巻第2-163~164
163 神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましをなにしか来(き)けむ君もあらなくに 164 見まく欲(ほ)り我(あ)がする君もあらなくに何しか来(き)けむ馬(うま)疲(つか)るるに |
【意味】
〈163〉こんなことなら伊勢の国にいたほうがよかったのに、いったい私は何をしに都へ帰ってきたのだろう、あなたももうこの世にいないというのに。
〈164〉会いたくて仕方ないあなたももういないのに、私は何をしに帰ってきたのだろう、馬も疲れるというのに。
【説明】
大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子で、大柄で容貌も男らしく人望も厚い人物でした。異母兄である草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして自死させられます。享年24歳。ただし、謀反の罪で大津とともに逮捕された30余人は、配流された2人を除き、全員が赦免されています。そのため、この逮捕・処刑劇は、草壁の安泰を図ろうとする鸕野皇后(のちの持統天皇)の思惑がからんでいたともいわれます。
ここの2首は、大津皇子が亡くなり、伊勢神宮にいた大伯皇女(おおくのひめみこ)が斎宮を解任されて都へ戻ってくる時に作った歌です。大津皇子の刑死から約1か月半後のことであり、おそらく、国家の重罪人の肉親であることは穢れた身、ということで大和に戻されたのではないでしょうか。皇女はこの時26歳、都へ帰る理由のないむなしさを歌っており、この上ない悲痛な心中がうかがえます。163の「神風の」は「伊勢」の枕詞。「あらましを」の「まし」は、推量の助動詞。164の「見まく」は見ることの意で、「く」を添えて名詞形にしたもの。
163について斉藤茂吉によれば、「『伊勢の国にもあらましを』の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしいはずなのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に『あらましを』といい、結句に『あらなくに』とあるのも重くして悲痛である」。また窪田空穂は、「しめやかながら引き締まった、言葉少なの表現は、おのずから気品あるものとなっている」、また164について、「この気品と、具象化の手腕とは、まさに皇女のものである」と評しています。
なお、大津皇子にはすでに山辺皇女(やまのべのひめみこ)という妃がおり、『日本書紀』には、大津の死を知って衝撃を受けた皇女が「髪を振り乱して裸足で走って皇子の許へ行き、殉死した。それを見た者はみな嘆き悲しんだ」と書かれています。まだ20歳を超えたくらいの若さだったとされます。
【年表】
672年 壬申の乱
673年 大海人皇子が天武天皇として即位
679年 6皇子による「吉野の盟約」
681年 草壁皇子を皇太子とする
683年 大津皇子が初めて政を聞く
686年 9月9日、天武天皇が崩御
9月24日、大津皇子の謀反が発覚
10月3日、大津皇子が処刑される
⇒大伯皇女が弟の大津皇子を思う歌(巻第2-105~106)
⇒大津皇子の歌(巻第3-416、巻第8-1512)
巻第2-165~166
165 うつそみの人にある我(わ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)とわが見む 166 磯の上(うへ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言はなくに |
【意味】
〈165〉生きて現世に残っている私は、明日からはあの二上山ををいとしい弟と思って眺めようか。
〈166〉水辺の岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。
【説明】
この2首は、題詞に「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かつらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて作りませる御歌」とあります。二上山(今はニジョウサンと呼ばれる)は、奈良県と大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、標高517mの雄岳(おだけ)と標高474mの雌岳(めだけ)の二つの峰からなります。この二峰を男女の二神に見立てて「二神山」とも表記されました。平地のどこからでも、それと指させる山であり、大津の墓は、今も二上山の雄岳の山頂近くに、大和に背を向けるようにして建っています。
花が白く美しく咲く馬酔木(アセビとも)は、その小さい壺の形が鈴なりになっていることから、生命力に満ちた呪的な花といわれ、万葉人は、馬酔木を深く愛したようです。弟を思う大迫皇女の心を語るかのような花であり、二上山の山頂には、今も馬酔木が群生しているといいます。「馬酔木」の漢字名は、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれており、馬が葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされます。
なお、この移葬は一般には、死者を仮安置する殯宮(ひんきゅう)から墳墓に移すことですが、この場合、謀反人である大津のために殯宮が営まれたとは考えにくく、特別な事情で、葬地を他に移したのではないかとする見方があります。そもそも、大津の抹殺は草壁皇子の安泰をはかって行われたものでした。それにもかかわらず、その3年後に草壁は皇太子のまま薨じてしまいます。それを大津の亡魂の祟りだと考え、罪人として正式に葬られていなかった大津の屍を、あらためて二上山に移し、丁重に慰撫し鎮定しようとしたのだといわれます。
飛鳥に戻ってきた大伯皇女には、当時の慣習に従って皇子宮が与えられました。工房跡の遺跡からは、皇女の宮を造るための資材を発注したとみられる木簡が見つかっています。皇女は未婚のまま、大宝元年(701年)12月に41歳で亡くなるまで、この皇子宮で孤独な余生を過ごしたとされます。
165の「うつそみ(うつせみ)」は、この世の人、現世の人の意で、「うつしおみ(現し臣)」が語源とされます。「現し(うつし)」は神の世界に対する人間世界の形容、「臣(おみ)」は神に従う存在のことで、この「うつしおみ」が「うつそみ」「うつせみ」に転じたものです。『雄略記』には、この語が出てくる次のような話が載っています。――
天皇が百官を伴い葛城山に登ると、向かいの山に自分たちと全く同じ装いで同じ行動をとる一行に出会った。天皇は立腹し誰何すると、相手は、葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)と名乗った。天皇は恐れ畏まり、神に対し『恐(かしこ)し、我が大神。うつしおみにあれば、覚らず』と述べた――。天皇が神に不覚を詫びたものであり、「うつしおみ」は、幽界の神に対して自らを現世の臣下である人間と卑下した言葉となっています。大伯皇女の歌の「うつそみの人にある我れや」の言葉にも、幽界へ去った弟への深い喪失感とともに、現世に留まる自身の無力さを嘆く気持ちが込められています。
166の「磯」は、ここでは石、岩のこと。古くは石上(いそのかみ)など、石を「いそ」と呼んでいた例があります。「上」は、あたり、ほとり。
万葉人の死
古代の人々は、人は肉体と霊魂から成るという観念をもっていました。だから、死後、肉体が滅びてからも霊魂は存続すると考えました。霊魂のことを「タマ」と呼び、病気を患ったり死んだりするのは、霊魂の衰弱や遊離によるもので、遊離しそうになっている霊魂を捕え、呼び戻せば人は甦ると信じていたのです。
人が死んだときに死者の名を呼ぶことは、遊離した死者の霊魂を呼び戻し、鎮めることを意味しました。また、霊的なものを身に着ければ、霊魂は充足し、活力が得られると信じていました。
そして万葉人は、歌を詠むことによって、死者への鎮魂と悲しみを尽くそうとしました。愛する人や敬う人の死に際して、万葉人は鎮魂の思いを込めて挽歌を詠んだのです。
古代の葬送は、「殯(もがり)」と「葬(はふ)り」と呼ばれる埋葬に分けられました。殯とは、埋葬前に遺骸を喪屋に安置し、死者の蘇生、復活の儀礼を行うことです。その期間はさまざまで、舒明天皇は約2か月、天武天皇の場合は2年2か月にも及んだといいます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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