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日本壊滅を救おうとしたポツダム宣言

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死したのは、太平洋戦争さなかの1945年4月12日のことです。死因は脳卒中でした。もしこのとき大統領が死ななかったら、戦争はどのような結末に至っていたでしょうか。

 おそらくは最後の最後まで戦争は続けられ、日本はアメリカとソ連によって、ドイツや朝鮮のように分断国家にされていたことでしょう。なぜなら、ルーズベルトはその年の2月、アメリカ・イギリス・ソ連によって行われたヤルタ会談において、ソ連のスターリンと、ドイツ降伏の2、3ヵ月後にソ連が日本侵攻をする秘密協定を結んでいたからです。

 ルーズベルト死後の5月7日、ドイツが無条件降伏しました。その翌日に陸軍長官スチムソンが国務次官グルーのもとにやって来て、ルーズベルトが進めていたソ連の対日参戦と原爆開発の秘密を明かしました。グルーは日米開戦時に駐日大使をしていた知日家で、また、日米の戦争には強く反対していた人でした。

 グルーはスチムソンの話を聞いて驚愕しました。「このままでは日本は壊滅する!」。そして、何とか日本を救う手だてはないものかと思案しました。そして考えついたのが対日声明を発する案でした。それを日本に受諾させて、早く戦争を終結させようとする考えでした。

 そうして実現したのが、7月26日にドイツ郊外のポツダムで、アメリカ・イギリス・中国の3国の首脳によって出されたポツダム宣言です。受諾しなければ「迅速かつ完全なる壊滅があるのみである」とする過酷な内容ではありましたが、明らかに壊滅に向かって突き進んでいた日本を救おうとする意図がこめられていました。

 ところが日本政府は、ポツダム宣言をすぐには受諾せず、7月28日に鈴木貫太郎首相が「宣言を黙殺する」と発表。すると、広島、長崎に相次いで原爆が投下され、ソ連も対日宣戦を布告しました。しかしそれでも8月15日、ソ連が日本本土に侵攻する直前に降伏したため、国家分断の事態は免れることができたのです。まさに危機一髪のタイミングだったといっていいでしょう。

原爆投下の目標は小倉だった

 昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、アメリカのB29「ボックス・カー」が長崎市上空に飛来、史上二番目の原子爆弾「ファット・マン」を投下しました。これにより長崎市の人口24万人(推計)のうち7万4000人が死亡、建物の約36%が全焼または全半壊しました。

 しかし、このとき、長崎はもともと原爆投下の第二目標であり、第一目標は小倉市(現在の北九州市)だったのです。小倉上空が曇天のため、急きょ投下を中止したのです。なぜ小倉だったのか。小倉には西日本最大の陸軍造兵廠がありました。小倉造兵廠では、昭和19年秋から20年春にかけて気球爆弾(風船爆弾)を作っていました。秘匿名称は「ふ号兵器」といいました。

 この「ふ号兵器」計画によって、日本沿岸から放たれた風船爆弾は、合計9300個。うち1割強がジェット気流に乗ってアメリカ本土に到着し、1個がオレゴン州の一家6人の命を奪いました。第二次大戦中、外国からの攻撃でアメリカ市民が犠牲になった唯一のケースとなりました。

 アメリカ側は、風船爆弾に731部隊による細菌が封入されているとの疑念も抱いていたようです。ひょっとしたら「ふ号兵器」計画が原爆投下の呼び水になったという面があるのかもしれません。
 

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太平洋戦争年表

1941年
7月 米国が在米の日本資産を凍結
8月 ABCD包囲網の完成
11月 米国がハル・ノートを呈示
12月 御前会議で開戦決定
12月 真珠湾攻撃

1942年
1月 日本がマニラ占領
2月 日本がシンガポール占領
4月 米軍が日本本土を空襲
6月 ミッドウェー海戦
8月 米軍がガダルカナル島に上陸

1943年
9月 イタリアが無条件降伏9月 絶対国防圏を設定
10月 学徒出陣

1944年
6月 マリアナ沖海戦
7月 サイパン陥落
8月 学徒勤労令、女子挺身勤労令
8月 学童の集団疎開始まる
10月 レイテ沖海戦
11月 東京への空襲が始まる

1945年
1月 米軍がルソン島に上陸
3月 東京大空襲
3月 米軍がマニラ占領
3月 沖縄戦が始まる
5月 ドイツが無条件降伏
7月 米国がポツダム宣言
8月 広島に原爆投下
8月 ソ連が対日宣戦布告
8月 長崎に原爆投下
8月 ポツダム宣言を受諾
 

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