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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持の歌

巻第6-1029・1032ほか

1029
河口の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜の経(ふ)れば妹が手本(たもと)し思ほゆるかも
1032
大君(おほきみ)の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕(たまくら)まかず月ぞ経(へ)にける
1033
御食(みけ)つ国 志摩(しま)の海人(あま)ならし真熊野(まくまの)の小舟(をぶね)に乗りて沖へ漕(こ)ぐ見ゆ
 

【意味】
〈1029〉河口の野のほとりに仮の宿りをとっていると、夜が更けるにつれて妻の手枕が思い出される。

〈1032〉天皇の行幸につき従って、いとしい妻の手枕をすることもなく月日が経ってしまった。

〈1033〉天皇に御食を奉る国、志摩の国の海人であろうか、真熊野の小船に乗って沖の方へと漕いで行くのが見える。

【説明】
 天平12年(740年)8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。家持は、内舎人として行幸に従っていました。

 1029は、河口の行宮(かりみや)で家持が詠んだ歌。河口の行宮は、三重県津市白山町川口の地に営んだ仮宮のことで、聖武天皇はここに10日間留まりました。「手本し」の「手本」は、肘から肩までの部分、「し」は強意。年若い家持が、10月の夜々の侘しさを実感しています。

 1032・1033は、狭残(さざ)の行幸の時に家持が詠んだ歌。月が変わり、11月になっていました。「狭残」は、三重県多気郡明和町大淀とされます。1033の「御食つ国」は、天皇の食料を貢する国の意。「志摩」は、三重県鳥羽市・志摩市の沿岸地域。志摩は漁業の国で、神代より魚類や海藻など海の物を献じていた国です。「ならし」は「なるらし」の転。「真熊野の小舟」の「真」は接頭語で、良質の木材の産地と知られていた熊野の材で造られた舟。

巻第6-1035~1037

1035
田跡川(たどかは)の瀧(たき)を清(きよ)みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸(たぎ)の野の上に
1036
関(せき)なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕(たまくら)まきて寝ましを
1037
今造る久邇(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし
 

【意味】
〈1035〉養老の滝は清らかなので、古から天皇にお仕えしていたのだろう、ここ多芸の野に。
 
〈1036〉関が無ければ、ちょっとだけでも家に帰って、恋人の腕を枕にして寝たいものだ。

〈1037〉新しく造られる久邇の都は、山川の清らかさを見れば、ここに君臨なさることはもっともなことだと思われます。

【説明】
 1035は、美濃国の多芸の行宮で詠んだ歌。「多芸」は、岐阜県養老郡養老町のあたりとされます。「田跡川の滝」は、養老の滝。田跡川は、今の養老川で、養老の滝に発し、揖斐川に注ぎます。

 1036は、聖武天皇の不破行宮の時に作った歌。「不破」は、岐阜県不破郡垂井町の府中付近とされます。「関」は、不破の関。不破の関は、伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに「三関」の一つとされました。このあと天皇は、近江国を経て山背国の恭仁に至り、ここで突如、遷都の宣言をします。

 1037は、天平12年12月から同16年2月までの間に都とされた恭仁京を讃めて作った歌。「うべ」は、なるほど、いかにも。「知らす」は、天下を御支配になる意。この歌が詠まれたのは天平15年8月で、大宮の造営に着手したのが同12年12月なので、3年目を迎えてもまだ完成せず、工事中だったようです。しかし、この年の12月に、恭仁京の造営は停止となり、離宮である紫香楽宮(しがらきのみや)の造営が決定されました。

巻第6-1040

ひさかたの雨は降りしけ思ふ子が屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かして行かむ

【意味】
 雨よ、降り続いてくれ。そしたら、慕っている人の家に、今夜は明かして帰ろう。

【説明】
 安積皇子(あさかのみこ)が左少弁(さしょうべん)藤原八束(ふじわらのやつか)の家で宴会をした日に、内舎人(うちどねり)大伴宿祢家持の作った歌。安積皇子は聖武天皇の皇子で、天平16年2月、17歳の若さで亡くなりました。この歌が詠まれたのはその前年で、家持は、天平10年から16年まで、天皇の近くに仕える内舎人を務めていました。藤原八束は、藤原北家の祖・藤原房前の三男で、この時は28歳、家持は26歳。
 
 「ひさかたの」は「雨」の枕詞。「降りしけ」の「しけ」は、命令形。「思ふ子」の「子」は、広く男女に用いる愛称。ここでは主人の八束を指しているとされ、あるいは接待に出た侍女ではないかとする見方もあるようです。主客とも若い人であり、改まった形の宴ではなかったことから、折からの雨をふまえての、しゃれた座興の歌と捉えるべきでしょう。

巻第6-1043

たまきはる命(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ

【意味】
 命の長さは知らないが、ただこうして松の枝を結ぶ私の心は、長く遠く続いて欲しいと願っている。

【説明】
 天平16年(744年)正月の作で、恭仁京付近とされる活道(いくぢ)の岡に登り、一株の松の下に宴を催した時に詠んだ歌。大樹の下で酒宴をするのは古くから行われたようです。「たまきはる」は「命」の枕詞。「松が枝を結ぶ」のは身の安全や長命を祈るまじないで、安積皇子の長命を祈った歌だともいいます。なお、この歌の前に、宴に同席した市原王(いちはらおう:天智天皇の曾孫、安貴王の子)が詠んだ歌が載っています。
 
〈1042〉一つ松(まつ)幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の音(おと)の清きは年深みかも
・・・この一本松はどれほどの代を経たのだろうか。松風の音が澄んでいるのは、年の積もったゆえなのであろうか。

 活道の岡は、その年の3月に急逝した安積皇子の挽歌(巻第3-478~480)を詠んだ所でもあり、活道という地名と皇子との関係の深さが窺えるところから、皇子の邸宅があった場所ではないかと見る向きもあります。また、ここに安積皇子の名は見えないものの、途中まで皇子は同席しており、健康上の理由から席を外した、そして、ここの歌はその後に詠まれたのではないかとの想像もなされています。皇子の長命への祈りが、ある種の危機感を伴って背後に流れているような雰囲気が感じられるからです。

大伴東人の歌

巻第6-1034

いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)の変若(を)つといふ水ぞ名に負(お)ふ瀧(たき)の瀬(せ) 

【意味】
 これが古来言い伝えてきた、老人を若返らせるという水だ。いかにもその名にふさわしい滝の流れよ。

【説明】
 天平12年(740年)、聖武天皇の東国行幸に従駕した大伴東人(おおとものあずまひと)が、美濃国の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)で作った歌。美濃国は、岐阜県南部。多芸の行宮は、所在未詳。「いにしへゆ」の「ゆ」は、起点。「変若つ」は、若返る、元に立ち返る。「名に負ふ滝の瀬」は、養老の滝のこと。

 大伴東人は、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴って従五位下となり、同5年武部(兵部)少輔、同7年少納言、さらに宝亀1年(770年)散位助、周防守などを経て同5年に弾正弼 に任じた人。
 
 万葉人は、若返ることを「変若(をつ)」と言い、満ち欠けを永遠に繰り返す月を見て、そこには若返りの水(変若水:をちみず)が存在すると信じていました。しかし、遠い月に行ってそれを得ることはできません。そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、その結果、「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。

作者未詳歌

巻第6-1044~1046

1044
紅(くれなゐ)に深く染(し)みにし心かも奈良の都に年の経(へ)ぬべき
1045
世間(よのなか)を常(つね)なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
1046
岩綱(いはつな)のまた変若(を)ちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
 

【意味】
〈1044〉紅に色深く染まるように、心に深く染み込んだ奈良の都に、これからの年月を過ごせるものだろうか。

〈1045〉無常の世と思わずにいられない。この奈良の都が日ごとにさびれていくのを見ると。

〈1046〉岩に巻いた綱が元に戻るように、また若返って、栄えた奈良の都を再び見られるだろうか。

【説明】
 奈良の都の荒れた跡を傷み惜しんで作った作者未詳歌3首。都が恭仁京に遷った天平12年(740年)から同17年に再び奈良に遷都されるまで、奈良は古京となっていました。大極殿などが解体・移築されたため、平城京はあっという間に荒れてしまったといいます。ここの歌は、荒墟となった奈良の都にとどまって目にし続けている人の作とみられます。
 
 1044の「紅」は、ベニバナ。その花冠から採った汁を紅色の染料として用いていました。「かも」は、反語。1045の「うつろふ」は、色が褪せる、衰える。1046の「岩綱の」の「岩綱」は、岩に這う蔓性の植物で、年ごとに芽吹いて伸び広がることから「また変若ちかへり」の枕詞。「変若ちかへり」は、若返る。「あをによし」は「奈良」の枕詞。

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大伴家持の略年譜

718
家持生まれる(在京)
724
聖武天皇即位

728
父の旅人が 大宰帥に
731
父の旅人が死去(14歳)
738
内舎人となる(21歳)
橘諸兄との出会い
739
妾と死別(22歳)
坂上大嬢との出会い
741
恭仁京の日々(24歳)
744
安積親王が死去

745
従五位下に叙せられる(28歳)
746
越中守となる(29歳)
749
従五位上に昇叙(32歳)
751
少納言となる(34歳)
754
兵部少輔を拝命(37歳)
755
難波で防人を検校、防人歌を収集(38歳)
756
聖武太上天皇が崩御

757
橘諸兄が死去

兵部大輔に昇進(40歳)
橘奈良麻呂の乱

758
因幡守となる(41歳)
淳仁天皇即位

759
万葉集巻末の歌を詠む(42歳)
764
薩摩守となる(48歳)
恵美押勝の乱

766
称徳天皇が重祚

道鏡が法王となる

767
大宰少弐となる(50歳)
770
道鏡が下野国に配流

正五位下に昇叙(53歳)
771
光仁天皇即位

従四位下に昇叙(54歳)
774
相模守となる(57歳)
776
伊勢守となる(59歳)
777
従四位上に昇叙(60歳)
778
正四位下に昇叙(61歳)
780
参議となり、右大弁を兼ねる(63歳)
781
桓武天皇即位

正四位上に昇叙(64歳)
従三位に叙せられ公卿に列する
783
中納言となる(66歳)
784
持節征東将軍となる(67歳)
長岡京遷都

785
死去(68歳)

遷都の歴史

斉明天皇
655年
難波京(難波長柄豊碕宮)から飛鳥川原宮)へ
656年
飛鳥川原宮から岡本宮(後飛鳥岡本宮)へ
661年
後飛鳥岡本宮から朝倉橘広庭宮へ
天智天皇
667年
朝倉橘広庭宮から近江大津宮へ
天武天皇
672年
近江宮から飛鳥浄御原宮へ
持統天皇
694年
飛鳥浄御原宮から藤原宮へ
元明天皇
710年
藤原京から平城京へ
聖武天皇
740年
平城京から恭仁京へ
743年
恭仁京から紫香楽宮へ
745年
紫香楽宮から平城京へ

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