歌14首のうちの5首。3736の「思ほしめすな」は「思ふな」の敬語。3737の「人よりは」は、他の人よりは。「妹ぞも悪しき」は、妹のほうが悪い。「思はしめつつ」は、嘆かせ続けて。3738の「もとな」は、由なくも、むやみやたらと。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「落ちず」は、欠かさず。3739の「知らませば」の「ませば」は、反実仮想。もしも分かっていれば。3740の「死にせめ」の「め」は、推量。

巻第15-3741~3744

3741
命(いのち)をし全(また)くしあらばあり衣(きぬ)のありて後(のち)にも逢はざらめやも [一云 ありての後も]
3742
逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日まで我(あ)れ恋ひ居(を)らむ
3743
旅といへば言(こと)にぞ易(やす)き少(すくな)くも妹(いも)に恋ひつつ術(すべ)なけなくに
3744
我妹子(わぎもこ)に恋ふるに我(あ)れはたまきはる短き命(いのち)も惜(を)しけくもなし
  

【意味】
〈3741〉この命さえ無事であったなら、この世にあってこの後に、逢わないことがあろうか、ありはしない。
 
〈3742〉逢える日をいつとは知れないまま、永久の闇の中で、いつまで私は恋焦がれているのだろうか。
 
〈3743〉旅といえば、言葉で言うのはたやすいが、その身になってみると、あなたに恋い焦がれてばかりいて、全くなす術がないことだ。

〈3744〉愛しいあなたに恋い焦がれている私は、その苦しさのあまり、この短い命さえ、もう惜しくなどない。

【説明】
 宅守が配流地の越前国に着いて作った歌14首のうちの4首。3741の「命をし」の「し」は、強意。「全くし」は、無事である。「あり衣の」は「ありて」の枕詞。「逢はざらめやも」の「や」は、反語。3742の「常闇」は、永久の闇。3743の「少くも」は、強い否定、決してない。3744の「たまきはる」は「命」の枕詞。「惜しけく」は「惜し」の名詞形。宅守は、旅の道中で詠んだ4首(3727~3730)と越前国に着いて詠んだ14首(3731~3744)をまとめて都へ上る便に託しました。
 
 斎藤茂吉は、「贈答歌を通読するに、宅守よりも娘子の方が巧みである。そしてその巧みなうちに、この女性の息吹をも感ずるので宅守は気乗りしたものと見えるが、宅守の方が受身という気配があるようである」と言い、また、3740、3742にあるように「天地の神」とか「常闇」とか詠い込んでいるのにそれほど響かないのは、おとなしい人だったのかもしれない、と言っています。

 しかし一方では、娘子の歌は表現に誇張が過ぎるとしてしりぞけ、宅守の歌にこそ男の痛恨があるとみて評価する向きもあります。土屋文明などは、前掲の娘子の歌への批判に続き、「宅守の歌は素直な心持がそのままに響いていて、娘子の歌の大げさなしなを作っているのとは趣きが違う」と言っています。こうした見方に対して詩人の大岡信は、「日本の和歌が、本質的・根源的に『女性』とは切っても切れない性質のものであったということを考えの中心に置かない限り、個々の和歌を見る見方も、必然的に片寄ったものになる」と反論しています。また、「娘子によるような芝居じみた表現が『万葉集』から失われてしまったら、何という心浮きたつことのない、陰気な歌集になってしまっただろう」とも。

巻第15-3745~3749

3745
命(いのち)あらば逢ふこともあらむ我(わ)がゆゑにはだな思ひそ命だに経(へ)ば
3746
人の植(う)うる田は植ゑまさず今更(いまさら)に国別(くにわか)れして我(あ)れはいかにせむ
3747
我(わ)が宿(やど)の松の葉(は)見つつ我(あ)れ待たむ早(はや)帰りませ恋ひ死なぬとに
3748
他国(ひとくに)は住み悪(あ)しとそ言ふ速(すむや)けくはや帰りませ恋ひ死なぬとに
3749
他国(ひとくに)に君をいませていつまでか我(あ)が恋ひ居(を)らむ時の知らなく
  

【意味】
〈3745〉命さえあれば、お逢いできる日もありましょう。私のためにそんなに強く思い悩まないで下さい、命さえ長らえていたら。
 
〈3746〉世間の人が植える田植えをなさらず、今になって国を別れて住むことになってしまい、私はどうすればいいのでしょう。

〈3747〉我が家の庭の松の葉を眺めながら、私はひたすらお待ちします。一刻も早くお帰り下さい、私が恋い焦がれて死なないうちに。
 
〈3748〉他国は住みにくいと申します。今すぐにでも帰ってきてください。私が恋い焦がれて死なないうちに。

〈3749〉他国にあなたを行かせてしまって、いつまで私は恋い焦がれていればよいのでしょう。いつ逢えるとも分からないまま。

【説明】
 娘子が、都に留まって悲しんで作った歌9首のうちの5首。3745の「はだな」は、ひどく、はなはだ。3746の「植ゑまさず」は、お植えにならず、植えてくださらず。在京当時に宅守が農事を手伝ってくれたことを言っているようです。「国別れ」は、郷里を離れて別々に住んでいること。3747の「松の葉」は「待つ」に掛けています。もともと松の名は「待つ」が語源とされ、神を迎え待つことから付けられたといいます。「死なぬとに」は、死なないうちに。3749の「いませて」は、居らせての敬語。流罪は赦免の日を待つのみで、いつと期待することはできませんでした。
 
 宅守が激情のままに綴った14首に対し、娘子の9首は、諭し懇願し嘆く歌となっています。窪田空穂は、3745について「詠み方は落ちついた、余裕のあるもので、しみじみと、要を得た言い方をしている。別れに臨んでの娘子の歌は昂奮したものであったが、別れての後は、比較的静かであったことがうかがえる。それに反して宅守は、別れてしばらくの間は、比較的静かであったが、時を経るに従って昂奮してきたことが知れる。この相違は、この二人の場合だけではなく、広く見ての男女の傾向の差と思われる」と言っています。

巻第15-3750~3753

3750
天地(あめつち)の底(そこ)ひの裏(うら)に我(あ)がごとく君に恋ふらむ人は実(さね)あらじ
3751
白たへの我(あ)が下衣(したごろも)失はず持てれ我(わ)が背子(せこ)直(ただ)に逢ふまでに
3752
春の日のうら悲(がな)しきに後(おく)れ居(ゐ)て君に恋ひつつ現(うつ)しけめやも
3753
逢はむ日の形見(かたみ)にせよとたわや女(め)の思ひ乱れて縫へる衣(ころも)そ
  

【意味】
〈3750〉天地の底の裏まで探したところで、私ほどあなたに恋い焦がれている人は本当にいないでしょう。

〈3751〉私が差し上げた真っ白な下着を、なくさないように持っていて下さい、あなた。じかにお逢いできる日が来るまで。
 
〈3752〉春の日のもの悲しい上に、一人取り残されて、あなたを恋い焦がれてばかりいて、どうして正気でいられるものでしょうか。
 
〈3753〉再び逢える日までの形見にしてほしいと、か弱い女の身のこの私が、思い乱れつつ縫った着物なのです、これは。

【説明】
 娘子が、都に留まって悲しんで作った歌9首のうちの4首。3750の「天地の底ひの裏に」は、天地の底のまた裏まで探したところで。「実」は、本当に、決して。3751の「白たへの」は「下衣」の枕詞。「待てれ」は「待てり」の命令形。衣服や下着を贈ることは、自分の魂を相手の身の近くに置く呪術の一つでありました。3752の「後れ居て」は、後に残されていて。「現しけめやも」は、確かな心でいられようか、いられはしないの意の慣用句。3753の「たわや女」は、弱い女としての謙遜の語で、撓(たわ)む意から生じた語といわれます。「手弱女」と書くのは当て字。この歌から、娘子は、形見の衣として元からあったものを贈ったのではなく、配流となった宅守のためにわざわざ縫ったことが分かります。

 なお、3752で「春の日のうら悲しきに」と歌っていることについて、万葉の時代が下ると、春は物悲しい気分を感じさせる季節として捉えられるようになってきます。これは中国文学の影響と見る説があり、春は甦りと喜びの季節であるものの、同時にその悲哀を歌うことは、六朝時代以降の文学伝統だったといいます。春を彩る花の「盛り」の裏には、やがて散りゆく「うつろひ」の悲しさが予想されるからだ、と。

巻第15-3754~3758

3754
過所(くわそ)なしに関(せき)飛び越ゆるほととぎす多我子尓毛 止(や)まず通(かよ)はむ
3755
愛(うるは)しと我(あ)が思(も)ふ妹(いも)を山川(やまかは)を中にへなりて安けくもなし
3756
向(むか)ひ居て一日(ひとひ)もおちず見しかども厭(いと)はぬ妹(いも)を月わたるまで
3757
我(あ)が身こそ関山(せきやま)越えてここにあらめ心は妹(いも)に寄りにしものを
3758
さす竹(だけ)の大宮人(おほみやひと)は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ [一云 今さへや]
  

【意味】
〈3754〉通行手形なしに関所を飛び越えられるホトトギスよ、私もお前のようにここと都と絶えず行き来したいものだ。

〈3755〉端正で美しいと思うあなたなのに、山やに中を隔てたられ、安らかな気持ちでいられない。

〈3756〉向かい合って一日も欠かさず顔を見ていても、少しも飽きることがなかったあなたなのに、もう何ヶ月にもわたるまで見ていない。
 
〈3757〉この我が身こそ、関や山を隔ててこんな遠くにあるが、心はあなたの傍に寄り添っています。

〈3758〉あの大宮人たちは、今でもなお、人をなぶることばかりを好んでしているだろうか。(今も相変わらず)

【説明】
 中臣宅守の歌13首のうちの5首。3754の「過所」は、関所(ここでは愛発関:あらちのせき)を通過するための許可証。歌意は上記のとおりとしましたが、「多我子尓毛」は訓義未詳で、「わが思ふ子にも」「いづれの子にも」「まねく吾子にも」「かにもかくにも」など多くの訓読案が提示されています。3756の「一日もおちず」は、一日も欠かさず。3757の「関山」は、愛発(あらち)の関のある愛発山。

 3758の「さす竹の」は「大宮」の枕詞。「今もかも」の「かも」は、疑問。「人なぶり」は、人をからかい、いじめる意。「らむ」は、現在推量。都に残った娘子の身の上を心配している歌です。 大宮人による「人なぶり」は「今もかも」とあることから、宅守が都にいた時からのことのようであり、その事実と内容は二人の間では共通の認識だったはずですが、この歌だけでは何のことか不明です。

巻第15-3759~3762

3759
たちかへり泣けども我(あ)れは験(しるし)なみ思ひわぶれて寝(ぬ)る夜(よ)しぞ多き
3760
さ寝(ぬ)る夜(よ)は多くあれども物思(ものも)はず安く寝る夜は実(さね)なきものを
3761
世の中の常(つね)の理(ことわり)かくさまになり来(き)にけらしすゑし種(たね)から
3762
我妹子(わぎもこ)に逢坂山(あふさかやま)を越えて来て泣きつつ居(を)れど逢ふよしもなし
  

【意味】
〈3759〉遡って事の始めを思い、悲しんで泣くけれど、何の甲斐もないので、わびしい思いで寝る夜を重ねている。
 
〈3760〉寝る夜は多くあるけれども、物思わずに安らかに寝る夜は、ほんとうにないことだ。
 
〈3761〉世の中の常の道理として、こんな有様になってきたのだろう、自分で蒔いた種のゆえに。

〈3762〉愛しい妻に逢えるという名の逢坂山を越えてきて、恋しさに泣いてばかりいるが。逢える手だてもない。

【説明】
 中臣宅守の歌13首のうちの4首。3759の「たちかへり」は、事の始めに立ち返って。「わぶれて」は、沈み込んで。3760の「さ寝」の「さ」は、接頭語。「実」は、ほんとうに。3761の「すゑし種から」は、蒔いた種がもとで。3762の「我妹子に」は「逢坂山」の枕詞。「逢坂山」は、山城と近江の国境の山で、越前への街道にもつながっています。

 なお、宅守の配流は、狭野弟上娘子と通じたことが咎められたものとされていますが、次のような根拠から、全く違った原因だったのではないかとする見方があります。

  1. 詞書に「中臣朝臣宅守娶蔵部女嬬狭野弟上娘子之時、勅断流罪越前国也。於是夫婦相嘆易別難一レ会、各陳慟情贈答歌六十三首」とあり、流罪となった時期は示されているが、その原因は示されていない(「娶りし故」ではなく「娶りし時」となっている)。また、もし二人の結婚が非合法であったなら、「娶」ではなく「姧」の文字が用いられるはず。さらに「夫婦」とあるので、結婚は公に認められていた可能性がある。
  2. もし二人の結婚が非合法であったなら、二人とも流罪に処せられるべきところ、狭野弟上娘子には何らの咎めがあった気配がない。
  3. 3758の宅守の歌で、大宮人による「人なぶり」は「今もかも」とあることから、宅守が都にいた時、すなわち結婚当初から何らかのいざこざがあったようであり、そのことが発端になって宅守が流罪に処された可能性がある。たとえば、宅守が中傷してくる相手を怒って殺傷したとか。
  4. 3761の宅守の歌で、こんな有様になったのは「すゑし種」、すなわち自分が蒔いた種の故に、と言って後悔している。それが娘子との結婚を指すとしたら、相手の娘子に向かってあからさまに言うのは不自然であり、ひどく礼を失したものになる。そうではなく、二人が了知している別の事実のことを言っているのではないか。
  5. 天平12年(740年)に行われた大赦に、宅守は含まれなかったが、『続日本紀』には、大赦から除外された犯罪が列挙されており、職権を乱用して私腹を肥やす罪、殺人の罪、貨幣偽造の罪、強盗窃盗の罪、姦通の罪、また身分として、天皇への忠誠を要求される親衛軍の兵士と書かれている。この除外者の中に中臣宅守の名があり、宅守の場合は姦通に当たらないのであれば、勅勘を蒙り、また大赦から除外されるほどの重大な罪であったと考えられる(当時は死刑は廃止されていた)。

巻第15-3763~3766

3763
旅と言へば言(こと)にぞやすきすべもなく苦しき旅も言(こと)にまさめやも
3764
山川(やまがは)を中に隔(へな)りて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)
3765
まそ鏡(かがみ)懸(か)けて偲(しぬ)へと奉(まつ)り出(だ)す形見(かたみ)のものを人に示すな
3766
愛(うるは)しと思ひし思はば下紐(したびも)に結(ゆ)ひつけ持ちてやまず偲(しの)はせ
  

【意味】
〈3763〉旅と言えば口で言うのはたやすいが、さりとて、どうしようもなく苦しいこの旅は、旅という言葉よりほかに表しようがあろうか、表わせはしない。
 
〈3764〉山や川を隔てて、身は遠く離れてはいるが、心は近くにいると思ってください、わが妻よ。
 
〈3765〉まそ鏡を掛けるように、心に懸けてかけて偲んでほしいと贈る形見の品を、他の人には見せないで下さい。

〈3766〉この形見の品を愛しいと思ってくれるなら、着物の下紐に結びつけて持ち、絶えず私を偲んで下さい。

【説明】
 中臣宅守の歌13首のうちの4首。3763の「すべもなく」は、どうしようもなく。「言にまさめやも」の「やも」は詠嘆的反語で、言い表せようか、表せない、の意。3764の「思ほせ」は「思へ」の敬語で、女性に対しての慣用。窪田空穂は、「こうした場合には、男性には浪漫的な心が起こり、繰り返しこうしたことをいわずにはいられなかったろうが、女性はかえって実際的となり、男性の想像するほどの慰めは与えられなかったろうと思われる」と述べています。

 3765・3766は、娘子に贈る鏡に添えた歌。3765の「まそ鏡」は「懸け」の枕詞。「奉り出す」は、差し上げる、お贈りする。「形見」は、離れている人を思い出すよすがとなる物。「人に示すな」は、魂のこもった形見は、人に見せるとその霊力が衰えるという信仰によっています。3766の「愛しと思ひし」の「し」は、強意の助詞。

巻第15-3767~3770

3767
魂(たましひ)は朝夕(あしたゆふへ)にたまふれど我(あ)が胸(むね)痛し恋の繁(しげ)きに
3768
このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音(ね)のみしぞ泣く
3769
ぬばたまの夜(よる)見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今ぞ悔(くや)しき
3770
味真野(あぢまの)に宿(やど)れる君が帰り来(こ)む時の迎へをいつとか待たむ
  

【意味】
〈3767〉あなたの魂は朝な夕なにこの身にいただいていますが、それでも私の胸は痛んでなりません。あまりに恋心が激しくて。
 
〈3768〉このごろは、あなたのことを思っては、やる方のない恋ばかりし続けて、むせび泣いているばかりです。
 
〈3769〉夜にお逢いしていたあなただったのに、その明くる朝、逢わずじまいになってしまい、今となっては悔しくてなりません。

〈3770〉味真野に滞在していらしゃるあなたが、ここ奈良の都に帰っていらっしゃる日を、いつ頃だとしてお待ちしたらよいでしょう。

【説明】
 娘子が作った歌8首のうちの4首。3767は、宅守の3757を意識した歌。3768の「すべもなき」は、どうしようもなく苦しい。3769の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。この歌は、朝、男の帰る時に娘子は寝たままで、顔も見ずに別れたことをいっており、当時の女としては普通のことだったようです。3770の「味真野」は、宅守の配流地で、福井県越前市(旧武生市)。ここまでの贈答の推移では、娘子が昂奮する時には宅守が落ちつき、反対に、宅守が昂奮すると娘子が落ちついた様子であったのが、ここはさらにまた宅守が落ちつき、娘子が昂奮した状態になっています。時の流れに応じ、二人の感情が大きく起伏しているのが窺えます。

巻第15-3771~3774

3771
宮人(みやひと)の安寐(やすい)も寝(ね)ずて今日今日(けふけふ)と待つらむものを見えぬ君かも
3772
帰りける人(ひと)来(きた)れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
3773
君が共(むた)行かましものを同じこと後(おく)れて居(お)れど良きこともなし
3774
我(わ)が背子(せこ)が帰り来まさむ時のため命(いのち)残さむ忘れたまふな
  

【意味】
〈3771〉宮廷に仕える私は安眠もできず、お帰りを今日か今日かとお待ちしているのですが、お姿を見ることはありません。

〈3772〉赦されて帰ってきた人たちが着いたと聞いて、もうほとんど死ぬところでした。もしやあなたと思って。
 
〈3773〉こんなことならあなたと共にに行けばよかった。旅はつらいというけれど、残っていても同じことです。何のよいこともありません。
 
〈3774〉あなたが帰っておいでになる、その時のため この命をつないでおこうと思います。どうか忘れないで下さい。

【説明】
 娘子が作った歌8首のうちの4首。3771の「宮人」は、宮仕えの女たちの意ですが、女官である自身のことを言っています。3772は、天平12年6月に大赦があり、幾人かが許されて帰京した時の作といいます。嬉しさのあまり死にそうになったと歌っていますが、この時には宅守は赦免されませんでした。物狂おしく一行をさがすも、宅守の姿を見出すことができなかった娘子。その落胆ぶりはいかばかりであったか。しかし、3774では、娘子は気を取り直し、自らを力づけています。
 
 この時の大赦は理由もなく行われたもので、『続日本紀』に、大赦から除外された犯罪、及び犯罪者の氏名が出ており、中臣宅守、石上乙麿の名があります。除外の対象となった犯罪は、職権を乱用して私腹を肥やす罪、殺人の罪、貨幣偽造の罪、強盗窃盗の罪、姦通の罪、また身分として、天皇への忠誠を要求される親衛軍の兵士とあります。

 なお、斎藤茂吉は3772の「ほとほと死にき」の表現に感銘し、『赤光』のなかの連作「おひろ」のなかで、次のような歌を作っています。
 あはれなる女の瞼(まぶた)恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にたり

巻第15-3775~3776

3775
あらたまの年の緒(を)長く逢はざれど異(け)しき心を我(あ)が思(も)はなくに
3776
今日(けふ)もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし
  

【意味】
〈3775〉長い間逢わないでいるけれど、不実な心など私は抱いたことなどありません。
 
〈3776〉都にいたなら、今日もまたあなたに逢いたくて、西の御馬屋の外に佇んでいることだろうに。

【説明】
 中臣宅守の歌2首。3775の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」の「緒」は、「年」の語感を強めるために添えた語で、年というのと同じ。「異しき心」は、変わった心、不実な心。3776の「せば~まし」は、反実仮想。「西の御馬屋」は、宮中の西南にあった右馬寮。「馬寮」は、諸国から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった官職・部署のことで、左馬寮と右馬寮に分かれていました。二人はかつて右馬寮でよく逢っていたとみえます。ただし、ここの贈歌はわずか2首にとどまっています。二人の間に何かあったのでしょうか。これには宅守の熱しやすく醒めやすい激情を指摘する向きもあります。

巻第15-3777~3778

3777
昨日(きのふ)今日(けふ)君に逢はずてする術(すべ)のたどきを知らに音(ね)のみしぞ泣く
3778
白栲(しろたへ)の我(あ)が衣手(ころもで)を取り持ちて斎(いは)へ我(わ)が背子(せこ)直(ただ)に逢ふまでに
  

【意味】
〈3777〉昨日も今日もあなたに逢えず、なすすべも知らないまま、ただ声をあげて泣いてばかりいます。
 
〈3778〉私がお贈りした着物の袖を手に取り持って慎みなさい、私のあなた。じかにお逢いできるまで。

【説明】
 娘子が応じて贈った歌2首。3777の「たどき」は、手がかり。3778の「白栲の」は「衣」の枕詞。「斎ふ」は、物忌みをする。衣の袖を具体的にどうするのか分かりませんが、おそらく枕にして寝るとか、そういった類のことだったのでしょう。その袖を他の女と枕にしてはならないし、粗末に扱ってもならない。それを「斎へ」と言っています。

 この2首をもって、贈答に事実上ピリオドが打たれ、後に暗い沈黙が流れます。二人の贈答期間は数か月の間だったとされます。

巻第15-3779~3781

3779
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
3780
恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥(ほととぎす)物思(ものも)ふ時に来(き)鳴き響(とよ)むる
3781
旅にして物思(ものも)ふ時に霍公鳥(ほととぎす)もとなな鳴きそ我(あ)が恋まさる
  

【意味】
〈3779〉家の庭の花橘は、いたずらに散っていくままになっているのだろうか、誰も見る人もなく。
 
〈3780〉恋い死にしたいなら、そのまま死んでしまったらとでもいうのか、ホトトギスよ。物思いに沈んでいる時にやってきて鳴き立てるとは。
 
〈3781〉旅先にあって物思う時に、ホトトギスよ。わけもなくそんなに鳴かないでおくれ。わが恋が増すではないか。

【説明】
 越前武生の配所で、中臣宅守が花鳥に寄せて思いを述べて作った歌7首のうちの3首。3779の「我が宿」は、京にある宅守の家の庭。「散りか過ぐらむ」の「らむ」は、現在推量。3780の「響むる」は、大きな声で騒ぐ。3781の「もとな」は、わけもなく。「な鳴きそ」の「な~そ」は、禁止。「まさる」は、増す、多くなる。

 ここの歌は3754~3766と同じ時期に作ったものの都へ送るタイミングを逃したものか、あるいは独泳歌であるのであえて送らなかったものか、あるいは1年後の詠草の故か、などの事情が考えられています。

巻第15-3783~3785

3782
雨隠(あまごも)り物思(ものも)ふ時に霍公鳥(ほととぎす)我(わ)が住む里に来(き)鳴き響(とよ)もす
3783
旅にして妹(いも)に恋ふれば霍公鳥(ほととぎす)我(わ)が住む里にこよ鳴き渡る
3784
心なき鳥にぞありける霍公鳥(ほととぎす)物思(ものも)ふ時に鳴くべきものか
3785
霍公鳥(ほととぎす)間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば我(あ)が思(も)ふ心いたもすべなし
  

【意味】
〈3782〉雨のために家にこもって物思いをしていると、ホトトギスが私の住む里にやって来て鳴き立てる。
 
〈3783〉旅先にあってあの人に恋い焦がれていると、ホトトギスが、この里に一人住む私の目の前を通って、鳴きながら飛んでいった。

〈3784〉心ない鳥だよ、ホトトギス。お前は、私が物思いに沈んでいるこんな時にやってきて鳴いたりしてよいものか。

〈3785〉ホトトギスよ、しばらく間を置いて鳴いてくれないか。お前が鳴くたびに、思い悩んでいる私の心が苦しくてしかたがない。

【説明】
 越前武生の配所で、中臣宅守が花鳥に寄せて思いを述べて作った歌7首のうちの後半3首。3783の「こよ」は。ここを通って。3785の「しまし」は、しばらく。「いたもすべなし」は、非常に苦しい、辛い。3780からの6首は、すべてホトトギスが詠み込まれ、恋に生き恋に死ぬという生と死の極限にある寂しく悲しい心情と強い望郷の思いを、その鳴き声に託しています。そして、ここの歌をもって、約2年にわたっての巻第15後半の歌群は閉じられます。
 
 宅守は結局、配流された翌年の天平13年(741年)9月の大赦で帰京することができました。その後また位を得るものの、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱に連座して除名され、以後消息不明となっています。不遇な一生だったといえましょう。また、宅守の帰京後に弟上娘子との関係がどうなったかは分かりません。もしかしたら、再会を待たず、娘子は亡くなってしまったのかもしれません。歌群の最後が花鳥を歌う宅守の独泳歌で終わっているのは、それを暗示していると感じられなくもないところです。
 
 これらの贈答歌は、まるで愛の私小説であるかのような歌の流れとなっており、また、人間の真実な魂の絶唱と評価されています。さらにその結末がどうなったかよく分からないのも、想像を大いにたくましくするところです。一方では、あまりにも巧みな歌物語的な構成であるため、後人の創作ではないかとする見方や、実録を基に編者が手を加えて成ったとする考え方があります。しかし、二人の歌の調子が異なっているので、原歌は、やはり2人によって詠まれたのでしょう。とくに娘子の他の特徴として、①四句切れが多い、②「君」「我が背子」の呼称が多い、③強い呼びかけや命令口調が多い、④特異な語句が多い、などが指摘されています。
 
 『新万葉考』『万葉幻視考』などを著した大浜厳比古は、諸説を列挙した上で、「諸説の向かうに、やはり一人の創作詩人の姿――それは新しい意味での創作意識に目醒めた一人の教養文人――と、彼の創作材料となるべき事件および若干の歌稿ないし記録とが浮かんでくる。この二つが相俟って出来た『実録風な創作(ドキュメンタリ・フィクション)』と見るのであり、その創作詩人は誰かといえば、やはり家持を置いて他には考えられない」と述べています。

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各巻の概要

【巻第一】
 雄略天皇の時代から寧楽(なら)の宮の時代までの歌。雑歌のみで、万葉集形成の原核となったものが中心。天皇の御代の順に従って配列されている。
 
【巻第二】
 仁徳天皇の時代から元正天皇の時代までの相聞・挽歌。巻第一と揃いの巻と考えられ、巻第一と同様に部立てごとに天皇の御代に従って歌が配列されている。このため勅撰ではないかとする説もある。
 
【巻第三】
 巻第四とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。拾遺の歌と天平の歌を収め、雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。
 
【巻第四】
 巻第三とともに、巻一・ニを継ぐ意図で構成されている。天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列している。私的な歌である相聞歌のみで、天平に入ってからは大伴氏関係の歌が中心となっている。
 
【巻第五】
 巻第六とともに主に天平の歌を収める雑歌集。とくに大伴旅人と山上憶良の、九州の大宰府在任時代の作を中心として集めた特異な巻になっている。
 
【巻第六】
 巻第五とともに主に天平の歌を収める雑歌集。巻第五が大伴旅人と山上憶良の大宰府在任時代の作を中心として集めた巻であるのに対し、巻第六は奈良宮廷をおもな舞台として詠まれた歌が中心となっている。
 
【巻第七】
 雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の三つの部立となっている。おおむね持統朝から聖武朝ごろの歌ながら、柿本人麻呂歌集や古歌集から収録した歌を含んでいるため、作者名や作歌事情等が不明なものが多くなっている。
 
【巻第八】
 四季に分類された雑歌と相聞歌。舒明朝~天平十六年までの歌で、作者群は巻第四とほぼ同じ。
 
【巻第九】
 おもに『柿本人麻呂歌集』、『高橋虫麻呂歌集』や『古歌集』などから収録され、雄略天皇の時代から天平年間までのもの。雑歌・相聞歌・挽歌の三部立て。
 
【巻第十】
 巻第八と同様の構成、すなわち、四季に分類した歌をそれぞれ雑歌と相聞に分けている。作者や作歌年代は不明で、もとは民謡だったと思われる歌や柿本人麻呂歌集から採られた歌もある。
 
【巻第十一】
 『万葉集』目録に「古今相聞往来歌類の上」とあり、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集や古歌集から採られた歌が多く、もとは民謡だったと思われる歌が大部分で、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十ニ】
 「古今相聞往来歌類の下」の巻で、巻第十二と姉妹編をなしている。柿本人麻呂歌集から採られた歌も多く、民謡的色彩が強く、作者・作歌年代も不明。
 
【巻第十三】
 作者および作歌年代の不明な長歌と反歌を集めたもので、部立は雑歌・相聞・問答歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の五つからなっている。
 
【巻第十四】
 主として東国諸国で詠まれた作者不明の歌を集めている。国名の明らかなものと不明なものに大別し、更にそれぞれを部立ごとに分類しているが、整然とは統一されていない。
 
【巻第十五】
 物語性を帯びた二つの歌群からなる。前半は遣新羅使らの歌、後半は中臣宅守と狭野弟上娘子との相聞贈答の歌が収められている。天平八年から十二年ごろまでの作歌。
 
【巻第十六】
 巻第十五までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻。伝説的な歌やこっけいな歌などを集めている。
 
【巻第十七~二十】
 巻第十七~二十は、大伴家持の歌日誌というべきもので、家持の歌を中心に、その他の関係ある歌もあわせて収めている。巻第十七には、天平2年から20年までの歌を、巻第十八には天平20年から天平勝宝2年まで、巻第十九には天平勝宝2年から5年まで、巻第二十には同5年から天平宝字3年までの歌を収めている。
 とくに巻第二十には防人歌を多く載せており、これは、家持の手元に集められてきたものを家持が記録し、取捨選択したものと考えられている。


(柿本人麻呂)

各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

味真野に残る「花筐」伝説

中臣宅守が配流された越前国の味真野(あじまの:越前市)には、室町時代に世阿弥が作った謡曲『花筐(はながたみ)』の題材になった伝説があります。

―― 越前国の味真野に隠れ住んでおられた男大迹皇子(をほどのみこ)が、にわかに皇位につくことになり、日ごろ寵愛していた侍女の照日の前(てるひのまえ)に花筐と玉章を贈って上京し、継体天皇となられた。

残された照日の前は皇子恋しさのあまり、花かごと御手紙を持って、天皇がお定めになった大和の玉穂の都へと上り、紅葉狩りの行幸に偶然会った。そこで天皇は再び彼女を皇居へ連れ帰り、愛を回復したという。――

越前市のJR武生駅の東方にある味真野神社には、社殿に向かって左手前の参道脇に「謡曲花筐発祥之地」と刻まれた 石碑と副碑が建っています。
 

参考文献

『NHK日めくり万葉集』
 ~講談社
『NHK100分de名著ブックス万葉集』
 ~佐佐木幸綱/NHK出版
『古代史で楽しむ万葉集』
 ~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』
 ~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』
 ~伊藤博/KADOKAWA
『田辺聖子の万葉散歩』
 ~田辺聖子/中央公論新社
『超訳 万葉集』
 ~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』
 ~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
 ~小名木善行/徳間書店
『万葉語誌』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉秀歌』
 ~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉秀歌鑑賞』
 ~山本憲吉/飯塚書店
『万葉集講義』
 ~上野誠/中央公論新社
『万葉集と日本の夜明け』
 ~半藤一利/PHP研究所
『萬葉集に歴史を読む』
 ~森浩一/筑摩書房
『万葉集のこころ 日本語のこころ』
 ~渡部昇一/ワック
『万葉集の詩性』
 ~中西進/KADOKAWA
『万葉集評釈』
 ~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』
 ~多田一臣/筑摩書房
『万葉の旅人』
 ~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』
 ~品田悦一/講談社
『ものがたりとして読む万葉集』
 ~大嶽洋子/素人舎
『私の万葉集(一~五)』
 ~大岡信/講談社
ほか

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