巻第2-93~94
93 玉櫛笥(たまくしげ)覆(おほ)ふを易み明けていなば君が名はあれどわが名し惜しも 94 玉櫛笥(たまくしげ)御室(みもろ)の山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ |
【意味】
〈93〉夜がすっかり開けてお帰りになったら、あなたには浮き名が立っても構わないでしょうが、私の名が噂に立つのは困ります。
〈94〉そういうけれども、お前とこうして寝ずには、どうしてもいられないのだ。
【説明】
93は、鏡王女が内大臣・藤原鎌足卿に贈った歌。94はそれに答えた歌。女の歌が先あるのは異例で、おそらくこの前に鎌足の歌があったのだろうといわれます。藤原鎌足は元々は中臣氏の一族で、大化の改新の際に中心的な役割を果たした人物です。初期のころには中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていましたが、その後、中臣鎌足に改名、臨終の際に藤原姓を賜りました。鏡王女は額田王の姉とされ、天智天皇に愛され、後に藤原鎌足の正妻となり、次代の権力者となった不比等を生みます(後世の創作であるとする説も)。
男が女の許から帰るのは、夜が明ける前にひそかに出て行くのが習わしでした。ところが、鎌足は、暗いうちにではなく、夜が明けてから平然と鏡王女の家を出て行こうとします。そこを人に見られては自分に噂が立ってしまうので、鏡王女は「わが名し惜しも」と言ったのです。これを不審として、「君」と「我」が誤って逆になったのではないかとする見方があり、『古今和歌六帖』は、この歌を「玉櫛笥おほふをやすみあけゆかば我が名はありとも君が名をしも」と改めています。これは、男への反発・切り返しを歌う「女歌」ならではのありようを無視した改悪であり、ここはやはり機智が冴えた諧謔の歌とみるべきでしょう。
93の「 玉櫛笥」は「覆ふ」の枕詞。「櫛笥」は、女性が化粧道具を入れる、蓋のある箱。「玉櫛笥覆ふを易み」は、櫛笥の蓋をするのも開けるのも楽だからの意で、夜が明けるの「明けて」に続く序詞としたもの。94の「玉くしげ御室の山のさなかづら」は「さ寝」に続く序詞で、玉櫛笥の中身の「み」から御室山の「み」に続けています。御室山は三輪山のこと。「さなかづら」は、つる性植物のサネカズラ(ビナンカズラ)。その名のように「さ寝」つまり共寝をせずにはいられない、と反撃の形で続きます。こうしたからかいや争いの言葉を投げ合っているのも、互いの愛情や信頼に裏打ちされてのことと感じられるところです。
詩人の大岡信は、ここの贈答歌について次のような見解を述べています。「作者も作歌状況も違うが、この贈答は、ほぼ同時代の人、額田王と大海人皇子との間で交わされた有名な『あかねさす紫野ゆき』と『紫のにほへる妹を』の贈答歌(巻第1-20・21)と共通する性質のもの。女が世間の噂を懸念し、男があえて無視してわが情熱を訴えるという形の一対で、この形式は恋の歌の一種の定石として好まれたのではないかと思われる」。
なお、「玉櫛笥」のほか「玉だすき」「玉藻」「玉床」のように「玉」を接頭語として用いる例が多数ありますが、いずれも単なる美称にとどまらず、この語には、そこに宿る霊威が意識されています。「玉櫛笥」の「櫛」は「奇(く)し」に通じ、もともと巫女が神霊の依り代として髪に挿すものだったことから、櫛には持ち主の霊が宿ると信じられていました。そのため、その櫛を収める箱も大切に扱われ、「玉櫛笥」と呼ばれるようになりました。
ところで、ここの贈答は、『日本書紀』にある三輪山伝説を踏まえているという指摘があります。―― 三輪山の神、大物主(おおものぬし)は、正体を明かさぬまま、夜ごと倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)のもとに通ってきて、まだ暗いうちに帰ってしまう。そこである夜、百襲姫が姿を見たいと懇願すると、大物主は「櫛笥」の中に入っているから、翌朝、それを見るように伝える。百襲姫が「櫛笥」の中を見ると、小蛇が入っていたので、驚き叫んだ。大物主は恥じて空を飛んで三輪山に帰ってしまう。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が女陰を突いたため死んでしまった。百襲姫を葬った墓は、後人によって箸墓と呼ばれるようになった。――というもので、鏡王女は自身を百襲姫に重ねているといいます。すなわち鏡王女の歌にある「玉櫛笥」は、この伝説の「櫛笥」を暗示させており、関係が露見することで私に百襲姫のような恥辱を与えないで下さいと訴え、それを相手が理解しているかを試してもいる。鎌足は「玉くしげ御室の山の」と言って承知した上で、なお共寝をせずにはいられないとの強い意志を表明している、というのです。
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巻第2-95
我(わ)れはもや安見児(やすみこ)得たり皆人(みなひと)の得がてにすとふ安見児得たり |
【意味】
私は今まさに、美しい安見児を娶(めと)った。世の人々が容易には得られない、美しい安見児を娶ったぞ!
【説明】
内大臣・藤原鎌足が、采女(うねめ)の安見児を娶ったときに詠んだ歌です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹の中から容姿に優れた者が選ばれました。身分の高い女性ではなかったものの、天皇の寵愛を受ける可能性があったため、天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられていました。この歌は、鎌足が安身児という采女を我が物にした喜びの歌であり、もちろん天智天皇の許しを得てのことでしょう。「安見児得たり」を2度繰り返しているなど、我を忘れて欣喜雀躍している姿が目に浮かぶようであり、これほど恋の喜びが率直にうたいあげられた歌は珍しいものです。
一方では、この歌が詠まれた背景には次のような事情があったと見る向きもあります。当時、天智天皇は大友皇子を後継者にしたいと考えていたものの、大友の母は采女の出身で、身分的な問題があった。そこで天智は鎌足に安見児を与え、さらにこの歓びの歌を満座で披露させることによって、采女に対する評価を高めようとした、というものです。
いずれにしても気になるのが、この歌の前の93・94にあった、鏡王女に対する鎌足の愛はどうなったのでしょうか。ひょっとして、鏡王女は鎌足の妻となった後も、天智天皇を思い続けていたのでしょうか。91・92にある天智天皇と鏡王女の恋愛の歌からの流れから、ずいぶんと想像をたくましくさせられるところです。もっとも、鏡王女と安見児を同一人とみる説もあり、そこから不比等皇胤説も強調されるようです。
「もや」は、感動の助詞「も」と「や」の複合形。「かて」は、できる、なし得る。「に」は否定の助動詞「ず」の連用形で、「かてにす」は、なし得られない。
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