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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

梅花の歌

巻第5-815

正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ 

【意味】
 正月になり、新春を迎えたら、こうやって梅の花を迎えて、楽しみの限りを尽くしましょう。

【説明】
 この歌は、天平2年正月13日、大伴旅人の邸宅での宴で詠まれた「梅の歌」32首の最初の歌です。作者の大弐(だいに)紀卿(きのまえつきみ)は、主人の旅人に次ぐ大宰府次官の紀男人(きのおひと)で、賓客の中では最高位の人です。開宴の冒頭にふさわしく、言祝いで挨拶をしつつ、一同に楽しみ尽くそうと呼びかけています。「かくしこそ」の「かく」は、このように。「し」は、強意の副助詞。「招きつつ」は、梅を正客に見立てた擬人的表現。梅の花を擬人化した表現。「楽しき終へめ」は、楽しみの限りを尽くそう、の意。

 歌群の前には、漢文で書かれた序文があり、次のような内容です。「天平二年正月十三日に太宰府の帥(そち)・大伴旅人の邸宅に寄りこぞって宴を催す。折しも初春の良き月、天気がよく、風も和らぎ、梅は鏡前の白粉にまごうて咲き、蘭は帯の匂い袋のように香る。更には曙の嶺には雲がたなびき、松は薄物の絹笠を傾けたように見え、夕の峰には霧がたちこめ、鳥は霞に閉じ込められて林の中を迷っている。庭には今年の蝶が舞い、空には去年の雁が渡ってゆく。ここに天を絹笠とし、地を敷物にして膝を突き合わせ、酒を酌み交わす。一堂に会する者、内には言葉も忘れて心を通わせ、外には煙霞に向かって襟をくつろげる。さっぱりと自由な思い、快く満ち足りた気分、文筆以外にどうしてこの喜びが表現できよう。唐土には落梅の詩篇の数々がある。昔と今と何で異なろう。さあ我々も園梅を題として短歌を唱詠しようではないか」。

 この序文の訓読文の冒頭は、「天平二年の正月の十三日に、帥老(そちらう)の宅に萃(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。時に、初春の月(れいげつ)にして、気(き)淑(よ)く風(かぜ)(やはら)ぐ」となっており、ここから年号の「令和」が引用されました。作者が誰かについては諸説ありますが、山上憶良または大伴旅人であるというのが有力です。あるいは、仮の序をまとめたのは旅人配下の書記官などで、旅人の推敲を受けたとも考えられます。いずれにしても宴の主人である旅人から列席の諸人に呼びかける体裁をとっているので、旅人の作として機能しています。

 もっとも、この序文にはさらに典拠があり、中国の詩文集『文選』にある張衡(ちょうこう)という人の『帰田賦(きでんのふ)』や、書家として著名な王羲之(おうぎし)の『蘭亭序(らんていじよ)』の影響があると言われています。『帰田賦』は、田舎で田園が自分を待っている。こんなあくせくした都の宮仕えなんかより、田舎でのびのび暮らした方がずっとよいと言っている詩で、この中に「是(ここ)に仲春の令月、時和し気清む」という文言があります。

 また『蘭亭序』は、354年の3月3日に、会稽山(かいけいざん)の北の蘭亭に文人たちが集い、曲水(きょくすい)の宴が催され、そこで詠まれた詩に付された序文です。「梅花の歌」の序文にもこれと似た文言があり、志ある文人たちが集い、理想の宴を開いたというその理念を受け継いだものが、「梅花の歌」が詠まれた宴であろうとされます。さらに、中国からもたらされた梅の花は当時の日本ではまだ珍しかったことから、漢詩の素材である梅花を和歌の世界に取り込もうとする文芸上の試みであったともいわれます。

 宴に集まった人々は、帥の大伴旅人をはじめ大弐以下府の官人21名(笠沙弥を含む)、管内諸国からは筑前守山上憶良をはじめ国司等11名、計31名が名を連ねています。これほどの大人数による歌宴は、『万葉集』をはじめ、上代の文献には他に例がありません。なお、この宴が催された天平2年正月13日は、今の暦で2月8日に当たります。

巻第5-816~821

816
梅の花今咲けるごと散り過ぎず我(わ)が家(へ)の園にありこせぬかも
817
梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は縵(かづら)にすべくなりにけらずや
818
春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮(くら)さむ
819
世の中は恋(こひ)繁(しげ)しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを
820
梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり
821
青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
  

【意味】
〈816〉梅の花よ、今咲いているように、散り過ぎることなく我らの庭に咲き続けておくれ。

〈817〉梅の花が咲き匂うこの庭園の青柳も芽吹いて、これも縵にできるほどになったではないか。

〈818〉春になるとまず最初に咲く庭の梅の花よ、独り眺めて暮らすとしようか。
 
〈819〉人の世は恋心が尽きず辛いもの、いっそのこと梅の花にでもなりたい。

〈820〉梅の花は今盛り。親しい人たちは皆、髪にかざそうよ、今盛りの梅の花を。
 
〈821〉青柳を折り、梅の花をかざして酒を飲もう。飲んだ後なら、散ってしまってもいいよ。

【説明】
816は、少弐・小野老(おののおゆ)の歌。
817は、少弐・粟田人上(あわたのひとかみ)の歌。
818は、筑前守・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌。
819は、豊後守・大伴三依(おおとものみより)の歌。
820は、筑後守・葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)の歌。
821は、笠沙弥(かさのさみ)の歌。
 
 全32首のうち、前半の15首(815~829)が上席、後半の17首(830~846)が下席の歌となっています。文芸に秀でた役人ばかりを集めたのか、それとも当時の役人はみな相当程度の文学素養を備えていたのでしょうか。宴会では、上席が主人の旅人を別の座に7人ずつが向かい合い、下席は幹事の者を別の座に8人ずつが向かい合っていたといいます。少弐は大弐に次ぐ従五位下相当の官。守(かみ)は、国守で、上国(筑前・豊後・筑後)の守は、従五位下相当。なお、821の作者、笠沙弥は、当時、造観音寺別当として大宰府にいた沙弥満誓のことです。席次は大弐の紀卿(815の作者)と並ぶべき人ですが、出家の身として国守たちの次に置かれたものとみえます。

 816の「今咲けるごと」は、今咲いているように。「我が家」は、我が今いる旅人の家という意。「ありこせぬかも」の「こせ」は希求の助動詞、「ぬかも」は打消しの反語で、希望を表します。あってくれないのかなあ。817の「けらずや」の「けら」は「けり」の未然形、「や」は反語。なって来たではないか。818の「春されば」は、春がやって来ると。「宿」は、家の敷地・庭先。「独り見つつや春日暮さむ」は、2年前に妻を亡くした旅人の立場になっての表現とする見方もありますが、初春の賀宴に客として持ち出す歌としては相応しくないとも思えます。819の「恋繁しゑや」の「ゑ・や」は、詠嘆を表す助詞。「かくしあらば」は、こんなことならいっそ。820の「思ふどち」は、思い合う同士、気心知れた仲間同士。「挿頭にしてな」の「な」は願望の助詞で、挿頭にしよう。821の「青柳梅との花を」は、青柳と梅の花とを。

巻第5-822~827

822
わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
823
梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ
824
梅の花散らまく惜(を)しみわが園(その)の竹の林に鶯(うぐひす)鳴くも
825
梅の花咲きたる園(その)の青柳(あをやぎ)を蘰(かづら)にしつつ遊び暮らさな
826
うち靡(なび)く春の柳(やなぎ)とわが宿(やど)の梅の花とを如何(いか)にか分(わ)かむ
827
春されば木末隠(こぬれがく)りて鴬(うぐひす)ぞ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづゑ)に
    

【意味】
〈822〉わが家の庭に梅の花が散る。天空の果てから、雪が流れてくるよ。

〈823〉梅の花が散るというのは何処のことか。この城の山には雪があとからあとから降ってくる。

〈824〉梅の花が散っていくのを惜しみ、私の庭の竹林で、ウグイスがしきりに鳴いている。
 
〈825〉梅の花が咲いているこの園の、青柳を髪飾りにして、終日のんびりと遊び暮らそう。
 
〈826〉霞(かすみ)の中で芽吹く柳と、わが家の梅の花とのよしあしを、どのように区別しようか。

〈827〉春がやってくると、梢に隠れていたウグイスが鳴いては飛び移っていく。梅の下枝あたりに。

【説明】
822は、太宰帥・大伴旅人(おおとものたびと)の歌。
823は、大監・大伴百代(おおとものももよ)の歌。
824は、少監・阿氏奥島(あしのおきしま)の歌。
825は、少監・土氏百村(とじのももむら)の歌。
826は、大典・史氏大原(ししのおおはら)の歌。
827は、少典・山口若麻呂(やまぐちのわかまろ)の歌。

 太宰帥は、大宰府の長官で、従三位相当(場合によっては正三位)。大監(だいげん)は、少弐に次ぎ大宰府三等官の上席。定員2名で、正六位下相当。少監(しょうげん)は、大監に次ぐ大宰府三等官の下席。定員2名。大典(だいてん)は、少監に次ぐ大宰府四等官で、正七位相当。定員2名。少典(しょうてん)は、大典の下席で、正八位相当。定員2名。

 822に主人(あるじ)の大伴旅人の歌がありますが、白梅を雪にたとえる発想は漢詩によく見られるもので、「雪が流れる」というのも和歌に馴染まない表現です。旅人は梅花という中国由来の素材だけでなく、その詠み方をも漢詩にならうことによって、和歌と漢詩の融合をはかったようです。旅人が『懐風藻』に残した漢詩にも同じ表現が見られます。なお、この時の旅人は66歳。2年前に妻を亡くした旅人にとって、傷心を癒してくれる風雅のいっときでもあったことでしょう。

 823の「散らく」は「散る」のク語法で名詞形。「何処」は、何処に散っているのかと疑って言ったもの。「しかすがに」は、そうはいうものの。「城の山」は、大宰府の真南にあり、大宰府から筑後・肥前の国府に向かう際に越える山。作者の百代は旅人の同族であり、前の旅人の歌を受けて、「梅の花が散るというのは何処のことか。この城の山には雪があとからあとから降ってくる」と忌憚のない詠み方をしています。ただ、そうした反問は、座が白けるものであり、不審だとして、「我が園に限らず、ここかしこ何処でも散っています」のように解すべきとの説があります。ただ、これらの歌が詠まれた正月13日(2月8日)に大宰府辺りの梅が満開だった、または散る様子が見られた可能性は低いため、咲いている梅を想像して詠んだものか、あるいはこの宴そのものが虚構ではないかと見る向きもあります。一方、当時の梅は今日の新種の鑑賞梅とは異なり早咲きの野梅に当たり、宮廷跡といわれる辺りに今も見られる白梅は、早咲きが2月上旬から中旬に咲くと言います。

 824の「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。825の「遊び暮らさな」の「遊び」は、歌舞管弦。826の「うち靡く」は「春」の枕詞であると同時に、柳の糸の形容。「いかにか分かむ」は、優劣を分ける意。827の「鳴きて去ぬなる」の「なる」は、伝聞推定の助動詞で、上の「ぞ」の係り結び。鳴き声によって、鶯があちこち木伝うさまを想像しているもの。「下枝」は、幹の下の方の枝。

巻第5-828~833

828
人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも
829
梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
830
万代(よろづよ)に年は来(き)経(ふ)とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし
831
春なれば宜(うべ)も咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに
832
梅の花折りてかざせる諸人(もろひと)は今日(けふ)の間(あひだ)は楽しくあるべし
833
年のはに春の来(きた)らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ
 

【意味】
〈828〉人それぞれに手折って髪飾りにして楽しんでいるけれど、何とも素晴らしい梅の花だろう。

〈829〉梅の花が散ると、続いて桜の花が咲くようになっているではないか。

〈830〉万年の後までも、梅の花が絶えることなく咲き続けて欲しいものだ。
 
〈831〉春になったといって、とても美しく咲いた梅の花よ、あなたのことを思うと、夜もよく寝られません。

〈832〉梅の枝を手折って髪飾りにしている人々は、今日一日は何もかも忘れて楽しもうではありませんか。

〈833〉年々春が来たら、こうして梅をかざして楽しく飲もうではありませんか。

【説明】
828は、大判事・丹氏麻呂(たんじのまろ)の歌。
829は、薬師・張子福子(ちょうしのふくし)の歌。
830は、筑前介・佐氏子首(さしのこおびと)の歌。
831は、壱岐守・板氏安麿(はんしのやすまろ)の歌。
832は、主神・荒氏稲布(あらうじのいなしき)の歌。
833は、大令史・野氏宿奈麻呂(やじのすくなまろ)の歌。

 大判事(だいはんじ)は、司法官。大宰府の大判事は、従六位下相当。薬師(くすりし)は、医師。大宰府の薬師は、正八位上相当。介(すけ)は、国の次官。上国の介は、従六位上相当。守(かみ)は、国守。下国(壱岐)の国守は、従六位下相当。主神(しゅじん)は、大宰府に置かれた祭祀官。正七位下相当。大令史(だいりょうし)は、大判事の書記。大初位上相当。
 
 828の「いや」は、いよいよ、ますます。「めづらしき」は、素晴らしい。829の「継ぎて」は、続いて。830の「来経」は、過ぎて行く。「べし」は、推量の助詞。831の「うべも」は、なるほど、もっともなことに。「君」は梅を君子に喩えており、漢詩文の影響と、梅がまだ珍しいものであったための敬称と見られます。「寝なく」は「寝ず」のク語法で名詞形。832の「諸人」は、多くの人々。「べし」は、命令・勧誘の意の助動詞。第三者のような距離を置いた言い方をしているのは、官位の低い者の意識によっているとされます。833の「年のはに」は、毎年。「飲まめ」の「め」は、意志の助動詞「む」の已然形で、「こそ」の係り結び。

巻第5-834~839

834
梅の花今盛りなり百鳥(ももとり)の声の恋(こほ)しき春(はる)来(きた)るらし
835
春さらば逢はむと思(も)ひし梅の花 今日(けふ)の遊びに相(あひ)見つるかも
836
梅の花 手折(たを)りかざして遊べども飽(あ)き足らぬ日は今日(けふ)にしありけり
837
春の野に鳴くや鴬(うぐひす)馴なつけむと我(わ)が家(へ)の園(その)に梅が花咲く
838
梅の花散り乱(まが)ひたる岡(をか)びには鴬(うぐひす)鳴くも春かたまけて
839
春の野に霧(きり)立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る
 

【意味】
〈834〉梅の花は今が真っ盛りだ。様々な鳥のさえずる声が恋しくなる春がやって来たのだろう。
 
〈835〉春になったら逢えると思っていた梅の花、今日のこの宴で、皆して見ることができた。
 
〈836〉梅を手折って髪飾りにしていくら遊んでも、なお満ち足りない日とは、今日のこの日だったのだ。
 
〈837〉春の野に鳴いているウグイスを手なずけようとして、我らの家の庭に梅の花が咲いている。

〈838〉梅の花が散り乱れている岡のあたりにウグイスが鳴いている、春をひたすら待って。

〈839〉春の野に霧が立ちこめてきて、雪が降ってきたかと見間違えるほどに、梅の花が散っている。

【説明】
834は、少令史・田氏肥人(でんじのこまひと)の歌。
835は、薬師・高氏義通(こうじのよしみつ)の歌。
836は、陰陽師・磯氏法麻(きじののりま)の歌。
837は、算師・志氏大道(しじのおおもち)の歌。
838は、大隅目・榎氏鉢麻呂(えのうじのはちまろ)の歌。
839は、筑前目・田氏真上(でんじのまかみ)の歌。

 少令史(しょうりょうし)は、大令史の下席。大初位下相当。陰陽師(おんようし)は、陰陽道による占いや祈祷、地相などを掌る官。正八位上相当。算師(さんし)は、計数を掌る官。正八位上相当。目(さかん)は、国の四等官。中国(大隅)の目は、大初位下相当。上国(筑前)の目は、従八位下相当。

 834の「百鳥」は、さまざまな鳥。「恋(こほ)しき」は、コヒシキの古語。「春来るらし」の「らし」は、現在の根拠に基づく推量の助動詞。835の「春さらば」は、春が来たならば。「遊び」は、歌舞管弦。836の「かざして」は、挿頭にして。「今日にし」の「し」は、強意の副助詞。837の「鳴くや」の「や」は、感動の助詞。「馴なつけむと」は、手なずけようと。梅を擬人化しています。838の「岡び」は、岡のあたり。「鳴くも」の「も」は、感動の助詞。「かたまけて」は、ひたすら待って。このあたりの歌から、にわかに落花のモチーフが多くなっているのは、宴も終盤近くになり、感傷的気分がおのずと反映しているものと見られます。なお、『万葉集』では梅の香りを詠んだ例はありません。香りを愛でるようになったのは平安時代以降のことです。

巻第5-840~846

840
春柳(はるやなぎ)縵(かづら)に折りし梅の花(はな)誰(たれ)か浮かべし酒杯(さかづき)の上(へ)に
841
うぐひすの音(おと)聞くなへに梅の花(はな)我家(わぎへ)の園(その)に咲きて散る見ゆ
842
我(わ)がやどの梅の下枝(しづえ)に遊びつつ鴬(うぐひす)鳴くも散らまく惜しみ
843
梅の花(はな)折りかざしつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ
844
妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも
845
鴬(うぐひす)の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため
846
霞(かすみ)立つ長き春日(はるひ)をかざせれどいやなつかしき梅の花かも
  

【意味】
〈840〉春柳の髪飾りに挿そうと皆で折った梅の花、いったい誰が浮かべたのであろう、めぐる盃の上盃に。
 
〈841〉ウグイスの鳴く声を耳にし、折しもこの我らの庭に梅が咲いては散っている。
 
〈842〉我らの庭の梅の下枝を飛び交いながら、ウグイスが鳴いている。まるで散りゆく梅を惜しむかのように。
 
〈843〉梅の花を折り取って髪にかざしながら人々が遊んでいるのを見ると、奈良の都のことが偲ばれる。

〈844〉妻の家に降る雪かと見まごうばかりに、しきりに散り乱れる梅の花であるよ。

〈845〉ウグイスが待ちかねていた梅の花、どうか散らないでおくれ、そなたを思う子のために。

〈846〉霞の立つ春の長い一日を、梅の小枝を髪飾りにして遊んでいるけれど、ますます離しがたい、この梅の花は。

【説明】
840は、壱岐目・村氏彼方(そんじのおちかた)の歌。
841は、対馬目・高氏老(こうじのおゆ)の歌。
842は、薩摩目・高氏海人(こうじのあま)の歌。
843は、土師氏御道(はにしうじのみみち)の歌。
844は、小野氏国堅(おのうじのくにかた)の歌。
845は、筑前掾・門氏石足(もんじのいそたり)の歌。
846は、小野氏淡理(おのうじのたもり)の歌。

 目(さかん)は、国の四等官。下国(壱岐・対馬)の目は、少初位上相当。中国(薩摩)の目は、大初位下相当。掾(じょう)は、国の三等官。上国(筑前)の掾は、従七位上相当。なお、843・844・846の作者については、官職名が記されていません。

 840の「梅の花誰か浮かべし」の「し」は「か」の係り結び。梅の花は誰が浮かべたのか。「酒盃」は、自分の前に巡って来たもの。酒盃に梅の花を浮かべることは、風流のわざとして行われていたようで、別の歌にも見えます。841の「音聞くなへに」の「音」は、鳴き声。「なへに」は、とともに、同時に。842の「やど」は、家の敷地、庭先。「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。844の第1句は、帥邸にあって「妹が家」の雪を歌うのは不適当なので、「雪・行き」の掛け言葉による枕詞とする見方もあります。「雪かも」の「かも」は、疑問。「ここだ」は、甚だしく。「まがふ」は、乱れている。「梅の花かも」の「かも」は、感動。845の「待ちかてにせし」は、待ちかねていた。「ありこそ」の「こそ」は、願望の助動詞「こす」の命令形。「思ふ子」は、梅の花を愛するウグイスと解する説もあります。846の「いや」は、ますます。

 843ほか幾首かの歌で、梅の花を「かざす」ことが詠まれていますが、風流の宴での「かざし」は「みやび(宮び)」を象徴する行為であり、都から遠い大宰府での「かざし」は、都への望郷の念を強く呼び起こすものでもあったことでしょう。また、818・825・840の歌には「縵(かづら)」が詠み込まれていますが、縵にしているのは宴の主たる景物の梅ではなく、いずれも青柳となっています。柳のかづらを詠む例は多く、その強い生命力にあやかろうとしているものです。

 なお、846の作者の小野氏淡理は、天平宝字2年(758年)に渤海大使となった小野朝臣田守とされ、小野氏は、小野妹子をはじめとして対外交渉という重要な任を果たした氏です。当宴に列席した小野氏は、老(816)、国堅(844)、淡理(846)の3人で、うち老と淡理の歌が、冒頭第2首と末尾の重要な位置を占めています。

員外、故郷を思う歌

巻第5-847~848

847
我(わ)が盛(さか)りいたくくたちぬ雲(くも)に飛ぶ薬(くすり)食(は)むともまた変若(をち)めやも
848
雲(くも)に飛ぶ薬(くすり)食(は)むよは都(みやこ)見ばいやしき我(あ)が身また変若(をち)ぬべし
 

【意味】
〈847〉私の盛りはすっかり過ぎてしまった。たとい雲に飛ぶ薬を飲んだところで若返ることがあろうか、ありはしない。

〈848〉雲に飛ぶ薬を飲むよりは、奈良の都を見たならば、いやしき我が身も若返るだろうに。

【説明】
 題詞にある「員外」は、梅花32首の員数外という意味。このように言うのは、32首は「梅花の歌」であり、これは「故郷を思う歌」で、その内容が異なっているからです。作者名は記されていませんが、明らかに旅人の作であり、上掲の梅花32首に添えて、後の「後に梅花の歌に追和した」4首(849~852)や「松浦川に遊ぶ歌」(853~863)と共に、都の吉田宣(きったのよろし)に送られたものです。吉田宣は百済系の帰化渡来人で、医者であり、著名な方士(神仙の術を身につけた者)でもあったため、このような神仙的な趣の歌を添えたようです。

 847の「くたちぬ」は、盛りを過ぎてしまった、衰えた。「雲に飛ぶ薬」は、不老不死の仙人となって天空を自由に飛べるようになる仙薬のこと。「変若めやも」の「変若」は、老いたものが若返る意、「や」は反語、「も」は詠嘆。848の「食むよは」は、飲むよりは。「また変若ぬべし」は、再び若返るだろう。都を一目見ることこそ若返りの薬なのだとうたっています。これら2首は「故郷を思う歌」とあるものの、内容は自らの老いの嘆きとなっています。

 宴で披露された歌の多くは、春の到来を寿ぐ祝意に満ちてはいますが、ここの歌から感じられるのは、望郷や老いの嘆きにとどまらず、時勢の推移を複雑な思いでながめる旅人の苦いまなざしではありますまいか。なお、吉田宣からの返簡として旅人に贈られた歌が、巻第5-864~867に載っています。この同じ年(天平2年:730年)の暮れに、旅人は大納言に任じられて都に帰ることになります。

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筑紫歌壇
 
大伴旅人が大宰帥として筑紫に赴任していたのは、神亀5年(728年)春から天平2年(730年)12月までのおよそ3年間ですが、その間、小野老、山上憶良、沙弥満誓、大伴四綱、大伴坂上郎女など、錚々たる万葉歌人も、当時の筑紫に都から赴任していました。大宰帥の大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していたようです。
 といっても、具体的な組織があったとか、各人に強い結びつきがあったとかではなく、たまたま同じ時期に大宰府に居合わせた者同士が、宴会で歌を披露したり書簡で歌のやり取りをしたりしていただけのことです。しかし、この集団は、筑紫という辺境の地において、都とは異なる独自の作歌活動を展開しました。その活動がとても特徴的だったために、「筑紫歌壇」と称されています。その特徴を一言で言うと、漢詩文と和歌の融合ということができます。その典型的なあり方が、上掲の「梅花の歌」です。 

後に梅花の歌に追和した歌

巻第5-849~852

849
残りたる雪にまじれる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも
850
雪の色を奪(うば)ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
851
我(わ)がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
852
梅の花(はな)夢(いめ)に語らくみやびたる花と我思(あれも)ふ酒に浮かべこそ
[一云、いたづらに我(あれ)を散らすな酒に浮かべこそ]
 

【意味】
〈849〉残雪のなかに梅の花も交じって咲いているが、どうか早々と散らないでおくれ、たとえ雪は消えてしまっても。
 
〈850〉雪の白い色を奪うかのように真っ白に咲いている梅は今が盛りだ。共に見る人がいてくれたらいいのに。

〈851〉我が家の庭に盛んに咲いていた梅の花も、今にも散りそうだ。共に見る人がいてくれたらいいのに。

〈852〉梅の花が、夢の中で私に語ったことには、私は自分を風雅な花だと自負してます、どうか私にふさわしく、酒杯に浮かべてください、と。(むなしく私を散らさないでほしい、どうか酒杯に浮かべてください、と)

【説明】
 32首の梅花の歌のあとに、その員数外の歌として2首があり(847・848)、さらにここの「後に梅の歌に追和する4首」が載せられています。作者名は記されていませんが、旅人か憶良、あるいは坂上郎女ともいわれます。850・851は、2年前に亡くなった旅人の妻が背景にあるようであり、852の、梅花に仙女を連想する神仙趣味は、まさに旅人そのものであります。

 849の「な散りそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「消ぬとも」は、消えてしまっても。850の「雪の色を奪ひて」は、梅花の白さを強調する表現。「見む人もがも」の「もがも」は願望で、共に見る人がいてくれたらいいのに。851の「我がやど」の「やど」は、家の敷地、庭先。852の「語らく」は「語る」のク語法で名詞形。「酒に浮かべこそ」の「こそ」は、願望の助詞「こす」の命令形。花を酒杯に浮かべるのは、840の歌にもあった風流。梅に呼びかけた849の歌に対し、こちらは、梅が作者に呼びかけた形になっており、私にふさわしく扱って、酒杯に浮かべてほしいと言っています。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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梅(ウメ)

梅は、中国の江南地方を原産とする花木で、藤原宮の時代に遣唐使によって 日本に持ち込まれたと考えられています。弥生時代に朝鮮半島を経由して渡ってきたとの説もありますが、万葉第一期、第二期の歌には出てきません。

当時の梅は白梅だったとされ、花見の対象としては桜より長い歴史を持ち、奈良時代以前に「花」といえば梅を意味しました。『万葉集』では萩(はぎ)の140首に次いで多い119首が詠まれており、雪や鶯(うぐいす)と一緒に詠まれた歌が目立ちます。

しかし、当時はまだ一般的な花ではなく貴族的な文雅(ぶんが)の花でした。xひなみに清少納言が『枕草子』で「木の花は、濃きも薄きも紅梅」と言っている紅梅は、承和15年(848年)正月21日『続日本後紀』の記事が文献的には初見です。

現代の日本でも最も親しまれる果樹の一つであり、梅干しや梅酒として広く実用されています。

大宰府

律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐・対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。

政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。

長官の大宰帥は従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

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