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御成敗式目

 鎌倉幕府の成立時には成文法が存在しておらず、律令法や公家法に拠ることもなく、もっぱら先例などに基づいて裁判をしてきたとされます。しかし、承久の乱を経て、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人と、公家などの荘園領主、現地住民との間で揉めごとが頻発するようになりました。また、幕府が成立して半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が蓄積されて煩雑化してきました。

 そうした状況下、1232年に制定された御成敗式目(貞永式目ともいう)は、鎌倉幕府の執権・北条泰時が中心になり、幕府の要人らの協議によってつくられた、全51か条からなる武士政権のための法令です。源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた、武家社会での慣習や道徳をもとに制定されました。できあがった式目は写しが作られた後、各国の守護を通して全ての地頭に配布されました。後書きに泰時の言葉が載っており、一執権にすぎない自分ごときがこうした一種の憲法を出すのは大変あつかましいが、世の中の道理というものがそれを認めてくれるだろう、と記しています。比較的平易な文章で書かれた式目の内容は、次の項目からなっています。

  • 寺社の修理と祭祀・仏事の励行
  • 幕府の組織(守護、地頭、その他)
  • 土地法(土地所有、所領支配、所領売買)
  • 刑事法
  • 親族相続法
  • 訴訟手続

 この、道理にしたがってできたという御成敗式目がいつの時代まで生きていたかというと、実は明治の大日本帝国憲法ができるまで続きました。鎌倉幕府滅亡後も法令としては有効で、足利尊氏も御成敗式目の規定遵守を命令しており、室町幕府が発布した法令や戦国時代に戦国大名が制定した分国法も、御成敗式目を改廃するものではなく、追加法令という位置づけでした。江戸時代には、寺子屋のテキストとして御成敗式目が使われていました。武家だけでなく、広く民間にも普及していたということになります。

 それほどに長い間、一度も批判されることなく読まれ続けてきた御成敗式目。北条泰時が語っていたように、世の中の道理が、ずっとそれを認め続けてきたからですね。

泰時の手紙

 御成敗式目の完成に当たって、泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に手紙を送りました。手紙の中には、式目の目的について次のような意味のことが書かれています。

 多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の上下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは「ものも知らぬ東戎(あずまえびす)どもが何を言うか」と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。そのような状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この「式目」は、漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったことを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な「道理」に基いたものなのだ。
 

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鎌倉幕府の執権

初代 北条時政
2代  北条義時
3代  北条泰時
4代  北条経時
5代  北条時頼
6代  北条長時
7代  北条政村
8代  北条時宗
9代  北条貞時
10代 北条師時
11代 北条宗宣
12代 北条熙時
13代 北条基時
14代 北条高時
15代 北条貞顕
16代 北条守時
17代 北条貞将


(北条時頼)

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