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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持の歌

巻第4-700

かくしてやなほや退(まか)らむ近からぬ道の間(あひだ)をなづみ参来(まゐき)て

【意味】
 やはりこんなふうにしてむなしく帰って行くのかな、ここまで、近くもない道のりを苦労してやって来たのに。

【説明】
 家持が娘子(おとめ)の家の門に着いた時に作った歌。名門大伴家の御曹司として数多くの女性を魅了したプレイボーイ家持も、たまにはうまくいかなかったこともあったようです。近くはない道のりを難渋してやって来た家持を門前払いした娘子については未詳。「かくしてや」は、このようにして。「なづみ」は、苦労して。

大伴家持について
 718?~785年。大伴旅人の長男で、旅人が50代のときの子。母は正妻の大伴郎女ではなく庶子でしたが、名門大伴氏の嫡男として育てられました。旅人に従い、筑紫の大宰府にも滞在し、そこで接した山上憶良の影響を大きく受けています。この憶良と、親代わりとして家持の面倒をみた叔母の坂上郎女が、家持の直接の歌の師といわれます。
 
 少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に『万葉集』は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。
 
 家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。
 
 第2期は、29歳から34歳の、746年からの5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期で(全作歌数約470首のうちの約220首)、歌の数ばかりでなく質も充実しており、家持の才能が開花した時期でもあります。
 
 第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。
 

巻第4-705~706

705
はねかづら今する妹(いも)を夢(いめ)に見て心のうちに恋ひわたるかも
706
はねかづら今する妹(いも)はなかりしをいづれの妹(いも)ぞここだ恋ひたる
 

【意味】
〈705〉はねかづらを今や一人前に飾っているあなた、そんなあなたを夢に見て、心ひそかに恋続けています。

〈706〉はねかづらを飾る年頃の娘は、こちらにはいません。いったいどこの娘がそのようにあなたに恋して夢枕に立ったのでしょう。

【説明】
 705は家持が童女に贈った歌、706が童女が答えた歌。「童女」は、成年に達する前の娘。「はねかずら」は髪飾りとされ、物は残らず記録もないため詳細未詳ながら、成女の儀式(12歳~16歳)として髪に挿したものではないかとされます。家持は、実際に童女を目の前にしているのではなく、自分のことを思ってくれている人が夢に現れるという当時の夢解釈によっています。

巻第4-714~717

714
心には思ひわたれどよしをなみ外(よそ)のみにして嘆きぞ我(わ)がする
715
千鳥(ちどり)鳴く佐保(さほ)の川門(かはと)の清き瀬を馬うち渡(わた)しいつか通はむ
716
夜昼(よるひる)といふ別(わ)き知らず我(あ)が恋ふる心はけだし夢(いめ)に見えきや
717
つれもなくあるらむ人を片思(かたも)ひに我(わ)れは思へば苦しくもあるか
 

【意味】
〈714〉心の中では貴女をずっと思い続けているのに、逢う術がないのでいつも離れた場所で、私は嘆くばかりです。

〈715〉いつも千鳥が鳴く佐保川、その川門の清らかな浅瀬を馬で渡り、貴女のもとへ通うことができるのは何時のことでしょう。

〈716〉明けても暮れても貴女を思う私の気持ちは、もしや、貴女の夢に見えましたか。

〈717〉冷たい人を片思いに思っている私は、何ともわびしくてなりません。

【説明】
 家持が娘子に贈った歌7首のうちの4首。714の「よしをなみ」は、手段がないので。「外のみにして」は、離れた場所ばかりにいて。715の「川門」は、川幅が狭くなった所。「馬うち渡し」は、馬に鞭打って渡らせ。716の「別き」は、区別。「けだし」は、もしかして。「夢に見えきや」は、夢に現れただろうか。万葉の人々は、夢に人を見るのは相手がこちらを思うせいだと考え、また、こちらが人を思うと、その人の夢に自分が見えるものと考えました。717の「つれもなく」は、無関心に、思いやりがなく。

巻第4-718~720ほか

718
思はぬに妹(いも)が笑(え)まひを夢(いめ)に見て心の内(うち)に燃えつつそ居(を)る
719
ますらをと思へる我(わ)れをかくばかりみつれにみつれ片思(かたもひ)をせむ
720
むらきもの心(こころ)砕(くだ)けてかくばかり我(わ)が恋ふらくを知らずかあるらむ
722
かくばかり恋ひつつあらずは石木(いはき)にもならましものを物思はずして
 

【意味】
〈718〉思いがけずあなたの笑顔を夢に見て、心の中でますます恋い焦がれています。

〈719〉ひとかどの男子と思っている私が、こんなにまでやつれ果てて片思いに沈むことになろうとは。

〈720〉心も千々に砕けて、これほど私が恋しく思っていることを、貴女は知らずにいるのだろうか、そんなはずはないのに。

〈722〉こんなにも恋い焦がれるくらいなら、いっそ石や木にもなればよかったのに。恋に苦しまなくて済むだろうから。

【説明】
 718~720は上の歌に続き、家持が娘子に贈った歌7首のうちの3首。718の「思はぬに」は、思いがけずに。「笑まひ」は、微笑。719の「みつれにみつれ」は、疲れ果てて。720の「むらきもの」は「心」の枕詞。722も恋の嘆きの歌ですが、誰に対してのものかは分かりません。「ならましものを」は、なればよかったのに。

巻第4-783~785

783
をととしの先つ年より今年(ことし)まで恋ふれどなぞも妹(いも)に逢ひかたき
784
うつつには更(さら)にもえ言はず夢(いめ)にだに妹(いも)が手本(たもと)を卷き寝(ぬ)とし見ば
785
我(わ)がやどの草の上(うへ)白く置く露(つゆ)の身も惜(を)しからず妹(いも)に逢はずあれば
 

【意味】
〈783〉一昨年のその前の年から今年に至るまで、ずっと恋し続けているのに、どうして貴女になかなか逢えないのでしょうか。

〈784〉現実には、そうしたいなどととても口に出して言えないけれど、せめて夢にでも貴女の腕を枕に寝られれば、それだけで十分です。

〈785〉たとえ庭の草の上に白く置いている露のようにはかなく消えようと、私の命は惜しくありません、もし貴女にお逢いできないのなら。

【説明】
 娘子に贈る歌3首。783の「をととし」は、一昨年、「先つ年」は、その前年、つまり「をととしの先つ年」は、一昨昨年の意。「なぞ」は、どうして。784の「うつつ」は、現実。「更にも」は、打消しを伴って、とても~ない。「手本」は、肘から肩までの部分。「巻く」は、枕にする。785の「やど」は、庭。「露の」の「の」は、のように。

 783について、長い間相手を思い続けていると、魂が感応して、相手も心を動かすという信仰があり、それを踏まえた歌のようです。また784は、夢は相手がこちらを思ってくれるゆえに見えると信じられていたことから、わが恋は実現できなくても、せめて貴女がこちらを思う心があれば、それだけでも嬉しいと言っています。

巻第4-786~790

786
春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若(わか)みかも
787
夢(いめ)のごと思ほゆるかも愛(は)しきやし君が使(つかひ)の数多(まね)く通へば
788
うら若(わか)み花咲きかたき梅を植ゑて人の言(こと)繁(しげ)み思ひぞ我(あ)がする
789
心ぐく思ほゆるかも春霞(はるがすみ)たなびく時に言(こと)の通へば
790
春風(はるかぜ)の音(おと)にし出(い)なばありさりて今ならずとも君がまにまに
 

【意味】
〈786〉春雨がますます降りしきるものの、我が家の梅の花はまだ咲いていません、若すぎるからなのでしょうか。
 
〈787〉あなた様のような方のいとしい使いが幾度もいらしゃるので夢のようです。

〈788〉まだ若くて、花が咲くかどうか分からない梅を植えていますが、咲いたかどうかと人がしきりに噂をするので、どうしたものかと困っています。
 
〈789〉申し訳なさに心が晴れやらぬ気分でいます。春霞のたなびくこの季節に、しきりにお便りをいただくものですから。

〈790〉春風が吹いてくるように、きちんとしたお言葉をお寄せくださったなら、時期を見て、あなた様の気持に添うようにいたしましょう。

【説明】
 藤原久須麻呂(ふじわらのくずまろ・仲麻呂の子)が、家持の娘を息子の嫁にほしいと言ってきたのに対し、家持は、まだ幼い娘を「梅の花」にたとえ、娘の成長を待ってほしいと婉曲に断ったもののようです。
 
 786の「春の雨」は、花の咲くのを促すものとして言っています。「いやしき」は、いよいよしきりに。男からの求婚をしきりに降る春の雨に、若すぎる娘をいまだ咲かない梅に譬え、理由をつけながらも、男の面目を立てようとしています。「若み」は、若いので。787の「愛しきやし」の「やし」は、詠嘆。788の「うら若み」の「うら」は接頭語。「人の言繁み」の「人」は、久須麻呂のことを言っています。789の「心ぐく」は、心が晴れない意。「言」は、久須麻呂の使いがもたらす求婚の言葉。790の「春風の」は「音に出づ」の枕詞。「音」は「言」の意。

 家持のこの歌に対し、藤原久須麻呂は次の歌を返しています。

〈791〉奥山の岩蔭(いはかげ)に生(お)ふる菅の根のねもころ我(わ)れも相(あひ)思はざれや
 ・・・奥山の岩蔭に生える菅の根のように、私だって、心から相思わぬことがありましょうか。

〈792〉春雨(はるさめ)を待つとにしあらし我(わ)がやどの若木(わかき)の梅もいまだふふめり
 ・・・春雨を待っているのでしょうか、我が家の庭の若い梅もまだつぼみのままです。

 791の上3句は「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、心深く。家持が、久須麻呂に他意なく思っていることを言っているのに対し、久須麻呂も自分も同じく、と言っているものです。792では、自分の息子を「若木の梅」にたとえており、790の家持の申し出に同意しています。

 なお、ここで歌われている家持の幼い娘というのは、天平11年(739年)夏に亡くなった「妾」とある女性が生んだ子であろうとみられています。
 ⇒大伴家持が亡き妾を悲しんで作った歌(巻第3)

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河内百枝娘子が大伴家持に贈った歌

巻第4-701~702

701
はつはつに人を相(あひ)見ていかにあらむいづれの日にかまた外(よそ)に見む
702
ぬばたまのその夜(よ)の月夜(つくよ)今日(けふ)までに我(あ)れは忘れず間(ま)なくし思へば
 

【意味】
〈701〉ほんのちょっと関係を持って、いつの日にかまた、よそながらでもお見かけすることがありましょうか。

〈702〉あの夜の美しい月が、今日まで私は忘れらることができず、絶え間なく思い続けています。

【説明】
 河内百枝娘子(こうちのももえおとめ)は伝未詳。「はつはつに」は、わずかに、ほんのちょっと。「相見て」は、男女関係を持ったことを意味します。「外に」は、関係のない状態で。702の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「月夜」は「月の夜」ではなく「月」そのものを指します。家持を思う心を、その夜に見た月に転じて、忘れないと言っています。

 家持と一たび関係を持ったものの、身分が甚だしく隔たっていたためか、再びは逢い難いとして、つつましくも純粋な訴えの気持ちをうたっています。家持の返歌はありません。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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大伴家持の略年譜

718
家持生まれる(在京)
724
聖武天皇即位

728
父の旅人が 大宰帥に
731
父の旅人が死去(14歳)
738
内舎人となる(21歳)
橘諸兄との出会い
739
妾と死別(22歳)
坂上大嬢との出会い
741
恭仁京の日々(24歳)
744
安積親王が死去

745
従五位下に叙せられる(28歳)
746
越中守となる(29歳)
749
従五位上に昇叙(32歳)
751
少納言となる(34歳)
754
兵部少輔を拝命(37歳)
755
難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756
聖武太上天皇が崩御

757
橘諸兄が死去

兵部大輔に昇進(40歳)
橘奈良麻呂の乱

758
因幡守となる(41歳)
淳仁天皇即位

759
万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764
薩摩守となる(48歳)
恵美押勝の乱

766
称徳天皇が重祚

道鏡が法王となる

767
大宰少弐となる(50歳)
770
道鏡が下野国に配流

正五位下に昇叙(53歳)
771
光仁天皇即位

従四位下に昇叙(54歳)
774
相模守となる(57歳)
776
伊勢守となる(59歳)
777
従四位上に昇叙(60歳)
778
正四位下に昇叙(61歳)
780
参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781
桓武天皇即位

正四位上に昇叙(64歳)
従三位に叙せられ公卿に列する
783
中納言となる(66歳)
784
持節征東将軍となる(67歳)
長岡京遷都

785
死去(68歳)

万葉の植物

ウメ
バラ科の落葉低木。中国原産で、遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています(弥生時代に渡ってきたとの説も)。当時のウメは白梅だったとされ、『万葉集』では萩に次いで多い119首が詠まれています。雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ナデシコ
ナデシコ科の多年草(一年草も)で、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせ、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。数多くの種類があり、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ネムノキ
マメ科の落葉高木。初夏に細い糸を集めたような淡紅色の花が咲き、夜になると葉が合わさって閉じ、眠るように見えることから「ねむ」と呼ばれます。中国では夫婦円満の象徴の木とされ、名前には「男女の営みを歓び合う」意が込められています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

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