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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

山部赤人の歌

巻第3-317~318

317
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽(ふじ)の高嶺は
318
田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にぞ不尽(ふじ)の高嶺に雪は降りける
 

【意味】
〈317〉天と地が初めて分かれた時から、神のように高く貴い駿河の富士の山を、大空に向かい振り仰いで見ると、空を渡る日の光も隠れ、夜空に照る月の光も見えず、白雲も滞って行けず、いつの時も雪が降っている。語り継ぎ、言い伝えていこう、この富士の高嶺を。

〈318〉田子の浦を通って、見晴らしのきく所に出てみると、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている。

【説明】
 山部赤人が富士山を望見して詠んだ長歌と反歌です。山部赤人は奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)です。『古今和歌集』には「人麻呂は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、柿本人麻呂としばしば並び称されます。人麻呂の伝統を継承するものの、長歌よりも短歌の評価が高い歌人です。彼が活躍した時期は、人麻呂より20年ほど後で、聖武天皇即位の前後から736年までの歌(長歌13首、短歌37首)が『万葉集』に残っています。

 317の「分れし時ゆ」の「ゆ」は起点を表す格助詞。「神さびて」は、神のように。「駿河」は、今の静岡県中部地方。「い行きはばかり」の「い」は、接頭語。行くことを拒まれて。「時じくぞ」は、季節に関係なくいつも。「布士」は、万葉仮名による表記。天地開闢から歌い起こし、日・月・雲・雪等の語を配して時間的・空間的広がりを描写、なおその中にあって富士山は偉容であると賛美しています。

 318の「うち出でて」は、視界が遮られていた所から、急に広々とした所に出ること。「田子の浦ゆ」の「田子の浦」は、現在の興津の東方から由比を経て蒲原にいたる海岸。「ゆ」は「~を通って」の意。「不尽」は、万葉仮名による表記。作者の位置を明らかにし、初めて富士山を眼前にした瞬間の感動を詠んでいます。

 これらの歌について、文芸評論家の山本憲吉は次のように述べています。「人麻呂の長歌に較べると息が短く、枕詞を一つも用いず、言葉が連発式につづき、文脈の進行に速度がある。長歌では、不尽山の讃歌を、そのときの状況から切り離して一般的に述べながら、短歌で一転して、田児の浦を出し、そのときの一回的な経験を歌っている。この長短歌の転換の機微が快い。・・・短歌も簡潔で無駄がなく、上二句の字余りによって、悠々迫らぬすべり出しを見せながら、『ゆ、ば、ぞ、に、ける』と助辞を重ねて、緊密な声調をつくり出している。繊細な赤人の歌風としては、珍しく規模の大きい歌いぶりだが、それもやはり不尽山という素材の大きさから来ているのであって、人麻呂の荘重で律動的な歌いぶりとはやはり違った、静的・造型的な手堅さが感じられる」

 なお、短歌は、『新古今集』では「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」として収められており、これによると、「田子の浦に出て眺めてみると、真っ白な富士の高嶺に今まさに雪が降り続いている」といった意味になります。つまり、元の歌が降り積もった雪を一瞬に見てうたったのに対し、改変後は、あたかも長く滞在して見続けたようであり、そもそも雪が降り続いている間は、富士山の頂上雲に隠れて見えるはずがない、たとえ晴れていたとしても遥か彼方に降り続く雪が見えるはずもない、すなわち、あくまで想像の歌ということになります。

 新古今風に、しらべを重んじ、歌の流れを優美にするため変えられたのでしょうが、「白妙」などと飾った言い回しや「降りつつ」などの改ざんによって、本来の力強いひびきや、現場に立った率直な感動が伝わりにくくなっています。古歌とは、見たまま、思ったままを、何の技巧もなく詠むものだと説く賀茂真淵も、「古(いにしへ)は、ただ有(あり)のままにいひつらねたるに、えもいはぬ歌となれる、まこといかで意得(こころえ)ざりけん」といって、改変を強く非難しています。また、後の正岡子規も、「いやしくも客観的に景色を詠む場合には、その地を知らなければ到底よい歌にはならない。それを京都の外に一歩も出ない公卿たちが、歌人は居ながらに名所を知るなどと称して、名所の歌を詠むなどは乱暴極まる」と憤慨しています。

巻第3-322~323

322
皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宜(よろ)しき国と こごしき 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いさには)の 岡に立たして うち思(しの)ひ 辞思(ことしの)ひせし み湯の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神さびゆかむ 行幸処(いでましどころ)
323
ももしきの大宮人(おおみやびと)の熱田津(にきたつ)に船乗(ふなの)りしけむ年の知らなく
 

【意味】
〈322〉天皇たる神の命が治めていらっしゃる国のすべてに、出湯は多くあるけれど、島山の立派な国として、険しい伊予の高嶺の神祭りの岡に天皇がお立ちになり、昔をしのんでお話になった、出湯のほとりの木々を見ると、もみの木はすくすくと育っており、鳴く鳥の声も変っていない、ますます遠く後の代までも神々しくなっていくだろう、天皇がお出ましになったこの地よ。
 
〈323〉むかし都の人々が熱田の港で船出をしたという年は、いったいいつのことだろう。

【説明】
 伊予の温泉(松山市の道後温泉)に行って作った歌です。道後温泉は、少奈毘古那命(すくなひこなのみこと)と大穴持命(おおあなもちのみこと)という二柱の神に由来を持ち、病を癒す効果があるとされ、景行・仲哀・舒明・斉明・天智・天武の各天皇や、神功皇后、聖徳太子が訪れたと伝わります(風土記逸文)。赤人がいつ何用で伊予を訪れたのかは明らかでありませんが、赤人が訪れた最も西の地となっています。

 322の「射狭庭の岡」は、温泉の裏にある標高 70m ばかりの小丘ですが、「伊予の高嶺の」という修飾語がついているのは、伊予の高嶺の名にふさわしい石鎚山脈、高縄山塊の末端にこの岡が位置しているからと考えられています。「臣の木」は、樅木(もみのき)のことで、樹高40m以上にもなる常緑の大高木です。『万葉集』で樅木が詠まれているのはこの1首のみです。323の「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。

 ここでは、かつてこの地に、舒明天皇が皇后(のちの斉明天皇)と共に行幸されたこと(639年)や、663年に斉明天皇の船団が新羅に出兵した際、ここ熱田津に寄港したことに触れています。しかし、この歌が詠まれたのはそれから数十年後であり、赤人が「知らなく」と言うほどに時代は過ぎています。

巻第3-324~325

324
みもろの 神奈備(かむなび)山に 五百枝(いおえ)さし しじに生(お)ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかずら) 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香(あすか)の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜(よ)は 川しさやけし 朝雲(あさぐも)に 鶴(たず)は乱れ 夕霧(ゆうぎり)に かはづはさわく 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ 古(いにしえ)思へば
325
明日香河(あすかがは)川淀(かはよど)さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
 

【意味】
〈324〉神がおすまいになる山にたくさんの枝を差しのべて盛んに繁っている栂の木々。その名のように次々に、玉葛のように絶えることなく、ずっと通い続けたいと思う明日香の古い都は、山が高く川は雄大である。春の日々は山を眺めていたい。秋の夜は川が清らかだ。朝雲に鶴が乱れ飛び、夕霧どきは蛙が鳴き騒ぐ。ああ見るたびに泣けてくる、遠い昔を思うと。
 
〈325〉明日香川の川淀にいつも立ち込めている霧のように、簡単に消えるものではないのだ、我らの慕情は。

【説明】
 題詞に神丘(かみおか)に登って作った歌とあり、廃都となった明日香(天智・持統両天皇の皇宮であった飛鳥浄御原宮)への慕情を詠った歌です。人麻呂の歌をお手本に作ったようです。「神丘」は、奈良県明日香村の雷丘(いかずちのおか)。324の「神奈備山」は、神のいます山の意で、神丘をさしています。「玉葛」は「絶ゆる」の枕詞。「とほしろし」は、雄大である。「見がほし」は、見たい。325の上3句は「思ひ過ぐ」を導く序詞。「川淀」は、川の流れが滞ったところ。

 なお、ここの「恋」は原文では「孤悲」と表記されており、『万葉集』の他の歌にも同じ表記が見られます。万葉仮名には、漢字の音のみを借りる「借音表記」と、意味を考慮した「借訓表記」が混在していますが、「孤独に悲しむ」と書いて「恋」と読ませる万葉人の感性とその妙には恐れ入ります。もっとも、ここで歌われている「恋」は男女の恋情ではなく、「思う、慕う」という感情を指しています。

巻第3-357~362

357
繩(なは)の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島 漕(こ)ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも
358
武庫(むこ)の浦を漕(こ)ぎ廻(み)る小舟(をぶね)粟島(あはしま)をそがひに見つつ羨(とも)しき小舟
359
阿倍(あへ)の島 鵜(う)の住む磯(いそ)に寄する波 間(ま)なくこのころ大和(やまと)し思ほゆ
360
潮干(しほひ)なば玉藻(たまも)刈りつめ家の妹(いも)が浜づと乞(こ)はば何を示さむ
361
秋風の寒き朝明(あさけ)を佐農(さぬ)の岡(おか)越ゆらむ君に衣(きぬ)貸さましを
362
みさご居(ゐ)る磯廻(いそみ)に生(お)ふるなのりその名は告(の)らしてよ親は知るとも
 

【意味】
〈357〉縄の浦の背後に見える沖合の島、その島の辺りを漕ぎめぐっている舟は、釣りをしている最中のようだ。
 
〈358〉武庫の浦を漕ぎめぐっている小舟は、粟島を後ろに見ながら都の方へ漕いで行く。ほんとうに羨ましい小舟よ。
 
〈359〉阿倍の島の、鵜の棲む磯に絶え間なく波が打ち寄せている。その波のように、この頃はしきりに大和が思われる。
 
〈360〉潮が引いたら藻を刈って集めておこう。家の妻が浜の土産を求めたなら、ほかに何も見せるものはないのだから。
 
〈361〉秋風が吹く寒い夜明けに、今ごろ佐農の岡を越えているだろうあなたに、私の着物を貸しておけばよかった。
 
〈362〉みさごが棲む磯の辺りに生えている名乗藻(なのりそ)ではないが、名を教えてほしい。たとえ親が知ったとしても。

【説明】
 6首とも瀬戸内の羈旅歌。357の「縄の浦」は、兵庫県相生市那波の海岸。「そがひ」は、後ろの方。358の「武庫の浦」は、武庫川の河口付近。「粟島」は、淡路島、播磨灘の島、四国の阿波など諸説あります。359の「阿倍の島」は未詳ながら、大阪市阿倍野区とする説があります。上3句は「間なく」を導く序詞。360の「浜づと」は、浜からの土産。361は、陸行の歌。「佐農の岡」は、所在未詳。362は、旅先の女に語りかけた歌。「みさご」は、タカ科の鳥。上3句は「名」を導く序詞。なお、362の或る本の歌として次の歌も載せられています。

〈363〉みさご居る荒磯(ありそ)に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
 ・・・みさごが棲む荒磯に生えている名乗藻(なのりそ)ではないが、ええいままよ、名を教えてほしい。たとえ親が知ったとしても。

巻第3-372~373

372
春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 三笠(みかさ)の山に 朝去らず 雲居(くもゐ)たなびき 容鳥(かほどり)の 間(ま)なくしば鳴く 雲居(くもゐ)なす 心いさよひ その鳥の 片恋(かたこひ)のみに 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 立ちて居(ゐ)て 思ひそ我(わ)がする 逢はぬ児(こ)ゆゑに
373
高座(たかくら)の三笠(みかさ)の山に鳴く鳥の止(や)めば継(つ)がるる恋もするかも
 

【意味】
〈372〉春日の山の三笠の山には毎朝雲がたなびき、カッコウが絶え間なく鳴いている。そのたなびく雲のように心が晴れやらず、その鳴き続けるカッコウのように片恋に泣き、昼は一日中、夜は一晩中、そわそわと立ったり座ったりして、深い思いに沈んでいる。逢ってくれようとしないあの子ゆえに。

〈373〉三笠の山に鳴く鳥のように、止んだかと思うとまた繰り返さずにはいられない、そんな恋を私はしている。

【説明】
 春日野に登った時に作った歌。「春日野」は、奈良市の東部、春日山の麓の緩やかな台地で、今の奈良公園を含む一帯。372の「春日を」は「春日(かすが)」の枕詞。「高座の」は「三笠」の枕詞。「容鳥」は未詳ながら、カッコウではないかとされます。373の上3句は「止めば継がるる」を導く序詞。「継らるる」の「るる」は「~せずにはいられない」の意。自分でもどうしようもない、苦しく切ない片思いを詠んでいます。

巻第3-378

いにしへの古き堤(つつみ)は年深み池の渚(なぎさ)に水草(みくさ)生(お)ひにけり 

【意味】
 昔栄えた邸の庭の古い堤は、長い年月を重ね、池のみぎわには水草が生い繁っている。

【説明】
 題詞に「故(すぎにし)太政大臣藤原家の山池(しま)を詠む」歌とあり、藤原不比等が没した10年以上の後に山部赤人が詠んだ鎮魂歌です。何かの行事に際しての訪問だったと見られます。不比等が薨じた時(720年)は正二位右大臣でしたが、薨後に正一位太政大臣を賜りました。「藤原家」とあるのは諱(いみな)を書くのを憚った言い方で、尊称です。「山池」は、築山や池のある庭園のこと。

 赤人は往時の不比等を目にしていた、あるいは不比等の生前にこの邸を訪れたことがあったらしく、その旧居の庭園の荒廃ぶりを見て、時の移ろいの悲しみを強く感じ、それを具象的に表さずにはいられなくなったのでしょう。しかしながら、直接的に感傷を述べることを避け、また強い調べによることもできず、静かながらも細やかにその思いを表しています。

巻第3-384

我(わ)が屋戸(やど)に韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(お)ほし枯(か)れぬれど懲(こ)りずてまたも蒔かむとぞ思ふ 

【意味】
 わが家の庭に、鶏頭花を種から育てたところ枯れてしまった。けれども懲りずにまた種を蒔こうと思う。

【説明】
 「韓藍」は鶏冠草(とさかぐさ)ともいい、今の鶏頭(けいとう)です。夏から秋にかけて鶏のトサカに似た極彩色の花が咲きます。もとは熱帯アジア原産で、奈良時代に大陸から伝わり、珍重されました。この歌は、その鮮烈な花の色を女性に対する恋心に喩えているともいわれます。失恋を意味しているのでしょうか。

巻第3-431~433

431
古(いにしえ)に ありけむ人の 倭文機(しつはた)の 帯(おび)解(と)き替へて 伏屋(ふせや)立て 妻問(つまど)ひしけむ 葛飾(かつしか)の 真間(まま)の手児名(てごな)が 奥(おく)つ城(き)を こことは聞けど 真木(まき)の葉や 茂(しげ)りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我(わ)れは 忘らゆましじ
432
我(わ)も見つ人にも告げむ葛飾(かつしか)の真間(まま)の手児名(てごな)が奥(おく)つ城(き)ところ
433
葛飾(かつしか)の真間(まま)の入江(いりえ)にうち靡く(なび)く玉藻(たまも)刈りけむ手児名(てごな)し思ほゆ
 

【意味】
〈431〉ずっと昔、ある男が、倭文織りの帯を解き交わして、寝屋を建てて共寝をしたという、葛飾の真間の手児名のその墓所はここだと聞くけれど、木の葉が茂っているからだろうか、松の根が伸びるほど長い期間が経ったからだろうか、その墓の跡はわからないが、昔の話だけでも、真間の手児名という名だけでも、私は忘れることができない。

〈432〉私もこの目で見た。人にも語って聞かせよう、葛飾の手児名のこの墓どころを。

〈433〉葛飾の真間の入江で、波に靡く美しい藻を刈り取っていたという手児名のことがしのばれる。

【説明】
 葛飾の真間(まま)の娘子(おとめ)の墓に立ち寄ったときに、山部赤人が作った歌。「葛飾」は、東京・埼玉・千葉にまたがる江戸川沿岸一帯の地。「真間の手児名」は、市川市真間のあたりにいたという伝説の娘子。後世、男を拒み通した処女とされましたが、この歌にもある通り、すでに男がありました。「倭文機」は、日本古来の単純な模様の織物。「奥つ城」は墓。
 
 斎藤茂吉は、反歌の432について、「伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒いたずらに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている」と評しています。また、文芸評論家の山本憲吉は、432の歌を圧巻としつつ、「手児名の塚を訪ねえたという感動が、直截に波打っていて、ことに『我も見つ、人にも告げむ』と短く言いさした句切れの効果が、最高度に発揮されている」と述べています。
 
真間娘子伝説(巻第9-1807~1808)

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人麻呂と赤人の歌風の違い
 明治から昭和初期にかけて活躍した歌人の中村憲吉は、人麻呂と赤人のそれぞれの歌風について、次のような論評を行っています。
 
 ―― 人麻呂の歌の上に現れるものは、まず外部に向かって強く興奮する意志感情と、これを自在に斡旋する表現才能とである。しかしこの興奮も気魄もまたその表現才能も、畢竟は作者が内に真摯の生命を深くひそめていてこそ、はじめてその強い真実性の光を放つのであって、然らざる限りは、これらの特色はただその歌を一種のこけおどし歌たらしめ、浮誇粉飾を能事とする歌たらしむるに過ぎないであろう。
 
 この人麻呂の歌風の陥るべき危険性については、賀茂真淵が早くより「上つ代の歌を味ひみれば、人麻呂の歌も巧を用ひたるところ、猶後につく方なり」といい、伊藤佐千夫も「予が人麻呂の歌に対する不満の要点をいえば、(1)文彩余りあって質これに伴わざるもの多きこと、(2)言語の慟が往々内容に一致せざること、(3)内容の自然的発現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風あること、(4)技巧的作為に往々 匠氣(しょうき:好評を得ようとする気持ち))を認め得ること」といい、島木赤彦も「人麻呂は男性的長所を最もよく発揮し得た人であって、歌の姿が雄偉高邁であると共に、その長所に辷り過ぎると、雄偉が騒がしくなり、高邁が跳ねあがり過ぎるという欠点があるようである」といって注意の目を放ったところである。
 
 赤人の歌はこれに反して、感情の興奮を内に深く鎮めて蔵するところにその特色が存し、もって人麻呂の表現態度とは対蹠的の立場にあることを示している。これは畢竟赤人の敬虔温雅な趣味性格に帰着する問題であるが、これがために赤人の歌の表現態度は人麻呂に比して、消極的で穏正であって、その意志感情を直接対象の上に活躍せしめていない。だから赤人の歌では対象はその素朴平明な姿をありのままに現わしていて、その客観性は厳然と保有されている。故に何らかの作者の主観感情が直接読者の胸にふれてくるとしたらば、それはこの客観性のある微妙なる間隙から油然としてしみ出ずるがためである。赤人の歌では外面に現れているものは、事象の真であって作者の意志感情の力ではない。しかし文学上の真は一般的の真とは異なり、事象を把握する感情の深浅強弱によって成立するが故に、対象の客観的描写のなかに作者の深くひそめる感奮と情熱があってこそ、はじめてその歌が生気を帯び、光彩を放ってくるのである。然らざる限りは、この種の歌の外形的描写の自然さも、素直さも、平明さも、畢竟は無気力と平板と乾燥無味とを意味するものに他ならないのである。これ赤人が一歩あやまれば陥るべき病所なのである。―― 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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主要歌人の生年

593年 舒明天皇
614年 藤原鎌足
626年 天智天皇
630年 額田王
631年 天武天皇
640年 有馬皇子
645年 持統天皇
654年 高市皇子
660年 山上憶良
660年 元明天皇
661年 大伯皇女
662年 柿本人麻呂
663年 大津皇子
665年 大伴旅人
668年 志貴皇子
673年 弓削皇子
676年 舎人皇子
680年 元正天皇
681年 藤原房前
683年 文武天皇
684年 長屋王
684年 橘諸兄
694年 藤原宇合
700年 山部赤人
700年 大伴坂上郎女
701年 聖武天皇
701年 光明皇后
706年 藤原仲麻呂
715年 笠金村
715年 藤原広嗣
718年 大伴家持
718年 孝謙天皇
721年 橘奈良麻呂

(生年不詳の歌人を除く)


(山部赤人)

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枕詞あれこれ

あかねさす
「日」「昼」に掛かる枕詞。「赤く輝く」もの、」すなわち太陽を意味する。また、茜(あかね)色に近い「紫」の枕詞にも転用されている。

秋津島/蜻蛉島(あきづしま)
「大和」にかかる枕詞。「秋津島」は、日本の本州の古代の呼称で、『古事記』には「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、『日本書紀』には「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)と、表記している。また「蜻蛉島」は、神武天皇が国土を一望してトンボのようだと言ったことが由来とされている。

朝露の
「消」に掛かる枕詞。朝露は消えやすいところから。

あしひきの
「山」に掛かる枕詞。語義未詳ながら、足を引きずってあえぎながら登る意、山すそを稜線が長く引く意など諸説がある。

あぢむらの
「あぢむら」は、アジガモ(味鴨)。アジガモが群がって騒ぐことから、「騒く」にかかる枕詞。

梓弓(あづさゆみ)
梓弓は、梓の丸木で作られた弓。弓を射る動作から「はる」「ひく」「いる」などに掛かる。また弓に付いている弦(つる)から同音の地名「敦賀」に、弓の部分の名から「末」などにも掛かる。
 
天伝ふ
「日」に掛かる枕詞。「天(大空)を伝い渡っていく」もの、すなわち太陽を意味し、「日」の修飾ではなく、同格の関係にある。「天知るや」「高照らす」「高光る」なども同様。

天飛ぶや
「鳥」「鴨」に掛かる枕詞。空高く飛ぶことから。また、「雁」を転用して「軽(かる」にも掛かる。

荒妙(あらたへ)の
「藤」に掛かる枕詞。荒妙は、木の皮の繊維で作った粗い布で、おもに藤をその材料としていたことから。

あらたまの
「年」に掛かる枕詞。語義未詳で、一説に年月が改まる意からとも。ほかに「月」「春」「枕」などに掛かる。

あをによし
「奈良」に掛かる枕詞。奈良坂の付近で青丹(あおに)を産したところから。青は寺院や講堂などの、窓のようになっている部分の青い色、丹は建物の柱などの、朱色のこと。

鯨(いさな)取り
「海」に掛かる枕詞。鯨(いさな=クジラ)のような巨大な獲物がとれる所として海を賛美する語。ほかに「浜」にも掛かる。

石上(いそのかみ)
「石上」は、今の奈良県天理市石上付近で、ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などに掛かる枕詞。

うちなびく
「春」に掛かる枕詞。春は草木が打ち靡く季節であるから。

打ち日さす
「宮」「都」に掛かる枕詞。日の光が輝く意から。

うつそみの
「人」「世」に掛かる枕詞。語源は「現(うつ)し臣(おみ)」で、この世の人、現世の人の意。「臣」は「君」に対する語で、神に従う存在をいう。ウツシオミがウツソミと縮まり、さらにウツセミに転じた。

味酒(うまさけ)
「三輪」に掛かる枕詞。うまさけ(味酒:味のよい上等な酒)を神酒(みわ)として神に捧げることから、同音の地名「三輪」に掛かる。また、三輪山のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにも掛かる。

押し照る
地名の「難波」にかかる枕詞。上町台地からながめた大阪湾が夕陽で一面に光り輝く様をあらわす。かつては上町台地が大阪湾に面する海岸だった。

沖つ藻(も)の
「靡く」に掛かる枕詞。海藻は波に靡くところから。

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