巻第6-907~909
907 滝の上(へ)の 御舟(みふね)の山に 瑞枝(みづえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(とが)の樹の いやつぎつぎに 万代(よろづよ)に かくし知らさむ み吉野の 蜻蛉(あきづ)の宮は 神柄(かむから)か 貴くあるらむ 国柄(くにから)か 見が欲しからむ 山川を 清み清(さや)けみ うべし神代(かみよ)ゆ 定めけらしも 908 毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内(かふち)の激(たぎ)つ白波 909 山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ滝の河内(かふち)は見れど飽かぬかも |
【意味】
〈907〉吉野川の激流のほとりの御船の山に、みずみずしい枝を張り出し、すき間なく生い茂る栂の木、そのように次々と、いつの代までこのようにお治めになっていく。ここ吉野の蜻蛉の離宮は、この地の神のご威光からこんなにも貴いのか。国の品格からこんなにも見たいと思うのか。山も川も清くすがすがしいので、なるほど神代からここを宮とお定めになったのだ。
〈908〉毎年このように見たいものだ。吉野川の清らかな河内に、激しく流れる白波を。
〈909〉山が高いので、まるで白木綿の花を流したように激しくほとばしる吉野川の河内は、いくら見ても見飽きることはない。
【説明】
養老7年(723年)夏の5月、元正天皇が吉野の離宮に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った長歌と2首の反歌。皇太子である首皇子(おびとのみこ:のちの聖武天皇)の即位を予祝する歌であるとされます。吉野は、天武天皇が壬申の乱で勝利する発端となった土地であり、その後も天武皇統の聖地とされました。久々の男子天皇となる聖武天皇の即位を控え、この歌の表現もその皇統を強く意識した讃歌になっています。
907の「滝の上」は激流のほとり。離宮があったとされる宮滝は、江戸時代の儒学者の貝原益軒が『和州純覧記』に「宮滝は滝にあらず」と書いたように、水が激しく流れるという意味の古語「激(たぎ)つ」からきています。「しじに」は、繁く、ぎっしり。「栂の樹」は、栂(つが)。「栂」は、樹高30mにもなるわが国特産の常緑高木で、「栂」の字は国字です。「知らす」は、統治の意の「知る」の敬語。「蜻蛉の宮」は、吉野離宮の別名。「神柄」は、神の位。下の「国柄」との対比として言ったもの。「見が欲しからむ」は、見たいだろう。「うべし」は、なるほど、もっともなことに。「神代ゆ」の「ゆ」は、~から。~より。「定めけらしも」の「らし」は、根拠のある推定。「も」は、詠嘆。
908の「毎年に」は、年ごとに。「見てしか」の「てしか」は、願望の終助詞。「河内」は、川を中心として山に囲まれた場所。909の「白木綿花」は、白い木綿の造花。女性の髪飾りか、あるいは木綿の白さを花に譬えたものか。「見れど飽かぬ」は、柿本人麻呂に始まる、絶賛の意で用いられる語。
笠金村は奈良時代中期の歌人で、身分の低い役人だったようです。『万葉集』に45首を残し、そのうち作歌の年次がわかるものは、715年の志貴皇子に対する挽歌から、733年のの「贈入唐使歌」までの前後19年にわたります。とくに巻6は天武天皇朝を神代と詠う笠金村の歌を冒頭に据えています。自身の作品を集めたと思われる『笠朝臣金村歌集』の名が『万葉集』中に見えます。
巻第6-910~912
910 神(かむ)からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内(かふち)は見れど飽かぬかも 911 み吉野の秋津(あきづ)の川の万代(よろづよ)に絶ゆることなくまたかへり見む 912 泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花(ゆふばな)み吉野の滝の水沫(みなわ)に咲きにけらずや |
【意味】
〈910〉この地の神様のゆえか、見たいと思う美しい吉野の滝の流れは飽きることがない。
〈911〉美しい吉野の秋津川を、これからずっと絶えることなくまたやって来て眺めたい。
〈912〉泊瀬女(はつせめ)の造った木綿花が 吉野の川面に咲いているよ。
【説明】
養老7年(723年)夏の5月、元正天皇が吉野の離宮に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った歌。題詞に、907の長歌の反歌だとして「或本の反歌に曰く」とあり、或本には反歌が全部異なっているため、それを挙げているというものです。910の「河内」は、川を中心として山に囲まれた場所。912の「泊瀬女」は、泊瀬地方に住む女のこと。「木綿花」は、木綿でつくった造花、女性の髪飾り。または、木綿の白さを花に喩えたともいいます。「水沫」は、水の泡。
920 あしひきの み山もさやに 落ち激(たぎ)つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥しば鳴く 下辺(しもへ)には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人(おおみやひと)も をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉かづら 絶ゆることなく 万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あめつち)の 神をそ祈る 畏(かしこ)くあれども 921 万代(よろづよ)に見とも飽(あ)かめやみ吉野の激(たぎ)つ河内(かふち)の大宮所(おおみやところ) 922 皆人(みなひと)の命も我(わ)がもみ吉野の滝の常磐(ときは)の常(つね)ならぬかも |
【意味】
〈920〉山も清々しく、激しく流れ落ちる、その吉野の川の川瀬の清らかなありさまを見ると、上流には千鳥がしきりに鳴き、下流にはカジカガエルが妻を呼んで盛んに鳴いている。随行してきた大宮人もあちこちに大勢往来している。こうした光景を見るたび、まことにすばらしく思われて、絶えることなく万代までもこうあってほしいと、天地の神々にお祈りを捧げる、恐れ多いことであるけれども。
〈921〉いつまで見続けていても見飽きることがない。吉野川のたぎりたつ河内の、この大宮所は。
〈922〉ここにいる皆々方の命も、私の命も、ここ吉野の滝の常盤ように未来永劫に不変であってくれないものか。
【説明】
神亀2年(725年)の夏の5月、聖武天皇が吉野の離宮に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った歌。920の「あしひきの」「ももしきの」「玉かづら」は、それぞれ「山」「大宮人」「絶ゆることなく」の枕詞。「あやに」は、無性に、不思議に。「ともしみ」は、珍しく、うらやましく、心惹かれて。「かくしもがも」は、このようにありたい。921の「大宮所」は、皇居のある所。922の「常盤」は、常に変わらない岩。
928 おしてる 難波(なには)の国は 葦垣(あしかき)の 古(ふ)りにし里と 人皆(ひとみな)の 思ひやすみて つれもなく ありし間(あひだ)に 績麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷(し)きて 食(を)す国を 治(をさ)めたまへば 沖つ鳥 味経(あじふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)は 廬(いほ)りして 都なしたり 旅にはあれども 929 荒野(あらの)らに里はあれども大君(おほきみ)の敷きます時は都となりぬ 930 海人娘子(あまをとめ)棚(たな)なし小舟(をぶね)漕(こ)ぎ出(づ)らし旅の宿(やど)りに楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ |
【意味】
〈928〉難波の国は、もう古びた里だと、世の人は皆心にもかけなくなり、疎遠になっているうちに、われらの大君が、ここ難波長柄の宮に真木の柱を高く太くがっしりとお建てになり、この宮から天下をお治めになられるので、宮の前の味経の原に大勢の供奉の宮人たちが仮の廬を作って、ここ一帯を都となしている。行幸の供奉の旅ではあるけれども。
〈929〉ここ難波はいかにも荒野らしい里であるけれども、大君がおわします時には、賑わしい都となっている。
〈930〉漁師の娘たちが棚なしの小舟を漕ぎ出しているらしい。この浜辺の旅寝の宿に、櫓(ろ)の音がさかんに聞こえてくる。
【説明】
神亀2年(725年)冬の10月、聖武天皇が難波の宮に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った歌。928の「おしてる」「葦垣の」は、それぞれ「難波」「古り」の枕詞。「績麻なす」は、麻糸の長い意で、「長柄」の枕詞。天皇は飛鳥時代に造られた難波長柄豊崎宮の跡地に都を遷そうとして建設を進めたのでした。「真木柱」は、檜の柱。「高敷きて」は、立派に造って。「沖つ鳥」は「味経」の枕詞。「味経」は、宮殿南の平地。「八十伴の男」は、多くの大宮人。
929の「荒野らに」の「荒野」は、人の立ち入らない野。「ら」は、音調のために添えた語。「敷きます」は、お治めになる。930の「棚なし小舟」は、船棚のない一枚板の小さな舟。当時、難波宮が造られた上町台地は海に囲まれた半島のような地形であり、奈良の大宮人たちにとって、間近に見える海はたいへん珍しい光景だったようです。
巻第6-935~937
935 名寸隅(なきすみ)の 舟瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆(まつほ)の浦に 朝なぎに 玉藻(たまも)刈りつつ 夕なぎに 藻塩(もしほ)焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行(ゆ)かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに たわやめの 思ひたわみて た廻(もとほ)り 我(あ)れはぞ恋ふる 舟梶(ふなかじ)をなみ 936 玉藻(たまも)刈る海人娘子(あまをとめ)ども見に行かむ舟楫(ふなかぢ)もがも波高くとも 937 行き廻(めぐ)り見(み)とも飽(あ)かめや名寸隅(なきすみ)の舟瀬(ふなせ)の浜にしきる白波 |
【意味】
〈935〉名寸隅(なきすみ)の舟着き場から見える淡路島の松帆の浦で、朝凪ぎの時には藻を刈り、夕凪ぎの時には藻塩を焼いている、海人の娘子たちがいると聞いているが、その娘子たちを見に行く手だてがないので、ますらおの雄々しい心はなく、たわやめのように思いしおれ、行こうこうか行くまいかと逡巡しながら思い焦がれてばかりいる。舟も櫂もないので。
〈936〉玉藻を刈っている海人の娘子たちを見に行く舟や櫂があったらよいのに。波が高く立っていようとも。
〈937〉行きつ戻りつして、いくら見てても飽きることがあろうか。この名寸隅の舟着き場にしきりに押し寄せる白波は。
【説明】
神亀3年(726年)秋の9月、聖武天皇が播磨国の印南野に行幸あったとき、従駕の笠金村が作った歌。935の「名寸隅」は、明石市の魚住町付近。「舟瀬」は、舟着き場。「松帆の浦」は、淡路島の北端あたり。「藻塩焼きつつ」とあるのは、当時の製塩法の一つで、海藻を天日で乾かし、何度も何度も海水を汲み上げては掛けて塩分の濃度を高めて火で焼く作業のこと。「た廻り」は、同じ場所を往き来する意。「舟梶をなみ」は、舟や櫂がないので。936の「もがも」は、願望。937の「しきる」は、しきりに寄せる。
950 大君(おほきみ)の境(さか)ひたまふと山守(やまもり)据(す)ゑ守(も)るといふ山に入(い)らずはやまじ 951 見わたせば近きものから岩隠(いはがく)りかがよふ玉を取らずはやまじ 952 韓衣(からころも)着(き)奈良(なら)の里(さと)の夫松(つままつ)に玉をし付(つ)けむ好(よ)き人もがも 953 さを鹿(しか)の鳴くなる山を越(こ)え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ |
【意味】
〈950〉大君の御領として境を設けられ、山の番人を置いてまで管理されている山であっても、私は入らずにはいられない。
〈951〉海の上を見渡すと、近くにありながら、岩陰に光り輝いている玉がある。その玉を我が物にしないでおくものか。
〈952〉韓衣を着慣らすという奈良の里の、夫(つま)を待つこの松に付けて飾るにふさわしい玉のような、立派な人がいてくれたらなあ。
〈953〉牡鹿が妻恋いをして鳴いているこの山を越えようとしている日なのに、ひょっとしてあなたは逢ってくださらないのでしょうか。
【説明】
神亀5年(728年)、聖武天皇が難波宮に行幸された時に作った歌4首とありますが、行幸には関りのない歌になっています。なお左注に「右は、笠朝臣金村が歌の中に出づ。或いは車持朝臣千年が作といふ」とあり、あるいは行幸先の宴席で二人が歌い交わしたものかもしれません(目録では4首とも車持千年の作とある)。950・951は、男の立場で天皇の女官に言い寄ろうとする歌、952・953は、女の立場で答えた歌になっています。
950の「山守」は、女の親または侍女の譬え。「山に入る」は、女に逢う譬え。951の「近きものから」は、近くにありながら。「かがよふ」は、輝く。「玉」は、得難い美女の譬え。952の「韓衣」は、唐風に仕立てた衣。「韓衣着」は「着ならす」と続けた「奈良」の序詞。「好き人」は、教養があり身分もある人を尊んでの称。「もがも」は、願望。953の「さを鹿」の「さ」は接頭語。「はた」は、ひょっとして。
なお、この次に膳部王(かしわでのおおきみ)の歌が載っており、「右は、作歌の年審らかにあらず。ただし、歌の類をもちて、すなはちこの次に載す」とあります。膳部王は長屋王の嫡男で、この翌年に起きた「長屋王の変」で、父の長屋王とともに自殺させられた人です。
〈954〉朝(あした)には海辺にあさりし夕されば大和へ越ゆる雁(かり)し羨(とも)しも
・・・朝のうちは海辺で餌を漁り、夕方には大和の方へ超えていく雁たちが、うらやましくてならない。
巻第8-1453~1455
1453 玉たすき 懸(か)けぬ時なく 息の緒(を)に 我(あ)が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の 命(みこよ)畏(かしこ)み 夕(ゆふ)されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟(なにはがた) 御津(みつ)の崎より 大船(おほぶね)に 真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き 白波(しらなみ)の 高き荒海(あるみ)を 島伝ひ い別れ行かば 留(とど)まれる 我れは幣(ぬさ)引き 斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早(はや)帰りませ 1454 波の上ゆ見ゆる小島の雲隠(くもがく)りあな息づかし相(あひ)別れなば 1455 たまきはる命(いのち)に向ひ恋ひむゆは君が御船(みふね)の楫柄(かぢから)にもが |
【意味】
〈1453〉玉たすきを懸けるように心にかけ、命がけで私が思うあなたは、この世に生きる人なので、大君のご命令を畏んで、夕方に鶴が妻を呼んで鳴く難波潟の御津の崎から、大船に梶がいっぱい取りつけて、高く白波の立つ荒海を島伝いに出て行かれる。お別れして後に留まる私は、幣を引いて神へ手向け、ご無事を祈りながらあなたを待ち続けます。どうか早くお帰り下さい。
〈1454〉波の上に見えていた小島が雲に隠れるように、あなたの船が見えなくなって、切なく溜息が出ることでしょう、お別れしてしまったら。
〈1455〉いのちがけの思いで思い続けるよりはいっそあなた様の乗る船の楫の柄になりたい。
【説明】
天平5年(733年)春、入唐使の丹比真人広成(たじひのまひとひろなり)に贈った歌。1453の「玉だすき」は「懸く」の枕詞。「息の緒に」は、命がけで。「うつせみの」は「世」の枕詞。「夕されば」は、夕方になると。「難波潟」は、大阪付近の海。「御津の崎」は、上町台地付近の港。「真楫しじ貫き」は、左右にたくさんの楫を取り付けて。「幣」は、神に祈る時に捧げるもの。「斎ひつつ」は、心身を清め謹んで。
1454の「小島」は、普通名詞ではなく備前の「児島」とする向きもあります。上2句は「息づかし」を導く序詞。「息づかし」は、ため息がつかれる。「相別れなば」は、別れたならば。1455の「たまきはる」は「命」の枕詞。「命に向かひ」は、命がけで。「楫柄」は、楫の柄。「もが」は、願望。
隋が滅びて唐になってから、中国への朝貢施設は「遣唐使」と名を変え、舒明天皇の2年(630年)の第1回以来、天平5年には第10回目の遣唐使が派遣されました。用いられた船は竜骨のない脆弱な箱船で、4隻の船が難波津から瀬戸内海を通り、博多の津を経由して玄海灘へ向かいました。この時の使節は、往路は無事に唐に渡ることができたものの、翌々年の復命時に無事に戻ってこられたのは2隻のみでした。
巻第8-1532~1533
1532 草枕(くさまくら)旅ゆく人も行き触(ふ)ればにほひぬべくも咲ける萩(はぎ)かも 1533 伊香山(いかごやま)野辺(のへ)に咲きたる萩(はぎ)見れば君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ |
【意味】
〈1532〉草を枕に旅行く人も、行きずりに触れるだけで、萩は色づくほどに咲いている。
〈1533〉伊香山の野辺に咲いている萩を見ると、君の家にある尾花が思い出されます。
【説明】
伊香山で作った2首。「伊香山」は、滋賀県伊香郡の賎ケ岳麓。1532の「草枕」は「旅」の枕詞。「にほふ」は、色づく。1533の「君」は誰のことか分かりませんが、窪田空穂は、「公務の旅で、彼よりも身分の高い人が同行しており、その人をさして詠みかけたものと取れる」と言っています。「尾花」は、ススキの花穂。ススキは奈良朝期には庭にも植えられたらしく、尾花を詠むのは多く奈良朝以降の歌に見られます。ススキはそれ以前から詠まれていますが、景物への美的な感覚はススキよりも尾花にいっそう顕著となっています。
⇒笠金村の歌(巻第9-1785~1789)
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時代別のおもな歌人
●第1期伝誦歌時代
磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
●第1期創作歌時代
有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
●第2期
持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
◆第3期
山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女/湯原王
◆第4期
大伴家持/大伴池主/市原王/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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