天才軍師として名高い諸葛孔明(181〜234)。「三国志」屈指のスーパースターであり、劉備玄徳(161〜223)を補佐して蜀の国を打ちたて、魏、呉、蜀による三国鼎立を成し遂げた立役者です。それまで晴耕雨読の日々を送っていた孔明を、劉備が三度訪ねてようやく幕下に加えたという「三顧の礼」の話は有名です。
その孔明が蜀の軍司令官だったとき、南の地域に起こった反乱を平定することとなりました。反乱軍のリーダーは孟獲(もうかく)といい、様子を探ってみると、現地の民衆はみな彼に心服しているといいます。そこで孔明は、自軍の兵に対して、「孟獲を破っても、殺さず生け捕りにしてこい」と命じました。
そして、敗れた孟獲が孔明の前に引き据えられると、孔明は、孟獲の縄を解き、何と自軍の陣容を隈なく案内して回り、「どうだ、この陣立ては?」と、意見を求めたのです。孟獲は答えました。
「これまでは、どこが手薄か分からず敗れてしまったが、おかげですっかり分かった。この程度なら、いとも簡単に破ってみせる」
孔明は笑って孟獲を解き放ち、再び戦って勝利し、また孟獲を捕らえました。同じことが七回も繰り返され、七回目にはさすがの孟獲も、孔明の前に深々と頭を垂れ、「孔明殿のご威光はまこと天にも比すべきもの。われらは、もはや二度と反乱など起こそうとは思いません」と誓ったのです。
さらに孔明は、反乱を起こした各地の責任者を任命するに際し、現地の人間を登用し、彼らに統治を委ねることとしました。これには幕僚たちからも、「あまりにも無謀ではないか」と猛反対する声があがりました。しかし、孔明は、こう言って反対意見をおさえました。
「第一に、もし中央から役人を派遣すれば、軍隊も常駐させねばならないが、その兵糧を補給する目途が立たない。第二に、現地の人々は戦に破れたばかりで、中には肉親を殺された者もいる。警護の軍もつけずに役人だけを派遣すれば、きっと再び反乱が起きる。第三に、現地の人々は、これまで重ねてきた罪に対し、どんな厳しい処分を受けるかと、内心びくびくしている。役人を派遣しても、決して心を許さないだろう。だから私は、軍隊を常駐させず、したがって兵糧を補給する必要もなく、まずは秩序を回復し、皆が平和に暮らせるようにしてやりたいのだ」
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