7世紀の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国に分かれていました。隋の煬帝(ようだい)は、何とか朝鮮半島を傘下に治めようと、高句麗に遠征しましたが失敗、先代の文帝のときも含めると合計4度も遠征したため、国力は疲弊し内乱も勃発、それが原因で隋は滅びてしまいました。
隋を倒した唐は、高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅と結託して百済に攻め入り、これを滅ぼしました(660年:百済の役)。その滅亡の日には、王城があった山の断崖から3000人の官女が白馬江(錦江)に身を投じたといいます。そしていよいよ高句麗も滅ぼしてしまいます。
これを見た、わが天智天皇(このときは中大兄皇子)は、祖国回復を求める百済の残党と行動を共にし、唐に対抗することを決意しました。もともと日本と百済が友好関係にあったこともありますが、何より日本はずっと新羅を憎んでいたからです。かつて朝鮮半島にあった日本の領土、「内宮家(うちつみやけ)」と呼ばれていた「任那(みまな)」を新羅に奪われてしまったのです。
任那には、大和朝廷の出先機関または外交使節とされる「日本府」があったとされ、『日本書紀』ほかの古文書にその存在を示す記述があります。また、1991年以降、朝鮮半島南部に日本固有の前方後円墳と類似した様式の墳墓が多数発見されたことから、大和朝廷や日本と関係の深い人々の存在とその影響力が指摘されています。(もっとも、韓国側はこうした見解を強く否定しています。)
そして、あの聖徳太子さえも新羅征討を企てたほど、歴代天皇にとって任那奪還は悲願でした。その新羅が、今度は友好国の百済を、唐と組んで滅ぼしてしまったのです。天智天皇の怒りは心頭に発しました。それからもう一つ、いずれ新羅も唐に滅ぼされ、次は日本の番だという思いもあったでしょう。
天智天皇は、三派におよぶ大規模な援軍を送り込み、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ、はくそんこう)で唐・新羅連合軍と戦いました。しかし、結果は大惨敗してほぼ全滅。そのとき日本軍がとった作戦は、「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という、極めてずさんなものであったといいます。これによって、日本は朝鮮半島における足場を完全に失ってしまいました。
戦いの後、天智天皇は唐の侵略に恐れおののきました。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築きました。しかし、けっきょく唐は攻めてきませんでした。なぜでしょうか。それは新羅が唐に抵抗し、がんばったからです。結局は唐の保護国のようになってしまいましたが、あれほど憎かった新羅が、結果的には唐の防波堤になってくれたのです。
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