源頼朝の直系の将軍は、わずか3代で終わってしまいました。そして、最後となった実朝の後は、いずれもおそろしく若い年齢の将軍が就任しました。まず頼朝の妹の嫁ぎ先だった五摂家の一つ、九条家から婿を取って4代将軍(頼経)としますが、この時たった9歳でした。頼経はその後約20年間、将軍の位にありましたが、しだいに反執権勢力に利用されるようになったため、5代執権の北条時頼によって、27歳のときに辞めさせられてしまいます。
そして5代将軍になったのは、まだ6歳だった、頼経の子の頼嗣です。この頼嗣も14歳のときに位から追われて、そのあとに6代将軍として迎えられたのは後嵯峨上皇の第一皇子の宗尊親王で、これもまだ11歳の子どもでした。この6代将軍も25歳になると将軍職を追われて、7代将軍になったのは、その子の惟康、5歳です。
この7代将軍も在位約20年、26歳になったときに辞めさせられて、京都に戻されました。『増鏡』には「将軍が都に流されたということであるが、奇妙な言い方があるものだ」と書かれています。「流される」といえば、ふつうは都から地方に流されるものでしたから。次の8代将軍は14歳で迎えられた後深草上皇の皇子・久明親王で、これも33歳で辞めさせられ、9代将軍がその子、7歳の守邦親王。そして、約25年後にはとうとう幕府がなくなってしまいました。
なぜこれほどに次から次へと若い将軍ばかりだったかといいますと、4代・頼経のような例もあったように、何より、幕府の実権を握った北条氏にとって、名目的存在とはいえ、あくまでも幕府の長である将軍が御家人たちへの求心力を強めることが脅威だったからです。そのため、幼少の将軍を迎えては成人すると解任して京都に返すということを繰り返したのです。
じゃあ、なぜ北条氏が自ら将軍職に就かなかったかというと、もとは伊豆の小豪族に過ぎない出自だったため、仮に将軍になっても有力御家人たちを御するのは難しいと考えたためとされます。また朝廷に対抗するためにも、高貴な血統の出身者を必要としたというわけです。ずっと北条氏が政権を握っていたとはいえ、そのへんの分別?というか、遠慮というか、わきまえは徹底し続けたようです。
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(源実朝)
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