巻第3-390
軽(かる)の池の浦廻(うらみ)行き廻(み)る鴨(かも)すらに玉藻(たまも)の上にひとり寝なくに |
【意味】
軽の池の岸の周辺を泳ぎ回る鴨たちでさえ、玉藻の上に一人で寝ることはないというのに。
【説明】
作者の紀皇女(きのひめみこ)は、天武天皇の皇女ながら伝記はなく、母方は蘇我氏だったこと、同母兄妹に穂積皇子・田形皇女がいることくらいしか分かっていません。この歌は、『万葉集』の部立の一つである「譬喩歌(ひゆか)」として奈良朝の歌25首が載せられている中の先頭に配置されていることから、編集者によって秀歌と認められた歌のようです。譬喩歌は、表現方法からの分類で、「雑歌」「相聞」「挽歌」の部立より新しい意識に基づいており、人間の心情を表に出さず、隠喩(いんゆ)的に詠んだ歌です。その殆どが恋の歌になっています。
「軽の池」は、奈良県橿原市大軽町付近にあった灌漑用の池とされ、「軽」は蘇我氏の地でした。古くから交通の要として賑わっていたと伝えられます。「浦廻」は、水際の入り込んだ辺り、「玉藻」の「玉」は美称。藻を自分の黒髪に喩え、「泳ぎ回る鴨でさえ、私が黒髪を敷いて寝るように、一人で寝たりはしないのに」と、孤独で寂しい心情を詠っています。斎藤茂吉は、巻第12-3098に関する言い伝えから、恋人の高安王(たかやすのおおきみ)が伊予に左遷された時の歌ではないかと考えている、と言っています。
なお、巻第2に、異母兄の弓削皇子が紀皇女に贈った歌4首が載せられています(119~122)。
巻第3-394
標(しめ)結(ゆ)ひて我(わ)が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後(のち)も我(わ)が松 |
【意味】
標を張って我がものと定めた住吉の浜の小松は、後もずっと私の松なのだ。
【説明】
余明軍(よのみょうぐん)は、百済の王族系の人で、「余」が氏、「明軍」が名。帰化して大伴旅人の資人(つかいびと)となり、旅人が亡くなった時に詠んだ歌(巻第3-454~458)を残しています。「資人」は、高位の人に公に給される従者のことで、主人の警固や雑役に従事しました。明軍は『万葉集』に8首の短歌を残しており、資人、また男性とは思えないほど微細で嬋娟(せんけん)な作風であると評されます。
「標」は、自分の所有であることを示す印。「住吉の浜」は、大阪市住吉区の住吉大社の西に入江となっていた住吉の浦の海岸。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、親しんで添えた語。名高い住吉の松を女に喩えており、同地の遊行女婦を指しているとみられます。「標結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの比喩。「後も我が松」といって、愛する女を、今だけではなく後々も独り占めしたいという男の心情を詠っています。
この歌の2句目の原文は「我定義之」で、「義之」を「てし」と訓みますが、長らく訓が定まらず、これを解読したのは、江戸時代の国文学者・本居宣長です。宣長は、まずこれを中国東晋の「王羲之(おうぎし)」の「羲之(義之)」のことだと考えました。王羲之は政治家であるとともに書家として有名だった人です。宣長は、当時、書家を「手師(てし)」と呼んだことに思い至り、「義之」を「てし」と読み解いたのです。『万葉集』ができてから実に千年も後のことでした。
巻第3-400・407・409
400 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我(わ)が標(しめ)結(ゆ)ひし枝(えだ)にあらめやも 407 春霞(はるかすみ)春日(かすが)の里の植ゑ小水葱(こなぎ)苗(なへ)なりと言ひし枝(え)はさしにけむ 409 一日(ひとひ)には千重波(ちへなみ)しきに思へどもなぞその玉の手に巻きかたき |
【意味】
〈400〉梅の花が咲いて散ったと人は言うけれど、まさか我がものとしてしるしをつけた枝のことではあるまいな。
〈407〉春日の里に植えたかわいい水葱は、まだ苗だと言っておられましたが、もう今では枝がさし伸びたことでしょうね。
〈409〉たった一日でも次々に打ち寄せてくる波のように、しきりに思っているのに、どうしてその玉を手に巻くのが難しいのでしょう。
【説明】
大伴駿河麻呂は、壬申の乱の功臣である大伴御行の孫ともいわれ(父は不詳)、天平15年(743年)に従五位下、同18年に越前守、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わったとして、死は免れるものの処罰を受け長く不遇を託ち、のち出雲守、宝亀3年に陸奥按察使(むつあぜち)、陸奥守・鎮守将軍として蝦夷(えみし)を攻略、同6年に正四位上・参議に進みました。宝亀7年(776年)に亡くなり、贈従三位。『万葉集』には短歌11首、また勅撰歌人として『続古今和歌集』にも一首の短歌が載っています。
400の上2句は、ある少女が成長して結婚してしまったことの譬えで、そうした噂話を聞いて、自分のものとして印をつけておいた枝(女)ではあるまいな、と不安に思っています。「標結ふ」は、自分の所有であることを示すためにしめ縄を張ること。「やも」は、反語。407は、大伴の坂上家の次女(二嬢)に求婚した時の歌。「春霞」は「春日」の枕詞。「水葱」は、水葵。「枝はさしにけむ」は、きっと伸びただろう。成長して大人びてきたことだろうの意。409の「千重波しき」は、千重波のようにしきりに。「なぞ」は、どうして。「玉」は、二嬢の譬え。
巻第3-424~425
424 こもりくの泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも 425 川風(かはかぜ)の寒き泊瀬(はつせ)を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや |
【意味】
〈424〉泊瀬の娘子が手に巻いている玉、その玉は緒が切れてばらばらに散り乱れているというではないか。
〈425〉川風の寒い泊瀬の道を、あなたは逝った人を思い嘆きつつ歩き回っている。しかしいくら歩いても、似た人にさえ逢えようか、逢えはしない。
【説明】
或る本に、石田王(いわたのおおきみ)が亡くなったときに、山前王(やまさきのおおきみ)が悲しんで作った歌(巻第4-423)の反歌とありますが、左注には、「或いは、紀皇女が亡くなった後に、山前王が石田王に代わって作ったという」旨の記載があります。石田王は伝未詳、山前王は、天武天皇の皇子である忍壁皇子(おさかべのみこ)の子。
長歌(巻第4-423)の反歌であるとすると、長歌では石田王だけのことをいっていたのを、424・425では、観点を妻であった泊瀬娘子に変え、娘子の悲しみを想像して、挽歌である長歌につながりをもたせていることになります。柿本人麻呂による反歌に見られる手法です。
一方、左注に従えば、424の「泊瀬娘子」は、泊瀬に葬られた紀皇女を泊瀬に住む娘子に見立ててその死をいっていることになり、425は、亡き紀皇女を思って石田王がさまよわれても、その皇女に似る人にさえ逢えない、と解釈できます。
424の「こもりくの」は「泊瀬」の枕詞。「やも」は、反語。425の「逢へや」の「や」は、反語。逢えようか、逢えはしない。
巻第3-427
百(もも)足らず八十隈坂(やそくまさか)に手向(たむ)けせば過ぎにし人にけだし逢はむかも |
【意味】
多くの曲がり角がある坂道で、道の神に供物を捧げたら、亡くなった人にもしや逢えるだろうか。
【説明】
田口広麻呂(たのくちのひろまろ)は、慶雲2年(705年)に従五位下になった田口朝臣広麻呂かといわれます。歌の内容からは旅の途中で亡くなったと見られますが、題詞には「死」の語が用いられており、四、五位の人の死には「卒」というため、刑死だったか、あるいは別人かもしれません。刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)は伝未詳。『万葉集』には2首。
「百足らず」は、百に足りない数の意で「八十」にかかる枕詞。「八十隈坂」は、多くの曲がり角がある坂道。「隈」は、川、道などが曲がる内側の称なので、「隅坂」は峠の頂上近くの急な勾配を緩和させるために、道の屈折を多くしてある所。ここは黄泉に通じる坂の意で言っているのかもしれません。「手向け」は、幣を奉って祈ること。「過ぎにし人」の「過ぐ」は、死ぬ意の敬避表現で、亡くなった広麻呂のこと。「けだし」は、もしや。「逢はむかも」の「かも」の「か」は疑問、「も」は詠嘆。
『万葉集』の歌番号
『万葉集』の歌に歌番号が付されたのは、明治34~36年にかけて『国歌大観歌集部』(正編)が松下大三郎・渡辺文雄によって編纂されてからです。「正編」には、万葉集・新葉和歌集・二十一代集・歴史歌集・日記草紙歌集・物語歌集を収め、集ごとに歌に番号が付されました。これによって、国文学者らは、いずれの国書にでている和歌なのかをたちどころに知ることができるようになりました。『万葉集』の歌には、1から4516までの番号が付されています。ただ、当時のテキストとなった底本は流布本であり、またそれまでの研究が不十分だったために、一首の長歌を二分して二つの番号を付す誤りや、「或本歌」の取り扱いなどの問題もあり、4516という数字が『万葉集』の歌の正確な総数というわけではありません。しかし、ただ番号を付すというそれだけのことで、その後の国文学研究は大きく進展したのです。
【PR】
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
(天武天皇)
【PR】