巻第2-105~106
105 わが背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜深けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡(ぬ)れし 106 二人行けど行き過ぎ難(かた)き秋山をいかにか君がひとり越(こ)ゆらむ |
【意味】
〈105〉私の弟を大和へ帰さなければと、夜が更けて暁の霜が降りるまで、私は立ち尽くしてその露に濡れていました。
〈106〉二人で行っても通り過ぎるのに難儀するあの秋の山を、今ごろどのようにしてあなたは一人で越えているのだろう。
【説明】
題詞に「大津皇子(おおつのみこ)、ひそかに伊勢の神宮に下りて上る時に、大伯皇女の作らす」とある歌。大津皇子は天武天皇の御子で、大柄で容貌も男らしく人望も厚いすぐれた人物だったといいます。異母兄である草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年10月、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして捕らわれ、翌日処刑されました。享年24歳。この事件について『日本書紀』は何も語らず、どのような謀反であったのかという謀反の性格自体も、どうして起こったのかという経緯も不明です。ただ『懐風藻』には、新羅の僧行心なる者が、皇子の骨相を見て「人臣の相ではない。ひさしく臣下の地位にとどまっていると身に禍(わざわい)が起こる」と占ったのに惑わされて、ついに謀反を企てたのだという話が載っています。事件の進展のあまりの早さから、わが子、草壁の安泰を図ろうとする鸕野皇后(のちの持統天皇)の思惑がからんでいたともいわれます。
大伯皇女(大来皇女とも)は大津皇子の同母姉にあたり、斉明天皇7年(661年)の新羅征討の時に、瀬戸内海の大伯(おおく)の海の上(今の岡山県瀬戸内市の沿岸。かつての邑久〈おく〉郡)を通過している時に生まれたから大伯皇女といいます(大津皇子は663年に博多湾の大津で生まれたから大津皇子)。皇女は、14歳の時から伊勢神宮の斎宮となっていました。伊勢神宮は、皇室の祖神である天照大御神を祭る神社であり、天皇の御代ごとに、未婚の内親王が、神に奉仕するため選ばれて伊勢に赴任しました。この制度は、天武朝の大迫皇女に始まったといわれています。
そうして離れ離れに暮らしていた姉弟でしたが、大津は、事件の直前に密かに大伯を訪ねます。大迫はこの時12年も斎宮にあって、すでに26歳になっていました。大津がやって来た理由ははっきりしていませんが、巫女となっていた愛する姉に神意を聞くためだったか、あるいは自分の恥じることなき心を訴えるためだったのかもしれません。姉弟の母である大田皇女は早くに亡くなっていましたから、大津は大伯皇女にとって唯一肉親の情を感じる人間だったろうと思われます。この2首には、訪ねてきた弟を何とか大和へ帰したくない気持ちが切実に表れており、弟を待ち受ける不吉な運命を予感させるような、得も言われぬ不穏な響きがあります。
斎藤茂吉は、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌であるけれども、やはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感じられるとして、『代匠記』に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成(なり)ナラズモ覚束(おぼつか)ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召(おぼしめす)御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、あるいは当たっているかもしれない、と言っています。元々は恋愛の歌だったとしても、この悲劇的な姉弟の史実に適合するような、哀愁の深い別離の歌となっています。
105の「我が背子」は、女性から男性に対する愛称。「遣る」は、頼りない若者を心ならずも立たせる気持ちがこめられた言い方。斎藤茂吉も、この「遣る」という語の効果に注目しています。「暁露」は、原文「鶏鳴露」で、明け方に降りる露。皇女の美しい造語です。106の「いかにか」は、どのように~か。「越ゆらむ」の「らむ」は、推量の助動詞の連体形。
⇒大津皇子の歌(巻第3-416)
⇒大津皇子の死を知らされた大伯皇女が作った歌(巻第2-163~164)
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