巻第17-3922
降る雪の白髪(しろかみ)までに大君(おほきみ)に仕へまつれば貴(たふと)くもあるか |
【意味】
降り積もる雪のように、真っ白な白髪になるまで大君にお仕えさせていただいたことは、恐れ多く尊いことでございます。
【説明】
聖武天皇の天平18年(746年)正月、平城京では「白雪多(さは)に零(ふ)りて地(つち)に積むこと数寸なり」、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が大納言の藤原豊成ほか諸臣を引き連れて太上天皇(元正天皇:聖武天皇の伯母)の御在所に参り、雪かきの奉仕をしました。諸兄と元正太上天皇とは年齢も近く(元正が4歳年長)、親しい関係にあり、藤原氏の急成長に不安を抱いていた点では、同じ政治的立場にあったとされます。雪かきが終わると、ねぎらいのための宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあり、それに応えた歌です。
「白髪までに」は、老いて白髪となるまでに、の意。雪の白さをおのれの白髪に重ねて、大君への奉仕の年月の長さを顧みており、「貴くもあるか」には、長らく受けた君恩の大きさを恐懼・感謝する意が込められています。窪田空穂はこの歌を評し、「勅題の雪を枕詞にとどめ、一に皇恩の洪大なことを感謝している、老左大臣にふさわしい歌である。緊張を内に包んで、おおらかに、細部にわたらない、品位ある詠み方をしているのも、その心にふさわしい」と述べています。
この時の橘諸兄は63歳。敏達天皇の玄孫 美努王(みぬのおう)の子で、光明皇后の異父兄にあたります。初名は葛城王でしたが、のち臣籍に下り橘宿禰諸兄と名乗りました。悪疫で不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち、右大臣となり政権を握ります。「藤原広嗣の乱」を乗りきり、恭仁京の経営に当たり、左大臣正一位に至って朝臣の姓を与えられるなど全盛を極めましたが、のち、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失うこととなります。
なお、この歌に続き、随伴した諸臣らの詠んだ4首の歌が載っています。
〈3923〉天(あめ)の下すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
…天下を覆い尽くして降り積もった雪のまばゆいばかりの光を見ると、ただただ貴く思われます。~紀清人
〈3924〉山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば
…どこが山の谷間とは見分けられないほど、一昨日も昨日も今日も雪が降り続いている。~紀男梶
〈3925〉新しき年の初めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは
・・・新しい年の初めに、今年の豊作を告げる印に相違ない、この降り続く雪は。~葛井諸会
〈3926〉大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽かぬかも
・・・宮殿の内にも外にも光輝くように降り続く白雪は、見ても見ても飽きることがない。~大伴家持
3923は、諸臣の筆頭として、諸兄の歌の結句「貴くもあるか」をそのまま受けて諸兄を立てつつ、太上天皇を讃えています。諸兄の歌とこの歌は、ともに直接的に太上天皇の貴さ、ありがたさをうたっているのに対し、それ以下の3首は、雪の多さや縁起のよさ、美しさなどを歌うことで、間接的に太上天皇を讃えるという歌のつくりになっていることが分かります。宮廷の宴における序列や立場、役割をわきまえる峻厳さが窺えるところです。
この雪かきの前年(天平17年)に、都は平城京に戻っています。この宴は、家持にとって忘れられない記憶となったらしく、参加して歌を詠んだ人々の名をすべて書きとめています。家持はこの時29歳で、1年前に従五位下に叙せられていたことから、応詔歌を奏することができたのでした。この時の家持は、越中守に任ぜられる直前にあたります。
また、これらの歌群の後に次のようなエピソードが記されています。「但、秦忌寸朝元は左大臣橘の卿謔れて云はく、歌を賦するに堪へずは麝を以ちて贖へといふ。此に因りて黙止をりき」と。つまり、諸兄が、歌を披露しようとした秦忌寸朝元(はだのいみきちょうがん)に対し、「お前は唐人だから、どうせ歌は詠めないだろう。罰としてお前の国で採れる麝香(じゃこう)を献上して埋め合わせをせよ」と言って戯れたため、朝元は黙り込んでしまったというのです。
朝元は、山上憶良と共に渡唐した学問僧・弁正(べんしょう)の子にあたります。弁正は唐の女性を妻にし、その間にできた子が朝元です。しかし、唐の法律では、異国人が唐の妻を連れて帰るのを禁じていたため、弁正は帰国を諦めて唐に残ります。やがて朝元は、父の故郷日本へ渡り、朝廷に仕えて医術師範、漢籍教授、図書頭などを務めました。そんな朝元に対しての諸兄の件の言動は、いくら戯れだったとはいえ、家持にはショックだったと見えます。
なお、後世の宮廷では、初積雪があると貴族たちが天皇らのもとに参じてご機嫌伺いをするのが恒例になり、平安時代には「初雪見山(はつゆきげんざん)」という年中行事になります。
巻第20-4454
高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅(すが)の根のねもころごろに降り置く白雪(しらゆき) |
【意味】
高い山の岩に生えている菅(すが)の根のように、ねんごろに降り積もった白雪の何と見事なこと。
【説明】
天平勝宝7年(755年)11月28日に、息子の左大臣・橘奈良麻呂宅での宴席で詠んだ歌。ここには諸兄の歌のみで、参席した人たちの歌は残されていませんが、奈良麻呂と親しい人が集まっていたはずです。上3句は、菅の「根」を「ねもころごろに」の「ね」に転じて序詞としたもの。「ねもころごろに」は、懇ろにと同意で、その語感を強めた語。ここは、雪が至らぬ隈なく降る積もっているさまを言っています。11月28日は、太陽暦では翌年の1月4日に当たるので、雪が降って当然の時節です。
この時期、前月に聖武太上天皇が発病し、すでに70歳を超えていた諸兄にとって、今後の政情への不安感は大きかったはずです。この宴の直後に、諸兄に不敬の発言があったと近侍によって密告される事件が起きました。聖武太上天皇は取り合いませんでしたが、結局、翌年2月に左大臣を辞職して致仕せざる得なくなりました。その翌年に諸兄は亡くなりますが、このことが死の遠因になったともいわれます。
また、長い間、諸兄を頼りにし、庇いもしてきた聖武太上天皇も、諸兄が辞職したわずか3か月後に崩じました。権勢を伸ばしつつあった藤原仲麻呂にとって憚りのある人物が、相次いで世を去ったのです。なお、密告した近侍というのは佐味宮守という人物で、密告の功によって従八位上から一足飛びに従五位下に叙せられ、後に左京亮、越前守などを歴任しています。勘ぐれば、仲麻呂の間諜だったとも考えられます。
諸兄の死後、奈良麻呂は、父に代わって権勢を握った藤原仲麻呂を打倒しようとして、大伴・佐伯氏らと結んで、仲麻呂の擁立した皇太子(のちの淳仁天皇)の廃太子を計画しましたが、未然に発覚。奈良麻呂らは捕えられ、獄死しました。連座して処罰された者の数は443人に及び、その中には大伴家の同族も含まれていました。
あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜の暇(いとま)に摘(つ)める芹(せり)これ |
【意味】
昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。
【説明】
天平元年(729年)、諸兄がまだ葛城王(かづらきおう)と称していたころ、山城国の班田長官(このとき正四位下)に任ぜられて現地に赴いた時に作った歌です。「班田」は、班田収授法にもとづいて国家が農民に口分田を貸し出す仕事をいい、この時の「班田」は、官人総動員体制で行われた大事業で、過労自殺者も出るほどの激務だったといいます。そんな多忙のなか、諸兄は仕事を終えた夜になって、なんと、女性に贈るための芹(せり)をせっせと摘んだのです。
芹を贈られた相手は元明天皇に仕えていた内命婦の薩妙観命婦(さつのみょうかんみょうぶ)。「薩」は氏、「妙観」は尼としての名であり、帰化人の系統と見られています。養老7年(723年)従五位上、翌神亀元年に河上忌寸の姓を賜わり、天平9年(737年)正五位下を授けられた人。巻第20-4438にも歌があります。薩妙観は芹をもらってビックリ仰天しました。相手は何と天皇の血を引く貴族中の貴族です。そんな立派な人物が、田に入って四つん這いになって芹を摘んだとはにわかには信じられません。そこで次の歌を詠んで贈りました。
〈4456〉丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹(せり)ぞ摘みける
・・・立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩いたまま、蟹のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。
遊び半分?のエリート班田使に痛烈なパンチを食らわせた態の歌です。4455の「あかねさす」は「昼」の枕詞。「田賜びて」は、田を諸氏に賜る政務を行って。天皇の命令を受けての代執行であることからの表現。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜の暇」は、夜遅くまで働いた後の夜中の小閑の意。4456の「丈夫」は、勇ましくて立派な男子。「かにはの田居」の「かには」は、現在の京都府木津川市山城町綺田(かばた)。「田居」は、田んぼ。「芹」は、春の七草の一つですが、『万葉集』に詠まれているのは、ここの2首のみです。
もっとも、王自身が田に入って芹を摘んだとは思えず、窪田空穂は、4455の歌に対して、「人に物を贈る時には、心をこめての物であることをいうのが礼で、これもそれである。昼は政務を行なって、夜の暇に採んだ物だというのは、無理な労苦をしての物だの意である」と述べ、4456の歌に対しては、「王の贈物の芹を感謝した心であるが、それをいうに素直にはいわず、皮肉を暗示する微笑を浮かべていっている歌である。王の『夜の暇に摘める』というのを、儀礼の語を承知して、底を割らない程度に割って、『大夫と思へるものを』と感動したごとくいい、『刀佩きて』と踏み込んだ言い方をしているのがすなわちそれである。この歌はそこをおもしろいとしたものであるが、命婦はこの時代からそうした意地悪さがあったのである」と述べています。
巻第20-4446~4447
4446 我(わ)が宿(やど)に咲けるなでしこ賄(まひ)はせむゆめ花散るないや変若(をち)に咲け 4447 賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに |
【意味】
〈4446〉我が家の庭に咲いているナデシコよ、贈り物をしよう。決して花よ散るな。ますます若返って咲け。
〈4447〉贈り物をしてあなたが大切に育てているナデシコ。その花のおもしろさだけで訪れようとする、そんなあなたとは思っていません。
【説明】
天平勝宝7年(755年)5月、丹比国人(たじひのくにひと)邸で開かれた宴での歌。丹比国人は中納言・多治比縣守の子で、橘諸兄の政権下、直属の部下(右大弁)として順調に昇進しましたが、橘奈良麻呂の乱(757年)での策謀が発覚し、伊豆国への流罪となりました。『万葉集』には、長歌1首、短歌3首。
4446は、丹比国人が、宴の主人として左大臣諸兄に言寄せて寿いだ歌。「宿」は、家の敷地、庭先。「賄はせむ」の「賄」は、便宜を乞うて贈る物。ここはナデシコを擬人化して呼びかけています。「ゆめ」は、禁止と呼応する副詞。「いや変若に咲け」の「いや」は、ますます。「変若」は、老いたものが若返ること。
4447は、左大臣が応えた歌。「生ほす」は「生ふ」の他動詞で、育て上げる、生長させる。「花のみ訪はむ君ならなくに」の「花」は、心の真実を表す「実」に対して、興味・移り気の意で言っているもの。「ならなくに」は、ではないのに。国人の歌と同じくナデシコの花を材とし、私もあなたの真実を頼んでいることですという意を、大らかな形で言っています。ただし、「花のみ訪はむ」と詠んだのは、そのナデシコが移ろいやすいようにも聞こえて、表現上の難点を指摘されているところです。
巻第20-4448
あぢさゐの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代にをいませ我(わ)が背子(せこ)見つつ偲(しの)はむ |
【意味】
紫陽花(あじさい)が次々に色を変えながら花を咲かせ続けるように、幾久しく元気でいらして下さい、あなた。紫陽花を見るたびにお偲びしましょう。
【説明】
上と同じ宴席で、橘諸兄が紫陽花に寄せて詠んだ歌。紫陽花を詠んだ歌は『万葉集』では珍しく、この歌と合わせて2首しかありません(もう1首は巻第4-773の家持歌)。「八重咲くごとく」は、紫陽花は正確には八重咲きではないため、ここは次々に花の色を変えながらつねに新しく咲き続けるように、の意。「八つ代にを」は、多くの代を重ねて、永久にの意。諸兄が丹比国人の長寿を賀したもので、「いませ我が背子」の「いませ」は「ゐよ」の敬語で、国人と対等な立場に立って詠んでいます。文学者の鈴木武晴は、「一首、諸兄の歌作の力量をうかがわせる」と評しています。
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橘諸兄の略年譜
684年 美努王と橘三千代の間に生まれる
710年 無位から従五位下に
724年 聖武天皇が即位
従四位下に叙せられる
729年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王が自殺(長屋王の変)
736年 臣籍降下、橘諸兄と名乗る
737年 天然痘の流行で藤原四兄弟が死去
大納言に任ぜられる
738年 正三位、右大臣に任ぜられる
740年 藤原広嗣が政権を批判(藤原広嗣の乱)
諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都
743年 従一位、左大臣に任ぜられる
孝謙天皇が即位
藤原仲麻呂の発言力が増す
756年 辞職を願い出て致仕
757年 死去、享年74
子息の橘奈良麻呂が乱を起こし獄死
巻第20-4457~4459
4457 住吉(すみのえ)の浜松が根の下(した)延(は)へて我が見る小野(をの)の草な刈りそね 4458 にほ鳥(どり)の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽(つ)きめやも 4459 葦刈(あしか)りに堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人(おほみやひと)の皆(みな)聞くまでに |
【意味】
〈4457〉住吉の浜松の根が地中に長く延びているように、心深くひそかに思っているので、私が見る野の草は刈らずにそのままにしておいて下さい。
〈4458〉息長い鳰鳥(におどり)のような名の息長川の流れが絶えることはあっても、あなたに語りたいと思う、その言葉の尽きることがあるものですか。
〈4459〉葦を刈り取るために堀江を漕ぐ梶の音は、大宮に仕える人たちが皆聞くほどに近い。
【説明】
題詞に「天平勝宝8年(756年)2月24日、太上天皇(聖武上皇)と孝謙天皇と光明皇大后が河内の離宮に行幸なさり、数泊して28日に難波宮にお遷りになった。3月7日、河内の国の伎人郷(くれひとのさと)の馬国人(うまのくにひと)の家で宴(うたげ)したときの歌3首」とあります。行幸の期間中に、親しい者たちだけで宴を催したようです。4457が兵部少輔(ひょうぶのしょうふ)の大伴家持、4458が主人の散位寮(さんいりょう)の散位、馬史国人(史は姓)、4459が式部少丞(しきぶのしょうじょう)大伴池主の歌。
「伎人郷」は、『古事記』に「呉の坂」とある、渡来人の呉人が住んでいたとされる地域で、現在の大阪市平野区の喜連(きれ)あたり。「呉」に「伎」の字を当てたのは、呉人が伎楽(中国渡来の、仮面をつけて演じられる無言劇)に巧みだったところからきているとされます。馬史国人の肩書の「散位寮」は、式部省所属の、散位の者(位があって官職のない者)を管掌する役所。馬国人は渡来人の子孫だろうとされます。
4457の「住吉の浜松が根の」は、住吉海岸の松の木がその根を長く延ばしている意で「下延へて」を導く譬喩式序詞。「下延へて」は、人知れず思って、心ひそかに慕って。「下」には心の奥の意があり、「延ふ」は長く広げるが原義。「小野」の「小」は接頭語。「草な刈りそね」の「な~そね」は、禁止の語法。国人の家から見渡される眺望をほめた歌ですが、「下延ふ」の語は対人的な場合に限って用いられることから、何か寓意があるかもしれないとも言われます。
4458の「にほ鳥の」の「にほ鳥」はカイツブリのことで、長く水に潜るところから「息長」の枕詞。「息(おき)」は、イキの古形。「息長川」は、滋賀県の伊吹山に発し琵琶湖に流れる天野川。男女間の恋の歌であり、脚注に「古新未だ詳らかならず」とあるところから、元来恋の歌であったのを、国人が家持らへの挨拶の歌に借用したものと見られています。そうでないと「息長川」という名が不自然であり、国人の創作とは思えないことからの注記だろうとされます。挨拶の歌などに古歌を流用することによってその時の間に合わせることは、そう珍しいことではなかったと言います。
4459の「堀江漕ぐなる」の「堀江」は、難波の地の掘割。現在の大川とされます。「漕ぐなる」の「なる」は、伝聞推定。「大宮人」は、堀江に近い難波宮に従駕している官人。「皆聞くまでに」は、下に「近い」の意が略されている形。奈良京の官人たちにとって、海も堀江も珍しい上に、庶民の葦刈船の楫の音が近くに聞こえるということが殊更に珍しかったとみえます。なお左注に、この歌はいつ誰の作ったともわからぬ歌で、先日よそで、大原今城が誦した歌である旨の記載があり、池主がこの場にふさわしい歌として誦したもののようです。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(元正天皇)
(橘諸兄)
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