巻第1-76~78
76 ますらをの鞆(とも)の音(おと)すなり物部(もののべ)の大臣(おほまへつきみ)楯(たて)立つらしも 77 吾が大君(おほきみ)ものな思ほし皇神(すめかみ)の継ぎて賜(たま)へる我(われ)なけなくに 78 飛ぶ鳥の明日香(あすか)の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ |
【意味】
〈76〉勇ましい男子たちの鞆の音が聞こえる。物部の大臣が楯を立てているらしい。
〈77〉お仕え申し上げる大君よ、ご心配なさいますな。皇祖の神が、あなた様に次いでこの世に下し賜わった、私という者がお側にいるではないですか。
〈78〉明日香の里をあとにして、奈良の都に行ってしまえば、あなたが住んでいたところは見えなくなってしまうのか。
【説明】
76・78が、元明天皇の御製歌。77は、76の歌に御名部皇女(みなべのひめみこ)が和したもの。元明天皇は、天智天皇の第4皇女で草壁皇子の妃、持統天皇の妹にあたります。702年に持統太上天皇が58歳で崩御、そして707年に、子である文武天皇が25歳で崩御したため、孫の首(おびと)皇子(当時7歳、後の聖武天皇)が成長するまでのつなぎとして即位しました(和銅元年:708年)。元明天皇はこの時すでに47歳。御名部皇女は、元明天皇の同母姉にあたります。御名部皇女は高市皇子の妃となっており、長屋王を生んでいました。長屋王は、元明天皇の甥として、この8世紀初頭の30年間に重要な役割を果たす人物です。
76は、宮の近くで将軍が兵の調練をしており、弓を射たときの弓弦の反動を受ける「鞆」の音が聞こえる、と言っています。まことにりりしく、きびきびした調べの歌であり、巻第1-35に、即位より前の、夫の草壁皇子が亡くなって間もない頃に詠んだ歌がありますが、全く別人の感があります。将軍の「物部の大臣」は石上麻呂(いそのかみのまろ)のことで、石上氏はもと物部氏でした。即位間もない天皇の、みちのくの蝦夷の反乱を心配しての御製らしく、77で御名部皇女が「ご心配なさいますな」と御答えしています。姉である皇女が、妹である天皇にこのような雄々しい歌を奉じているのはまことに感慨深いところであり、健気にも女帝を支えていこうとする心意気が窺えます。「ものな思ほし」の「な」は禁止。「なけなくに」は、いないわけではないのに。
なお余談ですが、ここの将軍・石上麻呂は、『竹取物語』中で、かぐや姫に求婚する貴公子の一人として登場する人物です。かぐや姫から、求婚を受け入れる条件として望まれた燕(つばめ)の子安貝を取ろうとして失敗し、腰を折って死ぬというストーリーになっています。
78は、和銅3年(710年)の2月に、藤原宮から寧楽宮(奈良の宮)に遷った時に、御輿を長屋原にとどめて、藤原宮を見たという歌です。「長屋原」は、現在の天理市にあり、ちょうど中つ道の中間点にあたります。中つ道とは、香具山からまっすぐ北に伸びた道で、大和国内には、上つ道、中つ道、下つ道という南北を平行して縦貫する3本の古道(大和三道)がありました。「飛ぶ鳥の」は「明日香」の枕詞。「見えずかもあらむ」の「かも」は詠嘆的疑問、「む」は推量。
なお、現在、「飛鳥」が「あすか」と読まれているのは、「飛ぶ鳥のアスカ」という枕詞があまりに有名になったために、「飛鳥」と書いても「あすか」と読まれるようになったものです。その明日香には、自分たちの祖先のお墓も、自分たちの祖先が営んできた都もあります。しかし、都を発展させるためには、どうしても奈良盆地の北方に遷都する必要があった・・・。実は、元明天皇は遷都には消極的だったといわれます。それを押し切ったのが藤原不比等で、その理由は、藤原京の終わりごろから目立ち始めた政治や世情の行き詰まりを切り開くためといい、さらには遣唐使一行からの報告にあった唐の長安の有様などに大いに刺激を受けたことが考えられます。唐に張り合うための国威を示す必要があったということなのでしょう。
遷都にあたって、元明天皇は、もう一度、明日香の風景を目に焼きつけておきたかったのでしょう。明日香と藤原の地は、実に約100年以上にわたって都の置かれた土地です。かの地で生を受け、暮らした人間の感慨が、ここにあらわれています。「君があたり」は、元明天皇の亡き夫、草壁皇子のお墓だとする説や、草壁皇子の宮殿であった島宮とする説などがあります。
元明天皇の時代には、この平城京遷都をはじめとして、和同開珎(わどうかいちん)の発行(和銅元年:708年)、『古事記』の完成(和銅5年:712年)、さらに『日本書紀』『風土記』の編纂命令など、史上重要な事業や施策が多く行われています。元明天皇は、そうした時代と文化の移行期に生きた人でした。
大和三道
「大和三道」は大和の古道ともよばれ、「山の辺の道」とは別に、奈良盆地の中央から東寄りを南北に平行、等間隔に並んだ縦貫道です。東から順に「上つ道」「中つ道」「下つ道」とよばれ、長さはおよそ4里あります。『日本書紀』の壬申の乱に関する記事で、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前に完成していたとみられています。
利用目的についてはよく分かっていませんが、当時は飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われたため、その資材の運搬のための道路であるとも考えらます。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないかとも推測されています。
現在でも、主要な交通路としての役割を果たしており、昔の面影が残っている所が多く存在しています。
巻第1-79~80
79 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 親(にき)びにし 家を置き こもりくの 泊瀬(はつせ)の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈(かはくま)の 八十隅(やそくま)おちず 万(よろづ)たび かへり見しつつ 玉桙(たまほこ)の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣(ころも)の上ゆ 朝月夜(あさづくよ) さやかに見れば 栲(たへ)のほに 夜(よる)の霜降り 石床(いはとこ)と 川の氷(ひ)凝(こご)り 寒き夜(よ)を 休むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに いませ大君よ 我も通はむ 80 あをによし奈良の宮には万代(よろづよ)に我(わ)れも通はむ忘ると思うな |
【意味】
〈79〉我が大君の仰せを恐れ謹んで、慣れ親しんだ我が家を後にし、初瀬川に舟を浮かべて我らが行く川の、次から次へと続く曲がり角にさしかかるたびに振り返って、我が家の方を見て、漕ぎ進んでいくうちに日が暮れ、やがて奈良の都の佐保川に辿り着いた。仮寝をしてはおった布の上から明け方の月夜が清らかに見え、辺り一面に真っ白な霜が降り、岩床のように川の氷が凝り固まっている。そんな寒い夜でも休むことなく、通い続けて造りあげたこの家に、いついつまでもお住まい下さいませ、我が大君よ。私どももずっと通ってお仕えしましょう。
〈80〉この我らが作った奈良の家には、いついつまでも万代に私も通って参ります。決してこの家を忘れることがあると思し召すな。
【説明】
この歌は「或る本」とあり、78の歌と同じ時期に作られたとして後から追加されたとみられる作者未詳歌です。藤原から奈良への遷都の勅命が下ると、大宮に奉仕すべき大宮人たちは新たに各自の邸宅を建築しなければならないことになり、それに携わった工匠も、藤原から奈良に通って建築に従事しました。この歌は、その工匠が家主に贈ったものです。遷都は和銅3年3月で、天皇はすでに2月に移っていたことが前の歌(78)から分かります。この家主の家はそれに先立って完成しなければならず、歌の内容から、冬の極寒のうちから着手していたことが窺えます。
79の「こもりくの」「玉鉾の」「あをによし」は、それぞれ「泊瀬」「道」「奈良」の枕詞。「親ぶ」は、馴れ親しむ。「泊瀬の川」は、大和川の上流で、その支流の一つである佐保川と合流するまでの称。「八十隈」は、多くの隈。「おちず」は、漏れず。「栲のほに」は、真っ白に。「石床」は、床のように平らになっている岩。家主を「大君」と言っているのは、そう呼ぶにふさわしい人だったと見えます。80の「あをによし」は「奈良」の枕詞。
平城京
710年、天智天皇の皇女である元明女帝は、藤原京の西端の下ツ道を真北に延長し、それを軸に平城京を建設しました。東西4.3km、南北4.8kmの大きさで、南北を走る朱雀大路は72mもの幅がありました。
ただ、現地の地形にかまわず藤原京を平行移動させたので、西の京(右京)は山がちとなり住みづらかったようで、そこで外京(げきょう)とよばれる東側に張り出した区域を作りました。東大寺や興福寺、そして現在の奈良市の中心ははここにあります。
この時代は、仏教の力によって国を守る「鎮護国家」思想が盛んで、聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺を建て、東大寺に大仏を作って仏の加護を祈りました。また、唐から来日した鑑真に戒壇を作らせて僧侶を厳しく統制しました。
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天武皇統の維持
天武天皇崩御後に、ほどなく皇位継承するはずだった草壁皇子が、689年に皇太子のまま薨じたため、その母の持統天皇が正式に即位しました。この時、有力な皇位継承者と目されていたのは、天武天皇の皇子で序列3位の高市皇子でした。高市は、母の身分は低かったものの、天武の皇子の中で最年長であり、壬申の乱では天武の右腕となって活躍した人でしたから、人望もありました。持統は、さすがに大津皇子のように高市を抹殺することはできませんでした。持統の目論見は、草壁の遺児で孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を立太子させ、後に即位させることでしたが、いかんせん軽皇子はこの時わずか7歳でしたので、無理がありました。
そこで、自身が即位し、軽皇子が成長するまでの中継ぎ役となったのです。それでも、もし高市より自分が先に倒れたら、という不安はあったはずです。その時は高市に皇位が移っても仕方ないと考えたようです。しかし、持統にとって幸いなことに、696年7月に高市が病没します。ようやく軽皇子の立太子への道が開けたのです。しかし、天武の皇子たちが他にもいたためにすんなりとはいかず、諸臣の強い反対がある中で強行された立太子だったようです。
そうして皇太子となった軽皇子は、697年8月に、持統天皇から譲位されて14歳で即位し、文武天皇となりました。ところが、文武天皇は、父の草壁と同様に病弱であったため、707年6月、まだ25歳の若さで崩御してしまいます。幸か不幸か、持統はその前の703年に亡くなっていましたから、文武の死を知りません。しかし、持統は、軽皇子の立太子、即位をめざす折に、藤原不比等の助力を得ていました。不比等の娘宮子を、文武天皇の後宮に入内させており、この宮子との間に生まれたのが、この時7歳になっていた首皇子(おびとのみこ)です。
文武天皇の崩御後は、今度は不比等が主導して首皇子への皇位継承を画策します。まずは草壁の妃で文武の母である阿倍皇女(あへのひめみこ:天智の皇女)を中継ぎとして即位させ(元明天皇)、次いで715年9月、娘で文武の姉にあたる氷高皇女(ひだかのひめみこ)が元正天皇として即位します。そして、首皇子が、元正天皇から譲位を受けて即位したのは724年2月、24歳の時のことでした。それが聖武天皇です。
このように、天武天皇から草壁皇子、そして文武、聖武天皇へと続く皇統は、間に2人の中継ぎの女帝を挟むことによって、何とか維持されてきたのです。
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古典に親しむ
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(元明天皇)
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