なぜ安土桃山時代という?

鎌倉時代や室町時代、江戸時代などの名称は、その時代に政権があった地名を使っていますね。非常に分かりやすいです。ところが、安土桃山時代はどうでしょう。同じ法則?に従えば、織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた「安土桃山時代」の安土は信長の居城があった地名であり、桃山は秀吉の居城があった場所ということになります。
ところが、安土はよいとして、秀吉の居城があったのは伏見(京都市の南部)です。秀吉が最期を迎えた城です。それがなぜ桃山と呼ばれるようになったかというと、伏見城は江戸時代の初期に廃城となり、その跡に桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになったからなんですね。だから、秀吉が生きていた時代は、桃山とは呼ばれていないのです。
とすると、本来は「安土桃山時代」ではなく、「安土伏見時代」というべきで、もっといえば、秀吉自身は、中心の城としては大坂を考えていたと思われるので、「安土大坂時代」のほうがふさわしいといえます。ただ、これについても、安土城は完成後わずか3年しか存在しておらず、秀吉が大坂城に在城していた期間もごく短かったことから、城にこだわらず、「織豊時代」と呼ぶべきとする意見もあるようです。
秀吉による信長批判
信長によって取り立てられ、その後大出世を遂げた秀吉でしたが、晩年になると、かつての主君・信長を批判するようになったといいます。信長が甲斐を攻めたときのことを持ち出して「あの合戦で、武田勝頼が討ち死にしたのは、まことに残念。ワシが信長公の軍中にいたら強くお諌め申して、勝頼に甲州・信州のニ州を与え、かわりに関東に攻め入る先鋒にしたものを」と言ったといいます。
さらに、「信長公は勇将ではあるが、良将ではない。剛が柔に勝つことは知っておられるが、柔が剛を制することを知っておられない」
まさに秀吉ならではの言です。
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醍醐の花見
あるとき秀吉が、豊臣政権の五奉行の一人・前田玄以に「最近の京の景気はどうか?」と尋ねました。玄以は「商人たちはことのほか繁昌しているようです。その証拠に、野も山も所狭しとみな花見に出かけています」と答えました。ところが秀吉は、「それはよくない」と真顔でつぶやきました。なぜでございましょう」と尋ねる玄以に、秀吉は言いました。
「大名たちがいろいろな物を調達しなければならないときは、商人たちは忙しくて花見に出かけている暇などない。景気が悪いから商人たちは出かけているのだ」
そうして、秀吉は京都の醍醐寺で大がかりな花見をやって、景気の振興をはかりました。この醍醐の花見は、秀吉の近親者をはじめ、諸大名の配下の女房女中衆約1300人を召し従えて盛大に催されました。花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉と秀頼以外の男性客は、前田利家ただ一人でした。ほかの諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された茶屋の運営などを任されました。
なお、この宴会の席で、正室・北政所の杯を受ける順番を淀殿ら側室が争い、それを見た北政所と古い付き合いのまつ(前田利家の正室)が「歳の順ではこの私」と割って入り、場をうまくおさめたという出来事がありました。ドラマなどでよく出てくる話ですね。
この、周到に準備された醍醐の花見は、秀吉が九州を平定した直後に催された北野大茶湯と並ぶ、秀吉一世一代の大行事となりました。この5ヵ月後に、秀吉は亡くなります。なお、醍醐寺では、現在でもこれにちなみ、毎年4月に「豊太閤花見行列」が催されています。
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