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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

車持千年(くるまもちのちとせ)の歌

巻第6-913~916

913
味織(うまごり) あやにともしく 鳴る神の 音(おと)のみ聞きし み吉野の 真木(まき)立つ山ゆ 見下ろせば 川の瀬ごとに 明け来れば 朝霧(あさぎり)立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐(ひも)解かぬ 旅にしあれば 我(あ)のみして 清き川原(かはら)を 見らくし惜(を)しも
914
滝の上の三船(みふね)の山は畏(かしこ)けど思ひ忘るる時も日もなし
915
千鳥(ちどり)鳴くみ吉野川の川音(かはおと)の止(や)む時なしに思ほゆる君
916
あかねさす日(ひ)並(なら)べなくに我(あ)が恋は吉野の川の霧(きり)に立ちつつ
 

【意味】
〈913〉譬えようもなく心惹かれながら、噂にばかり聞いていた吉野。美しい木々が林立するその山に立って見下ろせば、川の瀬という瀬に、夜が明ければ朝霧が立ち、夕暮になれば河鹿の鳴き声が聞こえてくる。妻を都に残しての旅だから、自分だけが清らかな川原を見るのは残念でならない。

〈914〉滝の上にそびえる三船の山の眺めは恐れ多いほど素晴らしいけれども、私は一日も一時も妻を忘れることはない。
 
〈915〉千鳥の鳴く吉野川の川音はやむ時がないが、同じように妻への思いはやむ時がない。
 
〈916〉旅に出てまだ多くの日数がたったわけでもないのに、恋心が、吉野川の霧となって立ちのぼってくる。

【説明】
 車持千年(くるまもちのちとせ)は元正・聖武天皇の時代、笠金村や山部赤人と同時代の人。天皇の車駕奉仕を職とした一族の人間ではないかとされますが、生没年・伝未詳。また、女性と見る説もあるようです。この歌の左注には、「作歌年月は明らかでないが、ある本に養老7年(723年)5月に吉野の離宮に行幸(元正天皇)されたときの歌である」とあります。

 913の「味織」は立派な織物のことで、綾と続き、それを副詞の「あや」に転じて「あやにともしく」の枕詞としたもの。「あやに」は、譬えようもなく。「ともしく」は、羨ましく。「鳴る神の」は、雷神ので、意味で「音」に掛かる枕詞。「真木」の「真」は美称で、立派な木の総称。檜をいっている例が多いようです。「山」は、この辺りの高山である三船(みふね)の山。「ゆ」は、~より。「紐解かぬ旅」は、妻を伴わない一人旅。

 915・916は「或る本の反歌に曰く」とあり、914の歌が収録されている本とは別の本に反歌としてある歌で、914の初案の歌とみられています。915の上3句は「止む時なしに」を導く序詞。「君」は本来、自分より身分の高い相手や女性が男性に対して使う語であり、車持千年を女性とみる説はこの「君」の表現を理由にしています。しかし、妹を「君」と称する例は古くはなく、この時代頃からまれに見られる表現です。ここでは妻を指すとする説が有力です。916の「あかねさす」は「日」の枕詞。「日並べ」は、日を重ね。この歌も、どことなく女性、あるいは女性の立場で詠まれた歌らしくはあります。

 律令制の時代になると、中央と地方の行政機関との連絡のため、役人が頻繁に行き来するようになりましたが、古来の旅にまつわる信仰や旅の歌の伝統は踏襲されました。それによる旅の歌の原則は、第一に「訪れた土地の名を入れる」こと。その土地の神の名でもある地名を入れた歌を作って賛美することによって、無事に通過できるよう願ったのです。第二には「故郷や妻、家をうたう」こと。それによって魂がつながり、安全を保証するというものでした。

巻第6-931~932

931
いさなとり 浜辺(はまへ)を清み 打ち靡(なび)き 生ふる玉藻(たまも)に 朝凪(あさなぎ)に 千重(ちへ)波寄せ 夕凪(ゆふなぎ)に 五百重(いほへ)波寄す 辺(へ)つ波の いやしくしくに 月に異(け)に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻(めぐ)れる 住吉(すみのえ)の浜
932
白波の千重(ちへ)に来寄(きよ)する住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かな
 

【意味】
〈931〉浜辺が清いので、ゆらゆら揺れながら生えている海藻に、朝の凪ぎには千重の波が打ち寄せ、夕べの凪ぎには五百重(いおえ)の波が打ち寄せる。その浜辺に寄せる波のように、ますます繁く月を重ね日を重ね眺めても満足できないのに、まして今だけで見飽きることなどあろうか。花のように白波の花が咲きめぐる住吉の浜。

〈932〉白波が幾重にも押し寄せる住吉の浜の黄土に、衣を美しく染めて行きたい。

【説明】
 作者が初めて住吉の浜に立ち、海の珍しさに強い感興を得て作った歌。題詞には書かれていませんが、笠金村が詠んだ928の歌と同じ時の神亀2年(725年)10月の聖武天皇の難波行幸に従駕したときのものとされます。
 
 931の「いさなとり」は「浜辺」の枕詞。「清み」は、清いので。「玉藻」は、藻を称えての称。「千重波」「五百重波」は、絶えない波の表現。「いやしくしくに」は、ますます頻繁に。「異に」は、いよいよ。「住吉」は、今の大阪市住吉区あたり、住吉神社の浜。現在は埋め立てられており、当時の海浜はありません。932の「来寄する」は、寄り来るの意の、上代の言い方。「埴生」は、赤黄色の粘土。「にほひて」は、染まって。「行かな」の「な」は、希望、意志。当時、住吉の岸辺などで産出する埴生で衣を染める鉱物染めが有名だったようです。

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時代別のおもな歌人
 

●第1期伝誦歌時代
 磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
 
●第1期創作歌時代
 有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
 
●第2期
 持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
 
◆第3期
 山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女
 
◆第4期
 大伴家持/大伴池主/湯原王/田辺福麻呂/笠女郎/紀郎女/中臣宅守/狭野茅上娘子 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
 

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