巻第1-7~9
7 秋の野(ぬ)のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の都(みやこ)の仮廬(かりほ)し思ほゆ 8 熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな 9 莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと) |
【意味】
〈7〉かつて天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の草を刈って葺いた行宮(あんぐう)に宿ったときのことが思い出されます。
〈8〉熟田津で、これから船出しようと月の出を待っていると、潮の流れさえ私たちの待ち望んでいた通りとなってきた。さあ、今こそ漕ぎ出しましょうぞ。
〈9〉・・・・・・愛するあなたが立っていた、山麓の神聖な樫の木のもと。
【説明】
額田王(額田姫王とも書く)は生没年未詳ながら、斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人です。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えました。額田王の「王」という呼び名から、皇室の一人とも豪族出身とも取れ、また出身地も近江の鏡山あたりとも大和の額田郷ともいわれます。鏡山が想定されるのは、父の鏡王(かがみのおおきみ)の名が天武即位紀に見えることによります。
7は、皇極天皇の近江への行幸に付き従ったときの思い出の歌で、額田王の処女作とされます。また、このころ大海人皇子に召されて官女になったのではないかともいわれます。そしてこの歌を初夜の作とみる向きもあるようです。「み草」の「み」は、接頭語。「宇治の都」と表現したのは天皇が宿泊した土地だからとみられます。藤原京や平城京のような都らしい都ではなくても、ごく短期間に天皇が滞在するような場所も「みやこ(宮処)」と呼ばれました。「仮廬(かりほ)」は「かりいほ」の略で、旅先で泊まるために作った仮小屋のことですが、実際にはそれなりの建物だったとみられます。
斉藤茂吉によれば、「単純素朴のうちに浮かんでくる写像は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わってくるのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった」。
8は、額田王の歌の中でも代表作といわれる歌です。斉明天皇の7年(661年)正月、斉明女帝は船団を組み、朝鮮半島の新羅に遠征するため西へ向かいます。新羅に侵攻され、存亡の危機にあった百済を救援するためでした。熟田津(にきたつ)は愛媛県松山市の海浜で、ここにしばらく留まった後、いよいよ出航しようとする時の歌です。皇太子の中大兄皇子、大海人皇子をはじめ、皇女たちも同行した大がかりな旅で、この歌は、戦意に燃えた一行のようすを高らかに歌い上げています。
月の出と潮流は密接な関係にあり、ともに船旅には重要な条件でした。「潮もかなひぬ」とあるのは、潮流も思い通りに、船出に都合のよいように流れ始めたと同時に、頼りとする月までも思い通りに出た出たという意味であり、この月を満月とし、ちょうど大潮の満潮にあったとする見方もあります。この船団は3月末に博多に到着、ところが4ヵ月後に天皇はその地で崩御、中大兄皇子は翌々年に軍を進めましたが、白村江にて大敗を喫してしまいます。
なお、この歌は、天皇に成り代わって額田王が詠んだものとされていますが、左注には次のような記述があります。「右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林で検べてみると、斉明天皇の御船が泊まった伊予の熟田津は、かつての夫である第34代舒明天皇とご一緒に行幸された地であり、斉明天皇は、その風景が昔日のままであるのをご覧になって感愛の情を起こされ、歌を作って哀傷された」。
実際は天皇の御製であるのにそれとするのを憚ったのであれば、そこにはいったいどのような事情があったのでしょう。左注から察するに、天皇にとって熟田津の地は、かつて夫と訪れ、平和と幸せに満ちた思い出深い場所だったはずです。『日本書紀』には、639年、伊予に仮宮を造り、12月から翌年の4月まで4か月もの間逗留されたとの記録があります。道後温泉は、古代から紀伊の牟婁、伊豆の湯本、湯河原、摂津の有馬などと共に著名な湯治場として知られており、お二方はよほど気に入られたのでしょう。
しかし今は、思い出深い風景のこの地から、多くの若者たちを戦地に向かわせなければならない。表面的には船出を鼓舞する勇壮な歌であるけれども、それが勇壮であればあるほど、かえって天皇の辛さや哀しみが透けて見えてくる。左注に「哀傷された」とあるのは、そういう意味を含んでいるのでしょう。そうした個人的な感情と切り離すため、あえて自らの歌としなかったということなのかもしれません。左注はさらに「額田王の歌は別に4首あり」とも明言しています(ただしこれらの歌は伝わっていません)。
9の「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」の部分は『万葉集』の中でもっとも難読とされ、未だに定訓がありません。
読めない万葉集
万葉仮名で書かれた「万葉集」の歌の解読は、天暦5年(951年)に村上天皇の詔により、清原元輔、紀時文、大中臣能宣、坂上望城、源順ら5人(後撰集の撰者)によって始められました。それ以後、研究史は1000年を優に超えていますが、未だに解読できない歌が19首あります。
その代表歌が、巻第1-9に「紀の温泉に幸せる時に、額田王の作る歌」とある「莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)」で、下三句は解読されていますが、上二句が訓義未詳となっています。これまで30通り以上の試訓がなされているようですが、どれも決め手を欠き、おそらく永遠に読めないであろうと考えられています。
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