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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

湯原王(ゆはらのおほきみ)と娘子(をとめ)の歌

巻第4-631~633

631
表辺(うはへ)なきものかも人は然(しか)ばかり遠き家路(いへぢ)を還(かへ)す思へば
632
目には見て手には取らえぬ月の内(うち)の楓(かつら)のごとき妹(いも)をいかにせむ
633
ここだくも思ひけめかも敷栲(しきたへ)の枕(まくら)片去(かたさ)る夢(いめ)に見えける
 

【意味】
〈631〉愛想のないことだ、お前は泊めてもくれず、こんなに遠い家路を帰してしまうなんて。

〈632〉目に見ることはできても、手に取ることができない、月の中の楓(桂)のようなあなたを、いったいどうしたらいいのか、じれったい気持ちだ。

〈633〉ひどく私を思ってくださるからでしょうか。枕を片方に寄せて寝ていたら、夢にあなたがお見えになりました。

【説明】
 湯原王が妻と離れ単身赴任したときの、現地の愛人との贈答歌(631~641)。631、632は湯原王が愛人の娘子に贈った歌。631の「表辺なき」は、愛想のない、追従のない意。「然ばかり」は、こんなに。632の「月の内の楓」は、古代中国の故事に月には桂の巨木があるといわれたことによっています。二人の間にある距離のもどかしさを訴えています。

 633は娘子が答えた歌。「ここだくも」は、原文「幾許」で、こんなにも多く、甚だしくの意。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕片去る」は、一人で寝る時に相手の枕を空けておくこと。娘子がどういう身分の者だったか不明ですが、王と心を通わしているにもかかわらず、周囲との関係からか、自由に逢うことのできない身であったようです。以下、642まで二人の贈答歌が続き、恋愛の展開を追う形で配列されています。

 湯原王は天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいます。天平前期、万葉後期の代表的な歌人の一人で、父の透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されています。『万葉集』には19首の短歌が載っています。

巻第4-634~635

634
家にして見れど飽かぬを草枕(くさまくら)旅にも妻(つま)とあるが羨(とも)しさ
635
草枕(くさまくら)旅には妻(つま)は率(ゐ)たれども匣(くしげ)の内の珠(たま)をこそ思へ
 

【意味】
〈634〉私の家でお逢いするときは、いつも飽き足らずにお別れしますのに、あなたは旅にまで奥様とご一緒だなんて、羨ましいかぎりです。

〈635〉旅に妻を連れてはいるけれど、私の心では、大切な箱の中の珠のように、あなたを愛しいと思っているのです。

【説明】
 634は娘子の歌で、王の旅に同行している妻のことを羨んでいます。635は湯原王の歌で、妻と連れ立った旅先にあっても、愛人に向けた歌を詠んでいるというものです。「草枕」は「旅」の枕詞。「羨しさ」は、うらやましさ。635の「匣の内の珠」は深く愛する女の譬え。「匣」は櫛笥で、櫛や化粧道具を入れておく箱。

 なお、これらの歌には全く異なる解釈があり、王が旅に連れ出したのは妻ではなく娘子であり、634の「妻」は夫(つま)のこと、すなわち王を指し、娘子が「家にあって、いくら見ても飽き足らないのに、旅にまでその夫と共にいるという、この嬉しいこと」と喜んだ歌、また635は、「旅に妻(娘子のこと)を連れ出したが、私の心では、匣の中に蔵している貴重な珠だと思っている」と解するものです。こちらの解釈の方が自然であり、情味が溢れているように感じますが、如何でしょうか。

巻第4-636~637

636
わが衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲(しきたへ)の枕を離(さ)けず巻きてさ寝ませ
637
わが背子(せこ)が形見の衣(ころも)妻問(つまどひ)にわが身は離(さ)けじ言(こと)問はずとも
 

【意味】
〈636〉私をしのぶための衣を差し上げよう。あなたの寝床の枕元に離さず身につけておやすみなさい。

〈637〉あなたをしのぶよすがの衣は、私を求められたあなただと思って、肌身離さずおきましょう。たとえ物言わぬ着物であっても。

【説明】
 636は湯原王の歌。王の妻を羨む娘子に自分の衣を与えてなだめた歌だとされますが、634・635の別解釈に従うと。王の妻の存在は関係なくなります。娘子との、かりそめの旅が終わり、その家に帰らせようとした時の歌でしょうか。「形見」は、その人の身代わりとする物。「奉る」は、差し上げる。「敷栲の」は「枕」の枕詞。

 637はそれに答えた娘子の歌。この時代、異性の相手に自分の衣を贈ったり貸したりするのは、格別に深い愛情表現でした。娘子は、我が身から離さず、共寝をしている夫のように扱うと言っています。「言問はずとも」は、物を言わなくとも。

巻第4-638~641

638
ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)惑(まと)ひぬ
639
わが背子がかく恋(こ)ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寝(い)ねらえずけれ
640
はしけやし間近き里を雲居(くもゐ)にや恋ひつつをらむ月も経なくに
641
絶ゆと言はば侘(わび)しみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さき)くやあが君
 

【意味】
〈638〉たった一夜だけお逢いしなかっただけなのに、もうひと月も経ったかのように寂しくて、心が乱れてしまいました。

〈639〉あなたがそれほどまでに恋してくださるので、夢にあなたが出てこられ、夕べは一睡もできませんでした。

〈640〉愛しいあなたがいる間近な里を、雲の彼方のように恋い続けるのだろうか、ひと月も経っていないのに。

〈641〉これで二人の仲は終わりだと言えば、私がわびしく思うだろうと、いつも優しそうに寄ってこられますが、それでいいんですか、あなたは。

【説明】
 638、640は湯原王の歌、639、641は娘子の歌で、上の旅が終わってすぐ後のやり取りのようです。638の「あらたまの」は「月」の枕詞。639の「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「見えつつ」は、見え続けて。「寝ねらえず」は、寝ても眠れない。640の「はしけやし」は、ああいとしい。「雲居」は、雲のいる所で、きわめて遠い所の意。641の「焼き太刀の」は「へつかふ」の枕詞。「へつかふ」は、そばに寄ってくる、の意。

 これまでずっと熱烈なやり取りだったのに、641では急に歌の様子が変っています。娘子の許に通うことが間遠くなった湯原王に何らかの事情があったのか、それとも、この恋愛はほんの火遊びにすぎなかったのか。けっきょく二人の関係は破綻してしまったようです。

巻第4-642

我妹子(わぎもこ)に恋ひて乱ればくるべきに懸(か)けて寄せむと我(あ)が恋ひそめし

【意味】
 あなたにしかけた恋がうまくいかなければ、乱れた心を糸車にかけてたぐり寄せればいいと、そう思って恋をしかけました。

【説明】
 湯原王の歌。「くるべき」は糸を操る道具、糸車。この歌だけ贈る形をとらず、独泳歌となっています。娘子との関係の結ばれる以前のもので、求婚を始めた時は、おそらくは身分の関係上、事はきわめて容易に成し遂げられると予想されたのに、実際はそれとは反対に、甚だ困難だったので、それに感を発しての歌とされます。
 
 631以下の12首は、湯原王と娘子の恋愛事件の成立と経過をあらわしており、一篇の「歌物語」をなしています。あるいは湯原王の創作ではないかとする見方もあるようです。

湯原王が娘子に贈った歌

巻第8-1618

玉に貫(ぬ)き消(け)たず賜(たば)らむ秋萩(あきはぎ)の末(うれ)わくらばに置ける白露(しらつゆ)

【意味】
 玉として緒に貫いていただこう。秋萩の枝先にとりわけ置いている白露を。

【説明】
 贈った相手は、上の贈答歌(631~641)の娘子と同一人かとも言われます。「末」は、木の枝先または葉の先端。「わくらばに」は、原文に「和々良葉尓」とあるのを「和久良葉尓」の誤記とみて、とりわけの意とするほか、たわむほど、乱れた葉、まばらな葉などと解する説があります。

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安都宿祢年足(あとのすくねとしたり)の歌

巻第4-663

佐保(さほ)渡り我家(わぎへ)の上(うへ)に鳴く鳥の声(こゑ)なつかしき愛(は)しき妻の児(こ)

【意味】
 佐保川を渡ってきて我が家の上で鳴く鳥のように、心惹かれる声の、いとしい我が妻よ。

【説明】
 安都宿祢年足は、伝未詳。上3句は「声なつかしき」を導く序詞。「佐保」は、平城京の北部で、貴族の住宅地だった所。「なつかしき」は、心惹かれる、慕わしい。「愛しき」は、いとしい。

厚見王(あつみのおほきみ)の歌

巻第4-668

朝に日(け)に色づく山の白雲(しらくも)の思ひ過ぐべき君にあらなくに

【意味】
 朝ごと日ごとに色づいていく山にかかる白雲のように、私の心から流れ去っていくようなあなたではないのに。

【説明】
 厚見王は系譜未詳ながら、続紀に、天平勝宝元年に従五位下を授けられ、天平宝字元年に従五位上を授けられたことが記されています。上3句は「思ひ過ぐ」を導く序詞。「君」は、女より男をさしていう称で、まれにその反対の場合もありますが、ここはそのいずれであるとも分かりません。国文学者の窪田空穂は、序詞で山を心深く扱っているのは、その山に「君」という人の墓があるからではないか、と言っています。

春日王(かすがのおほきみ)の歌

巻第4-669

あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ

【意味】
 山橘の紅い実のように、はっきりと気持ちを態度に出しなさい。そうすればやりとりを重ねていくうちに直接逢える機会もあるだろう。

【説明】
 春日王は、志貴皇子の子、安貴王の父。ある女に王が贈った歌で、女は王に心を許してはいるものの、身分の隔たりがあったためか気持ちをなかなか表面に表さないため、それを改めよと言っています。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山橘」は、ヤブコウジの古名。夏に白い小花を咲かせ、冬に赤い実をつける常緑低木。上2句は「色に出づ」を導く序詞。「語らひ継ぎて」は、人の噂が伝わって、あるいは、誰かが互いの消息を伝えて、などと解釈するものもあります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

万葉集の代表的歌人

第1期(~壬申の乱)
磐姫皇后
雄略天皇
舒明天皇
有馬皇子
中大兄皇子(天智天皇)
大海人皇子(天武天皇)
藤原鎌足
鏡王女
額田王

第2期(白鳳時代)
持統天皇
柿本人麻呂
長意吉麻呂
高市黒人
志貴皇子
弓削皇子
大伯皇女
大津皇子
穂積皇子
但馬皇女
石川郎女

第3期(奈良時代初期)
大伴旅人
大伴坂上郎女
山上憶良
山部赤人
笠金村
高橋虫麻呂

第4期(奈良時代中期)
大伴家持
大伴池主
田辺福麻呂
笠郎女
紀郎女
狭野芽娘子
中臣宅守
湯原王


(柿本人麻呂)
 

(山部赤人)


(大伴旅人)

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