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秀吉の、部下と上司の操縦術

 あるとき、暴風雨で清洲城の塀がこわれてしまいました。信長は普請奉行に修理を命じましたが、なかなか工事ははかどりません。現場を見て信長がいらだっていると、脇にいた秀吉(当時は木下藤吉郎)が「いつ敵が攻めてくるかわからないのに」とぶつぶつ言っています。それを見た信長は「猿、お前が替われ」と言って奉行を交替させました。役目を降ろされた奉行は「この出すぎ者め」と秀吉を恨みました。

 秀吉は、すぐに工事人たちを集めて言いました。「工事の持ち場を10等分して、お前たちも10組に分かれて分担しろ。誰と誰が組むかはお前たちで相談して決めろ。また、どの持ち場を分担するかはクジ引きで決めろ」。そして、こうも言いました。「いちばん早く修理を終えた組には、信長様から褒美を出していただく」

 工事人たちは色めきたちましたが、秀吉はそれだけ指示して「工事を始めるのは明日からでよい」と言い、皆に酒をふるまいました。工事人たちは喜んで酒盛りを始め、やがて秀吉は立ち去りました。それを見ていた旧奉行がやってきて、彼らに言いました。

「猿の言うことを信用してはならない。信長様がお前たちごときに褒美など出すはずがない。猿は口が上手いから、お前たちをだましてうまく使い、手柄を独り占めする気だ」

 そう言われた工事人たちは、急に興ざめしました。言われたとおり確かに話がうますぎます。「おれたちを利用する気か」と、にわかに秀吉への疑念が湧いてきました。

 そこへ突然、秀吉が現れました。しかも信長を連れています。夜中のことなので、皆びっくりしました。秀吉は「まだ起きていたのか。仕事は明日からでよいと言ったのに」と言いながら、信長に「いかがです? 熱心な連中でしょう。酒を飲んでもまだ仕事の相談をしています。どうか声をかけてやってください」と言いました。

 秀吉に促された信長は「ご苦労である、よろしく頼む」と言いました。工事人たちの酔いはいっぺんに覚め、感動して平伏しました。秀吉を貶めようとした旧奉行は面目を失いました。

 戻り道、信長は秀吉に文句を言いました。

「夜中におれを起こして、あんな奴らに声をかけさせるとはどういうつもりだ」

 秀吉は笑いながら答えました。

「しかし、塀の修理は明日の朝までにきっと完成します」

「こいつ、またいい加減なことを言うと承知しないぞ」

「本当です。そのときは、褒美をよろしくお願いします」

「分かった」

 はたして、塀の修理は本当に朝までに終わっていました。工事人たちは帰宅せず、その夜から仕事を始めたからです。信長に声をかけられたことで本気になり、競って仕事をしたのです。翌日、秀吉は約束どおりに信長から慰労の言葉をかけさせ、一番早く終えた組に褒美を出させました。

秀吉に前言を撤回させた男

 関東を支配していた北条氏直が、籠城していた小田原城から出て豊臣秀吉に降伏したのは天正18年(1590年)7月5日のこと。その籠城戦は3ヶ月に及び、あまりの長期間のため、秀吉の陣内には沈滞ムードが漂っていました。そこで秀吉は、武将や兵たちの退屈をまぎらすため、また苦労をねぎらうために、本陣で能楽を催すことにしました。

 そんな折、宇喜田秀家の家臣・花房職之(はなぶさもとゆき)が、秀吉の本陣前を乗馬のまま、しかも兜(かぶと)を脱ごうともせずに通り過ぎようとしました。番兵が咎めると、花房は言い返しました。「皆が命を懸けている戦場で、能楽を楽しもうなどという大将のために下馬して挨拶しろというのか!」

 この話を聞いた秀吉は烈火のごとく怒り、宇喜田秀家に「あの男を縛り首にしろ!」と命じました。しかしすぐに前言撤回、「ひとかどの武将だ。縛り首ではなく切腹を申しつけよ」。秀家が立ち去ろうとすると、またも前言撤回。「この秀吉にあのような無礼なことを言った者は一人もいない。惜しい男だ。加増してつかわせ」と。

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飛び道具は卑怯ではない!

 戦国時代で屈指の戦上手だったといわれる越後国の大名・上杉謙信。その謙信の家来50人が、越前宮野の城主・中沢長兵衛信長にそそのかされて寝返るという事件が起きました。謙信は、すぐに中条五郎左衛門と苦桃(なぐるみ)伊織を呼び、その50人を殺せと命じました。

 五郎左衛門の家来・中条半蔵は槍の間の窓から鉄砲を撃ち、8人を殺しました。いっぽう浄真(きよざね)という苦桃の家来は小太刀で切り込んで7人を殺しました。これを見た謙信の子・三郎景虎が、「鉄砲は遠業物(とおわざもの)、だから小太刀で殺したほうが偉い」と言って、浄真を誉めました。

 ところが、それを聞いた謙信は、こう言いました。

「武具とは手にしたもので戦うもの。遠業物にやられて死んだ者が、否と言うか。小太刀で討っても道理は同じ。だから、大将たる者が、鉄砲で殺したから卑怯だとか、刀で殺したから偉いなどと言ってはならない」
 

北条氏規の器量

 小田原北条氏の4代目・氏政(うじまさ)は凡庸な武将だったのに対し、弟の氏規(うじのり)はなかなかの人物だったようです。彼がまだ若いころ、小田原に剣術の達人がやって来て道場を開きました。北条氏の家臣たちはこぞって入門しましたが、氏規だけは入門しようとしませんでした。そこである人が、

「多くの者が教えを受けています。あなたも入門されてはいかがか」

と勧めました。しかし、氏規は笑いながら言いました。

「剣術といっても、せいぜい一人か二人斬るだけだ。そのような小事は下々の者が学べばよい。私は一度に千も二千、いや五千も一万も斬る兵法を常々心がけている」

 これを聞いた者は舌を巻きました。若い氏規は、上に立つ者としての度量と見識をすでに身につけていたのです。

 やがて、氏規は小田原本城の支城である伊豆韮山城の城主となりました。天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原に攻め込んできたときも奮戦し、本城が落ちる最後まで韮山城を死守しました。秀吉は氏規の人となりを愛し、彼を助命しました。そして、氏規の子孫は狭山(さやま)藩主として、明治維新に至るまで北条氏の名跡を伝えました。

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おもな戦国武将

北条早雲(1432)
斎藤道三(1494?)
毛利元就(1497)
山本勘助(1500)
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織田信秀(1510)
立花道雪(1513)
尼子晴久(1514)
北条氏康(1515)
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滝川一益(1525)
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龍造寺隆信(1529)
上杉謙信(1530)
大伴宗麟(1530)
吉川元春(1530)
朝倉義景(1533)
小早川隆景(1533)
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佐々成政(1536)
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前田利家(1538)
長宗我部元親(1539)
徳川家康(1542)
竹中重治(1544)
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黒田孝高(1546)
武田勝頼(1546)
山内一豊(1546)
浅野長政(1547)
真田昌幸(1547)
島左近(1548?)
本田忠勝(1548)
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毛利輝元(1553)
小西行長(1555)
上杉景勝(1556)
蒲生氏郷(1556)
藤堂高虎(1556)
小西行長(1558?)
大谷吉継(1559)
石田三成(1560)
直江兼続(1560)
福島正則(1561)
加藤清正(1562)
細川忠興(1563)
池田輝政(1564)
伊達政宗(1567)
真田幸村(1567)
立花宗茂(1567)
黒田長政(1568)
小早川秀秋(1582)
 
( )内は生年です。


(上杉謙信)

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