巻第3-392
ぬばたまのその夜(よ)の梅を手忘(たわす)れて折らず来(き)にけり思ひしものを |
【意味】
あの夜に見た梅を、うっかり忘れて手折らずに来てしまった。あの花がよいと、深く心に留めておいたのに。
【説明】
梅を女性に喩え、目をつけていた女性を手に入れる機会をうっかり逸してしまったことを悔やんでいます。といっても、宴席で詠まれた座興の歌のようです。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。ぬばたま(射干玉、烏玉)はアヤメ科の多年草ヒオウギの種子。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来し、そこから、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。「手忘れ」は他に見えない語ながら、「手(た)」は「たなびく」「たもとほる」などと同様の、動詞につく接頭語と見られています。「折る」は、契りを結ぶことの譬え。
大伴百代(おおとものももよ:生没年未詳)は 、天平初期に大宰大監(だざいのだいげん:大宰府の3等官の上位)をつとめ、その後帰京し、兵部少輔、美作守(みまさかのかみ)を経て、天平15年に筑紫鎮西府副将軍、のち豊前守(ぶぜんのかみ)となりました。大伴旅人・家持父子とも親交があり、大宰府在任中に大伴旅人邸で開かれた梅花宴に出席し、歌を詠んでいます(巻第5-823)。『万葉集』には7首の歌を残しています。
ちなみに、大宰府の官職には、長官である帥(そち)の下に、権帥(ごんのそち)・大弐(だいに)・少弐(しょうに)・大監(だいげん)・少監(しょうげん)・大典(だいてん)・少典(しょうてん)以下があり、別に祭祀を担う主神(かんづかさ)がありました。
559 事もなく生き来(こ)しものを老いなみにかかる恋にも我(あ)れは逢へるかも 560 恋ひ死なむ後(のち)は何せむ生ける日のためこそ妹(いも)を見まく欲(ほ)りすれ 561 思はぬを思ふと言はば大野なる御笠(みかさ)の(もり)杜の神し知らさむ 562 暇(いとま)なく人の眉根(まよね)をいたづらに掻(か)かしめつつも逢はぬ妹(いも)かも |
【意味】
〈559〉これまで何事もなく生きてきたのに、しだいに老いる頃に、何とまあ、こんな苦しい恋に出会ってしまいました。
〈560〉恋い焦がれて死んでしまったら何の意味もありません。生き長らえている今日の日のために、あなたの顔を見たいと思うのに。
〈561〉あなたのことを思ってもいないのに、恋い焦がれているなどと言ったら、大野の御笠にある神社の神様がお見通しで、私は罰を下されるでしょう。
〈562〉しきりに人の眉を掻かせておきながら、なかなか逢ってくれようとしないあなたです。
【説明】
題詞に「恋の歌4首」とあります。559の「事もなく」の「事」は、不幸な事件の意。「老いなみに」は、しだいに老いる頃に。「かも」は、詠嘆。560の「見まく」は「見る」の名詞形。561の「大野なる御笠の杜」の「なる」は「にある」の約で、『日本書紀』にも登場する、福岡県大野城市山田の社。562は、眉がかゆくなると好きな人に逢える前兆という、当時のおまじないを踏まえています。なぜ眉がかゆくなると恋人に逢える前兆とされたのかは、中国古典の恋愛文学『遊仙窟』に「昨夜根眼皮瞤 今朝見好人(昨夜、目の上がかゆかった、すると今朝あの人に会えた」という一文があり、その影響ではないかといわれます。
歌を贈った相手が誰だか書かれていませんが、当時、兄の旅人に伴われて大宰府にいた大伴坂上郎女がこれに答えたと見られる歌が563・564に載っています。宴席での歌のやり取りだったとみられます。坂上郎女はこのころ30代半ばで、恋多き女だった女盛りの郎女に、百代は心を奪われてしまったのかもしれません。ただ、窪田空穂は559の歌について、「苦しみそのものをあらわすことができず、その輪郭をいっているにすぎないので、訴える力の足りないものとなっている」と評し、また560~562の歌も古歌から取っていることから、「歌才の少ない人だったとみえる」と述べています。
巻第4-566~567
566 草枕(くさまくら)旅行く君を愛(うるは)しみたぐひてぞ来(こ)し志賀(しか)の浜辺を 567 周防(すは)なる岩国山(いはくにやま)を越えむ日は手向(たむ)けよくせよ荒(あら)しその道 |
【意味】
〈566〉都に向かって旅立つあなた方が懐かしいので、つい、志賀島の浜辺まで寄り添って来てしまいました。
〈567〉周防の国の岩国山を越えていく日には、峠の神に心を込めてお供え物をしてください。険しくて危険な道ですから。
【説明】
題詞に「大宰大監(だざいのだいげん)大伴宿禰百代ら、駅使(はゆまづかひ)に贈る歌2首」とあり、566が大宰大監(大宰府の3等官)大伴百代の歌、567が小典(同4等官)山口忌寸若麻呂(やまぐちのいみきわかまろ)の歌です。山口忌寸若麻呂は伝未詳。「駅使」は、駅馬で都から大宰府に馳せ参じた使いのこと。
左注にこれらの歌の作歌事情の説明があり、それによると、天平2年(730年)の夏6月、大宰帥の大伴旅人卿の足に、にわかに腫れ物ができて病の床に苦しんだ。そこで朝廷に急使を派遣して伝え、腹違いの弟の稲公(いなぎみ)と甥の胡麻呂(こまろ)に遺言したいと願い出た。そこで朝廷は二人に勅命を下し、駅馬の許可を与えて出発させ、旅人卿の看病をおさせになった。すると、数十日が過ぎて幸運にも平癒した。稲公らは、旅人卿の病がすっかり治ったというので、大宰府を発って都に上ることにした。大伴宿祢百代、山口忌寸若麻呂と旅人の子の家持らは、皆で駅使を見送ることにし、一緒に夷守(ひなもり)の駅家(うまや)に着き、わずかながら酒宴を開いて別れを悲しみ、これらの歌を作った。
566の「草枕」は「旅」の枕詞。「旅行く君」は、都へ帰る駅使を指しています。「愛しみ」は、懐かしいので。「たぐひて」は、寄り添って。「志賀の浜辺」は、博多湾の志賀島へ通じる浜道で、都への往還路。567の「周防なる」は、周防国(山口県東南部の地域)にある。「岩国山」は、岩国市西方の欽明路峠か。「手向け」は、神に幣を奉ること。なお、左注にある「夷守」は、所在未詳。ここに同道した家持はこの時13歳で、旅人の名代として駅使を見送ったようです。当時の急使は、平城京と大宰府の間を4、5日で走ったといわれます。
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大宰府について
7世紀後半に設置された大宰府は、九州(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9か国と壱岐・対馬の2島)の内政を総管するとともに、軍事・外交を主任務とし、貿易も管理しました。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。府には防人司・主船司・蔵司・税司・厨司・薬司や政所・兵馬所・公文所・貢物所などの機構が設置されました。
府の官職は、は太宰帥(長官)、太宰大弐・太宰少弐(次官)、太宰大監・太宰少監(判官)、太宰大典・太宰少典(主典)の4等官以下からなっていました。太宰帥は、従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねるものとされていましたが、9世紀以後は、太宰帥には親王が任じられれる慣習となり、遙任(現地には赴任せず、在京のまま収入を受け取る)となり、権帥が長官(最高責任者)として赴任し、府を統括しました。なお、菅原道真の場合は左遷で、役職は名目なもので実権は剥奪されていました。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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