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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

高市黒人(たけちのくろひと)の歌

巻第3-270~271

270
旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やまもと)の赤のそほ船(ぶね)沖にこぐ見ゆ
271
桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮(しほ)干(ひ)にけらし鶴鳴き渡る
 

【意味】
〈270〉旅先なので何となくもの恋しい。ふと見ると、先ほどまで山裾にいた朱塗りの船が沖のあたりを漕いでいくのが見える。

〈271〉桜田の方へ鶴が鳴いて渡っていく。年魚市潟の潮が引いたらしい。鶴が鳴いて渡っていく。

【説明】
 題詞に「高市連黒人が羈旅の歌八首」とあるうちの2首。高市黒人は柿本人麻呂とほぼ同時代の下級官人。生没年未詳。東国地方に関する歌が多いことから、国庁に仕えていたとみられます。黒人が残している歌はすべて旅の歌であり、しかも彼の歌には、漕ぎ去る舟、飛び去る鳥、落ちていく太陽、散り尽くす落ち葉、荒れ果てた都など、「去る」ものや「消えていく」ものが多く歌われているのが特徴です。それらが消えた(去った)後に一人残る空しさに、黒人独特の旅愁を抱いたようです。なお、ここの8首には、大宝2年(702年)の持統太上天皇の参河(三河)行幸に従駕した時の歌が含まれるとする見方もあります。

 270の「赤のそほ船」の「そほ」は、赤土のことで、船体に赤土を塗った船。そほを塗るのは船体の腐食を防ぐためであり、また、赤い色はもとは魔よけの意味を持っていましたが、後には官船が塗るようになりました。旅先で官船らしき船を見て、都に思いを馳せているのでしょうか。271の「桜田」は、今の名古屋市南区元桜田町。「年魚市潟」は、名古屋市南部の入海だとされます。「鶴」は、歌のことばとしては「たづ」と称し、鶴は餌を求めて干潟に向かって飛んでいく習性があるので、黒人はその姿を見て年魚市潟の潮が引いたと推測しています。

 271について斉藤茂吉は、「一首の中に地名が二つも入っていて、それに『鶴鳴き渡る』を二度繰り返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響きを保持しているのは、内容がこせこせしない為であり、『桜田へ鶴鳴き渡る』という唯一の現在的内容がかえって鮮明になり、一首の風格も大きくなった」と評しています。また、作家の大嶽洋子は、「黒人は禁欲的なほど、枕詞を使わないことに私は気付く。けれどもそれはその土地にある美しい地名に対して敏感であることの裏返しのような気もしてくる」と述べています。

巻第3-272~273

272
四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島(しま)漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)
273
磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)の海(み)八十(やそ)の港に鶴(たづ)さはに鳴く
 

【意味】
〈272〉四極山を越えて、見ると笠縫の島の辺りを漕いで姿を消していった船棚のない小舟よ。

〈273〉出入りの多い琵琶湖の岸を漕ぎ廻っていくと、多くの港ごとに鶴がさかんに鳴いている。

【説明】
 題詞に「高市連黒人が羈旅の歌八首」とあるうちの2首。272の「四極山」も「笠縫の島」も、所在は不明ですが、前後の歌がすべて東国の地を詠んでいるところから、三河国ではないかといわれます。「棚なし小舟」の「棚」は、船の舷側にとりつけた棚板で、それのない小さな舟の意。そのような舟の航海は、できるだけ岸を離れないように船を進めていましたから、すぐに島に隠れて見えなくなってしまいます。273の「廻み行けば」の「廻み」は、迂回すること。琵琶湖沿岸に散在する土地の交通は第一に船によっていましたから、数多くの湊がありました。

 国文学者で歌人の佐佐木信綱は、人麻呂の旅の歌と対照的な黒人の歌について次のように述べています。
 
 ――黒人はいつも来るのが遅すぎる。だから、もう少し早く来れば起きたはずのドラマも出会いもない。黒人はむしろ意識して出会いを避け、ドラマから身をそらしているように見える。一方、人麻呂の歌には出会いを求める姿勢がある。だからドラマがある。人麻呂の歌に見られる劇的な緊迫感は、彼の出会いを重視する心情的な構え、ドラマを詩の核心に捉えようとする意図によるものなのだ。
 もちろん、出会いやドラマがなければならないこともないし、去ってゆくものだけを見つめていてはいけないわけでもない。これは資質のちがいというべきだろう。実際、黒人の、やや不安げではあるけれども、繊細で透明な旅の歌を好む人も多い。そここそが、歌の世界の幅の広さかもしれない。――

巻第3-274~277

274
我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更けにけり
275
何処(いづく)にか我(わ)が宿(やど)りせむ高島(たかしま)の勝野(かちの)の原にこの日暮れなば
276
妹(いも)も我(あ)れも一つなれかも三河なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる
277
早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の高(たか)の槻群(つきむら)散りにけるかも
 

【意味】
〈274〉この船は比良の港に停泊しよう。夜も更けているので、岸から遠く離れないように。

〈275〉今夜は何処に宿ろうか。高島の勝野の原にこの日が暮れてしまうというのに。

〈276〉お前も私も一つだからだろうか、この三河の二見の道から別れることができない。
 
〈277〉もっと早く来て見ればよかった。山背の多賀の、紅葉が美しい欅(けやき)の木々の葉はもう散ってしまっていた。

【説明】
 題詞に「高市連黒人が羈旅の歌八首」とあるうちの4首。274は、自分の乗る船を漕いでいる楫取りに呼びかけ、夜の舟行きを心配している歌です。「比良」は琵琶湖の西岸の地。「な離り」の「な」は禁止。275の「高島」は、滋賀県高島市で、「勝野の原」は比良の北方に広がる野原。この時代の旅行では、その日その日の宿りが最大の関心事であり、そのような場所で夕暮れを迎えてしまった不安を歌っています。「何処にか」は黒人の口ぐせでもあったようで、巻第1-58でも「何処にか船泊すらむ・・・」と歌っています。

 276はの「二見の道」は、浜名湖の北側、愛知県豊川市の姫街道。旅先で接待を受けた遊行女婦との別れを惜しんだ歌とされ、歌の中に「一・三・二」の数字を配した言葉遊びになっています。また左注に、或る本に「三河の二見の道ゆ別れなば我が背も我もひとりかも行かむ」とあるといって、女からの返歌(または土地の歌)が載せられています。あるいは宴会の中で男役・女役に分かれて歌い合ったものかもしれません。

 277の「山背の高」は、京都府綴喜郡井手町多賀。「槻」は、欅(けやき)の古名。かつては「高槻の群(たかつきのむら)」と訓み、「高く槻の木の生えた木群」と解していたようです。斎藤茂吉は「高というのは郷の名でも、作者の意識には『高い槻の木』ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来の説に従って味わってきたように味わうこともできる」と言っています。

巻第3-279~280

279
吾妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ名次山(なすきやま)角(つの)の松原いつか示さむ
280
いざ子ども大和へ早く白菅(しらすげ)の真野(まの)の榛原(はりはら)手折(たを)りて行かむ
 

【意味】
〈279〉いとしい妻よ、お前に猪名野は見せた。今度は名次山と角の松原を、早く見せてやりたいものだ。

〈280〉さあみんな、大和へ早く帰ろう。白菅の茂る真野の榛(はん)の木の林で小枝を手折って行こう。

【説明】
 黒人夫妻に従者が付き添って真野へ遊覧に行った時に詠まれたもので、279は妻に与えた歌。「猪名野」は、現在の兵庫県伊丹市から尼崎市あたりの平野で、伊丹空港がある辺り。「名次山」は、西宮市名次町の丘陵。「角の松原」は、西宮市松原町の海岸。

 280の「子ども」は、若い人々や目下の者に親しんで呼びかけた語。「白菅の」は「真野」の枕詞で、「真野」は、神戸市長田区真野町の辺り。遊覧を十分に楽しんで後、主人である黒人が帰りを促すために詠んだ歌のようです。この歌の次に黒人の妻の答えた歌が載っています。

〈281〉白菅(しらすげ)の真野(まの)の榛原(はりはら)往(ゆ)くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原
 ・・・白菅の生い茂る真野の榛原を、あなたは往き来にいつもご覧になっているのでしょう。私は初めてです、この美しい真野の榛原は。

巻第3-283

住吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見わたせば武庫(むこ)の泊(とま)りゆ出(い)づる船人(ふなびと)

【意味】
 住吉の得名津に立って見わたすと、武庫の港から漕ぎ出す船人が見える。

【説明】
 「住吉」は、大阪市住吉区の住吉大社がある辺り。「得名津」は、大阪市住之江区住之江・安立、住吉区墨江一帯。「武庫の泊り」は、大阪湾の海上3里を隔てた武庫川河口の船着き場。難波津を出た船が最初に停泊するところ。「ゆ」は、~から。船人が見えるというのは誇張した表現で、船がはっきりと見えるというのをそのように表現しています。本当に見えるかというと、絶対に見えません。

巻第3-305

かくゆゑに見じといふものを楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな

【意味】
 このように切なく思うから目にしたくないと言っていたのに、荒れた旧い都をむやみやたらに見せたりして。

【説明】
 人に誘われて近江の旧都(近江京)に赴き、その荒廃しているのを見て詠んだ、愚痴?の歌です。「かくゆゑに」は、このようにあるゆえに。「楽浪」は、大津市北部の琵琶湖岸。「もとな」は、むやみに、わけもなくの意の副詞。「見せつつ」と「もとな」が転置になっています。なお、左注には「或る本には少弁が作といふ。いまだこの少弁といふ者を審らかにせず」と、作者に異伝があるのを記しています。

巻第9-1718

率(あども)ひて漕(こ)ぎ去(い)にし舟は高島の安曇(あど)の港に泊(は)てにけむかも

【意味】
 声を掛け合いながら漕いでいった舟は、今頃、高島の安曇の港にでも停泊したのだろうか。

【説明】
 題詞に「高市が歌」とあり、確証はないものの、歌風や詠まれた土地が湖西の高島付近であることから黒人の作と認められています。巻第9のこのあたりの題詞は非常に不親切で、この歌の前にある山上憶良の歌(1716)も「山上の歌一首」とあるだけです。「率ひて」は、声を掛け合って、または率いて。「高島」は、琵琶湖西北岸の滋賀県高島市。「安曇の港」は、安曇川の河口。

巻第17-4016

婦負(めひ)の野のすすき押しなべ降る雪に宿(やど)借る今日(けふ)し悲しく思ほゆ 

【意味】
 婦負の野のススキを一面に倒しながら雪が降っている。ここで宿を取らねばならないのかと思うと、今日はことに悲しく思われる。

【説明】
 「婦負の野」は、富山県射水市あたりの野。「押しなぶ」は、横に倒す意。黒人は、越中にも旅したことがあるのか、左注には、この歌を伝誦したのは三国真人五百国(みくにのまひといおくに)である、とあります。三国真人五百国の伝は不明ですが、越中国庁に仕えていた人とみられ、天平19年に、国守の大伴家持が記録にとどめていたものです。古歌ですが、この時代まで人々の共感を呼び、伝誦されて生き続けた歌だったことが分かります。

 ただし、これは黒人の歌であることを否定する見方もあります。巻第17は家持の歌日記的な巻であり、この歌のあたりは天平20年(748年)正月頃の歌が並んでいます。その中にぽつんと約50年前の黒人の歌があるのであり、黒人らしい旅愁の歌であることから、伝誦者の三国真人五百国を信じてそのまま「高市黒人の歌」という題詞をつけたのではないか、と。黒人は持統・文武天皇に供奉して行動した人ですが、持統も文武も北陸に行ったという記録はありません。

石上卿の歌ほか

巻第3-287

ここにして家(いへ)やもいづく白雲(しらくも)のたなびく山を越えて来にけり 

【意味】
 ここからだと我が家はどちらの方向になるのだろう。それが分からないほどに、白雲がたなびく山々を越えて、はるばるやって来たものだ。

【説明】
 題詞に「志賀に幸(いでま)す時に、石上卿(いそのかみのまつへきみ)が作る歌」とあります。石上卿は「名は欠けたり」とあり、未詳。志賀への行幸は、歌の前後の配列から、文武朝のころかとみられます。「ここにして」の「ここ」は、志賀。「家」は、大和の我が家。「やも」は、疑問の「や」と詠嘆の「も」。

巻第3-289~290

289
天(あま)の原(はら)振(ふ)り放(さ)け見れば白真弓(しらまゆみ)張りて懸(か)けたり夜道(よみち)はよけむ
290
倉橋(くらはし)の山を高みか夜隠(よごもり)に出で来(く)る月の光(ひかり)乏(とも)しき
 

【意味】
〈289〉大空を遠く振り仰いで見ると、三日月が白い立派な弓を張って輝いている。この分なら、夜道は大丈夫だろう。

〈290〉倉橋の山が高いゆえか、夜遅くなってから出てくる月の光の乏しいことよ。

【説明】
 題詞に「間人宿祢大浦(はしひとのすくねおおうら:伝未詳)の初月(みかづき)の歌」とあります。「初月」は、新月(陰暦3日の夜の月、三日月)。289の「白真弓」は、白木の檀(まゆみ)で作った弓。弦を張った弓の形を三日月に譬えています。ただし、三日月は日没のすぐ後に沈んでしまうため、歌の内容には矛盾があります。
 
 290の「倉橋山」は、奈良県桜井市倉橋の音羽山か。「山を高みか」の「か」は疑問で、山が高いゆえか。「夜隠」は、暁がまだ夜に隠れて明けきらない状態。このころに出る月は20日以後なので、「初月の歌」というのは、289についてのみの題詞とされます。あるいは、「初」は誤入の文字であり、どちらの歌も初月を詠んでいるとはいえないとの見方もあります。いずれにしても、これら2首は、恋人のもとに急ぐ夜道に月の光を頼ろうとする気持ちを詠っており、これから明るさを増す月に心強さを感じる1首目と、出る時刻も遅く乏しくなってきた月の光に心細さを感じる2首目を対比的に詠んでいます。

 なお、巻第9-1763に、沙弥女王(さみのおおきみ:伝未詳)の作として、290の第5句が入れ替わった歌が載っており、どちらが正しい作者か分かっていません。

〈1763〉倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ち難(かた)き
 ・・・倉橋の山が高いゆえか、夜遅くなってから出てくる月が待ちきれない。

巻第3-291

真木(まき)の葉のしなふ背(せ)の山(やま)偲(しの)はずて我(わ)が越え行けば木(こ)の葉知りけむ 

【意味】
 真木の枝葉が美しく生い茂る背の山なのに、ゆっくり愛でるゆとりもなく私は越えて行く。でも、木々の葉はこの気持ちを分かってくれただろう。

【説明】
 題詞に「小田事(をだのつかふ)の背の山の歌」とあります。小田事は、伝未詳。「真木」は、杉や檜などの立派な木。「しなふ」は、若くしなやかな、美しい曲線をなす状態をいう語。「背の山」は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山で、紀ノ川の対岸にある妹山とともによく歌われています。「偲はずて」は、ゆっくり賞美することもできずに。

角麻呂(つのまろ)の歌

巻第3-292~295

292
ひさかたの天(あま)の探女(さぐめ)が岩船(いはふね)の泊(は)てし高津(たかつ)はあせにけるかも
293
潮干(しほひ)の御津(みつ)の海女(あまめ)のくぐつ持ち玉藻(たまも)刈るらむいざ行きて見む
294
風をいたみ沖つ白波(しらなみ)高からし海人(あま)の釣舟(つりぶね)浜に帰りぬ
295
住吉(すみのえ)の岸の松原(まつばら)遠(とほ)つ神(かみ)我が大君(おほきみ)の幸(いでま)しところ
  

【意味】
〈292〉その昔、天の探女(さぐめ)が高天原から乗ってきた岩船が泊った高津は、今では浅瀬になってしまった。

〈293〉潮が引いた難波の御津の海女たちが、篭を持って今ごろ藻を刈り取っているという。さあ、行って見ようではないか。

〈294〉風が激しいので沖の白波が高くなってきたらしい。漁師の釣り舟がみな浜に戻ってきた。

〈295〉住吉の岸の松原は、遠い昔から神でいらっしゃる大君が行幸された所である。

【説明】
 角麻呂は伝未詳。『続日本紀』養老5年(721年)一月条に、優れた陰陽学者として褒賞されている角兄麻呂(つのえのまろ)と同一人かともいわれます。角兄麻呂の官位は従五位下、丹後守。この歌は、難波・住吉行幸に従駕したときの作と想定されています。

 292の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「探女」は『古事記』『日本書紀』に出てくる女の名で、出雲国を平定するため高天原から遣わされた天稚彦(あめわかひこ)の従者。天稚彦が、出雲の勢力に抗しきれず復しないまま8年も経過したため、高天原から、催促のために鳴女(なきめ)という雉(きじ)が遣わされ、探女は天稚彦に勧めて雉を射させた、という伝えがあります。また、探女の乗った岩船(神の乗り物)が泊った所を「高津」と名付けたと伝えられています。「高津」は、大阪市中央区法円坂あたり。
 
 293の「御津」は難波の津。「くぐつ」は、海浜に生えるくぐという名の草で編んだ篭。294の「風をいたみ」は、風が激しいので。295の「住吉」は、大阪市住吉区。「遠つ神」は「我が大君」の枕詞。

田口益人の歌

巻第3-296~297

296
廬原(いほはら)の清見(きよみ)の崎の三保(みほ)の浦(うら)のゆたけき見つつ物思(ものも)ひもなし
297
昼(ひる)見れど飽(あ)かぬ田子(たご)の浦(うら)大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み夜(よる)見つるかも
 

【意味】
〈296〉廬原の清見の崎の三保の浦、そのゆったりとした景色を見ていると、何の物思いも起こらない。

〈297〉昼間に見ても飽きることのない田子の浦を、大君の命を承り、こうして夜になって見ることになった。

【説明】
 田口益人大夫(たぐちのますひとだいぶ)が上野(かみつけ:群馬県)の国司に赴任するときに、駿河の清見の崎で作った歌。「大夫」は、四位・五位の人への敬称で、田口益人は、和銅元年(708年)に従五位上で上野守に任じられました。

 296の「廬原」は、静岡市清水区。古代の豪族廬原氏の地。「清見の崎」は、同市清水区興津清見寺町の海岸。「三保の浦」は、三保の松原付近の入江。297の「田子の浦」は、富士川より西の、静岡市清水区蒲原から由比町にかけての海岸で、現在と位置が異なります。任国に着くまでの日数が定められていたので、楽しみにしていた田子の浦を、仕方なく夜に通ることになったと言っています。

阿倍広庭の歌

巻第3-302・370

302
子らが家道(いへぢ)やや間遠きをぬばたまの夜(よ)渡る月に競(きほ)ひあへむかも
370
雨降らずとの曇(ぐも)る夜(よ)のしめじめと恋ひつつ居(を)りき君待ちがてり
 

【意味】
〈302〉妻が住む家までの道のりはやや遠いけれど、夜空を渡る月に負けずに行き着けるだろうか。

〈370〉雨は降らないが、空一面に曇っている夜に、しみじみと恋い焦がれておりました。あなたをお待ちしながら。

【説明】
 中納言阿倍広庭卿の歌。阿倍広庭(あべのひろにわ)は、右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の子。聖武天皇即位の前後に従三位に叙せられ、神亀4年(727年)に中納言に任ぜられた人で、長屋王政権下で順調に昇進を果たしました。『万葉集』には4首の歌があります。

 302の「子らが家道」は、妻の家までの道。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。月夜に妻の家へ通って行く道中、だんだん傾いてきた月を見て、残りの道程を思い、心もとなさを感じている歌です。

 370の「との曇る」は、一面に曇る。「しめじめと」の原文「潤濕跡」とあるのは難訓で、「ぬるぬると」「潤(ぬ)れ湿(ひ)づと」などと訓むものもあります。上2句からは、じめじめするさま、第4句へはずるずるするさま、あるいは「濡れひたると思って」などと解されます。来訪を約束してある友が到着した時、その喜びをいった歌とされます。

安貴王の歌

巻第3-306

伊勢の海の沖つ白波(しらなみ)花にもが包みて妹(いも)が家(いへ)づとにせむ

【意味】
 伊勢の海の沖の白波が花であったらよいのに。包んで妻へのおみやげにしよう。

【説明】
 伊勢国に行幸された時に、安貴王(あきのおおきみ)が作った歌。安貴王は志貴皇子の孫で、春日王の子。養老2年(718年)2月、元正天皇の美濃行幸に随行した時の作とされます。「花にもが」の「もが」は、願望。花であってほしい。「家づと」は、家へのみやげもの。都人にとって、伊勢の海の荒い波は驚異的だったとみえ、また、白波に花を感じているのは、都人ならではの優美な心といえます。
 
 なお、安貴王が妻の紀女郎を裏切り、因幡の八上采女を娶った際の歌が、巻第4に載っています。→紀女郎の歌(巻第4-643~645)、安貴王の歌(534~535ほか)

門部王(かどべのおほきみ)の歌

巻第3-310・326・371

310
東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
326
見わたせば明石(あかし)の浦に燭(とも)す火(ひ)の穂(ほ)にぞ出(い)でぬる妹(いも)に恋ふらく
371
意宇(おう)の海の河原(かはら)の千鳥(ちどり)汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに
  

【意味】
〈310〉東の市の並木が成長して垂れ下がるまで、あなたに逢わずにいたのだから、恋しく思うのは当然だ。

〈326〉遠く見渡すと、明石の浦に海人の燭す火が見える。その炎のようにはっきりと表に出てしまった、妻への恋しさが。

〈371〉意宇の海に続く河原の千鳥よ。お前が鳴けば、わが故郷の佐保川が思い出される。

【説明】
 門部王は、長皇子の孫とされますが、敏達天皇の孫である百済王の後裔ともいわれます。神亀のころに「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら10余人と共に聖武天皇に仕え、天平11年(739年)に兄の高安王とともに大原真人の氏姓をあたえられました。『万葉集』には5首の歌を残しています。

 321は「東の市の樹を詠みて作る」歌。「東の市」は、平城京の東の市。「うべ」は、もっともだ。326は「難波にありて、海人の燭光を見て作る」歌。上3句は実景であると共に「穂にぞ出でぬる」を導く序詞。「穂にぞ出でぬる」は、表に現れること。371は出雲守に任ぜられていた時の「京を思ふ」歌。「意宇の海」は、島根県の中海。

巻第4-536

意宇(おう)の海の潮干(しほひ)の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を  

【意味】
意宇の海の潮が引いた干潟ではないが、片思いのままあの子を慕いながら行くのだろうか、長い旅の道のりを。

【説明】
 恋の歌。左注に「門部王が出雲守に任ぜられたときに管内の娘子を娶ったが、どれほどの時も経たないのに通わなくなった。何か月か後に再び愛しむ心が起こり、この歌を作って娘子に贈った」との注釈があります。「意宇の海」は、島根県の中海。上2句は「片思」を導く序詞。門部王の出雲在任は、養老3年(719年)以前とされます。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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おもな歌人の収録歌数

市原王 8
大津皇子 4
大伴池主 29
大伴坂上大嬢 11
大伴書持 12
大伴旅人 78
大伴坂上郎女 83
大伴百代 7
大伴家持 477
小野老 3
柿本人麻呂 84
 (重出歌7)
笠金村 45
笠女郎 29
紀女郎 11
久米広縄 9
車持千年 8
元正天皇 5
光明皇后 3
狭野茅上娘子 23
沙弥満誓 7
志貴皇子 6
持統天皇 6
聖武天皇 11
高市黒人 18
高橋虫麻呂 35
橘諸兄 7
田辺福麻呂 44
天智天皇 4
中臣宅守 40
長意吉麻呂 14 
長屋王 5
額田王 12
藤原宇合 6
平群女王 12
山上憶良 75
山部赤人 49
湯原王 16


(柿本人麻呂)


(山部赤人)


(大伴旅人)

万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

風流侍従

 聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。

 神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。


(聖武天皇)

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