巻第3-417~419
417 大君(おほきみ)の和魂(にきたま)あへや豊国(とよくに)の鏡の山を宮と定むる 418 豊国の鏡の山の岩戸(いはと)立て隠(こも)りにけらし待てど来まさず 419 岩戸(いはと)破(わ)る手力(たぢから)もがも手弱き(たよわ)女にしあればすべの知らなく |
【意味】
〈417〉あなた様の御心にかなったというのでしょうか、遠い豊前国の鏡の山を墓所と決められて。
〈418〉豊国の鏡の山の岩戸を閉ざして籠ってしまわれたらしい。ここ大和でいくらお待ちしても、おいでになって下さらない。
〈419〉岩戸を打ち破る力がほしいけれど、私はか弱い女の身であるので、どうしていいか分からない。
【説明】
河内王(こうちのおおきみ)が豊前の国の鏡山に葬られた時に、手持女王が作った歌3首。河内王は、持統3年(689年)8月に大宰帥(大宰府の長官)として筑紫に下り、同8年4月に当地で没した人です。手持女王は伝未詳で、河内王の妻かといわれます。王の身でありながら、なぜ都からはるか彼方の地に葬られたのかとの痛恨の気持ちを、鏡・岩戸・手力(手力男神)を組み合わせ、『日本書紀』に見られる「天岩戸神話」を踏まえて詠っています。
417の「豊国」は、福岡県東部と大分県北西部。「和魂」は、現世に和み親しんでいる魂の意で、荒魂の対語。「和魂あへや」の「や」は反語で、御心に合うはずはないのに、の意。「鏡の山」は、福岡県田川郡にあった小山。418の「岩戸立て」は、死ぬことの神話的表現で、岩戸は墓室の入り口に置く大きな岩のこと。419の「もがも」は、願望。これらの歌は、墓の石室に棺を入れ、その入口を閉塞する時に詠まれたものとみられています。
巻第3-420~422
420 なゆ竹の とをよる御子(みこ) さ丹(に)つらふ 我(わ)が大君(おほきみ)は こもりくの 泊瀬(はつせ)の山に 神(かむ)さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまづさ)の 人ぞ言ひつる およづれか 我(わ)が聞きつる たはことか 我(わ)が聞きつるも 天地(あめつち)に 悔(くや)しきことの 世間(よのなか)の 悔しきことは 天雲(あまくも)の そくへの極(きは)み 天地の 至れるまでに 杖(つゑ)つきも つかずも行きて 夕占(ゆふけ)問(と)ひ 石占(いしうら)もちて 我(わ)がやどに みもろを立てて 枕辺(まくらへ)に 斎瓮(いはひへ)をすゑ 竹玉(たかたま)を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂(た)れ 木綿(ゆふ)だすき かひなに懸(か)けて 天(あめ)なる ささらの小野(をの)の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天(あま)の川原(かはら)に 出(い)で立ちて みそぎてましを 高山(たかやま)の 巌(いはほ)の上に いませつるかも 421 およづれのたはこととかも高山の巌(いはほ)の上(うへ)に君が臥(こ)やせる 422 石上(いそのかみ)布留(ふる)の山なる杉群(すぎむら)の思ひ過ぐべき君にあらなくに |
【意味】
〈420〉なよ竹のようにたおやかな御子、紅顔のわが君は、泊瀬山に隠られ神々しく祭られていらっしゃると、使いの者が言ってきました。人惑わしの空言(そらごと)を耳にしたのか、それともとんでもないでたらめを聞いたのか、この天地にあって何よりも悔しいこと、この世でいちばん悔しいことを。天雲の向こうの遠い果て、天と地が接する果てまでも、杖を突いても突かずにでも何としてでも行って、夕占をし、石占をして凶事を知るべきだったのに、我が家に神棚を設け、枕辺には斎瓮を据え付け、竹の玉をいっぱい貫き垂らし、木綿のたすきを腕にかけ、天にあるささらの小野から七節の菅草を手に取って、天の川原に身を立てて、身を清めておくべきでした。そうしたことが何一つできずに、わが君は高山の巌の上にいらっしゃる身となってしまいました。
〈421〉でたらめの空言ではないのだろうか、わが君が高山の巌の上に伏せっておられるなんて。
〈422〉石上の布留の山にある杉林のように、私の思いから過ぎ去ってしまえるお方では決してないのに。
【説明】
石田王(いしだのおおきみ)が亡くなった時に、丹生王が作った歌。石田王は伝未詳、丹生王は石田王の妻か。
420の「なゆ竹のとをよる」の「なゆ竹」は、細くてしなやかな竹、「とをよる」は、たわむで、しなやかな状態を具象的に言ったもの。「さ丹つらふ」は、紅顔の。「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、奈良県桜井市初瀬にある山。「玉梓の」は「人(使ひ)」の枕詞。「およづれ」は、人を迷わす不吉な言葉。「そくへ」は、遠方。「夕占」は、辻で道行く人の言葉を聞いて吉兆を占うこと。「石占」は、石を蹴ったり持ち上げたりして占うことか。「みもろ」は、神の降臨する場所。「竹玉」は、細い竹を輪切りにして紐に通して神事に用いるもの。「ひさかたの」は「天」の枕詞。
422の「石上」は、奈良県天理市の石上神宮付近。「布留の山」は、石上の中にある山。上3句は「思ひ過ぐ」を導く序詞。
巻第3-423
つのさはふ 磐余(いはれ)の道を 朝去らず 行きけむ人の 思ひつつ 通(かよ)ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には あやめぐさ 花橘(はなたちばな)を 玉に貫(ぬ)き〈一に云ふ、貫き交(まじ)へ〉 かづらにせむと 九月(ながつき)の しぐれの時は 黄葉(もみちば)を 折りかざさむと 延(は)ふ葛(くず)の いや遠長く〈一に云ふ、葛の根の いや遠長に〉 万代(よろづよ)に 絶へじと思ひて〈一に云ふ、大船(おほぶね)の 思ひ頼(たの)みて〉 通(かよ)ひけむ 君をば明日(あす)ゆ〈一に云ふ、君を明日ゆは〉 外(よそ)にかも見む |
【意味】
あの磐余の道を毎朝帰って行かれたお方が、道すがら思われたであろうことは、ホトトギスの鳴く五月には、共にあやめ草や花橘を玉のようにひもに通して(一云、通し交えて)、髪飾りにしようと、また九月のしぐれの季節には、共に黄葉を折り取って髪にさそうと。そして這う葛のようにますます末長く(一云、葛の根のようにますます末長く)、いついつまでも親しくいようと思って(一云、大船のように頼りにして)通ってきたのに。その君を、明日からはあの世の人と見なければならないのか。
【説明】
上と同じく、石田王が亡くなった時に山前王が作った歌。山前王は、天武天皇の皇子である忍壁皇子(おさかべのみこ)の子。「つのさはふ」は、蔦(つた)が這う意で「磐」に掛かる枕詞。「朝去らず」は、朝ごとに。「延ふ葛の」は「いや遠長く」の枕詞。なお、左注に、或いは柿本人麻呂の作という、とあります。
また、「或る本の反歌」として424・425がありますが、その左注には「或いは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に代わって作ったという」旨の記載があり、この423の歌との関連に疑義が生じています。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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