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韓信の股くぐり

 漢王朝の創業に大きな功績を挙げた将軍・韓信は、若いころ、貧乏で官吏にもなれず、いつも食べ物を他人から恵んでもらって暮らしていました。しかも図々しいので、みんなからはずいぶん嫌われていました。ある老女が飯を食わせてくれたとき、「いつかきっとご恩返しをする」と韓信が言うと、老女は怒って、「大の男が自分で食うこともできないのに、恩返しなどと洒落た口をきくな」と言ったといいます。
 
 韓信は、屠場仲間の若者たちからもバカにされていて、彼がいつも剣を身につけているのを見たある若者が、「お前は大きな図体をして刀を持っているが、肝は小さいのだろう。死ぬのが怖くない勇気があるんだったら、その剣でおれを刺してみろ。できないのなら、おれの股をくぐれ」と、喧嘩をふっかけてきました。韓信はじっと相手を見つめたあと、何も言わずに四つん這いになり股をくぐったので、町中の人に臆病者だと笑われてしまいました。
 
 その後、秦の始皇帝が亡くなると、大規模な動乱が始まりました。韓信は楚の項梁(こうりょう)、次いでその甥の項羽(こうう)に仕えて護衛役となりました。思うところあって、しばしば項羽に献策を図りましたが、採り上げられることはありませんでした。ついに、韓信は楚から蜀へ逃亡し、漢王・劉邦の麾下に入りました。しかし、そこでも韓信が重用されることはありませんでした。ただ一人、丞相の蕭何(しょうか)だけが、彼の才能を買っていました。
 
 劉邦が漢中の地に封ぜられ、都の南鄭に赴くことになりましたが、その移動の途中で多くの脱走者が出ました。不満を抱えていた韓信も逃げ出しました。そのとき、韓信が逃げたのを聞いた蕭何は、劉邦にも黙って、急ぎ韓信のあとを追いかけました。劉邦は、丞相の蕭何までも逃げたと聞かされて激怒し、かつ大いに落胆しました。しかし、何日かたつと、蕭何がひょっこり戻ってきました。劉邦は詰問します。
 
「お前はなぜ逃亡したのだ」
「私は逃亡したのではありません。逃亡した兵を追いかけたのです」
「それは誰か」
「韓信です」
「逃げた武将はほかに何人もいるのに、なぜ韓信だけを追ったのか」
 
 蕭何は、言いました。「ほかの武将たちぐらいの人物なら、いくらでも見つけられますが、韓信ほどの人物は国士無双(ほかに比類ない人物)です。王がこの先ずっと漢中の土地で満足なさるのなら韓信は必要ないかもしれませんが、もし天下をお望みであるなら、韓信は絶対に必要な人物です」
 
 かくして韓信は、全軍を指揮する上将軍に抜擢され、以後、縦横無尽の活躍を見せます。そして、将軍として大成功を収めた韓信は、かつての若者を呼び寄せて、「あのときは、お前を殺して名が挙がるわけでもなかったから我慢した。その結果、現在の私がある」と言って役人に取り立ててやりました。また、飯を与えてくれた老女を探し出し、大金を与えたということです。

〜『史記』淮陰侯伝

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背水の陣

 前204年、韓信が、趙の軍勢と戦ったときのこと。韓信の軍勢は約3万に対し、趙の軍勢は20万もの大軍でした。これに挑んだ韓信は、河を背にして自軍を展開させました。当時の兵法では、山を後方に、河川を前方にして布陣するのが常識とされていたにもかかわらず、韓信は、それとは逆の背水の陣を敷いたのです。

 これを見た趙の軍勢は大いに笑いました。そして、一気に揉み潰してくれようとばかりに攻めかかりました。漢軍の兵たちは後ろが河なので、逃げようにも逃げる場所がありません。そのため死に物狂いで防戦し、ついに趙は王が捕らえられるまでに惨敗を喫してしまいました。戦いの後の祝宴で、諸将が韓信に、なぜあんな作戦を採ったのかと訊ねると、韓信はこう答えました。

「我々は急ごしらえの軍隊であるが、兵法には、兵を絶体絶命の死地に置けば、逆に生きるとある。もし兵たちに逃げる場所があったら、全員が逃亡していたことであろう」
   

敗軍の将は兵を語らず

 韓信が趙と戦ったとき、趙の優秀な軍略家の広武君(こうぶくん)を捕らえました。韓信は、広武君を厚く礼遇し、北方の燕(えん)と東方の斉(せい)を攻略する戦略を教えてほしいと訊ねました。しかし、広武君は、

「敗軍の将は兵を語らず、亡国の大夫(大臣)は国事を語るべからずといいます。囚われの身となった私ごときに、どうしてそのような大事を語る資格がありましょうや」と答えました。それにたいし韓信は、

「ご謙遜には及びません。もし趙の王や重臣があなたの軍略に従って戦っていたら、私のほうが敗れて、今ごろはあなたに捕らえられていたことでしょう。どうかお教えください」と重ねて頼みました。

 その熱意に動かされて広武君は軍略を語り、韓信はそれに従って戦い、ついに燕と斉を滅ぼしたのです。
 

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故事成句

宋襄之仁(そうじょうのじん)

無用の情けをかけること。愚かな思いやりのたとえ。
春秋時代、宋の襄公(じょうこう)が楚と戦ったとき、参謀が、敵の布陣が揃わないうちに攻撃を仕掛けるよう進言したが、襄公は「君子は人の困難につけこんでこれを苦しめるものではない」と言って攻めなかった。そのために逆に楚に敗れてしまったという故事から。
スポーツの試合などでは、たとえば相手が怪我をしているところは攻めないのが美徳としてたたえられる。しかし、生きるか死ぬかの場合には却って嘲りを受ける。
 

故事成句

白眉(はくび)

兄弟でもっとも優れた者。転じて、多数あるもののうち、最も優れているものや人のたとえ。

蜀(しょく)の国の馬氏(ばし)には、5人の子どもがおり、5人とも名前に「常」という字がつくので、「馬氏の五常(ごじょう)」と言われ、そろって秀才のほまれが高かった。とりわけ、長男の馬良(ばりょう)は最も優秀で、眉の中に白い毛があり、白い眉に見えたことから、この語ができた。

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