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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴旅人の歌

巻第5-793

世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

【意味】
 世の中がむなしく無常だと現実に知り、今までよりもますます悲しい。

【説明】
 大伴旅人が、筑紫で妻(大伴郎女)を失くした時の歌。大宰府に着いてまだ日も浅い神亀5年(728年)初夏のころとみられます。題詞に「凶問に報ふる歌一首」とあり、これに次の意の文章が続いています。

「不幸が重なり、悪い知らせが続く。ひたすら心が崩れるような悲しみを抱き、はらわたが千切れるような辛い涙を流す。ただ両君の支えによって、失われようとする命をわずかにつなぎ止めるのみ」。末尾に「筆不尽言」の語が用いられ、日付も付されていることから、都の「両君」に宛てて書かれた手紙であろうとされます。両君が誰を指しているのかは未詳です。文中に「不幸が重なり」とあるのは、妹の坂上郎女の夫、大伴宿奈麻呂の死の報せではないかとされます。さらに、この歌の後に漢文で書かれた文章が続いており、次のような内容となっています。

「聞くところによれば、万物の生死は、夢がみな空しいように、三界の漂流は、輪が繋がって終わりのないのに似ている。よって、維摩大士(ゆいまだいじ)は方丈に在りて病気の患いを抱き、釈迦能仁(しゃかのうにん)は沙羅双樹の林に座して死滅の苦しみから免れることはできなかった。かくして、この無上の二聖人でさえも、死の魔手の訪れを払いのけることはできず、この全世界で、誰が死神が訪ねてくるのをかわすことができようか。この世では、昼と夜が先を競って進み、時は、朝に飛ぶ鳥が眼前を横切るように一瞬に過ぎてしまう。地水火風は互いに争い侵し合い、身は、夕べに走る駒が隙間を通り過ぎるように一瞬にして消えてしまう。ああ、痛ましいことよ。
 妻の麗しい顔色は三従の婦徳とともに永遠に去り、その白い肌は四徳の婦道とともに永遠に滅びてしまった。思いもよらず、偕老の契りは空しくも果たされず、はぐれ鳥のように人生半ばにして独り生きようとは。かぐわしい閨(ねや)には屏風が空しく張られたままで、断腸の哀しみはいよいよ深まり、枕元には明鏡が空しく懸かったままで、嘆きの涙がいよいよ溢れ落ちる。黄泉(よみ)の門がいったん閉ざされたからには、もう二度と妻を見る手だてはない。ああ、悲しい」
 
 文中の「維摩大士」は、釈迦と同時代のインドの長者。「釈迦能仁」の「能仁」は、釈迦の尊称。「三従」は、婚前は父に従い、嫁いだ後は夫に従い、夫の死後は子に従うこと。「四徳」は、女の守るべき徳(節操を守る婦徳・言葉遣いをいう婦言・身だしなみをいう婦容・家事をいう婦功)のこと。いずれも昔の中国の女性への教えで、「三従四徳(さんじゅうしとく)」といわれます。なお、この漢文は旅人が書いたのではなく、部下の山上憶良が旅人の気持ちになって書いたものだと考えられています。仏教的な死生観だけでなく儒教や道教の言葉が言葉がちりばめられており、憶良の高い教養が窺え、旅人のそれと重なり合うものだったようです。
 
 大伴旅人は安麻呂の子で、家持の父、同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹にあたります。710年に左将軍正五位上、718年に中納言、720年に征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧しました。727年ごろ大宰帥(だざいのそち)として妻を伴い九州に下り、730年12月に大納言となって帰京。翌年従二位となり、その年7月に67歳で没しました。

巻第8-1473

橘(たちばな)の花散る里(さと)の霍公鳥(ほととぎす)片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

【意味】
 橘の花がしきりに散る里のホトトギスは、散った花に片恋をしては鳴く日が多いことだ。

【説明】
 大伴旅人の妻が亡くなった時、勅命で大宰府に弔問に訪れた式部大輔石上堅魚朝臣(しきぶのだいふいそのかみのかつおあそみ)が詠んだ歌、「霍公鳥(ほととぎす)来鳴きとよもす卯の花の共にや来しと問はましものを」(1472)に対し、旅人が答えて詠んだ歌です。「式部大輔」は、式部省の次官、正五位下相当。石上堅魚は、神亀3年(726年)に従五位上。

 堅魚の歌が「ホトトギスが来て鳴き声を響かせている。卯の花といっしょにやって来たのかと、尋ねることができたらよいのに」と、卯の花がないまま鳴いているホトトギスを、妻を亡くした旅人に見立てているのに対し、旅人は橘の花を妻に喩え、花が散った後も鳴き続けるホトトギスを自分になぞらえています。当時の知識人の間では、卯の花も橘の花も、ホトトギスに無くてはならない取り合わせの景物とされており、これらの2首はその認識の上に立って詠まれています。

 当時は、高位の者に凶事があった際は、勅使をつかわして喪を弔うことと定められていました。従って堅魚の歌はその立場の必要から詠んだもので、さらに高官の旅人との身分の隔たりから、直接な物言いは避け、できるだけ婉曲な表現にしなければならなかったという事情があったようです。旅人は堅魚の歌が示すところを十分に理解し、緊密に関係させながらも、堅魚が妻を卯の花に擬したのを「橘の花」とし、その死を「花散る」とし、大宰府を「里」として、ホトトギスが相手の橘をなくして片恋しつつ鳴く悲しみをうたっています。
 
 なお、『源氏物語』の「花散里」の巻名のもとになった源氏の歌「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ」は、旅人のこの歌がもとになっています。

旅人の妻の死を悼んで山上憶良が詠んだ歌

巻第5-794~799

794
大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 息(いき)だにも いまだ休めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間(あひだ)に うちなびき 臥(こや)しぬれ 言はむ術(すべ) 為(せ)む術(すべ)知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形(かたち)はあらむを うらめしき 妹(いも)の命(みこと)の 吾(あれ)をばも 如何(いか)にせよとか 鳰鳥(にほどり)の 二人並び居(ゐ) 語らひし 心(こころ)背(そむ)きて 家ざかりいます
795
家に行きて如何(いか)にか吾(あ)がせむ枕づく妻屋(つまや)さぶしく思ほゆべしも
796
愛(は)しきよしかくのみからに慕(した)ひ来(こ)し妹(いも)が情(こころ)の術(すべ)もすべなさ
797
悔(くや)しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを
798
妹(いも)が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
799
大野山(おほのやま)霧(きり)たちわたる我(わ)が嘆(なげ)く息嘯(おきそ)の風に霧たちわたる
 

【意味】
〈794〉大君の遠い政府(大宰府のこと)だからと、筑紫の国に、泣く子どものようにだだをこねて慕ってついておいでになり、一息つくほどにも休めず、年月も経っていないのに、心にも少しも思わないうちに、ぐったりと横になってしわれた。どう言っていいのか、どうしたらいいのか分からずに、庭石や木に尋ねて心を晴らそうとしても、それもできない。あのまま奈良の家にいたならば元気な姿であっただろうに、私を置いて逝ってしまった恨めしい妻は、私にどうせよというのか。鳰鳥のように二人並んで語らいをしたその誓いに背いて、家を離れて遠くに行ってしまわれた。

〈795〉奈良の家に帰ったら、私はどうしたらいいのか。枕を並べた妻屋が寂しく思われて仕方がないだろう。

〈796〉ああ、こうなる定めだったのか。追い慕って筑紫までやって来た妻の心が、どうしようもなく痛ましい。

〈797〉悔やんでならない。こんなことになると知っていたなら、筑紫の国じゅうをくまなく見物させておくのだった。

〈798〉妻が生前喜んで見た庭の楝(=栴檀)の花は、もう散ってしまったにちがいない。妻を悲しんで泣く私の涙がまだ乾きもしないのに。

〈799〉大野山に霧が立ちわたり、山をすっかり覆い隠してしまった。私が吐く溜め息の風によって、霧が山を覆い隠してしまった。

【説明】
 神亀5年(728年)7月21日、筑前守の山上憶良が、妻の大伴郎女を亡くした大伴旅人に奉った歌で、百日の供養の頃の作歌とされます。この歌の前には、793の〔説明〕で記載した文章(原文は漢文)と次の漢詩(七言絶句)が載っています。

愛河波浪已先滅(愛河の波浪は已にして滅び)
苦海煩悩亦無結(苦海の煩悩また結ばるること無し)
従来厭離此穢土(従来この穢土を厭離す)
本願託生彼浄刹(本願生をかの浄刹に託せむ)
 
 ・・・男女の愛欲の河に溺れることもなく、また苦海の煩悩に悩むこともなくなった。これまでもそうした生活をする穢土として現世を厭っていたけれど、今は本願としての浄土に身を委ねよう。

 794~799の題詞には「日本挽歌」とあり、上の漢詩文に対して「日本文による挽歌」という意味の称です。漢詩が、亡くなった郎女になりかわって作られているのに対し、和歌は旅人になりかわって、亡くなった妻への挽歌を歌うという、特異な形式になっています。歌にある「我」は、憶良がなりかわった旅人のことです。
 
 筑前の国守として九州へ下った憶良と、1~2年遅れて大宰帥として赴任してきた旅人は、年齢も近く(憶良が5歳くらい年長)、ともに風雅を好む知識人であったことから、位階の差を越えて親密に交流していました。旅人の妻の死の悲しみは、同時に憶良の悲しみでもあったようです。歌の内容から、妻の郎女は無理をして大宰府についてきたことが窺えます。慣れない長旅の疲れがたたったのでしょうか。
 
 794の「遠の朝廷」は、大宰府のこと。「しらぬひ」は「筑紫」の枕詞。「泣く子なす慕ひ来まして」の「なす」は、~のように。妻の郎女が、都にいろと言われても聞かずについてきたことが窺えます。「心ゆも」の「ゆ」は格助詞で、より、から。「臥しぬれ」は、横におなりになる。「死」を敬避した表現。「為む術」は、手段、方法。「問ひ放け」は、尋ねて心を慰める意。「家」は、故郷奈良の家。「妹の命」は、亡くなった妻を神格化した表現。「鳰鳥の」は「二人並び居」の枕詞。「家ざかりいます」の「家ざかる」は「家離る」で、「死」の敬避表現。「います」は「行く」の尊敬語。

 795の「枕づく」は「妻屋」の枕詞。「妻屋」は、夫婦の部屋。796の「愛しきよし」は、愛情や感動を表す句。797の「あをによし」は、本来は「奈良」の枕詞ですが、ここでは「国内」にかかっています。斎藤茂吉は、「国内」を奈良の意味に取るのではなく、筑紫の国々と取らねば具合が悪いと言っています。憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬことがあるので、あるいは「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる、と。798の「楝の花」は、栴檀(せんだん)の花。

 799の「大野山」は、大宰府の背後にある山。「息嘯」は、溜め息。斎藤茂吉は、この歌について「線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば『ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず』(巻第3-254)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである」と評しています。
 
 作者の山上憶良(660~733年)は、藤原京時代から奈良時代中期に活躍し、漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌を詠んでいます。ただ、大宝元年(701年)に、42歳で遣唐使の四等官である少録に任命されるまでの憶良の前半生は謎に包まれており、出自や経歴は未詳です。憶良と似た名前が百済からの渡来人の名に見えることや、漢籍の影響が著しいことなどから、渡来人であるとする説があるものの、定説には至っていません。

大伴旅人の歌ほか

巻第5-806~807

806
龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来(こ)むため
807
うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜(よる)の夢(いめ)にを継(つ)ぎて見えこそ
 

【意味】
〈806〉龍の馬でも今すぐにでも手に入れたい。故郷の奈良の都にたちまちに行って、たちまちに帰ってくるために。

〈807〉現実にはお逢いする手だてはありませんが、せめて夢の中にだけでも絶えず見えてください。

【説明】
 この歌の前に、次のような書簡の文章が記されています。「ありがたくお手紙を頂戴し、お気持ちはしかと承りました。つけても天の川を隔てた牽牛・織女の恋にも似た嘆きを覚え、また、恋人を待ちあぐねて死んだ尾生(びせい)と同じ思いに悩んでいます。ただ乞い願うことは、離れ離れになりましても、お互いが無事に日を過ごし、お逢いできる日が一日も早いことです」。
 
 この書簡を書いたのは、旅人とする説と、奈良にいて旅人と相聞を交わした京人(作者未詳)とする説がありますが、次にある京人の返歌(808・809)の前に配置すべきを誤ったものとして、京人のものとする説が有力です。さらに、この相手は巻第4-553~554でも歌のやり取りをしている丹生女王ではないかとする説があります。

 なお、文中にある「尾生」は、中国の春秋時代、魯の尾生という男が、橋の下で女と会う約束をして待っているうちに、大雨となって増水したが、そのまま待ち続けておぼれ死んだという故事によります。ここでは、人を待つ苦しさに譬えていますが、この京人である相手が丹生女王だとすると、女性でありながら尾生を自身の譬えに持ち出すのはやや違和感が否めず、やはり男性だろうと思料するところです。
 
 806の「得てしか」の「てしか」は、願望。「あをによし」は「奈良」の枕詞。807の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。ぬばたま(射干玉、烏玉)はアヤメ科の多年草ヒオウギの種子。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来し、そこから、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。「見えこそ」の「こそ」は、願望。

巻第5-808~809

808
龍(たつ)の馬(ま)を我(あ)れは求めむあをによし奈良の都に来(こ)む人のたに
809
直(ただ)に逢はずあらくも多く敷栲(しきたへ)の枕(まくら)去らずて夢(いめ)にし見えむ
 

【意味】
〈808〉龍の馬は私が探しましょう。それに乗って奈良の都に帰ろうとなさっている方のために。

〈809〉じかにお逢いできない日々が重なり、仰せのように、あなたの枕元を去らずに、夜ごとの夢にお逢いしましょう。

【説明】
 奈良にいる人(作者未詳)が、上の書簡を添えて旅人に答えた歌。808の「たに」は、ために。「あをによし」は「奈良」の枕詞。809の「直に」は、直接に。「あらく」は「ある」の名詞形。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「夢にし」の「し」は、強意。807の旅人の歌と809のこの歌は、相手が自分のことを思っていると自分の夢に相手があらわれるという、当時の夢解釈によっています。

巻第6-969~970

969
しましくも行きて見てしか神(かむ)なびの淵(ふち)はあせにて瀬にかなるらむ
970
指進(さすすみ)の栗栖(くるす)の小野(をの)の萩(はぎ)の花散らむ時にし行きて手向(たむ)けむ
 

【意味】
〈969〉ほんの少しの間だけでも行って見てみたいものだ。神なびの川の淵は、浅くなって、今では瀬になっているのではなかろうか。

〈2739〉栗栖の小野に咲く萩の花、その花が散る頃には出かけていって、神社にお供えをしよう。

【説明】
 天平3年(731年)、奈良の家にあって故郷を思う歌。故郷は明日香の古京のことで、旅人が30歳になるまで過ごした地です。旅人はこの秋7月25日に67歳で他界、この時はすでに病床にあったようです。
 
 969の「しましくも」は、少しの間も。「神なびの淵」は、飛鳥川の雷丘(いかづちのおか)付近の淵。970の「指進の」は枕詞とみられますが、訓義未詳。「栗栖」は、明日香付近とみられますが、所在未詳。「小野」は、野原。

巻第8-1541~1542

1541
我(わ)が岡(をか)にさを鹿(しか)来鳴(きな)く初萩(はつはぎ)の花妻(はなづま)どひに来鳴くさを鹿
1542
我(わ)が岡(をか)の秋萩(あきはぎ)の花(はな)風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
 

【意味】
〈1541〉我が家の岡に壮鹿が来て鳴いている。初萩の花を妻として訪ね来て鳴いている牡鹿よ。

〈1542〉我が家の岡の秋萩の花は、風が強いので今にも散りそうになっている。その前に来て見る人があればいいのにな。

【説明】
 1541の「我が岡」は、旅人が住んでいる岡の意で、大宰府の近くにある岡。「花妻」は、新婚時の妻の称で、鹿と萩との間に男女関係を認めるのは、鶯と梅、霍公鳥と卯の花と同様に、この時代の好尚でありました。1542の「風をいたみ」は、風が強いので。「もがも」は、願望。

 窪田空穂は、1541の歌について「落ち着いた迫らない態度を保ちつつ、美しく繊細な情趣を湛えている作で、老いた旅人の歌人としての風懐を思わせられる歌である」と言い、1542の歌について「調べも静かに、しめやかである。老いた旅人には花の散るのを惜しむ歌が多く、これもその一つである」と言っています。

巻第8-1639~1640

1639
沫雪(あわゆき)のほどろほどろに降り敷しけば奈良の都し思ほゆるかも
1640
我(わ)が岡(をか)に盛りに咲ける梅の花(はな)残れる雪をまがへつるかも
 

【意味】
〈1639〉淡雪がうっすらと地面に降り積もると、奈良の都が思われてならない。

〈1640〉我が家の岡に咲いた梅の花が今真っ盛りで、消え残った雪と見間違えるほどだ。

【説明】
 1639は、冬の日に雪を見て、京を思う歌。「淡雪」は、細かい泡のような雪。「ほどろ」は、ほどく・ほとばしるの「ほと」と同根で、緊密な状態が散じて広がり緩むことを表す語。「夜明け方」を意味する「夜のほどろ」の形で多く登場しますが、ここでは雪が薄く降り積もったさまではないかとされます。「類似の言葉に「はだら」「はだれ」があり、オ段とア段の母音交替によるものと考えられています。巻第10-2323にも、「わが背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに」という歌があります。一方、「降り敷く」ではなく「降り頻く」として、降り方がまばらで、いくらか断続して降っている様子ととる見方もあるようです。

 斎藤茂吉は、この歌について、「線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮(うわ)調子でなく真面目な歌いぶりである。細かく顫(ふる)う哀韻を聴き得ないのは、憶良などの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做(みな)し得るであろう」と言っています。

 1640は、梅の歌。「我が岡」は、旅人が住んでいる岡の意で、大宰府の近くにある岡。「残れる雪」は、消え残った雪。「まがふ」は、混ざり合って見分けがつかない意。

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角朝臣広弁ほかの雪梅の歌

巻第8-1641~1644

1641
淡雪(あわゆき)に降らえて咲ける梅の花(はな)君がり遣(や)らばよそへてむかも
1642
たな霧(ぎ)らひ雪も降らぬか梅の花(はな)咲かぬが代(しろ)にそへてだに見む
1643
天霧(あまぎ)らし雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴(しば)に降らまくを見む
1644
引き攀(よ)ぢて折らば散るべみ梅の花(はな)袖(そで)に扱入(こきい)れつ染(し)まば染(し)むとも
 

【意味】
〈1641〉淡雪に降られて咲いた梅の花をあなたのもとへ贈ったなら、私になぞらえてくれるでしょうか。

〈1642〉空一面にかき曇って、雪が降ってこないだろうか。梅の花の咲かない代わりに、せめて降る雪を白梅と思って眺めよう。

〈1643〉空一面にかき曇って、雪が降ってこないだろうか。あの生い茂った林に、降り積もるさまをはっきりと見ように。

〈1644〉引き寄せて手折ったら花が散ってしまいそうなので、手で梅の花をしごいて袖にしまいこんだ。袖が真っ白に染まるなら染まってもいいと思って。

【説明】
 1641は、角朝臣広弁(つののあそみひろべ:伝未詳)の歌。「君がり」の「がり」は、その人のいるところへの意の接尾語。「よそふ」は、なぞらえる。梅の枝に積もる雪を花と見るのは、漢詩に多く見られる風物。

 1642は、安倍朝臣奥道(あべのあそみおきみち:宝亀5年に従四位下)の歌。「たな霧らひ」は、一面に霧がかかって、一面に曇って。「咲かぬが代に」は、咲かないことの代わりに。「そへて」は、なぞらえて。「だに」は、だけでも。
 
 1643は、若桜部朝臣君足(わかさくらべのあそみきみたり:伝未詳)の歌。「天霧らし」は、天をかき曇らせて。「いちしろく」は、いちじるしく、はっきりと。「いつ柴」は、茂っている灌木。「いつ」は繁茂をほめる接頭語。

 1644は、三野連石守(みののむらじいわもり)の歌。三野連石守は伝未詳ながら、天平2年に大伴旅人が帰京する際に先発した従者の中にその名があります。「扱入れ」は手でしごいて入れる。「散るべみ」は、散りそうなので。「染まば染むとも」は、染まるなら染まってもよい。

巻第8-1645~1647

1645
我(わ)が宿(やど)の冬木(ふゆき)の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも
1646
ぬばたまの今夜(こよひ)の雪にいざ濡(ぬ)れな明けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ
1647
梅の花 枝(えだ)にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来(く)る
 

【意味】
〈1645〉我が家の庭の冬枯れの木に降る雪を、梅が咲いたかと思ってつい見間違えてしまった。

〈1646〉今夜降っている雪に、さあ濡れよう。一夜明けた朝に雪が消えてしまっていたら後悔するだろうから。

〈1647〉梅の花が枝から離れて散っているのかと見まごうばかりに、雪が風に乱れて降ってくる。

【説明】
 1645は、巨勢朝臣宿奈麻呂(こせのあそみすくなまろ:神亀5年に外従五位下)の歌。「冬木」は、冬枯れの木。「うち見る」の「うち」は、ちょっとの意の接頭語で、ふと見る、つい見る。

 1646は、小治田朝臣東麻呂(おはりだのあそみあずままろ:伝未詳)の歌。「ぬばたまの」は「今夜」の枕詞。「いざ濡れな」の「いざ」は、誘う意の副詞。「な」は、希望の助詞。「惜しけむ」の「惜しけ」は「惜し」の未然形。「む」は、推量。

 1647は、忌部首黒麻呂(いむべのおひとくろまろ:天平宝字2年に外従五位下)の歌。「枝にか散る」の「か」は、疑問。

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巻第5について
 巻第5は、第6とともに、主に天平時代の雑歌を収めています。大伴旅人が赴任した大宰府での筑紫歌壇の歌、とくに旅人と山上憶良の歌が中心となっています。また、中国の影響を強く受けた巻としても名高く、「令和」のもとになった漢文による序も、中国にならったものです。
  

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

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大宰府

律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐・対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。

政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。

長官の大宰帥は従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。


(大伴旅人)

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『万葉集』以前の歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 

斎藤茂吉

斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。

子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。


(斎藤茂吉)

窪田空穂

窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。

雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。

『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。

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