巻第1-51
采女(うねめ)の袖(そで)吹きかへす明日香風(あすかかぜ)都(みやこ)を遠みいたづらに吹く |
【意味】
采女たちの美しい衣の袖を吹き返していた明日香の風も、今は都も遠くてむなしく吹くばかりだ。
【説明】
題詞に「明日香宮より藤原宮に遷居(うつ)りし後に、志貴皇子の作らす歌」とあります。志貴皇子は天智天皇の第7皇子。近江朝の生き残りで、すでに中央から外れた立場にあり、689年(持統3)6月に撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほかは要職についていません。この歌は、持統天皇によって藤原京に遷都されて間もないころ、皇子が廃都となった飛鳥御浄原に立ち寄り、「ただ風が吹いている」と詠んだものです。遷都直後なら持統7年(693年)の冬、翌年なら春ころとみられています。「明日香風」は、明日香の地に吹いている風をそう呼んだもの。好んで用いられた言い方らしく、他に佐保(さほ)風、泊瀬(はつせ)風、伊香保(いかほ)風などの例が見られます。「遠み」は、遠いので、遠くて。
「采女」は天皇の食事など日常の雑役に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られました。天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられました。遷都に伴って采女たちも飛鳥を去ったのです。なお、皇子の母は越道君(こしのみちのきみ)の娘というので、天智天皇の采女だったのかもしれません。「采女の袖吹きかへす」という言葉の中には、あるいは皇子のお母さんの思い出も蘇っているのでしょうか。
葦(あし)べ行く鴨(かも)の羽(は)がひに霜(しも)降りて寒き夕べは大和し思ほゆ |
【意味】
葦が生い茂る水面を行く鴨の羽がいに霜が降っている。このような寒い夕暮れは、大和のことがしみじみ思い出される。
【説明】
慶雲3年(706年)に、文武天皇(持統天皇の孫、軽皇子)に随行して、難波離宮へ旅した時の歌。難波宮は、天武天皇の御代に築かれた副都。難波は、古くは仁徳天皇、近くは孝徳天皇の都だった地であり、交通、対外関係において重要であると同時に、禊(みそ)ぎの地として信仰されたところでもありました。そのため、天皇の行幸も頻繁に行われました。皇子が訪れた時期は当時の暦で9月末から10月初め、晩秋から初冬にかけてのころにあたります。
「葦辺」は、葦の生い繁っている水辺。難波に多く繁っている葦は、古来有名でした。「羽がひ」は、たたんだ翼が背で交わるところ。「大和し」の「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は、思われる。供奉した皇子の居所は水辺に近かったとみえ、水辺を泳ぐ鴨の背の寒げに光ってるのを捉えて、旅愁を詠んだ歌です。あるいは「鴨の羽がひに霜降りて」は虚構で、実際に葦辺をゆく鴨の姿を捉えたのではなく、いわば沈潜した心の写実だったのかもしれません。声ひとつない冷たい静謐のなかに浮かびあがる旅愁・望郷がうたわれています。
志貴皇子の歌はつねに清冽な気品があり端正とされますが、この歌について斎藤茂吉は次のように評しています。「志貴皇子の御歌は、その他もそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは、一つの『感』で運んでいるが、その『感』は空漠たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、『霜降りて』と断定した表現が利くのである。『葦べ行く』という句にしても稍ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写像はただのぼんやりではない」
巻第3-267
むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも |
【意味】
むささびが、林間の梢を飛び渡っているうちに、猟師に見つかって獲られてしまった。
【説明】
「木末」は、梢。「あしひきの」は「山」の枕詞。山に掛かるのは、山の足(裾野)を長く引いた山の像、あるいは足を痛めて引きずりながら登るの意とする説があります。「猟夫」は、猟師。むささびは高い所から斜め下へしか飛べないため、木の枝に駆け上ってから飛び出します。そこを狙って猟師が射落とすわけですが、そうしたことから、この歌には、高い地位を望んで身を滅ぼした人、すなわち大津皇子(おおつのみこ)が天皇の位を望んだ(とされた)ために処刑されたことを喩えたのでは、という寓意説もあります。
しかしながら、斉藤茂吉によれば、「この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒に大望をいだいて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、むささびのことが歌ってあるのだから、第一にむささびのことを詠み給うた歌として受納れて味わうべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めておくのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味わえば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指(あんじ)しているのを感じる」。
巻第4-513
大原のこの市柴(いちしば)の何時(いつ)しかと我(わ)が思(も)ふ妹(いも)に今夜(こよひ)逢へるかも |
【意味】
大原のこの柴の木のようにいつしか逢えると思っていた人に、今夜という今夜はとうとう逢えることができた。
【説明】
皇子が、ようやく逢うことのできた「妹」と呼ぶ女性に与えた歌。上2句が、類音で「何時しか」を導く序詞。眼前の景色を捉えるとともに、「何時しか」を強め、強く待ち望みながら、逢えた喜びの深さを表しています。「大原」は、奈良県明日香村の小原(おうばら)。「市柴」は、繁った柴のことか。「柴」は、雑木。山野などで男女が逢うのは、人目を避けるためで、大津皇子の巻第2-107の歌にもあったように、当時はふつうに行われていたようです。
なお、志貴皇子という人について、作家の大嶽洋子は次のように述べています。「彼の処世術については、あらゆる憶測が飛び、それによって歌の解釈も微妙に変わってくる。もともと隠者的で、政治や権力に関心がなかったのだろうとか、一応の地位と待遇を与えられることで、政権の枢軸から一歩距離を置くことを選んだのだろうとか、いや彼は文化的な面では結構活躍しているとか。歴史を遡って読むときの余裕かもしれないが、私は彼は慎重かつ知的なそのゆえに政治的な人間ではなかったかと思うのだ。勿論、そのことはおそらくは父親ゆずりの冷静な観察力と判断力によるものがあろう。同じ天智天皇の皇子でも、異腹の兄弟の大津皇子はみごと持統天皇の挑発にのって自滅した。川島皇子は大津皇子を讒言で体制側に売ることによって生き延びようと画策した。志貴皇子は冬の時代と見きわめて冷静に耐える道を選んだと私は思う」
そんな志貴皇子は、ざっと4人の親王(うち一人は光仁天皇)や、聖武天皇の寵愛を受けたとされる海上女王などの子女に恵まれています。政治ではなく文化や教養の場に軸足を置き、そして天智天皇の血統を守るべく、子孫への教育に怠りはなかったのでしょう。湯原王、春日王、榎井王、その次の代の安貴王、市原王へと詩才ゆたかな家系を存続させていきます。
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巻第1-55
あさもよし紀人(きひと)羨(とも)しも真土山(まつちやま)行き来(く)と見らむ紀人羨しも |
【意味】
紀伊の人が羨ましい。都を往き来するたびに、真土山を見られる紀伊の人が羨ましい。
【説明】
大宝元年(701年)9月、持統太上天皇の紀伊国行幸に随行して詠まれた歌。調首淡海は、壬申の乱の功臣で、養老7年(723年)に正五位上。「あさもよし」は「麻裳よし」で、麻は紀伊の特産だったところから「紀伊」に掛かる枕詞。「紀人」は、紀州の人。「見らむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。「羨し」は、うらやましい。「真土山」は、大和と紀伊の国境にある山。北側の真土峠は紀州街道の要所にあり、大和からの旅人は、この山を越えると異国に足を踏み入れることになります。
巻第1-59
流(なが)らふる妻(つま)吹く風の寒き夜(よ)に我(わ)が背(せ)の君はひとりか寝(ぬ)らむ |
【意味】
絶え間なく風が吹きつける寒い夜、私のあの人は、たった独りで寝ているのでしょうか。
【説明】
誉謝女王は、伝未詳。慶雲3年(706年)6月、従四位下で没。「流らふる」は、雨や雪、花びらなどが空から降って移動していく意。第2句の「妻吹く風の」の原文は「妻吹風之」で、「妻」を、家の切妻、または「妻風」として「つむじ風」と解する、あるいは「雪」「妾(われ)」の誤字とする見方などがあって、定まっていません。風の寒い夜、行幸に供奉している夫君を思い、都にいる女王が作った歌とされます。
旧仮名の発音について
家を「いへ」、今日を「けふ」、泥鰌を「どぜう」などの旧仮名は、そのように表記するだけであって、発音は別だったと思われがちですが、近世以前にあっては、その文字通りに「いへ」「けふ」「どぜう」と発音していました。
ただし、その発音は、今の私たちが文字から認識するのと全く同一ではなく、たとえば「は行音」の「は・ひ・ふ・へ・ほ」は「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」に近かったとされます。だから、母は「ふぁふぁ」であり、人は「ふぃと」です。「あ・い・う・え・お」の5母音にしても、「い・え・お」に近い母音が3つあったといいます。
また、万葉仮名として当てられた漢字では、雪は由伎・由吉・遊吉などと書かれているのに対し、月は都紀・都奇などとなっており、同じ「き」なのに、月には「吉」が使われていません。そのように書き分けたのは、「き」の発音が異なっていたからだろうといわれています。
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(天智天皇)
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