巻第3-462
今よりは秋風(あきかぜ)寒く吹きなむを如何(いかに)かひとり長き夜(よ)を寝(ね)む |
【意味】
これから秋風が寒く吹く時節を迎えるのに、どのようにしてたった一人で長い夜を寝たらよいのか。
【説明】
題詞に「(天平)十一年(739年)己卯夏六月、大伴宿禰家持、亡妾を悲傷して作れる歌」とあり、妾(おみなめ:正妻に次ぐ妻)が、永主(ながぬし)という男の子と3歳ばかりの女の子を残して亡くなりました。この歌を作った時の家持は内舎人(うどねり:天皇に近侍する官)の役職にあり、22歳くらいだったとされます。ここの歌群は、弟の書持の歌をはさんだ13首からなる大作で、「又作る」という形で歌をつないでいます。「亡き妾」はどのような身分の女性だったかは分かりませんが、家持が17、8歳ころからの関係だったとされます。「妾」は公に認められており、戸籍にも登録されました。
なお、息子の永主は、成長した後の延暦3年(784年)正月に正六位上から従五位下に昇進、また同年10月には右京亮(うきょうのすけ)になっています。右京亮は右京職(うきょうしき)長官に次ぐ要職であり、この時、67歳になっていた家持は、従三位・中納言の高い地位にありました。家持の妾、すなわち永主の母が亡くなってからすでに45年が経過しており、永主の年齢も40代後半に達していたとみられます。
「吹きなむ」の「なむ」は、未来の想像を表す語。「如何か」は、どのようにして。窪田空穂はこの歌を評し、「心は単純なものであるが、この歌は訴える力をもっている。それは家持の心の純粋なのと、抒情性の豊かなためであるが、それとともに、若々しいながら父旅人に似た一種の気品をもっているからで、このほうがむしろ主となっているためである。『如何かひとり』という句など、語(ことば)としては平凡であるが、情の充ちたものである。歌人としての素質を思わせるに足りる歌である」と述べています。
巻第3-463
長き夜(よ)をひとりや寝(ね)むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに |
【意味】
秋の夜長を一人で寝なければならないなどとおっしゃると、私まで亡くなったあの方のことが思い出されて、やりきれなくなるではありませんか。
【説明】
家持の弟の書持(ふみもち)が即時に答えた歌。書持は、若いころから家持と共に和歌の創作に励んだらしく、『万葉集』に12首の歌を残しています。史書などに事績は見られないため官位等は不明、家持が越中に赴任していた天平18年に若くして亡くなっています。
⇒大伴書持の歌(巻第8-1480~1481ほか)
「ひとりや」の「や」は、疑問。「過ぎにし人」は、この世を去ってしまった人。愛する人を亡くした兄を慰め、それにも増して死者を慰めている歌です。
巻第3-464~465
464 秋さらば見つつ偲(しの)へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも 465 うつせみの世は常(つね)なしと知るものを秋風 寒(さむ)み偲(しの)ひつるかも |
【意味】
〈464〉秋になったらごらんになって私を思い出してくださいと言って、彼女が植えた庭のナデシコの花が咲いてきたよ。
〈465〉この世は無常だとは分かってはいるものの、寒い秋風を受けると、妻のことが思い出されてならない。
【説明】
464は、「又家持、砌(みぎり:軒下)の瞿麦(なでしこ)の花を見て作れる」歌。「妹が植ゑしやど」は、家持が16歳ころに、大伴家の本宅である「佐保宅」から移り住んでいた「西宅」とされます。佐保宅の西の方角にあったことからそう呼ばれ、家持が妾や子らと住んだ我が家は、父の旅人の時代に用意されていた住居でした。
妾は、この時すでに自身の死を覚っていたのでしょう。秋になったら私と思って偲んでほしいとナデシコを植えた心映えは、若い家持の心に深く刻まれ、また、ナデシコの花を愛する気持ちはいっそう深まったことでしょう。
ナデシコは、秋の七草の一つで、夏にピンク色の可憐な花を咲かせます。『万葉集』では「石竹」「瞿麦」などと表記されますが、我が子を撫でるように可愛らしい花であるところから「撫子(撫でし子)」の文字が当てられています。そのため、他の植物に比べて擬人化や感情移入の度合いが強いようです。ただ、『万葉集』では27首にナデシコが歌われていますが、万葉前期の歌には見られず、家持(12首)とその周辺に偏って現れています。
465は、月が替わってのち、秋風を悲しんで作った歌。妾が亡くなったのは6月なので、7月に入ってのこと。陰暦の7月は秋になります。「うつせみの」は「世」の枕詞。「うつせみ」の語源は「現(うつ)し臣(おみ)」で、この世の人、現世の人の意。「臣」は「君」に対する語で、神に従う存在をいいます。ウツシオミがウツソミと縮まり、さらにウツセミに転じたものです。「寒み」は、寒いので。
巻第3-466~469
466 我(わ)がやどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず はしきやし 妹(いも)がありせば 水鴨(みかも)なす 二人 並(なら)び居(ゐ) 手折(たを)りても 見せましものを うつせみの 借(か)れる身なれば 露霜(つゆしも)の 消(け)ぬるがごとく あしひきの 山道(やまぢ)を指(さ)して 入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば そこ思(も)ふに 胸こそ痛き 言ひも得ず 名付(なづ)けも知らず 跡(あと)もなき 世の中なれば 為(せ)むすべもなし 467 時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹(わぎも)かみどり子(こ)を置きて 468 出(い)でて行く道知らませばあらかじめ妹(いも)を留(とど)めむ関(せき)も置かましを 469 妹(いも)が見しやどに花咲き時は経(へ)ぬ我(わ)が泣く涙いまだ干(ひ)なくに |
【意味】
〈466〉我が家の庭先にナデシコの花が咲いた。その花を見ても心はなごまない。ああ、愛しくてならなかった妻が生きていてくれたなら、仲良く水に浮かぶ鴨のように二人で肩寄せ合ってはながめ、手折って見せられたのに。人の身はこの世の仮の身だから、露や霜のように消えて行くように、山路の向こうに沈む夕日のように隠れてしまった。それを思うと、胸が痛み、言いようもなく、たとえようもない気持ちになる。消えて跡形もないこの世であれば、どうする術もない。
〈467〉死ぬ時はいつであってもいいだろうに、なぜ今の今、私の心を痛ませ旅立ってしまったのか、幼な子をあとに残して。
〈468〉旅立ってあの世へ行く道をあらかじめ知っていたなら、彼女を留める関を作っておいたのに。
〈469〉生前、妻が見ていとしんだ庭にナデシコの花が咲き、早くも月日は過ぎ去った。私が泣く涙はいまだに乾かないのに。
【説明】
「又、家持の作れる」歌。466は家持最初の長歌であり、窪田空穂は次のように評しています。「この歌は、読後の感銘の薄い、不出来なものである。それは、一首の歌として最も大切である統一力が欠けているのと、先輩(人麻呂)の佳句を模したものが多く、それがおのずから不調和となり、流動の相をもち得ないためである。なぜ統一力が欠けたかは、一首の構成に無理があるためで、主としていわんとするのは、死生観という大規模なものであるのに、作因は砌に咲いているナデシコの花という小さなものである。このいささかなる作因を、感傷をたよりに、強いて大問題へ展開させようとしたがために、感傷に圧倒されて混乱の形に陥り、統一がつけられなかったものとみえる。また、先輩の句の多くを模したのは、その根本には、長歌を作るには力が足らず、人の影響を受けやすい人柄でもあったためと思われるが、この場合としては、知性的なことをいうのは不得手である人が、感情をとおしてそれを言いきろうとするところから、平生佳句として記憶にあったところを引用し、それによって力あらしめようとしたためではないかと思われる。この二つのことから不出来になったのであるが、要するに、短歌は手に入った作をするまでに至っていたが、長歌は稽古時代で、手に余ったがためで、家持としての道程を示している作である」(要約)。また、469について斎藤茂吉は、これは明らかに憶良の「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」(巻第5-798)の模倣であり、この1首を尊敬していたことが分かる、と言っています。
466の「やど」は、庭。「心もゆかず」は、心が和まない、満足しない。「はしきやし」は、ああ、いとしい。「水鴨なす」の「なす」は、のごとく。「うつせみの」は「借れる身」の枕詞。「あしひきの」は「山道」の枕詞。「言ひも得ず名付けも知らず」は、言い表すこともできず、名づけようも知られず。
467の「時はしも」の「時」は、死ぬ時。「い行く」の「い」は、語調を整える接頭語。「みどり子」は、生まれてから3歳くらいまでの幼子のことで、702年に施行された大宝律令にも「男女を問わず3歳以下を緑子となす」と定められています。「みどり」の語は本来、樹木などの新芽のように瑞々しい意で、「瑞々」の「みず」が「みどり」に転化し、後に色名になったといいます。468の「ませば~まし」は、反実仮想。
巻第3-470~474
470 かくのみにありけるものを妹(いも)も我(あ)れも千年(ちとせ)のごとく頼みたりけり 471 家離(いへざか)りいます我妹(わぎも)を留(とど)めかね山隠(やまがく)しつれ心どもなし 472 世間(よのなか)し常(つね)かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しの)びかねつも 473 佐保山(さほやま)にたなびく霞(かすみ)見るごとに妹(いも)を思ひ出(い)で泣かぬ日はなし 474 昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子(わぎもこ)が奥城(おくつき)と思へばはしき佐保山(さほやま) |
【意味】
〈470〉このように常のない世であるのに、妻も私も千年も続くかのように頼りにしていた。
〈471〉家を離れていく妻を留めることができず、山に隠れてしまったので、心の置き所がない。
〈472〉世の中はいつもこのようにはかないものだと分かっているものの、この辛い気持は抑えようもない。
〈473〉佐保山にたなびく霞を見るたびに、妻を思い出し、泣かない日はない。
〈474〉これまでは関係ない所としか見ていなかったが、わが妻の墓であると思うと、愛しくてならない佐保山だ。
【説明】
上の歌に続き、「悲緒(かなしび)未だ息(や)まず、更に作れる歌」とある5首。471の「心ど」は、心の落ち着きどころ。472の「世間し」の「し」は、強意。「かつ」は、片方では。473の「佐保山」は、平城京の北東にある丘陵。次の歌で、亡き妻の墓のある山だと分かります。474の「奥城」は、墓。「はしき」は、愛すべき。
ところで、これほどまでにその死を嘆いているにも関わらず、家持はなぜ「妾」とだけ記し、その名を記さなかったのでしょうか。妾が、家持の内舎人時代に交際した若い女官たちの一人であり、郎女や女王のような高い身分の出身でなかったために、あえて名を記す必要がないと考えたのか、それとも、後に正妻となる坂上大嬢への配慮があったのか。なお、家持とこの女性との相聞は、巻第4に散在する娘子に贈る歌(691~692ほか)の中に混じっている可能性が指摘され、また、後に藤原仲麻呂の二男久須麻呂と家持の幼い娘との婚姻に関わる歌(巻第4-789~792)があり、この幼い娘とは、妾が生んだ子であろうと考えられています。
巻第3-475~477
475 かけまくも あやに畏(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 見(め)したまはまし 大日本(おほやまと) 久迩(くに)の都は うち靡(なび)く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬(かはせ)には 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)り いや日異(ひけ)に 栄(さか)ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人(とねり)よそひて 和束山(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし 476 我(わ)が大王(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにそ見ける和束(わづか)杣山(そまやま) 477 あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我(わ)が大君(おほきみ)かも |
【意味】
〈475〉心にかけるのも恐れ多く、言葉に出すのももったいない、我が大君(皇子)が万代までもお治めになる筈だったこの大日本(おおやまと)の久迩の都。草木もうち靡く春ともなれば、山には花がたわわに咲き、川瀬には若鮎が走り回り、日に日に栄えていく折りも折り、人を惑わす空言というのか、私たち舎人は白装束に身を包み、和束山に御輿を立てて、はるか天界を支配してしまわれたので、大地を転がり回り、涙にまみれて泣くのだが、どうにもなす術がない。
〈476〉我が大君が天上を支配なさろうとは思いもしなかったので、今までなおざりにしか見ていなかった、この杣山の和束山を。
〈477〉山を輝かせるほどに咲いていた花が、にわかに散り失せてしまったような、我が大君よ。
【説明】
天平16年(744年)春2月、安積皇子(あさかのみこ)が亡くなったときに、内舎人(うどねり)の大伴家持が作った歌。家持は、天平10年から16年まで、天皇の近くに仕える内舎人でした。
安積皇子は、聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間に生まれた皇子で、閏正月11日に恭仁京から難波京へ遷都の移動中、脚の病を発したため恭仁京に戻り、2日後の13日にわずか17歳で没しました。藤原氏出身の光明皇后との間には阿倍内親王(のちの孝謙天皇)しかいなかったため、皇子は有力な皇位継承の候補者でした。その死があまりに急で不自然だったことから、毒殺されたのではないかとする説もあり、反藤原で結ばれた橘氏と大伴氏にとっては大きな打撃となりました。
475の「かけまく」は、心にかける。「あやに」は、言いようがなく。「ゆゆし」は、忌み憚られる。「大日本久迩の都」は、藤原広嗣の乱の直後に聖武天皇が平城京から遷都した恭仁京の正式名。「うち靡く」は「春」の枕詞。「いや日異に」は、日増しに。「およづれ」は、人を迷わす言葉。「たはこと」は、でたらめ。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天知らしぬれ」は、葬られて天上を治める身になった意。「和束山」は、京都府相楽郡和束町の山。
476の「おほに」は、明瞭でない状態、ぼんやりとしたさまを示し、多くは霞や霧などの比喩として視覚的な不確かさを表す語ですが、いい加減なさま、なおざりなさまを表現する場合もあり、ここは後者の意です。「杣山」は、材木を切り出す山。そんな山が皇子の墓所となってしまったという嘆きです。477の「あしひきの」は「山」の枕詞。
左注に「右の3首は2月の3日に作る歌」とあり、皇子が薨じた日から21日目にあたる三七日の供養の日に詠まれたようです。
巻第3-478~480
478 かけまくも あやに畏(かしこ)し わが大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召(め)し集(つど)へ 率(あども)ひたまひ 朝狩(あさがり)に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕狩り(ゆふがり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道山(いくぢやま) 木立(こだち)の茂(しげ)に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし ますらをの 心振り起こし 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 梓弓(あづさゆみ)靫(ゆき)取り負ひて 天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に 万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼めりし 皇子(みこ)の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒(さは)く舎人(とねり)は 白栲(しろたへ)に 衣(ころも)取り着て 常(つね)なりし 笑(ゑ)まひ振舞(ふるま)ひ いや日異(ひけ)に 変(かは)らふ見れば 悲しきろかも 479 愛(は)しきかも皇子(みこ)の命(みこと)のあり通(がよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の道は荒れにけり 480 大伴(おほとも)の名に負(お)ふ靫(ゆき)帯(お)びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくか寄せむ |
【意味】
〈478〉心にかけるのも恐れ多い、我が大君(皇子)は多くの臣下を召し集め、引き連れられて、朝の狩りには鹿や猪を追い立て、夕べの狩りには鶉(うずら)や雉(きじ)を追い立てられ、そしてまた、大御馬の手綱を引いてあたりを眺め、御心を晴らされた活道の山よ、その木立の茂みに咲いていた花も、時移り、散り失せてしまった。世の中はこんなにはかないものか。男たちの雄々しい心を奮い立たせ、剣太刀を腰に帯び、弓を携え、靫を背負って、天地とともに末永く、万代までもお仕えしたいと頼みにしていた皇子。その御殿に、騒がしい蝿のように賑わしくお仕えしてきた舎人たちは、今では白装束に身を包み、かつての笑顔や振る舞いが、日増しに変わっていくのを見ると悲しくてしかたがない。
〈479〉愛おしい皇子が、いつも通われてご覧になっていた活道山への道は、今はもうすっかり荒れてしまった。
〈480〉大伴の名にふさわしい靫を帯びて、末永く頼みにしていた我らは、いったいどこへ心を寄せたらよいのか。
【説明】
上の歌に続き、安積皇子が薨じて71日目の3月24日に作った歌。478の「もののふの」は「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、多くの部族の男たち。「率ひ」は、率いて。「活道山」は、所在未詳ながら、恭仁京近くの山か。「靫」は、矢を入れて背負う道具。「かくしもがも」は、このようであってほしい。「五月蠅なす」は「騒く」の枕詞。「いや日異に」は、日増しに。
これらの歌には、安積皇子を将来の天皇として仰ぎ慕う心が強く浮き出ています。相次ぐ政争により天武天皇の子孫の多くが世を去り、新興貴族の藤原氏の勢力が拡大するなか、藤原氏出身でない母(県犬養広刀自)をもつ安積皇子に対する期待は、ことのほか強かったとみえます。
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巻第4-680~682
680 けだしくも人の中言(なかごと)聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ 681 なかなかに絶ゆとし言はばかくばかり息の緒(を)にして我(あ)れ恋ひめやも 682 思ふらむ人にあらなくにねもころに心 尽(つく)して恋ふる我(あ)れかも |
【意味】
〈680〉ひょっとしたら人の中傷を耳にしたのだろう、待てども待てどもあなたは一向にやってこない。
〈681〉いっそのこと、きっぱり交遊を絶とうとおっしゃって下されば、こんなにも長くお慕い続けることもないのに。
〈682〉私のことを思って下さる人ではないようなのに、私の方では心尽してお慕い申し上げています。
【説明】
家持が交遊(男性の友人)と別れた時の歌。表現内容は、みな男女間の生々しい恋情を思わせる恋歌仕立てとなっています。女性の立場になって相聞風に詠んだもので、いわば虚構の恋歌です。680の「けだしくも」は、おそらく、ひょっとすると。「中言」は、中傷の言。「ここだく」は、これほど甚だしく。681の「なかなかに」は、むしろ、いっそのこと。「息の緒に」は、息が緒のように長く続くことから、命が続くかぎりにの意。682の「思ふらむ」の「らむ」は、未来の推量。「ねもころに」は、熱心に。
691 ももしきの大宮人(おほみやひと)は多かれど心に乗りて思ほゆる妹(いも) 692 うはへなき妹(いも)にもあるかもかくばかり人の心を尽(つく)さく思へば |
【意味】
〈691〉大宮に仕える女官はたくさんいるけれども、私の心に乗りかかってしっかり心惹かれる人は、あなたです。
〈692〉あなたは何て冷たい人であることか。私がこんなに心をすり減らしていることを思うと。
【説明】
家持が娘子に贈った歌。691の「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、朝廷に仕える人。ここでは女官の総称。692の「うはへなき」は、愛想のない。「かくばかり」は、これほどまでに。691の歌に対して、相手からの返事がなかったことの嘆きの歌のようです。相手は女官の一人だったとみられ、誰だか分かりませんが、あるいは後に家持の妾となって二人の子を産み、天平11年(739年)夏に亡くなった女性ではないかとも推測されます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(大伴家持)
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