巻第1-74
み吉野の山の下風(あらし)の寒けくにはたや今夜(こよひ)も我(わ)が独(ひと)り寝む |
【意味】
吉野の山から吹き下ろす風がこんなにも肌寒いのに、もしや今夜も私はたった独りで寝るのだろうか。
【説明】
題詞に「大行天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の歌」とあります。「大行天皇」とは、崩じてまだ諡号が贈られていない天皇または先代の天皇のことですが、歌の排列からして文武天皇の御製とされます。ただし、「或は云はく」と注釈付きで伝えられるものです。大宝元年(701年)2月の吉野行幸の際の歌とみられています。とても寒い時期です。
「み吉野の」の「み」は美称。「下風」は「あらし」にあてた文字。「はたや」は、もしや、ひょっとして。旅先での寒い独り寝をうたったもので、同類の歌は『万葉集』に多く見えます。家に残してきた妻を思って一心に歌を詠むことで心を鎮め、夜の闇に心が吸い取られてしまわないようにと祈る、いわば鎮魂歌であったようです。なお、同じ時に詠んだ長屋王の歌が巻第1-75にあります。
文武天皇は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子の子で、母は天智天皇の娘の阿閇(あへ)皇女(のちの元明天皇)にあたります。持統3年(689年)、7歳の時に父を亡くし、祖母の持統天皇の庇護のもと、持統11年(697年)2月に皇太子となり、同年8月、持統の譲位を受けて15歳で即位しました。藤原不比等の娘宮子を夫人としており、首皇子(後の聖武天皇)をもうけています。治世10年間のうちの前半は、持統太上天皇が後見して政務一般を総覧し、この時期には刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって律令編纂の大事業がなされました。律令が完成すると、701年に年号を大宝と建元し、同年から翌年にかけて律令は施行されました。これがすなわち「大宝律令」であり、ここに名実ともに律令国家体制は確立したのです。しかし治世の後半には災害や飢疫の流行などによる世情不安から、いわゆる慶雲の諸改革を断行して、早くも律令制を軌道修正することとなりました。また平城京遷都を望んだものの果たせず、25歳の若さで世を去りました。
文武天皇の御製は『万葉集』にはこの1首のみですが、名歌とされ、平安時代の『拾遺和歌集』や鎌倉時代の『新勅撰和歌集』などにも採られています。
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天武皇統の維持
天武天皇崩御後に、ほどなく皇位継承するはずだった草壁皇子が、689年に皇太子のまま薨じたため、その母の持統天皇が正式に即位しました。この時、有力な皇位継承者と目されていたのは、天武天皇の皇子で序列3位の高市皇子でした。高市は、母の身分は低かったものの、天武の皇子の中で最年長であり、壬申の乱では天武の右腕となって活躍した人でしたから、人望もありました。持統は、さすがに大津皇子のように高市を抹殺することはできませんでした。持統の目論見は、草壁の遺児で孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を立太子させ、後に即位させることでしたが、いかんせん軽皇子はこの時わずか7歳でしたので、無理がありました。
そこで、自身が即位し、軽皇子が成長するまでの中継ぎ役となったのです。それでも、もし高市より自分が先に倒れたら、という不安はあったはずです。その時は高市に皇位が移っても仕方ないと考えたようです。しかし、持統にとって幸いなことに、696年7月に高市が病没します。ようやく軽皇子の立太子への道が開けたのです。しかし、天武の皇子たちが他にもいたためにすんなりとはいかず、諸臣の強い反対がある中で強行された立太子だったようです。
そうして皇太子となった軽皇子は、697年8月に、持統天皇から譲位されて14歳で即位し、文武天皇となりました。ところが、文武天皇は、父の草壁と同様に病弱であったため、707年6月、まだ25歳の若さで崩御してしまいます。幸か不幸か、持統はその前の703年に亡くなっていましたから、文武の死を知りません。しかし、持統は、軽皇子の立太子、即位をめざす折に、藤原不比等の助力を得ていました。不比等の娘宮子を、文武天皇の後宮に入内させており、この宮子との間に生まれたのが、この時7歳になっていた首皇子(おびとのみこ)です。
文武天皇の崩御後は、今度は不比等が主導して首皇子への皇位継承を画策します。まずは草壁の妃で文武の母である阿倍皇女(あへのひめみこ:天智の皇女)を中継ぎとして即位させ(元明天皇)、次いで715年9月、娘で文武の姉にあたる氷高皇女(ひだかのひめみこ)が元正天皇として即位します。そして、首皇子が、元正天皇から譲位を受けて即位したのは724年2月、24歳の時のことでした。それが聖武天皇です。
このように、天武天皇から草壁皇子、そして文武、聖武天皇へと続く皇統は、間に2人の中継ぎの女帝を挟むことによって、何とか維持されてきたのです。
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(文武天皇)
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