巻第19-4139~4142
4139 春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花 下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ) 4140 吾(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも 4141 春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ)誰(た)が田にか棲(す)む 4142 春の日に張れる柳(やなぎ)を取り持ちて見れば都の大道(おほち)し思ほゆ |
【意味】
〈4139〉春の園一面、紅に照り輝いている桃の花、その下の道までも紅に輝いており、つと立つ乙女よ。
〈4140〉わが園の真っ白な李の花が散っているのだろうか、それとも淡雪が消え残っているのだろうか。
〈4141〉春を待ちかねて物悲しい気分の折り、夜が更けてきて、羽ばたきつつ鳴く鴫は、誰の田に心を残してまだ棲みついているのか。
〈4142〉春の日に、芽吹いてきた柳の小枝を折り取って眺めると、奈良の都の大路が思い起こされてならない。
【説明】
4139と4140は天平勝宝2年(750年)の3月1日の暮れに、春の庭の桃李の花を眺めて作った、巻第19の冒頭歌です。この時33歳の家持は、越中での4度目の春を迎えていました。家持ははじめは単身赴任でしたが、途中、公用で一度帰京し、そのとき妻の坂上大嬢をたずさえて戻ったようです。4139の歌は、その妻に捧げた歌かもしれません。「紅にほふ」は、乙女の赤裳が桃の花に照り輝くさま。正倉院御物の「樹下美人図」が連想されるような歌であり、1句目、3句目、結句をいずれも名詞で止めた絵画的な構成になっています。斎藤茂吉はこの歌を評し、「春園に赤い桃花が満開になっていて、其処に一人の乙女が立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である」と言っています。
4140の「はだれ」は、雪がまだらに積もっているさま。李の白い花と薄雪を混同させる詩的な仕掛けがなされ、父・旅人の代表作の一つである「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(巻第5-822)を踏まえているとされます。4139の桃花も、ここの李花も「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」の故事成句にある漢詩的な素材であり、これまで歌に歌われることはありませんでしたが、そうしたものを積極的に取り入れようとする家持の姿が窺えます。
4141は同じく3月1日の夜更けに、飛び翔(かけ)る鴫(しぎ)を見て作った歌。「鴫」は、秋に来て春に帰る渡り鳥。「春まけて」は、春を待ち受けて。「羽振く」は、羽ばたきをする。ただ、夜中に田の鳥が羽ばたき、空を飛んで鳴く姿が見えただろうかとの疑問が呈され、これは家持が「鴫」という字(田と鳥)から思いついて作った歌ではないかとするの説も出ています。
4142は、3月2日に新柳の枝を折り取って都を思う歌。「張れる」は、芽が出る、ふくらむ。この歌から、当時の都大路の並木には柳が植えられていたことが分かります。柳もまた漢詩的な素材であり、柳葉は化粧をした女性の細い眉に譬えられます。家持は都大路のことを思い出すと同時に、都の美女たちのことも思い浮かべていたのかもしれません。
巻第19-4143~4147
4143 もののふの八十娘子(やそをとめ)らが汲(く)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花 4144 燕(つばめ)来る時になりぬと雁(かり)がねは国 偲(しの)ひつつ雲隠(くもがく)り鳴く 4145 春まけてかく帰るとも秋風にもみたむ山を越え来(こ)ずあらめや 4146 夜(よ)ぐたちに寝覚めて居(を)れば川瀬(かはせ)尋(と)め心もしのに鳴く千鳥かも 4147 夜(よ)くたちて鳴く川千鳥(かはちどり)うべしこそ昔の人も偲(しの)ひ来(き)にけれ |
【意味】
〈4143〉たくさんの乙女たちが、入り乱れては水を汲む、寺の境内にある井戸のそばに群がって咲いているカタクリの花よ。
〈4144〉燕がやってくる時節になったと、雁は自分の国を思い起こしながら、雲隠れしながら鳴き渡っていく。
〈4145〉春を待ちかねてこうして国に帰っていく雁だが、秋風が吹く頃になれば黄葉の山を越えて戻って来るだろうに。
〈4146〉夜が更けてもなかなか眠れずにいると、川瀬を伝って、我が心も哀しくなるほどに鳴く千鳥よ。
〈4147〉夜が更けて鳴く川千鳥、なるほどもっともだ、昔の人もこの切ない声に心惹かれてきたのは。
【説明】
4143は「堅香子の花を手折る」歌。「堅香子」は「かたくり」の古名、水辺の地に群生し、春先に清楚で可憐な花を咲かせます。集まってにぎやかに水を汲む乙女らの様子が、かたくりの花に託して詠まれています。斎藤茂吉は、「我妹子にむかって情を告白するのではなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情をのべている」として、こういう手法もまた家持の発明と解釈することができる、と言っています。「もののふの」は「八十」の枕詞。「八十」は、数の多いこと。「寺井」は、寺の境内にある井戸。
4144・4145は越中で、帰る雁を見たときの歌。『万葉集』で雁を詠んだ歌は63首ありますが、その殆どは来る雁を詠んだもので、帰る雁を詠んだ歌は3首しかありません(うち2首が家持)。強い望郷の念からでしょうか。4144は『万葉集』で唯一の燕を詠んだ歌です。4145の「春まけて」は春を待ち受けて。「もみたむ山」はもみじする山。
4146・4147は夜中に千鳥が鳴くのを聞いた歌。4146の「夜ぐたち」の「くたち」は盛りが過ぎて衰える意で、ここでは夜中過ぎ。「川瀬」の「川」は、射水川。国庁は射水川の河口近くにありました。「尋め」は、川の瀬に伝って。「心もしのに」の「しのに」は、しおれてしまうばかりに、の意。「しのに」は『万葉集』中10例見られますが、そのうち9例が「心もしのに」の形であり、定型表現だったことが知られます。4147の「うべしこそ」は、なるほどもっともだ。
巻第19-4148~4150
4148 杉の野にさ躍(をど)る雉(きぎし)いちしろく音(ね)にしも泣かむ隠(こも)り妻(づま)かも 4149 あしひきの八(や)つ峰(を)の雉(きぎし)鳴き響(とよ)む朝明(あさけ)の霞(かすみ)見れば悲しも 4150 朝床(あさとこ)に聞けば遥(はる)けし射水川(いみづがは)朝漕ぎしつつ唄(うた)ふ舟人 |
【意味】
〈4148〉杉木立の野で鳴きたてて騒いでいる雉よ、はっきりと人に知られてしまうほどに、お前は泣かずにいられない忍び妻なのか。
〈4149〉あちこちの峰々で雉が鳴き立てている明け方の霞、この霞を見ているとやたらともの悲しくなってくる。
〈4150〉うつらうつらとする朝床の中で耳を澄ますと、遙かな射水川を、朝漕ぎしながら唄う舟人の声が聞こえてくる。
【説明】
4148と4149は暁に鳴く雉を聞く2首。4148では、妻を求めて鳴く雉を、恋に苦しむ忍び妻になぞらえて思いやっています。「さ躍る」の「さ」は、接頭語。「いちしろく」は、はっきりと。「隠り妻」は、男が人に秘密にしている妻。4149の「あしひきの」は「八つ峰」の枕詞で、山から転じています。「八つ峰」は、多くの峰。斎藤茂吉は「この歌の悲哀の情調も、恋愛などと相関した肉体に切なるものでなく、もっと天然に投入した情調であるのも、人磨などになかった一つの歌境というべき」と言っています。
4150は「江(かは)を泝(さかのぼ)る舟人の唄を遥かに聞く」歌。この遥聞・泝江・舟人のいずれもが、中国文学(とくに漢詩)に見られる漢語であり、それらをそのまま取り込んだような歌になっています。漢詩の世界を和歌に置き換えて詠むという家持の和歌の特徴がよくあらわれた作として評価されています。「射水川」は、富山県を流れる小矢部川。この歌について、作家の田辺聖子は次のように述べています。「何とはない幸せの倦怠感のようなものがあって、印象的である。・・・その幸福感に淡い憂愁が貼り合わされてデリケートな色調を生み、それが読む者の心に更に光耀をひきおこす。しらべも流麗で、私はこの、一見何ということない歌がなつかしくて好もしい」
巻第19-4151~4153
4151 今日(けふ)のためと思ひて標(し)めしあしひきの峰(を)の上の桜かく咲きにけり 4152 奥山の八(や)つ峰(を)の椿(つばき)つばらかに今日(けふ)は暮らさね大夫(ますらを)の伴(とも) 4153 漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶといふ今日(けふ)ぞ我(わ)が背子(せこ)花かづらせな |
【意味】
〈4151〉今日の宴のためと思って標(しる)していた峰の上の桜が、このように見事に咲いてくれました。
〈4152〉奥山のあちこちの峰に咲く椿、その名のようにつばらかに(存分に)、今日一日は楽しもうではありませんか。お集りのますらおたちよ。
〈4153〉漢の人も筏を浮かべて遊ぶという今日ですよ、さあ皆さん、髪に花かづらをかざして楽しく遊ぼうではありませんか。
【説明】
天平勝宝2年(750年)3月3日、家持の館で上巳(じょうし)の節会の宴をしたときの歌。すべて「今日」を詠みこんでいます。
4151の「桜かく咲きにけり」の「桜」は、宴席から見える峰の上の桜、または、折り取って瓶などに挿してある桜とみる2説があります。4152の上2句は「つばらかに」を導く序詞。「八つ峰」は、多くの峰。「つばらかに」は、存分に。「暮らさね」の「ね」は願望。「ますらを」は勇ましく立派な男子。「伴」は、方々よで、呼びかけ。4153の「漢人」は、中国の人。「筏浮かべて」は、古代中国で3月上巳に、川のほとりでなされていた禊の習俗が伝わって節会として定着した「曲水の宴」のことをいっているとみられます。
巻第19-4156~4158
4156 あらたまの 年行き変はり 春されば 花のみにほふ あしひきの 山下(やました)響(とよ)み 落ちたぎち 流る辟田(さきた)の 川の瀬に 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)る 島つ鳥(とり) 鵜飼(うかひ)伴(ともな)へ 篝(かがり)さし なづさひ行けば 我妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)がてらと 紅(くれなゐ)の 八入(やしほ)に染めて おこせたる 衣(ころも)の裾(すそ)も 通りて濡(ぬ)れぬ 4157 紅(くれなゐ)の衣(ころも)にほはし辟田川(さきたがは)絶ゆることなく我(わ)れかへり見む 4158 年のはに鮎(あゆ)し走らば辟田川(さきたがは)鵜(う)八(や)つ潜(かづ)けて川瀬(かはせ)尋(たづ)ねむ |
【意味】
〈4156〉年が改まって春になると、花々が咲きにおう。山のふもとを轟き落ちて流れる辟田の川の浅瀬を、若鮎が走っている。鵜飼いの者たちを伴って篝火を焚き、流れに浸かって上って行くと、妻が形見かたがた着てくださいと、紅色に色濃く染めて送ってくれた衣、その衣の裾が川の水にぐっしょり濡れた。
〈4157〉紅の衣が水に濡れて色美しくなる、この辟田川の流れが絶えないように、私もまた幾度もやって来て見よう。
〈4158〉来る年ごとに、鮎が走り泳ぐようになったら、辟田川に鵜を幾羽も潜らせて川瀬を辿って行こう。
【説明】
鵜飼をしたときの歌。天平勝宝2年(750年)3月8日作。4156の「あらたまの」は「年」の枕詞。「あしひきの」は「山」の枕詞。「辟田」は所在未詳。「鮎子」は、若鮎。「さ走る」の「さ」は接頭語。「島つ鳥」は「鵜飼」の枕詞。「なづさひ」は、水に浸かって。「八入」は、何度も染めること。「おこせたる」は、贈ってきている。以前に奈良から贈ってきたもののようです。4157の「にほはし」は、色を美しくして。長歌の結句「通りて濡れぬ」を受け、水に濡れて美しくなったという意。4158の「年のは」は、毎年。鵜飼の様子を詠んだ歌であり、鵜飼いのことは『隋書倭国伝』にも記載があるほどに、古代から行われていました。その様子は『万葉集』にも10首近く詠まれています。
巻第19-4159
礒(いそ)の上(うへ)の都万麻(つまま)を見れば根を延(は)へて年深からし神(かむ)さびにけり |
【意味】
磯の上に立つ都万麻の木を見ると、根を長く延ばし、何年も年を重ねているらしい。神々しいまでに古びている。
【説明】
冒頭に「季春三月九日に、出挙(すいこ)の政(まつりごと)にあたり、古江(ふるえ)の村に行こうとする道の上で、美しい風物を眺めたときの歌と、感興のうちに作った歌」という旨の詞書があり、4159から4165までの歌を指します。4159は「渋谿(しぶたに)の崎を過ぎて、巌の上の樹を見る」歌。「渋谿」は、高岡市渋谷。「都万麻」はクスノキ科のタブノキ。
巻第19-4160~4162
4160 天地(あめつち)の 遠き初めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎ 流らへ来(き)たれ 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末(こぬれ)も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜(つゆしも)負(お)ひて 風(かぜ)交(ま)じり 黄葉(もみち)散りけり うつせみも かくのみならし 紅(くれなゐ)の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪(くろかみ)変はり 朝の笑(ゑ)み 夕(ゆふへ)変はらひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙(なみだ) 留(とど)めかねつも 4161 言(こと)とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常(つね)をなみこそ [一云 常なけむとぞ] 4162 うつせみの常(つね)なき見れば世の中に心つけずて思ふ日ぞ多き [一云 嘆く日ぞ多き] |
【意味】
〈4160〉天地が分かれた遠い時代の初めから、世の中は無常なものだと語り継ぎ、言い伝え続けてきているので、天を仰いで見ると、照る月も満ちたり欠けたりしている。山の木々の梢も、春が来れば花は咲き匂うものの、秋になれば冷たい露を帯び、風に交じって黄葉が散る。この世の人も、やはりそんなふうにあるらしい。若い時の紅の頬も色褪せ、黒々とした髪も白く変わり、朝の笑顔も夕方には消え失せる。吹く風が目に見えないように、流れる水が止まらないように、常というものがなく変わり続けていくのを見ると、溢れ出てくる涙も留めようがない。
〈4161〉物を言わない木でさえ、春には花が咲き、秋には黄葉となって散るのは、世の中が無常のゆえである。(無常ということなのだ)
〈4162〉この世の人の無常なさまを見ていると、世事に心を煩わされずに、物思う日の多いことだ。
【説明】
題詞に「世の中の無常を悲しぶる」とある歌。4160の「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は、梢。「春されば」は、春になると。「露霜」は、露が凍って霜のようになったもの。「うつせみ」は、この世(の人)。「うつろひ」は、色褪せて。「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「にはたづみ」は「流る」の枕詞。4162の「心つけずて」は、執着をせず。
巻第19-4164~4165
4164 ちちの実(み)の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心 尽(つ)くして 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起こし 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)渡し 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏み越え さしまくる 心 障(さや)らず 後(のち)の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも 4165 ますらをは名をし立つべし後(のち)の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね |
【意味】
〈4164〉父上も、母上も、通り一遍のお心で育てた、そんな子であるはずがあろうか。だから男子たる者、無為に世を過ごしてよいものか。梓弓の末を振り起こし、投げ矢を持って千尋の先を射通し、剣大刀をしっかり腰に帯び、いくつもの山々を踏み越え、ご任命下された大君の御心に違わぬよう、後の世の語りぐさとなるように名を立てなければならない。
〈4165〉男子たる者、名を立てなければならない。後の世の人もずっと語り継いでくれるように。
【説明】
題詞に「勇士の名を振はむことを慕(ねが)ふ歌」とあり、左注には、山上憶良の「士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして」(巻第6-978)の歌に追和したとあります。憶良の歌は病床にあって嘆いたものですが、家持の歌は、父祖の功績に思いを馳せ、現在の自身の身の上を顧みての感慨を吐露したものになっています。
4164の「ちちの実の」「ははそ葉の」は、それぞれ「父」「母」の枕詞。「父の命」「母の命」の「命」は、目上の人を敬っていう語。「八つ峰」は、多くの峰。「さしまくる」は、任命する、派遣する。4165の「がね」は、願望。
巻第19-4169~4170
4169 ほととぎす 来(き)鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘(はなたちばな)の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝夕(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にし居(を)れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取るといふ 白玉(しらたま)の 見(み)が欲(ほ)し御面(みおもわ) 直(ただ)向かひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄(さか)えいまさね 尊(たふと)き我(あ)が君 4170 白玉(しらたま)の見(み)が欲(ほ)し君を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし居(を)れば生けるともなし |
【意味】
〈4169〉ホトトギスが来て鳴く五月に咲きにおう橘の花のように、かぐわしい母上様のお言葉、そのお声を朝夕に聞かない日が積み重なり、遠く離れた田舎にいるものですから、山々の間に立つ雲を見ては、嘆く心も休まる時はなく、苦しくてなりません。ここ、奈呉の海の海人(あま)が潜って採るという真珠のように、拝見したいと思う母上様のお顔、そのお顔を目の当たりに見る時まで、どうか松や柏のようにお元気でいて下さい。尊い母上様。
〈4170〉真珠のようにお目にかかりたくてならない母上様なのに、お逢いできないまま長く田舎にいるので、生きた心地もいたしません。
【説明】
天平勝宝2年(750年)3月に作った歌で、題詞に「妻が、都に在(いま)す尊母に贈るというので、頼まれて作る」とあります。妻は坂上大嬢、尊母は坂上郎女のことです。家持は、はじめ単身で越中に赴任していましたが、この時までには大嬢を呼び寄せていたようです。大嬢が越中に来たのはこの前年とする説がありますが、はっきりしません。
4169の冒頭の4句は「かぐはしき」を導く序詞。「まねく」は、数の多いこと。「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地方、田舎。「あしひきの」は「山」の枕詞。「たをり」は、山の尾根のくぼんだところ。「よそ」は、遠く。「そら」は、気持ち。「奈呉」は、射水市放生津潟の海浜。「松柏の」は「栄ゆ」の枕詞。
巻第19-4180~4183
4180 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響(とよ)め さ夜中(よなか)に 鳴く霍公鳥(ほととぎす) 初声(はつこゑ)を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘(はなたちばな)を 貫(ぬ)き交(まじ)へ かづらくまでに 里(さと)響(とよ)め 鳴き渡れども なほし偲(しの)はゆ 4181 さ夜(よ)更けて暁月(あかときづき)に影見えて鳴く霍公鳥(ほととぎす)聞けばなつかし 4182 霍公鳥(ほととぎす)聞けども飽かず網捕(あみと)りに捕りてなつけな離(か)れず鳴くがね 4183 霍公鳥(ほととぎす)飼(か)ひ通(とほ)せらば今年(ことし)経(へ)て来向(きむか)ふ夏はまづ鳴きなむを |
【意味】
〈4180〉春過ぎて夏がやって来ると、山を響かせて真夜中に鳴くホトトギス。その初声を聞くとなつかしくてたまらない。アヤメグサや花橘を薬玉に通して髪飾りにする五月まで、里じゅうを響かせて鳴き渡っているけれども、それでも心が惹かれる。
〈4181〉夜が更けて、明け方近くの月に影を映して鳴くホトトギス、その声を聞くと懐かしい。
〈4182〉ホトトギスの鳴き声は聞いても飽きない。いっそ網で捕らえて手なずけたい、いつも傍で鳴くように。
〈4183〉ホトトギスを飼い続けることができたら、今年を過ぎて来年の夏は、真っ先に鳴くだろうに。
【説明】
題詞に「霍公鳥を感(め)づる情(こころ)に飽かずして、懐(おもひ)を述べて作る歌」とあります。4180の「あしひきの」は「山」の枕詞。「呼び響め」は、呼び声を響かせて。「かづらく」は、草木の枝を髪飾りとしてつける。4181の「暁月」は、夜明けまで残る月。4182の「鳴くがね」の「がね」は、目的を表す終助詞。4183の「飼ひ通せらば」は、飼い続けるならば。霍公鳥は、初夏、山からやって来て、一時期さかんに鳴き立てて、間もなく去っていきます。
巻第19-4185~4186
4185 うつせみは 恋を繁(しげ)みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀(よ)ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心(こころ)和(な)ぎむと 繁山(しげやま)の 谷辺(たにへ)に生(お)ふる 山吹(やまぶき)を やどに引き植ゑて 朝露(あさつゆ)に にほへる花を 見るごとに 思ひは止(や)まず 恋し繁しも 4186 山吹(やまぶき)を宿に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ |
【意味】
〈4185〉この世の人は、とかく人恋しくなるもので、春ともなると物思いが多くなり、枝を掴んで引き寄せて折ろうと折るまいと、見るたびに心がなごむだろうと思って、木々が茂る山の谷のあたりに生える山吹を、家の庭に植え換え、朝露にぬれて美しく咲く山吹を見るたび、切ない思いは止まず、人恋しさがつのるばかりだ。
〈4186〉山吹を庭に植えて目にするたびに、切ない思いは止まず、かえって人恋しさがつのるばかりだ。
【説明】
天平勝宝2年(750年)4月5日、「山吹の花を詠む」歌。4185の「うつせみ」は、この世の人。「春まけて」は、春を待ち受けて。「引き攀ぢて」は、掴んで引き寄せて。
巻第19-4192~4193
4192 桃の花 紅色(くれなゐいろ)に にほひたる 面輪(おもわ)のうちに 青柳(あをやぎ)の 細き眉根(まよね)を 笑(ゑ)み曲がり 朝影(あさかげ)見つつ 娘子(をとめ)らが 手に取り持てる まそ鏡 二上山(ふたがみやま)に 木(こ)の暗(これ)の 茂き谷辺(たにへ)を 呼び響(とよ)め 朝飛び渡り 夕月夜(ゆふづくよ) かそけき野辺(のへ)に はろはろに 鳴く霍公鳥(ほととぎす) 立ち潜(く)くと 羽触(はぶ)れに散らす 藤波(ふぢなみ)の 花なつかしみ 引き攀(よ)ぢて 袖に扱入(こき)れつ 染(し)まば染(し)むとも 4193 霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 [一云 散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花] |
【意味】
〈4192〉桃の花、その紅色に輝いている顔の中に、ひときわ目立つ青柳のような細い眉、その眉がゆがむほどに笑みこぼれ、朝の自分の姿を映して見ながら、娘子が手に持つ美しい鏡の蓋ではないが、その二上山の木々が茂る暗がりの谷間を、鳴き散らしながら朝飛び渡り、夕月夜にはか細い光の野辺の遙か遠くを鳴くホトトギス。木々をくぐり抜ける羽ばたきで散る藤の花が愛おしくて、小枝を引きちぎって袖にしごき入れた。花の色に染まるなら構わないと思って。
〈4193〉ホトトギス、鳴きながら飛ぶ羽ばたきによっても散ってしまう、盛りが過ぎつつあるらしい、藤波の花は(今にも散りそうなので、袖にしごき入れた、藤の花を)。
【説明】
天平勝宝2年(750年)4月9日、「霍公鳥併せて藤の花を詠む」歌。4192の「にほふ」は、美しく照り映える。「面輪」は、顔。「朝影」は、ここでは朝の顔の意。「まそ鏡」は、きれいに澄んではっきり映る鏡。冒頭からここまでの11句が「二上山」を導く序詞。「二上山」は、越中国府がその麓にあった富山県高岡市の山。「木の暗」は、木が茂って暗いこと。「谷辺」は、谷のほとり。「夕月夜」は、夕方に出ている月。「かそけし」は、消え入るようである。「はろはろ」は、遥かに遠いさま。「立ち潜く」は、間をくぐる。「羽触れ」は、羽ばたいた羽が触れること。「引き攀づ」は、つかんで引き寄せる。「扱入れつ」は、しごきとって入れる。4193の「過ぐらし」の「らし」は、確かな根拠に基づく推定。
巻第19-4197~4198
4197 妹(いも)に似る草と見しより我が標(しめ)し野辺(のへ)の山吹(やまぶき)誰(た)れか手折(たを)りし 4198 つれもなく離(か)れにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひぞ我(あ)がする |
【意味】
〈4197〉あなたに似ている草だと思って、見てすぐに私が占めていた野の山吹を、誰が手折ってしまったのでしょうか。
〈4198〉素っ気なく離れて行ったとあなたは言いますが、あなたと逢わない日が重なってきて、私は嘆いています。
【説明】
題詞に「京人(みやこひと)に贈る」歌とあり、「留女之女郎(りゅうじょのいらつめ)に贈るために、妻の坂上大嬢に頼まれて作った。女郎は大伴家持の妹である」との注釈があります。この歌より前に「京より贈られてきた歌」として、留女之女郎が坂上大嬢に贈ってきた歌が載っています。
〈4184〉山吹の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹を偲ひつるかも
・・・山吹の花を手に取り持っては、素っ気なく旅に出て行かれたあなたをお慕いしています。
「留女」は、家刀自である大嬢の留守中に家を守っている女性の意かともいわれます。「離れにし」というのは、大嬢が家持のいる越中に下った際のこととみられ、山吹の花が咲く季節だったようです。京に残った留女之女郎が懐かしんで贈ってきた歌です。なお、留女之女郎が京の丹比(多治比)家に居住していたと見られることから、丹比郎女(たじひのいらつめ:生没年未詳)が、旅人の妻で家持の生母と考えられています。また、大宰府で旅人と親交のあった丹比県守(たじひのあがたもり)が丹比郎女の父ではなかいかとの説があります。
4197・4198はこれに対する返歌で、4197の「妹」は大嬢から女郎を指しての称。4198の「まねみ」は、数多くて、久しくて。女郎が贈ってきた歌は情愛に満ちていますが、家持が代作した返歌は、どことなくとぼけた感じで、それがかえって近親同士の情愛を感じさせられるものとなっています。
ところで、大嬢は、4169・4170の坂上郎女に贈る歌でも夫の家持に代作を頼んでおり、このことに関して詩人の大岡信は次のように言っています。「大嬢は、家持との恋愛時代を除けば、歌というものをまるで残していない。越中に行ってからの大嬢の、ほとんど不可解なほどの歌への忌避は、何とも言えない感じのもので、いずれも大切な実母や夫の妹に対して贈る歌なのだ。家持との恋歌も、実際は母の坂上郎女が大いに手を加えたか、あるいは娘に代わって作り、家持に贈っていた可能性があるのではないかという、不謹慎な空想を抱かせる。大嬢は家持から見れば、可愛いだけでなく、一人前の女というには、どこか頼りなげなところがつきまとう女性だったのではないだろうか」
巻第19-4199
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)なす海の底(そこ)清み沈(しづ)く石をも玉とぞ我(わ)が見る |
【意味】
藤の花が影を成して映っている海の底が清らかなので、沈んでいる石まで、真珠であるかのように見える。
【説明】
天平勝宝2年(750年)4月12日、家持は布勢(ふせ)の湖(氷見市南部にあった湖)に遊覧し、多祜(たこ)の入江に船を停泊して藤の花を見、それぞれ歌を作りました。4月12日は陽暦の5月25日にあたり、湖での舟遊びにはもってこいの初夏の時節です。家持が越中守として赴任したのは27歳のとき。この年は31歳になっていましたが、都を出て異郷の風物に接した彼は、大いに詩魂をゆさぶられたようで、生涯で最も多くの歌を詠んだのはこの時期にあたります。
なかでも布勢の湖の景観は家持のお気に入りだったらしく、しばしば配下の上級官吏たちと遊覧し、都から来た客もわざわざ案内しているほどです。湖の一角にある多祜の浦の岸辺には藤の花が多く咲いていたらしく、家持の歌に続き、国庁の部下の役人たちが歌を詠んでいます。
次官の内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の歌
〈4200〉多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
・・・多胡の浦の底まで映し出す波打つ藤、この花を髪にかざしていこう。まだ見たことのない人のために。
判官の久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の歌
〈4201〉いささかに思ひて来(こ)しを多祜の浦に咲ける藤見て一夜(ひとよ)経(へ)ぬべし
・・・さほどでもあるまいと思ってやって来たが、多胡の浦に咲く藤に見ほれて、一晩過ごしてしまいそうだ。
久米朝臣継麻呂(くめのあそみつぐまろ)の歌
〈4202〉藤波を仮廬(かりほ)に造り浦廻(うらみ)する人とは知らに海人(あま)とか見らむ
・・・藤の花で飾って仮小屋にして浦巡りしているだけなのに、それとも知らずに、人は私たちを土地の漁師と見るだろうか。
巻第19-4205
皇祖(すめろき)の遠御代御代(とほみよみよ)はい布(し)き折り酒(き)飲みきといふぞこのほほがしは |
【意味】
遠い昔の天皇の御代御代には、葉を折り重ねて酒を飲んだということですよ、このホオガシワは。
【説明】
この歌は、講師(国分寺の主僧)の恵行(えぎょう:伝未詳)が家持に贈った次の歌(4204)に答えたものです。
〈4204〉我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋
・・・あなた様が捧げ持っていらっしゃるホオノキは、まるで貴人にかざす青い蓋(きぬがさ)のようですね。
題詞には「攀(よ)ぢ折れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首」とあります。4204の「我が背子」は家持のこと。「ほほがしは」は朴木(ほおのき)で、広葉の集まった形が蓋に似ています。「あたかも」は、まるで、ちょうど。「蓋」は貴人にさしかける織物の笠。4205の「皇祖」は天皇。「遠御代御代」は遠い御代御代。「い布き折り」の「い」は接頭語。「布き」は重ねる意。「折り」は折り曲げる。葉を重ねて杯にしたことを言っています。恵行が軽い気持ちで言っているようなのに、家持は相手が相手だったためか、固く改まった言い方をしています。また、家持の実直さと、古代を尊ぶ心の深さが窺える歌です。
巻第19-4213
東風(あゆ)をいたみ奈呉(なご)の浦廻(うらみ)に寄する波いや千重(ちへ)しきに恋ひわたるかも |
【意味】
東風が激しくて、奈呉の浦のあたり寄せてくる波のように、いよいよ幾重にも恋しく思い続けています。
【説明】
京の妹に贈った歌。「あゆ」は、東風の当地での方言。上3句は「いや千重しきに」を導く序詞。「いや千重しきに」は、いよいよ幾重にも重ねて。
巻第19-4217~4219
4217 卯(う)の花を腐(くた)す長雨(ながめ)の始水(はなみづ)に寄る木屑(こつみ)なす寄らむ子もがも 4218 鮪(しび)突(つ)くと海人(あま)の灯(とも)せる漁(いざ)り火の穂にか出(い)ださむ我(あ)が下思(したも)ひを 4219 我(わ)が宿の萩(はぎ)咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも |
【意味】
〈4217〉卯の花をだめにする長雨で増水した川、その流れの先に木屑を寄せるように、私に寄り添ってくれる子がいたらなあ。
〈4218〉鮪を突いて捕ろうと、海人が灯す漁り火のように、はっきりと表に出してしまおうか、胸に秘めたこの思いを。
〈4219〉我が家の庭の萩が咲き出した。秋風が吹くのを待っていては、あまりに先で待ちきれないからだろうか。
【説明】
4217は「霖雨(りんう)の晴れぬる日に作る」歌。「霖雨」は、幾日も降り続く雨、長雨。「腐す」は、ここでは痛める、だめにする。「始水」は、推量の増した流れの先端。4218は「漁夫(あま)の火光(いざりひ)を見る」歌。「鮪」は、まぐろの類。上3句は「穂に出だす」を導く序詞。「穂にか出ださむ」は、表に出してしまおうか。「下思ひ」は、心中に秘めた思い。以上2首は、天平勝宝2年(750年)5月の作。
4219は、6月15日に「萩の早花(はつはな)を見て作る」歌。「いと遠みかも」は、あまりに先で待ちきれないからだろうか。萩は7月に秋風が吹くとともに咲くとされていました。
巻第19-4225~4226ほか
4225 あしひきの山の紅葉(もみち)にしづくあひて散らむ山道(やまぢ)を君が越えまく 4226 この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む 4229 新(あらた)しき年の初めはいや年に雪踏み平(なら)し常かくにもが 4230 降る雪を腰になづみて参り来(こ)し験(しるし)もあるか年の初めに |
【意味】
〈4225〉山の紅葉が雫(しずく)にあって散り敷く山道を、あなたは越えていかれるのですね。
〈4226〉この雪が消え残っている間にさあ行こう。山橘の実が赤く照り輝いている様を見るために。
〈4229〉新年の初めをいよいよこのように年を重ね、積もった雪を踏みならして平穏に迎え、いつもこんな風でありたいものよ。
〈4230〉降る雪の中を腰まで浸かって難渋しながら参上したが、その甲斐があるというもの、新年の初めのめでたい雪。
【説明】
4225は、少目(しょうさかん)秦伊美吉石竹(はたのいみきいわたけ)が、朝集使(ちょうしゅうし)として奈良の都に旅立つのを送別する宴で詠んだ歌。「少目」は、国司の四等官。「朝集使」は、1年間の政情を記した報告書(朝集帳)を太政官に提出する使者のこと。「あしひきの」は「山」の枕詞。
4226の「山橘」は、常緑低木のヤブコウジ。夏に咲く花は目立ちませんが、冬になると真っ赤な実がなります。大雪が少なくなった残雪の頃にみんなして行って、山橘の赤い実を見ようというので、斎藤茂吉は「『いざ行かな』と促した語気に、皆と共に行こう、という気乗のしたことがあらわれているし、『実の照るも見む』は美しい句で、家持の感覚の鋭敏さを示すものである」と評しています。
4229は、天平勝宝3年(751年)正月2日に、家持の邸宅で宴を開いた時の歌。「いや年に」は、いよいよ年ごとに、毎年。「もが」は、願望の助詞。折から四尺も積もった大雪、その中を屈せず参集したことに善意を感じ、そのさまが永久に続くことを賀しています。
4230は3日に、介(すけ=次官)の内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の邸宅で宴を楽しんだときに家持が作った歌。「なづむ」は、行き悩む、難渋する意。「験」は、効果、甲斐。なお、この時に同席した人たちの歌も載っています。
掾(じょう)久米広縄の歌
〈4231〉なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌(いわお)に咲けりけるかも
・・・なでしこは秋に咲く花といいますが、あなたの家の雪の岩に咲いていますね。
この歌の題詞には、「時に、雪を積みて重巌(ちょうがん)の起(た)てるを彫り成し、奇巧(たくみ)に草樹の花を綵(し)め発(ひら)く」とあります。雪山を造り、草樹の花で彩ったのです。
遊行女婦、蒲生娘子(かもうのおとめ)が和した歌
〈4232〉雪の嶋(しま)巌)いわお)に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに
・・・雪の積もった美しい庭に植えたなでしこは、いついつまでも咲いてほしい。あなた様のの髪飾りとなるように。
主人の内蔵忌寸縄麻呂の歌
〈4233〉うち羽振(はぶ)き鶏(かけ)は鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも
・・・羽ばたいて鶏が鳴き、夜明けが近いと告げていますが、こんなにも降り積もった雪の中を、あなたはどうして帰られましょうか。
大伴家持が和した歌
〈4234〉鳴く鶏(かけ)はいやしき鳴けど降る雪の千重(ちえ)に積めこそ我(わ)が立ちかてね
・・・鶏はしきりに鳴いて夜明けを告げていますが、降る雪が幾重にも積もってきたので、私たちは席を立ちかねているのです。
律令では、正月に国司が郡司らを招いて、まず都の天皇その地から拝み、次いで宴をするものと規定されていました。その目的は二つあり、一つは全国一律にそうした儀礼をおこなうことによって地方の人々の心を中央に向かわせるため、二つ目は中央から派遣された国司と地方に根づく豪族たちの代表である郡司たちとの良好な人間関係を築くためでした。宴にかかる費用は官物・正税を充ててよいとされていました。また、当時の宴は、夜を徹して行うものとされました。宴は神祭りに起源を発し、神の時間は夜とされたからです。ここの宴のようすも、左注で、「諸人(もろひと)酒(さけ)酣(たけなは)にして、更深(よふ)けて鶏(にはつとり)鳴く」と伝えています。
巻第19-4238~4239
4238 君が行きもし久(ひさ)にあらば梅柳(うめやなぎ)誰(た)れとともにか我(わ)がかづらかむ 4239 二上(ふたがみ)の峰(を)の上(うへ)の茂(しげ)に隠(こも)りにしその霍公鳥(ほととぎす)待てど来(き)鳴かず |
【意味】
〈4238〉あなたの旅が長くなったら、春の梅や柳を、私は誰と一緒にそれらを縵(かずら)にして楽しんだらいいのだろう。
〈4239〉二上の峰のあたりの茂みにこもってしまったホトトギスは、いくら待っても里に来て鳴いてくれない。
【説明】
4238は、天平勝宝3年(751年)2月2日、正税帳使として近く上京する掾(じょう)の久米広縄を送別するため、家持の館で宴を開いた時の歌。「正税帳」は、租税の出納を記載した帳簿。なお、大伴池主が転出した後は、下僚の中で広縄が家持の最も親しくした人であったとみえます。また、左注には「越中の風土に梅花柳絮三月に初めて咲くのみ」との記載があり、春の遅い越中の風土にあって梅と柳は3月に初めて咲くことを伝えています。
4239は、4月16日に作った「霍公鳥を詠む」歌。「二上」は、高岡市と氷見市の境をなす山。家持は越中国に赴任してすでに6年目を迎えようとしていました。「霍公鳥待てど来鳴かず」の句には、京からの人事の知らせを待ち望む気持ちが込められているのでしょうか。
巻第19-4248~4249
4248 あらたまの年の緒(を)長く相(あひ)見てしその心引(こころび)き忘らえめやも 4249 石瀬野(いはせの)に秋萩(あきはぎ)しのぎ馬(うま)並(な)めて初鷹猟(はつとがり)だにせずや別れむ |
【意味】
〈4248〉長い年月の間、親しくおつきあいいただき、心を寄せて頂いたことは、忘れようにもを忘れることができません。
〈4249〉石瀬野で、秋萩を押し分けて、馬を並べ、今年初めての鷹狩りさえしていないのに、お別れしなくてはならないとは。
【説明】
天平勝宝3年(751年)7月、いよいよ、家持に待ちに待った朗報が届きました。ここの歌は、17日をもって、少納言に遷任することとなった家持が、悲別の歌を作り、朝集使(ちょうしゅうし)掾(じょう)久米朝臣広縄の邸宅に贈って残した歌です。「朝集使」は1年間の政情を記した報告書(朝集帳)を太政官に提出する使者のことで、この時、広縄はその任務のため上京していて留守でした。
歌の前には、広縄に宛てた次の旨の伝言が付されています。「すでに6年の任期が満ち、転任の時がまいりました。旧友とお別れする悲しみで心中いっぱいになり、涙をぬぐう袖は乾かしようがありません。そこで悲しみの歌2首を作り、決してお忘れしないとの気持ちを残します」(6年とあるのは、足架け年6年)。
4248の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年の緒」は、年月が長いのを緒にたとえた語。「心引き」は、心を引くこと、好意を寄せること。4249の「石瀬野」は、高岡市石瀬付近または富山市東岩瀬町付近とされます。「初鷹猟」は、初めての鷹狩り。鷹狩りは晩秋から冬にかけて行われました。広縄は、天平19年(747年)以来の部下であり歌友であり、何人かいた部下の中では最も親しかったようです。
なお、少納言は、太政官では太政大臣・左大臣・右大臣・大納言に次ぐ要職であり、定員は3名。従五位下に相当する官職ではあっても、政権中枢に位置するという点では、越中国守に比べれば明らかな栄転でした。
巻第19-4250~4251
4250 しなざかる越(こし)に五年(いつとせ)住み住みて立ち別れまく惜(を)しき宵(よひ)かも 4251 玉桙(たまほこ)の道に出で立ち行く我(わ)れは君が事跡(ことと)を負(お)ひてし行かむ |
【意味】
〈4250〉五年もの間、越の国に住み続け、別れて旅立つことが、名残惜しくてたまらない今宵です。
〈4251〉都に出立する私は、あなたがなされた功績を、しっかり背負って行きましょう。
【説明】
少納言に遷任することとなった家持は、同時に大帳使に任ぜられ、8月5日に都へ向けて出発することになり、前日の4日に、介(すけ:次官)の内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の邸宅で送別の宴が開かれました。そのときに家持が作った歌が4250です。「大帳使」は、諸国の戸籍台帳を太政官に提出する使い。「しなざかる」は、家持の造語で「越」の枕詞。
5日の暁方、家持が都へ向けて出発する際、国庁の次官以下の役人たち全員で射水郡のはずれまで見送ってくれました。そのとき、射水郡の大領(だいりょう:長官)の郡司安努君広島(あののきみひろしま)が、林の中にあらかじめ餞宴の用意をしており、内蔵伊美吉縄麻呂が盃を捧げて歌を詠んだのに家持が応えた歌が4251です。当時は、親しい人が旅する時には国境まで同行し、そこで道中の無事を祈って酒杯を交わす習いでした。「玉桙の」は「道」の枕詞。「事跡」は、成し遂げた成果、業績。
巻第19-4253
立ちて居(ゐ)て待てど待ちかね出(い)でて来(こ)し君にここに逢ひかざしつる萩(はぎ) |
【意味】
立ったり座ったりして待っていたけど待ちきれずに旅に出て、こうしてあなたにここで出逢えて、髪に萩をかざせました。
【説明】
もっとも親しかった部下の久米広縄に逢えずじまいで越中国庁を出立した家持でしたが、越前の国を通過する折りに、掾としてそこに在任していた大伴池主の館で、ちょうど越中へ帰る途中の広縄に逢うことができました。偶然の再会を喜び合って宴が催され、ここの歌は、下の広縄の歌に和したものです。時期は8月10日前後、今でいえば9月はじめころで、越前では、もう萩の初花が咲こうとしていたようです。
久米広縄の歌
〈4252〉君が家に植ゑたる萩の初花を折りてかざさな旅別るどち
・・・あなた(池主)の家に植えられている萩の、その初花を手折って髪飾りにしましょうか、旅の途次に別れてゆく私たちは。
巻第19-4256
いにしへに君が三代(みよ)経て仕(つか)へけり我(わ)が大主(おほぬし)は七代(ななよ)申(まを)さね |
【意味】
昔、三代にわたってお仕えなさった大臣がありました。我らが大主のあなた様は、七代にまでわたって大臣として政務をお執りください。
【説明】
天平勝宝3年(751年)8月5日、左大臣橘卿(橘諸兄)を寿(ほ)くためにあらかじめ作った歌。「君が三代経て」は、天皇の3代にわたって。仕えたその人とは、武内宿禰、諸兄の母の県犬養三千代、あるいは西漢の名臣霍公のことを言っているのではないかとされます。「申さね」の「申す」は、政務について奏上すること、「ね」は、願望。
懐かしい奈良の都に帰り着いた家持でしたが、巻第19を見る限りにおいては、彼の作歌は天平勝宝3年から4年にかけて急激に減少します。しかも、公的な立場の人々の公的行事や宴席の歌や、おざなりな付き合いの歌が大半となっています。さらに不可解なのは、家持が帰京後半年ほどして、国家をあげて盛大に行われたはずの東大寺大仏の開眼供養会には全く触れていないことです。越中に在任中、陸奥で黄金が産出したことを祝う長歌を詠んだ家持にとっては、当然に感慨深い出来事であったはずであり、いかにも不自然です。さらにこの時期の半年間、何の歌も記録しておらず、いったいどういう状況にあったのでしょうか。
巻第19-4259
十月(かみなづき)時雨(しぐれ)の常(つね)か我(わ)が背子が宿(やど)の黄葉(もみちば)散りぬべく見ゆ |
【意味】
十月に降るしぐれの季節の常なのでしょう。あなたの家の庭の黄葉が散ってしまいそうに見えます。
【説明】
家持が少納言として京に戻って2か月余りが過ぎたころの天平勝宝3年(751年)10月22日、左大弁(さだいべん)紀飯麻呂朝臣(きのいいまろあそみ)の家で宴を開いたときの歌。左弁官は、少納言と同じく太政官に属し、中務・式部・治部・民部省を管掌する部署であり、紀飯麻呂は家持にとって同僚となる人です。この歌は、同席した治部卿の船王(ふねのおおきみ)や左中弁の中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)が古京の歌を伝誦したのに対して詠んだものです。「時雨の常か」は「時雨の降れば」と訓む本もあり、「散りぬべく見ゆ」は「散るべく見ゆる」と訓む本もあります。
巻第19-4278
あしひきの山下(やました)日蔭縵(ひかげかづら)ける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ |
【意味】
山下の日陰の蘰を髪に飾って賀を尽くした上に、さらに梅の花を挿頭にして賞美しましょうか。
【説明】
天平勝宝3年(751年)11月25日、新嘗会(しんじょうえ)の宴で天皇の仰せに応えた歌。「新嘗会」は、その年の新穀を神に供える儀式で、11月の最後の卯の日に行われました。「日蔭蘰」は蔓性の植物で、これを縵にするのは新嘗会の礼装とされました。なお、家持のこの歌の前には、他の列席者が詠んだ歌が載せられています。
大納言・巨勢朝臣(こせのあそみ)の歌
〈4273〉天地(あめつち)と相(あひ)栄えむと大宮(おほみや)を仕へまつれば貴(たふと)く嬉(うれ)しき
・・・ 天地と共に栄えていくに相違ない、この大宮にお仕えすると思えば、尊く嬉しいことでございます。
式部卿(しきぶのきょう)石川年足朝臣(いしかわのとしたりあそみ)の歌
〈4274〉天(あめ)にはも五百(いほつ)つ綱(つな)延(は)ふ万代(よろづよ)に国知らさむと五百(いほつ)つ綱延ふ
・・・空に無数の綱が張り渡してある。永遠にこの国をお治めされんと無数の綱が。
従三位・文室智努真人(ふみやのちのまひと)の歌
〈4275〉天地(あめつち)と久しきまでに万代(よろづよ)に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を
・・・天地と共に永遠に捧げましょう、黒酒と白酒を。
右大弁・藤原八束朝臣(ふじわらのやつかあそみ)の歌
〈4276〉島山(しまやま)に照れる橘(たちばな)うずに刺し仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち
・・・お庭の山に照り映える橘を挿して髪飾りにし、お仕えするのは、わが大君の卿や大夫たち。
大和国守・藤原永手朝臣の歌
〈4277〉袖(そで)垂れていざ我が園(その)に鴬(うぐひす)の木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に
・・・袖を垂らしたまま庭に参りましょう。鴬が木々を伝って散らす梅の花を見に。
巻第19-4285~4287
4285 大宮の内(うち)にも外(と)にもめづらしく降れる大雪な踏(ふ)みそね惜(を)し 4286 御園生(みそのふ)の竹の林に鴬(うぐひす)はしば鳴きにしを雪は降りつつ 4287 鴬(うぐひす)の鳴きし垣内(かきつ)ににほへりし梅この雪にうつろふらむか |
【意味】
〈4285〉大宮の内にも外にも、珍しく降り積もっている大雪を、踏み荒らしてくれるな、惜しいから。
〈4286〉御苑の竹林で、ウグイスがしきりに鳴いていたのに、雪はなおも降り続いている。
〈4287〉ウグイスが鳴いて飛んだ御庭の内に美しく咲いていた梅は、この雪で散ってしまうだろうか。
【説明】
天平勝宝5年(753年)1月11日、大雪が降って一尺二寸積もった。よって自らの思いを述べた歌3首。一尺二寸は、約36センチ。
4285の「な踏みそね」の「な~そ」は、禁止。窪田空穂はこの歌について次のように述べています。「家持の歌としては風の変わったものである。大体として家持の歌は、対象を一応自身の中に取入れ、白身の気分と融合させた上で、どちらかというと物静かに美しく詠むのであるが、この歌はそれとは異なって、いわば大景ともいうべきものと取組み、そしてその最も言いたいことを、気分化とは無関係に、『な踏みそね惜し』と、説明に近い態度でいっているのである。この詠み方は彼としては珍しい」。
4286は、4285に続いて、皇居にあって詠んだ歌。「御園生」は、皇居の御苑の植込み。「しば鳴き」の「しば」は、しきりに。「降りつつ」の「つつ」は、継続で、下に「ゐる」が略されています。4287の「垣内(かきつ)」は「かきうち」の約。「にほへりし梅」は、色美しく咲いていた梅。「うつろふらむか」は、散るだろうか。
巻第19-4288~4289
4288 川洲(かはす)にも雪は降れれし宮の内に千鳥(ちどり)鳴くらし居(ゐ)む所なみ 4289 青柳(あをやぎ)のほつ枝(え)攀(よ)ぢ取りかづらくは君が宿(やど)にし千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ |
【意味】
〈4288〉川の洲にまで雪が降っている。だからこそ、宮の内に来て千鳥が鳴いているのだろう、ほかに居場所がないので。
〈4289〉青柳の枝先を折り取って髪に飾るのは、あなた様のお屋敷にこうして集まって、千年先までも栄えることを願っているからです。
【説明】
4288は、天平勝宝5年(753年)1月12日、宮中に侍していて千鳥の鳴き声を聞いて作った歌。「川洲」は、皇居にいて言っているので、佐保川の川洲とされます。「居む所なみ」は、居る所がないので。
4289は、2月19日に橘諸兄の邸で催された宴に出席し、折り取った柳の枝を見て作った歌。「ほつ枝」は、上の方の枝。「攀ぢ取り」は、引き寄せて折り取って。「かづらく」は、髪飾りにする。「寿く」は、賀する、祝う。柳の「かづら」を詠む例は多く、その生命力にあやかって、千年の栄えを言祝(ことほ)いでいます。
巻第19-4290~4292
4290 春の野に霞(かすみ)たなびきうら悲しこの夕影(ゆふかげ)に鴬(うぐひす)鳴くも 4291 我が宿(やど)のいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕(ゆふへ)かも 4292 うらうらに照れる春日(はるひ)にひばり上がり心悲しも独(ひとり)し思へば |
【意味】
〈4290〉春の野に霞がたなびいていて、何となしに物悲しいこの夕暮れどきに、鴬が鳴いている。
〈4291〉我が家の庭のささやかな群竹に吹く風の音が、かすかに聞こえてくる、この夕暮れどき。
〈4292〉うららかに日の照っている春の日に、雲雀の声も空高く舞い上がり、やたらと心が沈む。こうしてひとり物思いにふけっていると。
【説明】
巻第19の巻末に置かれたこの3首は、天平勝宝5年2月下旬に詠んだ、「春愁三作」と呼ばれる家持の代表作とされます。題詞には「興によりて作れる歌」とあり、自身の内的欲求から詠んだ「独詠歌」です。4290の「うら悲し」の「うら」は心。「夕影」は、夕暮れ時の薄暗い日光。4291の「いささ」は、ささやかな、いささかのと解する説と、「い」の接頭語+「笹(ささ)」と解する説があります。「かそけき」は、かすかである、消えてしまいそうな。4292の「うらうらに」は、うららかに。「独し思へば」の「し」は強意の助詞。なお、次のような左注があります。
「春日 遅々にして、鶬鶊(さうかう)正(ただ)に啼く。悽惆(せいちう)の意、歌に あらずしては撥(はら)ひかたきのみ。よりて、この歌を作り、もちて締緒(ていしょ)を展(の)ぶ」(春の日は遅々として、ひばりがしきりに鳴く。辛く悲しい心の痛みは、歌でなくては晴らし難い。そこでこの歌を作り、愁いに結ばれた心の紐を解く)
家持の心を鬱屈とさせていたものは何だったのでしょうか。時は天平勝宝5年(753年)2月、家持は36歳になっており、越中守から少納言に遷任され帰京後2年が経っていました。左大臣の橘諸兄の庇護下にあったものの、家持と同年代の藤原氏一族の目覚ましい官位昇進に比して、劣勢は明らかでした。名門大伴家の責任ある家長の立場としての焦燥、苦悩によるものだったのでしょうか、それとももっと奥深い、人間としての存在それ自体の悲しみだったのでしょうか。
なお、4291が好きな歌の一つだという作家の田辺聖子は、次のように述べています。「この『かそけき』美は日本の和歌史上、家持がはじめて開拓した。はるか後代に『新古今』がその嫡出子として生まれるが、しかし、技巧で鎧(よろ)ったその美は、家持の純真無垢の詩境とは微妙にちがっている。家持のこのデリケートな美しさは、技巧から出たものではない」。
大伴家持について
718?~785年。大伴旅人の長男。万葉集後期の代表的歌人で、歌数も集中もっとも多く、繊細で優美な独自の歌風を残しました。
少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に万葉集は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。
家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、養育係として身近な存在だった坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。
第2期は、746年から5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期にあたります。
第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。
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巻第17~20について
巻第17~20は、大伴家持の歌日誌ともいうべき巻で、家持の歌を中心に、彼をとりまく人々の作を収め、それらを年代順に配列しています。巻第17には、天平2年11月から同19年2月までの歌、途中から越中の国守時代の歌となっています。
巻第18には、天平20年から同21年までの、越中での歌が、巻第19には天平勝宝2年3月から同5年2月までの歌を収めています。家持が越中国守の任を終えて帰京したのは、同3年のことです。なお、巻第19の家持の歌の評価がもっとも高く、彼の会心作を集めたのだろうとされています。
巻第20に収められているのは、天平勝宝5年5月から天平宝字3年(759年)1月までの歌ですが、家持以外の作も多くあり、特に防人関係の歌が120首にもおよんでいます。
当初は勅撰集を企図したとされる『万葉集』ですが、その5分の1を編集者の歌日誌が占めるというバランスの悪さは否めません。編集途中に、何らかの理由で家持の歌日誌が資料のまま放出されたと考えられますが、そこにはどのような事情があったのでしょうか。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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