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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

近江の旧都を通った時に柿本人麻呂が作った歌

巻第1-29~31

29
玉襷(たまたすき) 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いは)走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿(おほとの)は 此処と言へども 春草の 繁(しげ)く生ひたる 霞(かすみ)立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやところ) 見れば悲しも
30
楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
31
楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
 

【意味】
〈29〉畝火山のふもとの橿原で、御位につかれた神武天皇の御代以来、この世に姿を現された天皇が次々に天下を治めになっていたのに、大和を捨て置いて奈良山を越え、どうお思いになって、田舎である近江の国の楽浪の大津の宮で天下をお治めになるのだろうか。天智天皇の神の旧都はここと聞いたけれど、春草が生い茂り、霧が立っているこの大宮の跡を見ると、何とも悲しい。

〈30〉ささなみの志賀の唐崎は元のように何の変わりはないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊びをした大宮人もいなくなった。それゆえ、その船をいくら待っていても再び見ることはできない。

〈31〉志賀の大きな入り江の水は流れずに淀んでいるが、時の流れとともに過ぎ去った昔の人々には、再び会うことがあるだろうか、いや、もう会えはしない。

【説明】
 天智・弘文の2代にわたる近江大津の宮は、壬申の乱によって全く荒廃してしまいましたが、人麻呂がその跡にやって来て、栄えていた当時を回想した歌です。持統天皇4年(690年)晩春の作とされますので、近江宮が焼かれて10数年の後のことです。人麻呂自身は近江朝に出仕する経験はなかったと思われますが、往時は、大陸からの知識人が多く来訪し、漢詩文の盛行に象徴されるように、華やかな大陸文化が展開しました。学者や詩人を集めた御宴もしばしば開かれていたといいます。しかしながら、壬申の乱の勝利者・大海人皇子(天武天皇)によって都は飛鳥浄御原宮へ遷され、近江宮が栄えた期間はわずか5年という短さでした。

 29は、宮廷人の一行が近江を過ぎる時、荒れた都に宿るという荒ぶる魂を鎮め、旅行く集団の安全を祈るために、代表として人麻呂が詠んだ儀礼歌とされます。「玉襷」は「畝火」の枕詞。「畝火山」は、大和三山の一つ。「日知」は、日(太陽)の運行を知る支配者の意で、ここでは初代の神武天皇を指します。「御代ゆ」の「ゆ」は、起点を表す格助詞。「樛の木の」「天にみつ」「あをによし」「天離る」「石走る」は、それぞれ「いやつぎつぎに」「大和」「奈良」「夷」「淡海」の枕詞。「楽浪」は、琵琶湖西岸地方の古い呼び名。「知らしめす」は、「知る」の尊敬語で、お治めになる意。「天皇(すめろき)」の「すめろ」は統治の意で、「き」は男性への尊称。天智天皇をそう呼んだもの。「霞立つ」「ももしきの」は、それぞれ「春日」「大宮」の枕詞。

 30の「楽浪」「志賀」は、琵琶湖の西南岸地方の地名、「唐崎」は、大津市の北の大津宮があった場所から3kmほど北の琵琶湖に突き出た岬で、後世には近江八景といわれた景勝地。「大宮人」は、宮廷に仕える人々のこと。唐崎にはかつて船着き場があり、大宮人たちは、休日にはそこから湖上に出て船遊びをしたようです。しかし、今はもうその船も帰ってくることはない、と歌っています。31の「大わだ」は、大きな入江。「昔の人」は、かつて近江朝に仕えていた大宮人たちをさしています。

 人麻呂は、「十数年前と唐崎は変わらない。しかし、どんなに唐崎の風景が変わらなくても、もはやそこに遊んだ大宮人はいない」と、その荒廃を嘆いています。これらの歌は、日本の詩歌史上ではじめて廃墟と、それによる懐古の美学を表現した歌とされます。人麻呂は、無常であることを感傷する日本人好みの美学の発見者であったといえましょう。


【略年表】
663年 白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北
667年 天智天皇が、朝倉橘広庭宮から近江大津宮へ遷都
672年 天智天皇が死去(1月)
672年 壬申の乱(7月~8月)
672年 天武天皇が、近江宮から飛鳥浄御原宮へ遷都
690年 柿本人麻呂が、この歌を作る
 
(関連記事)天智天皇の決意/近江遷都

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天離る「鄙」

 都が置かれる範囲は、いわゆる畿内の5か国(大和・山城・摂津・和泉・河内)に定められていましたが、例外的に畿外に置かれた都が、天智天皇による近江京でした。畿外は東海道、東山道などの7つの「道」を指し、基本的に畿外の地が「鄙(ひな)」とされました。人麻呂が「いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど」と歌っていることからも、この遷都がいかに異例であったかが窺い知れます。

 「鄙」は「都」の対語であり、「天離る」は「鄙」に接続する枕詞になっています。これは、天孫降臨神話の観念を背景に、天(高天原)と直結した都から遠くて隔てられた地であるという意味を示しています。土地ぼめを原義とする枕詞の中では、非常に特異な語です。

 もっとも、畿外の地がすべて「鄙」であったわけではなく、「都」と「鄙」以外の第三の地域が存在しました。それが「東(あづま)」すなわち東国の国々です。『万葉集』の時代は、東海道は遠江国、東山道は信濃国以東の地域が東国とされ、この地域は決して「鄙」とは呼ばれませんでした。まさに異域の扱いであり、そうした区別が生まれたのは、中央への帰順が遅れた歴史とともに、文化的な乖離が強く意識されていたことが背景にあったとみられています。
 
 

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長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。

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