巻第1-75
宇治間山(うぢまやま)朝風(あさかぜ)寒し旅にして衣(ころも)貸すべき妹(いも)もあらなくに |
【意味】
宇治間山の朝風は寒い、旅先にある私に、これを重ねなさいと衣を貸してくれる妻はここにいないのに。
【説明】
大宝大行元年(701年)2月、天皇(文武天皇)の吉野宮行幸の時に作った歌。この前にある天皇の御製(巻第1-74)に唱和した歌とされます。「宇治間山」は、奈良県吉野町上市の東北の山。「旅にして」は、旅先にあって。「妹」は京にいる妻。「あらなくに」の「に」は詠嘆の助詞で、ないことだなあ、ないことよ、の意。
長屋王(ながやのおおきみ)は高市皇子の長男で、天武天皇の孫にあたります。元明・元正天皇に重用され、藤原不比等が没した後に右大臣に、また、聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇任しましたが、藤原氏が画策した光明子立后に反対して対立。すると、729年に「長屋王が密かに要人を呪詛して国を倒そうと謀っている」との密告がなされ、長屋王は弁明も許されず、家族とともに自害させられました。妃の吉備をはじめ、膳部王・桑田王・葛木王・鉤取王ら幼少の命も絶たれましたが、同じ子ながら、安宿王・黄文王・山背王らは許されました。彼らは不比等の娘、多比等との間にできた子だったからです。
皇子の非業の死を悼む人は多く、皇子が亡くなった後に倉橋部女王(伝未詳)が詠んだ歌が載っています(巻第3-441)。
〈441〉大君(おほきみ)の命(みこと)恐(かしこ)み大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠(くもがく)ります
・・・帝の命を受けたため、殯の宮にお祀りするはずではない時期に、雲に隠れてしまわれた。
「殯」は新城(あらき)で、死者を本葬する前に祭るために建てられる屋のこと。「もがり」とも言います。殯を営むことができるのは天皇と皇族に限られ、皇孫には許されていないのですが、ここでは親王であるかのように言っています。「時にはあらねど」は、その時ではないのに、大殯の時、すなわちご寿命ではないのに。
また、左注に作者未詳とある、父長屋王と共に自殺させられた長男の膳部王(かしわでおう)を悼んだ歌も残されています(巻第3-442)。
〈442〉世の中は空(むな)しきものとあらむとそこの照る月は満(み)ち欠(か)けしける
・・・世の中は空しいものとして、この照る月も満ちたり欠けたりしていることだ。
作者未詳とあるのは、あるいは憚りがあってその名を晦ましたのでしょうか。「空し」という語を世間虚仮という観念から最初に使ったのは大伴旅人らしいので、この歌の作者は、もしかして旅人だったのかもしれません。
【年表】
718年 長屋王が大納言に任ぜられる
718年 藤原不比等が死去、長屋王が右大臣に任ぜられる
724年 聖武天皇が即位、長屋王が左大臣に任ぜられる
728年 藤原氏が光明子の立后を画策、長屋王がこれに反対
729年 長屋王が謀反の疑いをかけられ、自害(長屋王の変)
「長屋王の変」の半年後の729年8月、光明子は立后し、日本史上はじめて皇族以外からの皇后となりました。同時に、元号が「天平」と改められ、歴史の歯車は大きく転換します。大邸宅だった長屋王邸は朝廷に没収され、のちに光明皇后の宮となりました。なお、この事件が冤罪だったことは、天平9年(737年)に藤原四兄弟が相次いで天然痘で亡くなった後に判明しています。また、この事件は、皇親と結びついて藤原氏に対抗としようとしていた大伴氏にとっても大変な痛手となりました。大伴旅人が長屋王の死を知ったのは、大宰府においてでありました。旅人による長屋王の死を哀悼する歌は残っていません。藤原氏との関係もあり、また太宰帥という立場がそれを憚らせたものとかと思われますが、断腸の思いを禁じ得ない痛恨事だったはずです。
巻第3-268
我が背子(せこ)が古家(ふるへ)の里の明日香(あすか)には千鳥(ちどり)鳴くなり妻待ちかねて |
【意味】
わが友よ、あなたがかつて住んだ古家のある明日香の里には、千鳥が鳴いている。連れ合いが待ち遠しくてならずに。
【説明】
694年の藤原京遷都の後に、明日香を訪れて詠んだ歌とされます。「我が背子」は女性が男性を親しみを込めて呼ぶ語ですが、男性同士でも用います。ここでは長屋王の友人を指しているらしく、荒廃した明日香の里を訪れ、その寂しさを報じた歌のようです。「古家」は、以前住んでいたところの家。「千鳥」は、水辺に棲む鳥。
なお、「妻待ちかねて」の原文は「嶋待不得而」となっており、「嶋」は「嬬」の誤写であるとする説に従っての上記解釈ですが、「嶋」が正当だとすると、千鳥が「棲みつく島を待ちわびて」のような解釈になります。庭園には山水を掘り、中に島を築くのがふつうでしたから、「島」という語で山斎(庭園)を代表させたものといいます。庭園が荒れ果て、水が枯れてしまっていたのでしょうか。
巻第3-300~301
300 佐保(さほ)過ぎて寧楽(なら)の手向に置く幣(ぬさ)は妹(いも)を目離(めか)れず相(あひ)見しめとそ 301 岩が根のこごしき山を越えかねて音(ね)には泣くとも色に出(い)でめやも |
【意味】
〈300〉佐保を通り過ぎ、奈良山の峠に手向けする幣(ぬさ)は、早く妻のもとに帰って逢えるようにと祈るしるしだよ。
〈301〉岩がごつごつと根を張っている山を越える辛さについ声を出して泣くことはあっても、妻への思いを人前で出したりはしない。
【説明】
長屋王が、奈良山に馬をとどめて作った歌2首。「奈良山」は、京都府と奈良県の境の丘陵。300の「佐保」は、奈良市法蓮町・法華町一帯。「手向」は、奈良山の峠を越える際、旅の安全を祈って道祖神を祭る場所。「幣」は、神への捧げ物。旅に出るときに、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らしました。
301の「岩が根」は、大きな岩、「こごしき」は、ごつごつして険しい。「音には泣く」は、声に出して泣く。「色に出づ」は、妻を思う心を表面に表す意。「やも」は、反語。
巻第8-1517
味酒(うまさけ)三輪(みわ)の社(やしろ)の山照らす秋の黄葉(もみち)の散らまく惜(を)しも |
【意味】
三輪山が照り輝くほど紅葉している、その葉の散ってしまうのが惜しいことよ。
【説明】
「味酒」は、うまい酒の意。古くは神酒を「みわ」と言ったことから「三輪」に掛かる枕詞。三輪山は、奈良県桜井市の南東にそびえる山で、別に真穂御諸山(まほみもろやま)といい、山全体が神体とされました。この歌は長屋王26歳のころの作とされ、窪田空穂は、「歌柄が大きく、調べがおおらか」、また「おちついているとともに、若い美しさがある」と評しています。
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賀茂真淵の『万葉考』
江戸時代中期の国学者・歌人である賀茂真淵(1697~1769年)の著書には多くの歌論書があり、その筆頭が、万葉集の注釈書『万葉考』です。全20巻からなり、真淵が執筆したのは、『万葉集』の巻1、巻2、巻13、巻11、巻12、巻14についてであり、それらの巻を『万葉集』の原型と考えました。また、その総論である「万葉集大考」で、歌風の変遷、歌の調べ、主要歌人について論じています。
真淵の『万葉集』への傾倒は、歌の本質は「まこと」「自然」であり「端的」なところにあるのであって、偽りやこまごまとした技巧のようなわずらわしいところにはないとの考えが柱にあり、そうした実例が『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などの歌謡にあるという見解から始まります。総論の「万葉集大考」には以下のように書かれています。「古い世の歌というものは、古いそれぞれの世の人々の心の表現である。これらの歌は、古事記、日本書紀などに二百あまり、万葉集に四千あまりの数があるが、言葉は、風雅であった古(いにしえ)の言葉であり、心は素直で他念のない心である」。
さらに、若い時に『古今集』や『源氏物語』などの解釈をしてきた自身を振り返り、「これら平安京の御代は、栄えていた昔の御代には及ばないものだとわかった今、もっぱら万葉こそこの世に生きよと願って、万葉の解釈をし、この『万葉考』を著した」と記しています。そして「古の世の歌は人の真心なり。後の世の歌は人の作為である」とし、万葉の調べをたたえ、万葉主義を主張して、以後の『万葉集』研究に大きな影響を与えました。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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