藤原道長は、自分の娘3人を一条・三条・後一条という3代の天皇の正妃にあて、「一家三后、未曾有なり」といわれるほどに権勢の絶頂に立ちました。道長が詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」という歌はあまりに有名です。「この世は自分のためにあるようなものだ。望月(満月)のように何も足りないものはない」だなんて・・・。
858年に藤原良房が皇族以外ではじめて摂政になって始まった摂関政治は、藤原北家の嫡流が娘を入内させ、天皇の外戚・外祖父として権力を独占するという方法で一族を繁栄させてきました。そのため、取り巻きの公卿たちは、天皇よりも藤原北家への奉仕を最優先するようになりました。
その一方で、天皇の立場は寂しく惨めなものとなっていきました。円融天皇(第64代)は瀕死の床にあって誰にも見舞われませんでしたし、花山天皇(第65代)は策略にひっかかって出家させられてしまいました(寛和の変)。一条天皇(第66代)は正餐で食事の給仕さえしてもらえなかったといいますし、三条天皇(第67代)は36歳まで天皇になることができず、「老(ふる)東宮」とあだ名されました。
それぞれの天皇の即位年齢と在位期間を見れば、天皇がいかに政治のカードに利用されていたかが分かります。円融天皇は11〜26歳、花山天皇は17〜19歳、道長が後押しした一条天皇は7〜32歳、36歳で即位した三条天皇も41歳で退位。道長の外孫である後一条天皇即位(第68代)までのツナギだったのです。
これらの天皇は、在位期間だけでなく寿命もえらく短かったのです。崩御した年齢は、円融天皇33歳、花山天皇41歳、一条天皇32歳、三条天皇42歳と、いずれも若死にです。この原因は、摂関政治に翻弄され苦しめられ続けたことと決して無関係ではないでしょう。まことにもってお気の毒というより他ありません。
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781年 | 桓武天皇 |
806年 | 平城天皇 |
809年 | 嵯峨天皇 |
823年 | 淳和天皇 |
833年 | 仁明天皇 |
850年 | 文徳天皇 |
858年 | 清和天皇 |
876年 | 陽成天皇 |
884年 | 光孝天皇 |
887年 | 宇多天皇 |
897年 | 醍醐天皇 |
930年 | 朱雀天皇 |
946年 | 村上天皇 |
967年 | 冷泉天皇 |
969年 | 円融天皇 |
984年 | 花山天皇 |
986年 | 一条天皇 |
1011年 | 三条天皇 |
1016年 | 後一条天皇 |
1036年 | 後朱雀天皇 |
1045年 | 後冷泉天皇 |
1068年 | 後三条天皇 |
1072年 | 白河天皇 |
1086年 | 堀河天皇 |
1107年 | 鳥羽天皇 |
1123年 | 崇徳天皇 |
1141年 | 近衛天皇 |
1155年 | 後白河天皇 |
1158年 | 二条天皇 |
1165年 | 六条天皇 |
1168年 | 高倉天皇 |
1180年 | 安徳天皇 |
1183年 | 後鳥羽天皇 |
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