寿永元年(1182年)7月、母親と同じ白拍子(歌舞の芸人)となっていた静は、後白河上皇が催した雨乞いの神事に召されました。京の都では3年間も干ばつが続いており、多くの人々が苦しんでいました。雨乞いの儀式によって雨を降らすことができるか否かは、当時は支配者としての真価が問われる重要事でした。そのため、後白河法皇の行幸を仰ぎ、美しい舞姫100人を舞わせて神力を呼び覚まし、朝廷の力を示そうとしたのです。
静が舞ったのは最後の100人目でした。するとどうでしょう、舞が半ばを過ぎたころ、にわかに空が掻き曇り、雷鳴が轟きました。雨はその後3日間降り続き、まさに干天慈雨となりました。静は後白河上皇から「日本一」とのお誉めにあずかり、そして、その静を見初めたのが源義経でした。義経の側室となった静はこのとき18歳、義経は27歳でした。
しかし、二人の幸せな日々は長くは続きません。平家追討に大活躍した義経でしたが、その後、兄頼朝と不仲になり、ついには鎌倉の軍勢に追われる身となって、静とともに吉野山に逃げます。途中、雪の中で別れ別れとなり、そのとき身重だった静は捕えられて鎌倉に送られました。
鎌倉に着いた静には、屈辱ともいえる命令が頼朝から下されました。頼朝・政子夫妻が鶴岡八幡宮にお参りする際に参向して舞を披露せよというのです。重臣たちも「あの名高い芸をひと目でも見たい」と色めき立ちました。静は「義経の妾として捕われた身で、目立つ場に出るのはいかにも恥辱」だとして、病を理由に断りました。しかし、頼朝から再三の要請がもたらされ、とうとう静は、回廊に設けられた舞台に立つことになりました。
多くの人々が門前にひしめきあい注目するなか、白い小袖のひと重ね、唐綾をひき重ね、菱に十字模様を刺繍した水干、白の長い袴という装束の静が現れました。そして、紅一色の扇をひらいて神殿に向かって立ち、得意の曲を高らかに歌い始めました。人々は感嘆し、喝采の声は天まで響き渡るほどであったと伝えられています。
このとき、静が「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ 賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕って歌い、それが頼朝の逆鱗にふれます。しかし、傍で観ていた妻の政子の思いは違っていました。静のことを「ただ、男に媚びを売るだけの存在」としか見ていなかった政子が、「敵ながらあっぱれ」と認めたのです。
そして、怒りの収まらない頼朝に対し「女の道というのはそういうものです。静が判官殿(義経)を慕いますのは、その昔、あなたが石橋山で敗北なされてから、あなたのあとを慕って、私が方々で苦労したのと同じことです。ですから、どうぞ静を許してやってください」と言って取りなしたといいます。『義経記』にも、この歌のあと、政子の静への態度が一変したとあります。
そして、しばらく経って静は男児を出産しました。しかし、前もって、生まれた子が男児なら命を絶てとの命令が頼朝から下されていました。頼朝の家来が赤子を受け取ろうと静のところにやって来ますが、静は泣き叫んで放そうとはしません。しかし、無理やりに母子は引き離され、義経と静の子は由比の浦に沈められ、僅かの間の命を終えてしまいます。
この時、政子が頼朝に、静の子の命乞いをしたと『吾妻鏡』には記されています。政子と静とは、それぞれ頼朝、義経を頼りに生きる身。頼朝と義経の立場が逆であれば、二人の運命もまた入れ替わっていたかもしれません。けっきょく政子は、静に多くの褒美を与えて京へ帰すのが精一杯でした。
鎌倉での屈辱と悲しみに満ちた日々を終えた静は、京で母と共に静かに暮らしていました。しかし、義経への想いを断ち切ることはできず、侍女に義経の消息を探らせていました。そんな折、義経が奥州平泉にたどり着いたという報が入ってきます。静は居ても立ってもいられず、文治5年(1189年)1月、侍女と童僕を伴って平泉へ向けて旅立ちます。吉野の山奥で義経と別れた日から、すでに3年の月日が経過していました。
しかし、日光街道を北上し下総国の古河にやって来たところで、奥州からの旅人から、平泉の高館で義経が亡くなったことを知らされました。泣き崩れる静を侍女がなぐさめ、かろうじて伊坂の里(栗橋町)まで引き返しました。しかし、愛する人を亡くした辛さと空しさに、静は身も心も弱り果てていきました。もはや終焉も近いと覚った静は落飾し、義経を弔う日を送ります。そして、とうとう8月16日、「九郎殿」とただ一言を残して、侍女らに看取られながら義経のもとに旅立ちました。享年22歳、はかなく短い生涯でした。
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(源義経)
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