本文へスキップ

万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)の歌

巻第3-379~380

379
ひさかたの 天(あま)の原より 生(あ)れ来(きた)る 神の命(みこと) 奥山の 賢木(さかき)の枝に 白香(しらか)付く 木綿(ゆふ)取り付けて 斎瓮(いはひへ)を 斎(いは)ひ堀りすゑ 竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂(た)れ 鹿(しし)じもの 膝(ひざ)折り伏して たわやめの 襲(おすひ)取りかけ かくだにも 我(わ)れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも
380
木綿(ゆふ)たたみ手に取り持ちてかくだにも我(わ)れは祈(こ)ひなむ君に逢はじかも
 

【意味】
〈379〉高天原の神の御代から生まれ出た先祖の神よ。奥山から取ってきた賢木の枝に白香や木綿を取り付けて、かめを土を掘って据え付け、さらに竹玉を連ねて垂らす。私は獣のように膝を折って伏せ、たわや女なので薄衣を羽織り、こんなにまでして祈っています。愛しいあの人に逢えないかと思って。
 
〈380〉木綿で作った敷物を両手に捧げ、これほどにお祈りしています。愛しいあの人に逢えないかと思って。

【説明】
 「神を祭る」歌。左注に、天平5年(733年)11月に大伴氏の氏神を祭った折に作った歌とあります。379の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「賢木」は、清浄として選ばれた木。「白香付く」は「木綿」の枕詞。「木綿」は、楮(こうぞ)の繊維を白くさらした幣帛(へいはく)。「斎瓮」は、神酒を盛る土器。「竹玉」は、細い竹を輪切りにして緒を通した祭具。「鹿じもの」は、猪鹿のように。「たわやめ」は、しなやかな女性。「襲」は、神事の衣服。「かくだにも」は、これほどまでにも。
 
 大伴坂上郎女(生没年不明)は、大伴安麻呂と内命婦石川郎女との間にできた娘で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたります。若い時に穂積皇子(ほづみのみこ)に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となりますが、すぐに麻呂は離れてしまいます。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)と二嬢(おといらつめ)を生みました。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となりました。
 
 『万葉集』の女性歌人としては最も歌の数が多く、題材も、祭神歌、挽歌など多岐にわたります。作風は、洗練の度を加えた時代的な好尚を反映して、とりわけ恋の歌において即興的・機知的な才を遺憾なく発揮しています。とはいえ、決して才走ることなく、圭角のない気品に満ちた、そして、あくまで女っぽい歌人であったと感じられます。また、旅人の死後は、家刀自として一族をとりしきった逞しい女性でもありました。この歌が詠まれたのはまさにそんな時であり、郎女は40歳前後、旅人が没して2年余後にあたります。
 
 ここで郎女は、氏の神を祭るという一族における自身の立場を明確に示し、大仰な祈願をしているように見えるものの、長歌の末尾と反歌の語句が、いかにも恋の成就を願うようになっています。こうした神懸かり的な愛の表現が、当時としては普通のことであったのか、それとも、亡夫の宿奈麻呂を背景に詠まれた、あるいは同じく氏神の列に加わったばかりの旅人の霊のよみがえりを訴えたものではないかともいわれます。

 なお、郎女の結婚歴について、作家の大嶽洋子は次のように語っています。「藤原麻呂との恋を失った後、郎女は年老いた異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁ぐ。どうして、このような当代随一ともいえそうな才色兼備の女性が、よりにもよって再び歳の離れた男性と再婚したのだろう? 勿論、これは推測なのだが、老いたるとはいえ、稀代のフェミニストにして優男の穂積皇子との優しい生活の影響があったと私は思う。身を焼き尽くすような激しい恋の苦しさを充分に味わった末、傷を癒すために穏やかな世界へ逃げ込んだのではないかと。しかし、宿奈麻呂も高齢ですぐに死んでしまうが、郎女には坂上大嬢と二嬢の二人の娘が残される。この頃から、郎女は心に幾重もの薄衣を巻いて、真の恋を避ける用心をしていたのではないか。歌の様相が理知的になってくる」

 坂上郎女の母・石川郎女は、蘇我氏の血を引く名門であり、坂上郎女はその血を引く唯一の女子でした。父の安麻呂は郎女を皇室に嫁がせようと早くから考え、念願かなって穂積皇子に嫁がせることができました。10代後半のころだったとされ、郎女の歌の注に「寵(うつくしび)を被(かかふ)ること儔(たぐひ)なし」(巻第4-525~528)とあるように、厚い寵愛を受けたことが記されています。しかし、子を授からぬまま、皇子は亡くなってしまいます。郎女がまだ20歳ころだったとされ、わずか2年足らずの結婚生活でした。しかし、郎女が穂積皇子という皇族と結婚したという経歴は、その後の彼女の気概や誇りとなるものであったろうし、作歌活動にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。

巻第3-401

山守(やまもり)のありける知らにその山に標(しめ)結(ゆ)ひ立てて結ひの恥(はぢ)しつ

【意味】
 すでに山を管理する山番がいたとも知らず、その山にしめ縄を張るなんて、私はすっかり恥をかきました。

【説明】
 親族と宴会をした日に作った歌。郎女が二女の坂上二嬢と結婚させようとしていた大伴駿河麻呂に対し、すでに女がいるのではないかと、暗にうかがった歌とされます。「山守」は、山を守る人のことで、本来は女の夫に喩えますが、ここでは駿河麻呂を女に見立てて戯れに歌いかけています。これに対して駿河麻呂が直ちに答え、次のようにうたっています。

〈402〉山守(やまもり)はけだしありとも我妹子(わぎもこ)が結(ゆ)ひけむ標(しめ)を人解(と)かめやも
 ・・・山番がもしいたとしても、あなたが張ったしめ縄なら、それを解く人は決していないでしょう。

 すなわち、郎女に逆らう人などいないと、わざと恐縮してみせています。「けだし」は、もし。ただ、これらの歌には違った解釈もあり、401は「娘の二嬢とあなたが既に誓い合った仲である(山に山守がある)のを知らずに、娘を守ろう(標結ひ立てて)としたのは、全く恥ずかしいことでした」と、娘をよろしくと駿河麻呂に言っており、402は「母親の正式な許し(結んだ標を解く)がなければ、いくら山守であってもどうしようもない」と答えて喜んでいるとするものです。いずれにしても親族の面前でのやり取りであり、座は大いに湧いたことでしょう。

巻第3-410

橘(たちばな)をやどに植ゑ生(お)ほし立ちて居て後(のち)に悔ゆとも験(しるし)あらめやも

【意味】
 橘の木を庭に植え育てて、その間じゅう立ったり座ったり心配したあげく、人に実を取られて悔やんでも、何の甲斐がありましょう。

【説明】
 橘を娘の二嬢に譬え、大切にしてきた娘を下手な男にはやれないという意が込められた歌です。「橘」は、ミカン科の常緑高木で、古くは柑橘類の総称とされていました。「立ちて居て」は、立ったり座ったりしていつも気にして。「やも」は反語。

 これに対して大伴駿河麻呂が答え、次の歌を返しています。

〈411〉我妹子(わぎもこ)がやどの橘(たちばな)いと近く植ゑてし故(ゆゑ)にならずはやまじ
 ・・・あなたのお庭の橘は、あまりに私に近く植えてあるものですから、我がものとしないわけにはいきません。

 また、この次には、市原王(いちはらのおおきみ:志貴皇子の曾孫)が坂上郎女に代わって詠んだとする歌が載っています。

〈412〉いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに
 ・・・頭上に束ねた髪の中に秘蔵している玉は、二つとない大切な物です。どうぞこれをいかようにもあなたの御心のままになさって下さい。
 
 「いなだき」は、頭髪を頭上にまとめたところ。「きすめる」は、納める。ただ、この歌には全く違う見解として、市原王には大事に養育してきた五百井女王(いおいじょおう)がおり、娘を二つなき宝物に譬え、娘婿となる男に紹介したときの親心の歌であるとするものもあります。

巻第3-460~461

460
栲角(たくづの)の 新羅(しらき)の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる 親族兄弟(うがらはらがら) なき国に 渡り来まして 大君(おほきみ)の 敷きます国に うちひさす 都しみみに 里家(さといへ)は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保(さほ)の山辺(やまへ)に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 敷栲(しきたへ)の 家をも造り あらたまの 年の緒(を)長く 住まひつつ いまししものを 生ける者(もの) 死ぬといふことに 免(まぬか)れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕(くさまくら) 旅なる間(あひだ)に 佐保川(さほがは)を 朝川(あさかは)渡り 春日野(かすがの)を 背向(そがひ)に見つつ あしひきの 山辺(やまへ)をさして 夕闇(ゆふやみ)と 隠(かく)りましぬれ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに たもとほり ただひとりして 白栲(しろたへ)の 衣袖(ころもで)干(ほ)さず 嘆きつつ 我(あ)が泣く涙(なみだ) 有間山(ありまやま) 雲居(くもゐ)たなびき 雨に降りきや
461
留(とど)めえぬ命(いのち)にしあれば敷栲(しきたへ)の家ゆは出(い)でて雲隠(くもがく)りにき
 

【意味】
〈460〉遠い新羅の国から、日本はよい所と人が言うのを聞いて、はるばると、憂いを語って忘れるべき親族縁者もない国に渡って来られ、大君が治めておられる国には、都にぎっしりと里も家も多くあるのに、いったいどう思われたか、何のゆかりもない佐保の山辺に、泣く子が親を慕うようにやってこられた。家も構えられ、年月長く住まわれていたのに。生ある人はいつかは死ぬのを免れない定めから、頼りにしていた人たちがみな旅に出ていた間に、朝の間に佐保川を渡り、春日野を後にして、山辺に向かい、夕闇に物が見えなくなるように、お亡くなりになってしまった。悲しみのために、物を言うべき方法も、なす術もわからず、ただ一人おろおろと行ったり来たりして、白い喪服の乾くひまがないほど嘆き、流す涙は、母がいられる有間山に雲となってがたなびき、雨となって降ったことでしょうか。

〈461〉留めることのできない命であるので、住み慣れた家から旅立って、雲の向こうにお隠れになりました。

【説明】
 天平7年(735年)、尼の理願(りがん)の死を悲嘆して作った歌。「理願」については、左注に次のような説明があります。「右は、新羅の国の尼、理願という。はるか遠く天皇の聖徳に感じ、わが国に帰化した。大納言大将軍大伴安麻呂卿(大伴旅人の父)の家に寄住し、数十年が過ぎた。天平七年、にわかに病にかかり急逝した。そのとき大伴家の老主婦である石川命婦(石川郎女:安麻呂の妻)は、療養のために有馬温泉に行っていてこの葬儀に居合わせなかった。ただ坂上郎女(安麻呂と石川郎女の娘)が一人留守番をしていて、葬送の儀を行なった。そこでこの歌を作って有馬温泉にいる母に届けた」。
 
 460は3段からなっており、第1段で理願の経歴を述べ、第2段で理願の死去と葬送、そして第3段で理願の死に対する悲しみを述べています。「栲角の」は「新羅」の枕詞。「新羅の国ゆ」の「ゆ」は起点。「問ひ放くる」は、憂いを語って紛らす意。「うちひさす」は「都」の枕詞。「しみみに」は、隙間なく。「敷栲の」は「家」の枕詞。「あらたまの」は「年」の枕詞。「頼めりし人」は、ここでは大伴家の人。「草枕」は「旅」の枕詞。「佐保川を朝川渡り」は、大伴家があった佐保の地を流れる佐保川を黄泉の川に譬えています。葬儀は朝行われるのが習いでした。「背向」は後方の意で、「背向に見つつ」は、理願が春日野に心を留めることなくひたすら冥界へ旅立ったことを表現しています。「あしひきの」は「山」の枕詞。「たもとほり」は、おろおろ行ったり来たりして。「有馬山」は、神戸市の有馬温泉の近くの山。

 461の「命にし」の「し」は、強意。「家ゆ」の「ゆ」は、~から。「雲隠る」は、死んで魂が天に昇ったことを表現したもの。単なる葬送の事後報告の歌ではなく、異国から帰化した尼への心からの哀悼の意を寄せています。

 この時の郎女は40歳前後とみられ、母の石川命婦は病気療養で有馬温泉に行く身であったことから、既に大伴家の重要な出来事を背後から支える立場で活躍していたことが窺えます。

巻第4-563~564

563
黒髪に白髪(しろかみ)交(まじ)り老(お)ゆるまでかかる恋にはいまだ逢(あ)はなくに
564
山菅(やますげ)の実(み)ならぬことを我(わ)に寄そり言はれし君は誰(た)れとか寝(ぬ)らむ
 

【意味】
〈563〉黒髪に白髪が交じって老いたこの日まで、このような激しい恋に出会ったことはありません。
 
〈564〉山菅に実がならないように、しょせん実らぬ間柄なのに、まるで関係があるように噂になっているあなたは、本当はどなたと寝ていらっしゃるのでしょうね。

【説明】
 郎女が大宰府にあった時、大伴百代が「老いらくの恋」を詠んだ4首(巻第5-559~562)に、仮の相手となって返した歌です。百代が、これまで何事もなく生きてきたのに、老いの波を迎えてこんな苦しい恋に出会ってしまった、と言ったのに対し、563で坂上郎女は「白髪」という現実的な表現を用いて同調しながらも、百代の歌をしらじらしいとして、「本当はどなたと寝ていらっしゃるの?」と切り返しています。自身の恋情は含んでおらず、こうしたことを言える相手は、ふだんからある程度の親しみをもつ間柄だったらしく、宴席での歌のやり取りだったとみられます。

 ただ、郎女はこの時30代半ばの女盛りなので「白髪交り老ゆる」というのは不自然です。この点、国文学者の窪田空穂は「百代のあまり巧みでない559番の歌と全く同じ内容を、もっと優れたものに改作して返し、一首の揶揄を試みたものではないか」と言っています。ここでの主題は「老い」であるものの、二人が「老い」ていたということではなく、恋うたの強調表現と見るべきもののようです。

 564の「山菅の」は「実ならぬ」の枕詞。「実ならぬ」は、恋の実体のないことを譬えています。「山菅」は、竜のひげと称する山草または山に生える菅の一般的呼称。「我に寄そり」の「寄そり」は、関係があるように言いはやす。

巻第4-585~586

585
出でて去(い)なむ時しはあらむをことさらに妻恋(つまごひ)しつつ立ちて去(い)ぬべしや
586
相(あひ)見ずは恋ひずあらましを妹(いも)を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ
 

【意味】
〈585〉お帰りになる時はいつでもあるでしょうに、わざわざ妻を恋ながら立ち去ることがあってよいものですか。
 
〈586〉出逢わなければ苦しむこともなかっただろうに、あなたに逢ってから、無性に恋焦がれています。これから先どうしたらよいのだろう。

【説明】
 585は、来客を引き留める歌。「出でて去なむ」は、郎女の許から出て行く意。「時しはあらむを」は、適当な時があろうものを。来客は家持で、その妻とは娘の大嬢を指しているのでしょうか。からかいの気持ちが込められています。

 586は、題詞に「大伴宿祢稲公が田村大嬢に贈った歌」とありますが、左注には「姉の坂上郎女の作」となっており、歌才の乏しい弟の稲公(いなきみ)に代わって作った歌のようです。田村大嬢(たむらのだいじょう)は、大伴宿奈麻呂の娘、坂上郎女にとって先妻の子、大嬢の異母姉にあたります。「もとな」は、むやみに、しきりに。この歌については「単調で新味がなく、坂上郎女もわざと手を抜いたのかもしれない」との評がありますが、敢えて、いかにも恋に拙い男性の歌という味わいを醸し出したのでしょうか。

巻第4-619~620

619
おしてる 難波(なには)の菅(すげ)の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨(と)ぎし心を 緩(ゆる)してし その日の極(きは)み 波のむた 靡(なび)く玉藻(たまも)の かにかくに 心は持たず 大船(おほぶね)の 頼める時に ちはやぶる 神か離(さ)くらむ うつせみの 人か障(さ)ふらむ 通(かよ)はしし 君も来まさず 玉梓(たまづさ)の 使ひも見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜(よる)はすがらに 赤らひく 日も暮(く)るるまで 嘆けども 験(しるし)をなみ 思へども たづきを知らに たわやめと 言はくも著(しる)く たわらはの 音(ね)のみ泣きつつ た廻(もとほ)り 君が使ひを 待ちやかねてむ
620
はじめより長く言ひつつ頼めずはかかる思ひに会はましものか
 

【意味】
〈619〉難波の菅の根のようにねんごろにあなたが言葉をかけてくださって、何年も末永く一緒にとおっしゃったので、靡くまいと張りつめていた心を許してしまったその日からというもの、波とともに揺れ靡く玉藻のように揺れる心も、大船に乗ったような一筋にあなたを頼む気持ちになりました。それなのに、神様が二人の仲を割こうとするのか、あるいは世の人々が邪魔だてするのか、あれほど通われていたあなたも来なくなり、便りをよこす使いも来なくなりました。私はどうしようもなく、夜は夜どおし、昼は日が暮れるまで嘆いていますが、その甲斐もなく、思い悩むばかりで、どうする術もなく、「たわやめ」の名の通り、たわいない子供のように泣きじゃくりながら、あたりを行きつ戻りつして、せめてあなたからの使いでも来ないかと待ちあぐねていなければならないのでしょうか。
 
〈620〉あなたが初めから、末永く一緒になどと言って頼りにさせるように仕向けなかったら、こんな苦しい思いに会わなかったでしょうに。

【説明】
 題詞に「大伴坂上郎女が怨恨歌」とあり、すなわち夫の不信に対しての歌です。619の「おしてる」「まそ鏡」「大船の」「ちはやぶる」「うつせみの」「玉梓の」「ぬばたまの」「赤ひらく」は枕詞。「おしてる難波の菅の」は「ねもころ」を導く序詞。「聞こす」は、「言ふ」の尊敬語。「波のむた靡く玉藻の」は「かにかくに」を導く序詞。「かにかくに」は、あれこれとためらう。「いたもすべなみ」は、とても辛いので、どうしようもなく。「夜はすがらに」は一晩中。「験をなみ」は、効果がないので。「たづき」は、手段、手掛かり。「たわらはの」は、幼い子供のように。「た廻り」は、行ったり来たりして。620の「~ずは~まし」は、反実仮想。もしも~でなかったら~だろう。

 男の「年深く長く」という甘い言葉に騙された女の怨みの歌です。郎女は前後3人の夫をもち、初めは穂積皇子に召され、皇子が亡くなった後、藤原麻呂に逢い、最後に異母兄の大伴宿奈麻呂の後妻となって坂上大嬢を生んでおり、歌の内容から、この怨恨は藤原麻呂に対してのものかとされます。あるいは、郎女自身の体験談ではなく、「怨恨」というテーマに基づいて作られた虚構であり、中国の閨怨詩との関係を論ずる説や、はたまた娘の大嬢の代わりに詠んだ歌ではないかとする説があります。もしそうだとしたら、相手の男は大伴家持であることになります。

大伴駿河麻呂と大伴坂上郎女の歌

巻第4-646~649

646
ますらをの思ひわびつつ度(たび)まねく嘆く嘆きを負(お)はぬものかも
647
心には忘るる日なく思へども人の言(こと)こそ繁(しげ)き君にあれ
648
相(あひ)見ずて日(け)長くなりぬこの頃はいかに幸(さき)くやいふかし我妹(わぎも)
649
夏葛(なつくず)の絶えぬ使(つかひ)のよどめれば事(こと)しもあるごと思ひつるかも
 

【意味】
〈646〉男子たる者が思い焦がれて何度も何度もつくため息なのに、それがご自分のせいだとあなたは思わないのですか。
 
〈647〉心には忘れる日などなく思い続けているのに、人の噂が絶えないあなたとはなかなか逢えないのですね。

〈648〉随分長くお逢いできませんでしたが、いかがでしたか。気がかりでしたよ、愛しい人。

〈649〉いつも来ていた使いが来なくなったので、何かが起こったのかと心配していました。

【説明】
 646・648が、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の歌、647・649が、坂上郎女の歌です。この4首は書簡によって往復されたものであると考えられており、巻第4の配列から天平5、6年(733、4年)のころのものと推定されています。坂上郎女と駿河麻呂とは叔母と甥の関係で、また後に駿河麻呂は郎女の次女、二嬢と結婚しています。その甥と、あたかも恋人同士のような歌のやり取りをしているため、郎女はかつて淫乱女であるかのような扱いを受けた時期があります。同じく甥の家持とも似たようなやり取りがあるため、ある学者などは「厚化粧の姥桜(うばざくら)のお世辞が過ぎて暑苦しい」と酷評したとか。

 実は、ここの歌は、左注に「起居を相聞」したとあり、お互いの近況を尋ね合ったものです。相手を深く思いやる気持ちを歌で表現しようとすれば、あたかも恋人に対するようになってしまうものであり、『万葉集』の「起居相聞」の歌には、恋歌と区別しにくい表現のものが数多くあります。そう誤解されないために左注が付けられているのでしょう。当時の習慣や歌が作られた状況をきちんと把握しないと、大きな誤解を招きかねないことになります。
 
 646の「ますらを」は、成人した立派な男子。「思ひわび」は、思い悲しむ意。「度まねく」は、頻繁に、たびたび。647の「人の言」は、人の噂。648の「日長く」は、日時が長く経過する。「幸く」は、無事に、変わりなく。「いふかし」は、いぶかしい、気がかりだ。649の「夏葛の」は、夏の葛のどこまでも延びる意から、「絶えぬ」の枕詞。「絶えぬ使」は、駿河麻呂からいつも来ていた使い。「よどめれば」は、通うことが淀むで、絶えているので。「事しも」の「事」は異変、「しも」は強意。一連の歌は、挑発→反発→慇懃無礼→意趣返しの流れになっており、一種のじゃれ合いとも受け取れ、それだけ気の置けない間柄だったのでしょう。

 『万葉集』を読んでいると、男女の相聞歌に一つの特徴があることに気づきます。互いに反発し、相手を笑いものにしたり、揶揄したりしている内容の歌が多いということです。ここの駿河麻呂と坂上郎女の歌もそうですし、天武天皇と藤原夫人の歌(巻第2-103~104)などはその典型でしょう。こうした男女間のやり取りを古代の歌の一つの伝統であると考えた国文学者の折口信夫は、歌垣の場における歌の攻撃性にその源流を見出そうとしました。歌垣とは、山野や市場などに男女が集まり、互いに歌を掛け合いながら結婚相手を探す行事です。そういった場では、周囲の目もあるため、容易に打ち負かされるわけにはいきませんし、言い返さないと歌のやり取りも続かなくなります。丁々発止のやり取りを続ける中で、互いの気持ちを確かめ合うのが歌垣ですから、それを止めてしまうのは引き下がることを意味します。だから、歌垣の伝統を受け継いだ男女の歌は反発し合うのだ、と折口は考えたのです。

大伴三依の歌

巻第4-650

我妹子(わぎもこ)は常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより若変(をち)ましにけり

【意味】
 あなたは不老不死の地に住んでおられたに違いない。昔お目にかかった時よりずっと若くなっていらっしゃる。

【説明】
 大伴三依(おおとものみより)は、壬申の乱の功臣・大伴御行(おおとものみゆき)の子。大伴旅人と同じ時期に筑紫に赴任したらしく、この歌は後に都に転任した作者が、旧知の坂上郎女に挨拶に出かけた時の歌とされます。「常世の国」は、不老不死の理想郷。「住みけらし」は、住んでいたに違いない。「若変」は、若返ること。集中に例の多い語であり、当時は、常世の国の草を食すと若返り、また月には飲むと若返る水があるなどという信仰がありました。「まし」は、敬語の助動詞。郎女に対するずいぶん大げさで明るい誉め言葉になっています。

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

【PR】

大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)

16~17歳頃に穂積皇子に嫁す

714年、父・安麻呂が死去

715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか

721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる

724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す

坂上大嬢と坂上二嬢を生む

727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる

728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育

730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京

731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る

746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任

750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)

没年未詳

万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌


(聖武天皇)

窪田空穂

窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。

雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。

『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。

【PR】

デアゴスティーニ

【目次】へ