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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

真間娘子(ままのをとめ)伝説

巻第9-1807~1808

1807
鶏(とり)が鳴く 吾妻(あづま)の国に 古(いにしへ)に ありける事と 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿(かつしか)の 真間(まま)の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あをくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を 裳(も)には織り着て 髪だにも 掻きは梳(けづ)らず 履(くつ)をだに 穿(は)かず行けども 錦綾(にしきあや)の 中につつめる 斎(いは)ひ子も 妹(いも)に如(し)かめや 望月(もちづき)の 満(み)れる面(おも)わに 花の如(ごと) 笑(ゑ)みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 水門(みなと)入(いり)に 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒(さわ)く湊(みなと)の 奥津城(おくつき)に 妹(いも)が臥(こや)せる 遠き代(よ)に ありける事を 昨日(きのふ)しも 見けむが如(ごと)も 思ほゆるかも
1808
勝鹿(かつしか)の真間(まま)の井を見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈(てごな)し思ほゆ
 

【意味】
〈1807〉東国に昔あったこととして、今までずっと言い伝えられてきた勝鹿の真間の手児奈は、麻の衣に青い衿(えり)をつけ、麻糸だけで裳を織って着て、髪もとかさず、履さえもはかず歩くのに、美しい錦や綾の中にくるんで大切に守り育てた姫君も、この娘に及ぼうか。満月のようにふくよかな顔で、花のように微笑んで立つと、夏の虫が火に飛び入るように、港に入ろうと船がひしめいて漕ぎ急ぐように、男たちが集まってきては求婚した。その時、人間はどれほども生きられるわけでもないのに、何のために、手児奈は自分の身の末まで思いつめたものか、波の音のひびく港の墓に永遠に眠ることとなった。遠い昔の出来事が、まるでつい昨日見たことのように思われてしかたがない。

〈1808〉勝鹿の真間の井戸を見ると、地面が平らになるほど何度も行き来して、水を汲んでいただろう手児奈のことが思われる。

【説明】
 高橋虫麻呂が、葛飾の真間のあたりにいた乙女を詠んだ歌です。「手児奈(てこな)」は少女の名とする説や、「手児」を若い娘、「奈」を愛称の接尾語として、いとしい娘の意の普通名詞と考える説があります。巻第14の東歌の中にも「手児」が出てくる歌がいくつかあります。その昔、武蔵や上総の国では小児のことをテゴと言ったそうで、西日本では人形のことをデコと言いますから、テコには可愛らしい意味があるように感じられます。
 
 貧しい手児奈は、麻の衣服に裸足という粗末ななりで労働に明け暮れしていましたが、絶世の美女だったことから、大勢の男性に求愛されました。しかし彼女はそれを拒み、思い悩んだ挙句に入水自殺したといいます。このような、複数の男が一人の女を争い、女がそのために死を選んだという悲恋物語は、古代日本の多くの文献に見られます。巻第9にある「菟原処女(うなひをとめ)」の伝説の歌や、巻第16にある桜児(さくらこ)縵児(かずらこ)などの物語もその一つです。
 
 1807の「鶏が鳴く」は「吾妻」の枕詞。吾妻(東国)の言葉が分かりにくく、鶏の鳴くように聞こえたところから言うようになったという説があります。「勝鹿(葛飾)」は、埼玉県・東京都東部・千葉県西北部にわたる江戸川流域の広大な地域。「真間」は、市川市に真間町がありますが、そこも含めた国府台(こうのだい)一帯。この時代には海岸が近かったといいます。「青衿」は、青色の襟。「斎ひ子」は、大切に育てている娘。「妹に如かめや」は、この娘に及ぼうか、及びはしない。「望月の」は、満月のように。「満れる」は、充足して欠けたところのない。「面わ」は、顔。「行きかぐれ」は語義未詳ながら、「かぐる」は求婚する意か。「何すとか」は、どうするとしてか。「たな知りて」は、すっかりわきまえて。1808の「井」は、井戸。「立ち平し」は、地面が平らになるほど何度も行き来して。「汲ましけむ」の「し」は敬語、「けむ」は過去推量。

 手児奈が毎日水を汲んでいたと伝わる井戸がある場所には、現在、亀井院と呼ばれる寺院が建っています。「井」とは、水を得るための場所や施設を言い、生活用水だけでなく宗教的行事にも用いられました。いわゆる掘り抜き井戸のほか、川や池に設けられた水場や水が湧き出る場所なども、すべて「井」と呼ばれました。古代、水がほとばしり出る場や水の激(たぎ)ち流れる場は、聖なる場所とされ、「井」の水も絶えず溢れ出ているため、そうした「井」も聖所、その水は聖水とされました。神が降臨する場とされた井には、神に奉仕する聖なる女(巫女)がおり、しばしば理想の美女として思い描かれ、男たちの憧憬の対象となりました。そうした原像があったためか、ここでも理想の美女として捉えられるようになったのかもしれません。
 
 真間の手児奈の伝説は当時すでに有名だったらしく、ここの高橋虫麻呂の長歌と反歌のほか、山部赤人の長歌と反歌(巻第3-431~433)があります。二人はほぼ同時期の人とされますが、山部赤人が中央官僚だったのに対し、高橋虫麻呂は地方官吏として関東の常陸国に赴任した経歴がある人です。そのためか、彼の作品には関東の伝説を題材にした歌が多いという特色があります。なお、聖武天皇の要請により東大寺の大仏造立に協力した行基が、手児奈の悲劇を哀れに思い、その霊を弔うため、天平9年(737年)に弘法寺(ぐほうじ:当初は求法寺)を開いています。

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『万葉集』以前に存在した歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。
 
■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。

 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 
 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉時代の年号

大化
 645~650年
白雉
 650~654年
 朱鳥まで年号なし
朱鳥
 686年
 大宝まで年号なし
大宝
 701~704年
慶雲
 704~708年
和銅
 708~715年
霊亀
 715~717年
養老
 717~724年
神亀
 724~729年
天平
 729~749年
天平感宝
 749年
天平勝宝
 749~757年
天平宝字
 757~765年

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