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天智天皇の決意

 7世紀の朝鮮半島は、高句麗新羅百済の三国に分かれていました。煬帝は何とか朝鮮半島を傘下に治めようと、高句麗に遠征しましたが失敗、先代の文帝のときも含めると合計4度も遠征したため、国力は疲弊し、それが原因で隋は滅びてしまいました。

 隋を倒したは、高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅と結託して百済に攻め入り、これを滅ぼしました。その滅亡の日には、王城があった山の断崖から3000人の官女が白馬江に身を投じたといいます。そしていよいよ高句麗も滅ぼしてしまいます。

 これを見た、わが天智天皇(このときは中大兄皇子)は、祖国回復を求める百済の残党と行動を共にし、唐に対抗することを決意しました。もともと日本と百済が友好関係にあったこともありますが、何より日本はずっと新羅を憎んでいたからです。かつて朝鮮半島にあった日本の領土、「内宮家(うちつみやけ)」と呼ばれていた「任那(みまな)」を新羅に奪われてしまったのです。
 
 任那には大和朝廷の出先機関または外交使節とされる「日本府」があったとされ、『日本書紀』ほかの古文書にその存在を示す記述があります。また、1991年以降、朝鮮半島南部に日本固有の前方後円墳と類似した様式の墳墓が多数発見されたことから、大和朝廷や日本と関係の深い人々の存在とその影響力が指摘されています。(もっとも、韓国側はこうした見解を強く否定しています。)

 そして、あの聖徳太子さえも新羅征討を企てたほど、歴代天皇にとって任那奪還は悲願でした。その新羅が今度は友好国の百済を、唐と組んで滅ぼしてしまったのです。天智天皇の怒りは心頭に発しました。それからもう一つ、いずれ新羅も唐に滅ぼされ、次は日本の番だという思いもあったでしょう。

 天智天皇は大規模な援軍を送り込み、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦いました。しかし、結果は大惨敗。戦いの後、天智天皇は唐の侵略に恐れおののきました。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築きました。しかし、けっきょく唐は攻めてきませんでした。なぜでしょうか。

 それは新羅が唐に抵抗し、がんばったからです。結局は唐の保護国のようになってしまいましたが、あれほど憎かった新羅が結果的には唐の防波堤になってくれたのです。

近江遷都

 白村江で唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、両国による報復と侵攻に備えるため、軍防令を発して九州北部・対馬に防人(さきもり)を配備し、筑紫(福岡県)には水城(みずき)や山城などを築きました。防人は主に東国から徴集され、その間も税は免除されることはなかったため、働き手を取られた農民にとっては重い負担となりました。

 中大兄皇子は、さらに667年3月に都を難波から近江(滋賀県)の大津宮に遷し、翌年正月、ついに即位して天智天皇となりました。この遷都に対しては、大和の人々の不満は大きかったようです。『日本書紀』には、近江遷都に際して民衆の不満がつのり、日夜、不審火が続いたとの記事があります。当時は政治に不満がある場合、宮殿に放火する風習があったといいます。

 遷都の理由にはさまざまな説がありますが、近江は外国軍が瀬戸内海を通って畿内へ上陸した場合にもっとも対処しやすく、また琵琶湖に面しており、東国や北陸、西方への交通の便がよかったからだとされます。しかし、近江に都が置かれた期間は、わずか5年半の短い間でした。天智天皇崩御後に起きた壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)によって、再び飛鳥に都が築かれました。

 天智天皇は近江の地で日本最初の律令法典となる近江令を制定したり、初めての全国的な戸籍といわれる『庚午年籍』を作るなど、政治、文化の革新に力を注ぎ、大陸的な政策が整えられました。近江朝では、外交に不安をかかえる一方で、唐の文化を吸収し、高度な技術や学問を学び、和歌をはじめとする文学も花開いていったのです。
 


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