巻第1-63
いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松(はままつ)待ち恋ひぬらむ |
【意味】
さあ皆の者どもよ、早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜のあの松原も、我々を待ち焦がれているだろうから。
【説明】
山上憶良が、遣唐使の一員として大唐(もろこし)にいたとき、故郷・日本を思って作った歌です。山上憶良は、藤原京時代から奈良時代中期に活躍した万葉第三期の歌人(660~733年)で、文武天皇の大宝2年(702年)、43歳で、遣唐大使・粟田真人に少録(第四等官:書記兼通訳)として従い入唐、3年ほど滞在して帰国しました。この歌は帰国の出帆間近のころに作られたとされ、都長安での別れの宴席での歌だったかもしれません。『万葉集』中、唯一、唐土で作られた歌となっています。
歌中の「いざ」は、人を誘う意の副詞。「子ども」は、部下や年少者等を親しんで呼んだもの。「大伴」は、今の難波の辺り一帯の地で、古く大伴氏の領地だったところから地名になったとされます。「御津」は、難波の港で、遣唐使はここから出入りしていました。「御」は美称。そのころの大阪湾一帯には松がたくさんあったようで、日本を発つ時に、浜松の枝を結んで平安を祈ったのかもしれません。憶良らしい率直、単純な表現の歌です。
この時の遣唐使派遣は第8次にあたり、天智朝以来37年ぶりに行われたものでした。遣唐使のたどった航路は、朝鮮半島に沿って進む「北路」と、南シナ海を渡る「南路」がありましたが、日本と新羅の関係が悪化してからは北路を通れなくなり、渡航が危険な南路をとらざるをえなくなりました。南路のルートは、瀬戸内海を抜けて博多湾の娜津を通り、五島列島の値嘉島(ちかのしま:今の福江島)から東シナ海を渡って、上海あたりに上陸するというものでした。唐僧の鑑真が日本に渡ろうとして何度も失敗したのが南路で、この時は奄美大島に漂着しています。憶良の時も南路を往復し、3分の2の人たちが帰って来れなかった中、憶良は運よく無事に帰国できました。ちなみに、この時の遣唐使一行が謁見した唐の皇帝は、かの則天武后でした。
なお、それまで無位だった憶良は、帰国後、渡唐の功によって正六位下に叙せられ、さらに従五位下に昇叙、後に伯耆守(ほうきのかみ)となり、1年余りの赴任の後には皇太子(聖武天皇)の侍講を拝命しています。筑前守として大宰府に下ったのはその10年後の726年ごろとされ、この地で大伴旅人と出会うこととなります。憶良が遣唐少録になるまでの前半生は謎に包まれており、出自や経歴は未詳です。憶良と似た名前が百済からの渡来人の名に見えることや、漢籍の影響が著しい歌が多いことなどから、渡来人であるとする説が有力であるものの、定説には至っていません。
巻第3-337
憶良(おくら)らは今は罷(まか)らむ子泣くらむその彼(こ)の母も吾(わ)を待つらむぞ |
【意味】
私、憶良はもう失礼いたします。今ごろ家では子供が泣いているでしょう、その母親も私を待っていますから。
【説明】
この歌は筑前守として大宰府にいた時の歌とされ、この前後に大宰帥(だざいのそち:大宰府の長官)の大伴旅人、防人司佑(さきもりのつかさのすけ)の大伴四綱、沙弥満誓の歌等があるため、大宰府における宴会の時の歌とみられています。
歌中の「憶良ら」の「ら」は複数の意味ではなく、自ら名乗るときに謙遜の意を表す接尾語で、今でいう「わたくしめ」の「め」のようなものです。題詞には、宴席から退出する時の歌とあります。それまでにも宴席を中座するチャンスを伺っていたのでしょうか。妻を「彼(こ)の母」と表現したところにおかしみがあります。しかし、子どもが泣いて、妻も待っていますから・・・というのはいちばん野暮な帰り方です。憶良はこの時、60歳を遥かに越えていました。したがって、これは宴の「お開き」の歌代わりに歌われていた一種の笑わせ歌だったとみられます。おそらく、この歌が披露されるやいなや、やんやの喝采が起こったことでしょう。楽しい宴席のようすが、何だか目に浮かぶようです。
なお、「その彼の母も」の原文「其彼母毛」の訓みは定まっておらず、「それその母も」「そもその母も」などの訓みも提唱されています。
斎藤茂吉は、憶良について次のように言っています。「憶良は万葉集の大家であるが、飛鳥朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんできた眼には、急に変わったものに接するように感ぜられる。その声調がいかにもごつごつしていて、流動の響きに乏しい。そういう風でありながら、どこかに実質的なところがあり、軽薄平俗になってしまわない。またそういう滑らかでない歌調が、当時の人にも却って新しく響いたのかもしれない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌というものが唱えられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱われたが、そのとおり憶良の歌には人間的な中味があって、憶良の価値を重からしめている」
山上憶良の歌には恋歌や叙景詩はなく、漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌が収められています。
山上憶良の略年譜
660年 このころに生まれる
701年 第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年 このころ帰朝。渡唐の功によって正六位下に叙爵
714年 正六位下から従五位下に叙爵
716年 伯耆守に任ぜられる
721年 東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年 このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年 このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年 大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年 筑前守の任期を終えて帰京
731年 「貧窮問答歌」を詠む
733年 病没。享年74歳
【PR】
歌風の変遷
万葉集は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。
第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。
第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。
おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。
第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。
第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年まで。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代です。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといえます。
おもな歌人として、家持のほか、湯原王・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。
【PR】
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
(持統天皇)
(柿本人麻呂)
(山部赤人)
【PR】