巻第4-485~487
485 神代(かみよ)より 生(あ)れ継(つ)ぎ来(く)れば 人さはに 国には満(み)ちて あぢ群(むら)の 騒(さわ)きは行けど 我(あ)が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜(よ)の明くる極(きは)み 思ひつつ 寐(い)も寝(ね)かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を 486 山の端(は)にあぢ群(むら)騒(さわ)き行くなれど我(あ)れはさぶしゑ君にしあらねば 487 近江路(あふみぢ)の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日(け)のころごろは恋ひつつもあらむ |
【意味】
〈485〉神代の昔から次々とこの世に生まれ継いできて、国には人が多く満ちあふれている。まるであじ鴨の群れのように騒がしく行き来しているけれど、どの人も私がお慕いする我が君ではないので、昼は昼で日が暮れるまで、夜は夜で明け方まで、あなたを思い続けて寝られないまま、とうとう一夜を明かしてしまいました。長いこの夜を。
〈486〉山際にあじ鴨の群れが騒いで飛んで行くけれど、私は寂しくてならない。あなたではないので。
〈487〉近江路の鳥篭の山裾を流れる不知哉川の名のように、先のことはいざ知らず、ここ数日間もあなたを恋い焦がれてお待ちしていましょう。
【説明】
題詞に「岡本天皇(をかもとのすめらのみこと)の御製」とあるものの、左注には「これらは今考えると、高市の岡本の宮(舒明天皇)、後の岡本の宮(皇極・斉明天皇)は、二代二帝それぞれ別であり、ただ岡本天皇というのでは、どちらを指すのか審らかでない」と記されています。長歌・反歌とも男の訪れを待つ女の気持ちが歌われているところから、女帝である皇極天皇(重祚して斉明天皇)の御製とする見方や、485・486は、舒明天皇が父または推古天皇を偲ぶ歌であったのを、のちに斉明天皇が487を加えて夫の舒明天皇を偲ぶ歌としたのではないか、とするなどの見方があります。
485の「さはに」は、多く。「あぢ群」は、あじ鴨(トモエガモ)の群れで、冬季に日本にやって来る渡り鳥。486の「山の端」は、山の稜線。「さぶし」は、楽しくない。「ゑ」は、詠嘆の間投助詞。「君にしあらねば」は、あなたではないので。「寐も寝かてに」は、寝ても眠れない状態。「我れはさぶしゑ君にしあらねば」の表現は、死者に向かって言う『万葉集』の一般的な詩句とも言われています。ここの歌は「相聞の歌」として分類されてはいますが、一般的にも、いとしい舒明天皇がもはや人々の中におられないのを悲しんだ歌だとされています。取りようによっては死者を悼む挽歌ともいえます。
487の「鳥籠の山」は、滋賀県彦根市の正法寺山。上3句は「いさ」を導く序詞。「不知哉川」は、鳥籠山の裾を流れる芹川。「ころごろ」は「頃」を重ねたもの。487は、上の長歌と反歌とは遊離しており、後から付加されたとみられています。
巻第4-484
一日(ひとひ)こそ人も待ちよき長き日(け)をかくのみ待たばありかつましじ |
【意味】
一日ぐらいなら待たされてもよろしいけれど、こんなに幾日も長く待たされたのでは、とても生きてはいられない気持ちです。
【説明】
巻第4の巻頭歌。題詞に「難波天皇(なにはのすめらみこと)の妹(いもひと)、大和に在(いま)す皇兄に奏上(たてまつ)る御歌」とあり、仁徳天皇の異母妹の八田皇女(やたのひめみこ)が、天皇である兄にさし上げた歌とされます。「ありかつましじ」の「かつ」は、できる意。「ましじ」は、打消しの推量。とても生きてはいられません。
仁徳天皇には、当時、大和最大の豪族だった葛城氏出身の磐姫(いわのひめ)という皇后がいましたが、これは、天皇家が王権を維持するために葛城氏の力と結託しようとする政略結婚だったといわれます。しかし一方で、天皇家の血脈を守るために、八田皇女を妃にするべきとの考えがあったようで、八田皇女の実兄も、是非とも妹を妃にしてほしいと、仁徳天皇に頼んでいました。磐姫は嫉妬深い女性であり、天皇が八田皇女を妃とすることを許しませんでした。しかし、天皇は皇后の留守中に八田皇女を宮中へ入れたため、怒った磐姫は帰ることなく筒城宮で亡くなりました。そして天皇は八田皇女を皇后に立てたといいます。ただ、八田皇女には子ができなかったため、次代の天皇には、磐姫が生んだ息子たちが即位しています。
なお、この歌は、同時代に磐姫皇后が仁徳天皇を慕って作った歌とならび、『万葉集』中の最古の歌です。特殊な歌というわけではないものの、巻第2の巻頭にある磐姫皇后の歌に匹敵しうる、高貴かつ古い歌として巻第4の巻頭に据えられたとみられています。
⇒磐姫皇后が天皇を慕って作った歌(巻第2-85~90)
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(舒明天皇陵)