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帝堯の政治

 古代中国の神話伝説時代に「三皇五帝」とよばれる8人の帝王がありました。三皇は神、五帝は聖人とされ、いずれも理想の君主として語り継がれています。誰をもって「三皇五帝」とするかについてはいろいろな説があるようですが、ここでは五帝の一人とされる(ぎょう)についての説話をご紹介します。
 
 堯の治世は50年に及び、人民の暮らしがよくなるようにと努め続けましたが、それでも本当によい政治ができているのかが気がかりでなりませんでした。側近に尋ねても、民間の有力者に尋ねても、みなよく分からないと言います。そこであるとき堯は、自分の目で確かめてみようと、お忍びで街へ出ました。
 
 すると、子供たちが遊びながら歌を歌っているのに出会いました。歌の内容に耳を傾けると、「皆が楽しく暮らしているのは天子さまのおかげです。私たちは知らず知らずのうちに天子さまをお手本にしています」。これを聴いた堯は一応は満足したものの、十分に納得することはできませんでした。
 
 さらに進んで街はずれまで来ると、今度は老人の農夫が、食べ物を頬張り腹鼓を打ち、地面を踏み鳴らしながら歌っているのに出会いました。老人の歌は「日が昇れば働き、日が沈めば休む。井戸を掘って水を飲み、田を耕して食う。天子さまの力など、自分には関係ない」と、ずいぶん気分よさそうに歌っています。
 
 堯はこれを見て、心から晴々とした気持ちになりました。老人の歌は帝である自分をけなしているようだが、そうではない。人民は為政者や政治などを意識することなく自分たちの生活を楽しんでいる。どのような政治が行われているかなど感じない、気づかないのは、政治がうまくいっている表れだと、大いに満足したのでした。この故事から、太平の世を喜ぶことを「鼓腹撃壌」(こふくげきじょう:腹鼓を打ち土をたたく)と称するようになりました。

〜『十八史略』

酒池肉林

 殷(いん)は、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝です。文献によれば、湯王(天乙)が夏を滅ぼして建立したとされますが、夏王朝の実在は確認されていません。紀元前17世紀ころから紀元前1046年まで続いた殷の王位は世襲制で、その30代目とされるのが紂王(ちゅうおう)です。
 
 『史記』によると、紂王は美貌を持ち、弁舌に優れ、行動力があり、頭の回転が早く、猛獣を倒すほどの体力もあったといいます。まことに名君としての素養は十分だったのですが、臣下がみな愚鈍に見えるため増長し、さらに、他部族を討伐した際に妲己(だっき)という美女を得てからは、暴君に変貌していきます。
 
 紂王は、政治を忘れて妲己との愛欲にのめりこみ、彼女の歓心を買うために国の財貨を湯水のごとく注ぎこみます。豪華絢爛な離宮をつくり妲己を住まわせ、常に妲己を侍らせて遊楽に明け暮れました。その窮めつけが「酒をもって池となし、肉を懸けて林となし、男女をして裸ならしめ、その間を相逐(お)わしめ、長夜の飲をなす」という所業でした。いわゆる「酒池肉林」です。
 
 また紂王は、自分を非難する者を次々に捕えて火あぶりの刑(炮烙の刑)に処しました。これは猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡し、その熱い丸太の上を罪人に裸足で渡らせるという刑です。罪人は焼けた丸太を必死の形相で渡りますが、油で滑って転落しそうになり、丸太にしがみつくものの熱くてたまらず、ついには耐え切れずに猛火へ落ちて焼け死にます。妲己は、罪人たちの断末魔の形相が面白いと言って、喜んで見たといいます。
 
 紂王の親戚に箕子と比干という賢人がいて、贅沢をやめるように諫言しましたが、紂王はまったく受け入れず、誅殺を恐れた箕子は狂人の振りをして奴隷の身分になりました。また比干は、残酷な炮烙の刑をやめるように諫言しましたが、これも聞き入れず、「聖人の心臓には7つの穴があるという。それを見てみたいものだ」と言って、比干の胸を切り裂き、心臓を抉り出して殺したのでした。
 
 このありさまに、紂王の討伐に立ち上がったのが、周の発(武王)でした。殷は70万を超える大軍で対抗しましたが、その軍の兵は奴隷が多く占めていたため、戦意がないどころか発が来るのを待ち望んでいたほどのありさまでした。殷軍はあっという間に敗北、追い詰められた紂王は焼身自殺しました。これによって殷王朝は滅亡します。
 
 なお、紂王についての伝記は、暴政や悪事についてが殆どですが、殷を倒した周が武王の功績を称え統治を正当化するために暴君として描いたとも考えられており、信憑性が薄いものも多くあるようです。孔子の弟子だった子貢は、『論語』の中で「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」とも述べています。
 

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侯覇臥轍(こうはがてつ)

立派な業績を挙げた人の留任を希望して引き留めること。
王莽の新の時代、地方の長官だった侯覇は善政を行ったが、天子の命令で都に帰ることになった。すると、土地の人々は侯覇との別れを惜しんで、都から訪れた使者の車の進路に泣き伏せて車が進むのをさえぎり、侯覇の留任を請い願ったという故事から。

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