巻第4-492~495
492 衣手(ころもで)に取りとどこほり泣く子にもまされる我(わ)れを置きていかにせむ 493 置きて去(い)なば妹(いも)恋ひむかも敷栲(しきたへ)の黒髪(くろかみ)敷きて長きこの夜を 494 我妹子(わぎもこ)を相(あひ)知らしめし人をこそ恋のまされば恨(うら)めしみ思へ 495 朝日影(あさひかげ)にほへる山に照る月の飽(あ)かざる君を山越(やまご)しに置きて |
【意味】
〈492〉着物の袖に取りすがって泣く子にもまさる思いでお慕いしているのに、私を置いて行くなんて、私はどうしたらいいのでしょう。
〈493〉あなたを置いて行ってしまったなら、あなたをさぞかし恋しく思うだろうな。ひとり黒髪を敷いて、この長い夜を。
〈494〉置いてきた彼女と引き合わせてくれた人を、別れて恋心が募る今となってはかえって恨めしく思う。
〈495〉朝日が射してきた山の端にまだ残っている月のように、飽かぬ思いのあの方なのに、山の向こうに去ってしまって・・・。
【説明】
題詞には「田部忌寸櫟子(たなべのいみきいちいこ)が大宰府の役人に任命されたときの歌4首」とあり、女→男→男→女の歌の順になっています。492の歌の下に作者名として「舎人吉年(とねりのえとし)」と記され、493には「田部忌寸櫟子」と記されています。494~495にはその記載がありませんが、別れた後の二人の贈答歌になっています。田部櫟子は天智朝ころの官人ながら、大宰府に任ぜられた記録はないため、低い官だったようです。舎人吉年は、舎人氏出身のおそらく女官だったとみられ、巻第2-152に天智天皇の挽歌を残していますが、今は櫟子の妻となっていると見えます。
492の「衣手」は、衣服の袖口。「取りとどこほり」は、絡みついて離れない意。「まされる」は、慕う程度がまさっていること。「置きて」は、後に残して。「いかにせむ」の主語を作者としていますが、相手だとする説もあります。493の「敷栲の」は、寝床に敷く布のことで、枕詞とみえますが、「黒髪」に続ける例は他にないものです。寝ている時の髪を詠んでいるからとされます。「黒髪敷きて」は、女が男が来るのを待つまじないであるとする説もあり、櫟子が妻のそのような姿を思い浮かべています。ここまでは、櫟子が大宰府への赴任の旅に出る直前に詠まれた歌です。
494・495は、櫟子が旅立ってからの贈答。494の「相知らしめし」は、二人を引き合わせた。夫婦関係を結ばせた仲介者のことを言っています。「恋のまされば」は、恋が募ってきたので。「恨めしみ思へ」の「恨めしみ」は形容詞の連用形で、恨めしく。「思へ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。櫟子が当初の馴れ初めに思いを馳せ、2人を引き合わせてくれた仲介者を恨んでいますが、強く愛すればこその愚痴でありましょう。495は、これに吉年が答えた歌と取れます。「朝日影」は、朝日の光。「にほへる」は、色の美しい意。上3句は「飽かざる」を導く譬喩式序詞。「飽かざる」は、いくら見ても飽くことのない意。
巻第4-500
神風(かむかぜ)の伊勢の浜荻(はまをぎ)折り伏せて旅寝(たびね)やすらむ荒き浜辺(はまへ)に |
【意味】
伊勢の浜辺の萩を折り伏せて、あの人は旅寝をしておられるだろうか、人けのない浜の辺りで。
【説明】
碁檀越(ごのだにおち:伝未詳)が伊勢の国に行った時に、京に留まった妻が作った歌。持統6年(692年)3月の伊勢行幸時の歌ではないかとされます。「神風の」は、大神のいます地を吹く風の意で、「伊勢」の枕詞。「浜萩」は、浜に生えている萩。あるいは薄のような穂を出すイネ科の多年草のヲギとも言われます。「折り伏せて」は、寝床にしようとしてのこと。当時の旅は、旅館があったわけではないので、高い身分の人は一夜ごとに庵を結んで宿りましたが、そうでない者は野宿をしていました。ここは、そうした旅人の不自由さを思い遣って言っています。「旅寝やすらむ」の「や」は疑問の係助詞、「らむ」は、現在推量の助動詞。「荒き浜辺」の「荒き」は、人けのない。
巻第4-532~533
532 うちひさす宮に行く子をま悲(かな)しみ留(と)むれば苦し遣(や)ればすべなし 533 難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)のなごり飽(あ)くまでに人の見む児(こ)を我(わ)れし羨(とも)しも |
【意味】
〈532〉宮中に仕えるために上京する少女が愛おしくて仕方がないが、引き留めれば自分の立場はない、さりとて行かせてしまうのも堪えられない。
〈533〉難波潟の引き潮の後の光景を眺めるように、見飽きるほどこの少女を見られる人が羨ましいことよ。
【説明】
大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)は、大納言・大伴安麻呂の三男で、旅人の弟。官位は従四位下、右大弁。532の「うちひさす」は、あまねく日の差す意で、「宮」の枕詞。「宮」は、皇居。「ま悲しみ」の「ま」は接頭語で、形容詞「ま悲し」のミ語法。愛しいので。「遣れば」は、行かせれば。「すべなし」は、すべき方法がない、どうしようもない。533の「潮干のなごり」は、潮が引いたあとにできる水溜まり。上2句は、その光景を見飽きない意で、「飽くまでに」を導く譬喩式序詞。「人の見む子」の「人」は、京の人。「見む」は、目をもって愛でることの想像。「我れし」の「し」は、強意の副助詞。「羨しも」の「も」は詠嘆で、羨ましいことよ。
宮中に出仕する一族の女性を見送る歌ともいわれますが、作者は備後国守として安芸、周防の按察使(あぜち)を兼ねたことがあり、国守として管内の女性を采女(うねめ)として送り出す際、その女性の美貌に心を動かしている歌であるようです。532では、女を引き留めて手許に置きたいが、それをすれば公務に背くことになるので心苦しいと言い、533では、女を京に上らせた後のことを想像して嘆いています。
「按察使」は、地方行政を監察する令外官のことで、数か国の国守の内から1名を選任し、その管内における国司の行政の監察を行いました。また「采女」は天皇の食事など日常の雑役に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹で容姿に優れた者が貢物として天皇に奉られました。天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられました。しかし、宮仕えに出る予定の女性を、部領する役の男が横取りしたという話は、『古事記』景行天皇の条の大碓命(おおうすのみこと)ほか、幾つか例があるようです。
ところで、宿奈麻呂のこの歌は、ひょっとして、大伴坂上郎女を歌ったものではないかと想像しているのは、作家の田辺聖子です。「宿奈麻呂は郎女の異母兄ではあるが、かなり年齢は違っていたろう。郎女は当時、十四、五、六ぐらいか、この才気煥発の美少女は穂積皇子に愛されて、『寵(うつくしみ)を被(かがふ)ること儔(たぐひ)なし』(巻第4-528の左注)という状態だった。郎女を愛していた宿奈麻呂は「人の見む児を我し羨しも」と、せつなかったのかもしれない。二十以上年長と思われる彼は郎女を遠くから眺めているだけだった。穂積皇子が薨じたあと、郎女は藤原麻呂としばらく愛人関係になっていたらしい。宿奈麻呂との結婚はそのあとである。穂積皇子の邸を『うち日さす宮』と表現するのは不適当かもしれない。しかし小説的想像を逞しくすれば、中級官僚にすぎない宿奈麻呂から見ると廟堂の第一人者である穂積皇子のもとへゆく児を、『留むれば苦しやればすべなし』と歌わないではいられなかったかもしれない」。
巻第4-557~558
557 大船(おほふね)を榜(こ)ぎの進みに岩に触(ふ)れ覆(かへ)らば覆れ妹(いも)によりては 558 ちはやぶる神の社(やしろ)に我(わ)が懸(か)けし幣(ぬさ)は賜(たば)らむ妹(いも)に逢はなくに |
【意味】
〈557〉大船を勢いのまま漕ぎ進め、岩に触れて、転覆するならそれでも構わない。早く妻に逢えるなら。
〈558〉これほど海が荒れるなら、安全を祈願して神の社に捧げた供え物は返してただきたい。これでは妻に逢えないではないか。
【説明】
土師宿祢水道(はにしのすくねみみち)は伝未詳ながら、巻第5の大宰府における梅花の宴に列している人です。また、巻第16-3844の注から、大舎人(おおとねり)だったこと、字を志婢麻呂(しびまろ)といったことが分かっています。大舎人は、天皇に伴奉して雑使などをつとめた下級官人のこと。『万葉集』には4首の短歌が載っています。
557の「榜ぎの進みに」の「榜ぎ」「進み」ともに名詞形。原文「榜乃進尓」ですが、「榜ぎのまにまに」と訓むものもあります。「妹によりては」は、妻のためには。船旅において忌言葉である「覆る」の語を敢えて使っているのは、妻への激しい恋心の吐露と見えます。558の「ちはやぶる」は、荒々しい、たけだけしい意で、荒々しい神ということから「神」に掛かる枕詞。「幣」は、紙や麻や木綿などで作って木に挿み、神にささげる供え物。「賜らむ」は、返していただきたい。「逢はなく」は「逢はず」のク語法で名詞形。「に」は、詠嘆。
いずれの歌も大宰府から都へ帰る航路における歌で、557は順風によって船脚が速いのに調子づいて詠んだ歌、558は荒天で係留を余儀なくされた時に詠んだもののようです。都へ帰れる歓びと、早く妻に逢いたいとはやる気持ちが綯い交ぜになって、愉快かつ豪快な歌になっています。
大宰府について
7世紀後半に設置された大宰府は、九州(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9か国と壱岐・対馬の2島)の内政を総管するとともに、軍事・外交を主任務とし、貿易も管理しました。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。府には防人司・主船司・蔵司・税司・厨司・薬司や政所・兵馬所・公文所・貢物所などの機構が設置されました。
府の官職は、は太宰帥(長官)、太宰大弐・太宰少弐(次官)、太宰大監・太宰少監(判官)、太宰大典・太宰少典(主典)の4等官以下からなっていました。太宰帥は、従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねるものとされていましたが、9世紀以後は、太宰帥には親王が任じられれる慣習となり、遙任(現地には赴任せず、在京のまま収入を受け取る)となり、権帥が長官(最高責任者)として赴任し、府を統括しました。なお、菅原道真の場合は左遷で、役職は名目なもので実権は剥奪されていました。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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