
巻第8-1480~1481
| 1480 我(わ)が宿(やど)に月おし照れり霍公鳥(ほととぎす)心あれ今夜(こぞ)来(き)鳴き響(とよ)もせ 1481 我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)に霍公鳥(ほととぎす)今こそ鳴かめ友に逢へる時  | 
                  
【意味】
              〈1480〉我が家の庭に月が隈なく照っている。ホトトギスよ、思いやりの気持ちを持ってほしい。さあ今夜は、ここに来て鳴いておくれ。
              〈1481〉我が家の庭の花橘にやってきて、ホトトギスよ、さあ今こそ鳴いておくれ。友と会っているこの時に。
【説明】
               大伴書持は旅人の子で、家持の異母弟にあたります(生年不明)。『続日本紀』などに名は見えず、また『万葉集』を見ても官職に就いていた形跡はありません。家持が越中国守に赴任した年(746年)の9月、家持は使いの者から書持の死を知らされました。この時の家持は29歳でしたから、書持はあまりに若くして亡くなっています。弟の臨終に立ち会うことができなかった家持が作った哀傷歌が、巻第17にあります(3957~3959)。
              
               1480の「宿」は、家の敷地、庭先。書持は、邸内に「花薫る庭(花薫庭)」と称する庭園を設け、花草花樹を植えて楽しんだといいます。「おし照れり」は、押しなべて照っている、一面に照っている。「り」は、完了の助動詞。「心あれ今夜」は、思いやりの気持ちを持ってほしい今夜は、の意。原文「心有今夜」で、①ココロアレコヨヒ、②ココロアルコヨヒ、③ココロアラバコヨヒなどと訓むものもあります。①は単独母音アを含む許容される字余りですが、②は意味が続かず、③は字余りとなります。「来鳴き響もせ」は、来て盛んに鳴いてくれと命令したもの。
              
               1481は1480との連作で、同じ気持ちを推し進めているもの。「花橘」は、花の咲いている橘。橘はミカン科の常緑小喬木で、初夏の頃に芳香を放つ白い花をつけます。「今こそ鳴かめ」の「こそ」は係助詞、「鳴かめ」の「め」は、勧誘・希望を表す助動詞「む」の已然形で「こそ」の結び。月夜の橘の花が香る時、友と共に霍公鳥を聞く情趣に浸ろうとする、若い貴族の生活が窺われる歌です。
              
               詩人の大岡信は、「友人が訪ねて来ているのだから、ほととぎすよ来て鳴くがいい、と言っているところには、いわば鳥の声こそ自分が客に提供する最上のもてなし、馳走であるという思想があり、つまりそういう意味での風雅を分かち合う友の存在を前提とした思想が、はっきり根づいてきたことを物語っている」と言い、作家の田辺聖子は、いずれの歌も「情緒陶酔型のインテリらしい歌」と評しています。書持の歌は『万葉集』に12首収録されていますが、その殆どが花鳥風月の美を愛した歌になっています。
巻第8-1587
| あしひきの山の黄葉(もみちば)今夜(こよひ)もか浮かび行くらむ山川(やまがは)の瀬に | 
【意味】
               この山の黄葉は今夜にも散って、浮かんで流れていくことだろうか、山川の瀬に。
【説明】
               天平10年(738年)ころの冬、橘奈良麻呂の宴に出席し、諸詩人と競って詠んだ歌。「あしひきの」は「山」の枕詞。「浮かび行くらむ」の「らむ」は、現在の推量。次々と散って川面を流れていく紅葉の葉を詠んでいますが、作者は現にこれを見ているわけではなく、川から離れた奈良麻呂邸にあって、昼間見た光景から、今の状況を想像しています。そこには、誰にも賞美されずに流れていく黄葉を愛惜する心があります。
              
               この歌について、斎藤茂吉は次のように言っています。「皆黄葉(もみじ)を内容としているが書持の歌い方がやや趣(おもむき)を異(こと)にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、『今夜こよひもか浮びゆくらむ』と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない稚拙(ちせつ)のようなところがあって、何時(いつ)か私の心を牽(ひ)いたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂(いわゆる)万葉的常套(じょうとう)を脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜している。そして天平十年が家持二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる」。
巻第17-3901~3903
| 3901 み冬(ふゆ)継(つ)ぎ春は来たれど梅の花(はな)君にしあらねば招(を)く人もなし 3902 梅の花み山と繁(しみ)にありともやかくのみ君は見れど飽(あ)かにせむ 3903 春雨(はるさめ)に萌(も)えし柳(やなぎ)か梅の花ともに後(おく)れぬ常(つね)の物かも  | 
                  
【意味】
              〈3901〉寒い冬に続いて春がやってきて、待ちに待った梅の花の季節になりましたが、あなた様以外にはお招きする人はいません。
              
              〈3902〉梅の花よ、たとえ生い茂る山のように一杯に咲いたとしても、大宰府の時と同じように、あなたがいくら見ても見飽きることはないでしょう。
              
              〈3903〉この柳は、春雨を受けて萌え出たのか、あるいは、梅の花が咲き揃うのに後れてはならないようにと萌え出す、いつも通りの柳なのでしょうか。
【説明】
               天平12年(740年)12月9日、大宰府の「梅花宴の歌」に追和した新しき歌6首とあるうちの3首。大伴旅人が大宰府の自邸で観梅の宴を催して部下たちと共に梅花の歌を詠んだのが天平2年正月13日ですから、それから10年を経て後に、その風流をゆかしみ、和うる心をもって詠んだ歌です。それぞれ順に、巻第5-815、816、817の歌(下掲)に和したものとされますが、亡父追慕の歌でもありましょう。ただし、12月9日は太陽暦の12月31日にあたり、梅を面前にしての作ではなかろうと思われ、どのような契機から追和したものかは分かりません。
              
               3901の「み冬継ぎ」の「み」は、接頭語。「継ぎ」は、続いて。「君にし」の「し」は強意の副助詞で、815の作者、大弐紀卿(だいにのきのまつえきみ:大宰府次官だった紀男人)を指しています。「招く」は、815の歌にある「梅を招きつつ」を受けた言葉で、梅が咲くのを擬人化した表現。なお、「春は来たれど」の「春」の原文は「芳流」、「梅の花」の「花」の原文は「芳奈」となっており、いずれも集中唯一の例となっています。梅の芳香とその漂いを示すために敢えて用いたのでしょうか。
              
               3902の「み山と」の「み」は、接頭語、「と」は、~のように。「繁に」は、たくさんに。「ありともや」は、あったとして~だろうか。「かくのみ」は、このように、で、大宰府の時の歌と同じように、の意。ここの「君」は、816の作者の小野老(おののおゆ)を指していると見られます。「飽かにせむ」は、飽きることはないだろう。表現が明晰を欠いているため様々に解釈される歌であり、窪田空穂も、「複雑した気分で、扱いにくいものであるところから、勢い詠み方がたどたどしい感のするものとなってしまったのである。詠みにくい、手に余る内容ながら、強いても詠みきろうとした心の見える歌」と述べています。
              
               3903の「春雨に」は、春雨によって、春雨に促されて。「萌えし」は、芽が出た。春雨は「梅花の歌」32首中にはない素材で、また、春雨と柳の取り合わせは集中この1首のみ。「常のものかも」の「常のもの」は、普通の若葉の意。「かも」は、疑問の助詞。順を追って強いて和え歌を試みたらしく、3句以下が舌足らずで素直に解しにくいとの評があります。
              
              〈815〉正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ
              〈816〉梅の花今咲けるごと散り過ぎず我(わ)が家(へ)の園にありこせぬかも
              〈817〉梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は縵(かづら)にすべくなりにけらずや
巻第17-3904~3906
| 3904 梅の花(はな)何時(いつ)は折らじと厭(いと)はねど咲きの盛りは惜(を)しきものなり 3905 遊ぶ内(うち)の楽しき庭に梅柳(うめやなぎ)折(を)りかざしてば思ひ無(な)みかも 3906 み園生(そのふ)の百木(ももき)の梅の散る花し天(あめ)に飛び上がり雪と降(ふ)りけむ  | 
                  
【意味】
              〈3904〉梅の花、この美しい花をいつといって折るのが惜しいわけではないが、やはり花の盛りは、とりわけ折るのが惜しいものだ。
              
              〈3905〉遊んでいる楽しい庭で、梅や柳を折って頭にかざして遊んだのちは、何の心残りも訪れないのだろうか。
              
              〈3906〉お庭のたくさんの梅の木から風に散った花びらが、空に舞い上がって雪となって降ってきたのでしょう。
【説明】
               天平12年(740年)12月9日、大宰府の「梅花宴の歌」に追和した新しき歌6首のうちの3首。旅人が大宰府の自邸で観梅の宴を催して人々と共に梅花の歌を詠んだのが天平2年正月13日ですから、それから10年を経て後に、その風流をゆかしみ、和うる心をもって詠んだ歌です。それぞれ順に、巻第5-820、821、822の歌(下掲)に和したものとされます。
              
               3904の「何時は折らじと厭はねど」は、いつ折っても構わないが。「咲きの盛り」は、満開の時。3905の「遊ぶ内の」は、遊びをしている現在の、の意。「楽しき庭」の「楽し」の語は、酒宴に関連して多く用いられます。「折りかざしてば」の「てば」は、仮定条件。~たならば。「思ひ無みかも」の「無み」は、状態を表す動詞の「無む」の連用形。「かも」は、詠嘆。
              
               3906の「み園生」の「み」は、美称、「園生」は、庭。大宰府の旅人の庭園を指しています。「百木」の「百」は、数の多い表現。「散る花し」の「し」は、強意の副助詞。「降りけむ」の「けむ」は、過去推量。旅人の歌が、梅の花が散るさまを「天から雪が降ってくるのだろうか」と見立てた中国的趣向によっているのに対し、書持は、それとは逆で、梅の花びらが天に舞い上がって雪のように降ってきたのでしょう、と応じています。両者の関係は6首の中では最も分かりやすいものになっています。
              
              〈820〉梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり
              〈821〉青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
              〈822〉わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
巻第17-3909~3910
| 3909 橘(たちばな)は常花(とこはな)にもが霍公鳥(ほととぎす)住むと来(き)鳴かば聞かぬ日無けむ 3910 玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山霍公鳥(やまほととぎす)離(か)れず来(こ)むかも  | 
                  
【意味】
              〈3909〉橘は、年中咲く花であったらなあ。そうなれば、ホトトギスが住みつこうとやって来て、いつもその鳴き声が聞けるのに。
              
              〈3910〉花を飾って薬玉(くすだま)にする楝を家の庭に植えたら、山のホトトギスが絶えることなくやって来るだろうか。
【説明】
               霍公鳥を詠む歌2首で、天平13年(741年)4月2日、奈良の宅から恭仁京にいる兄の家持に贈った歌。3909の「常花」は、常(とこ)しえの花、つまりいつまでも咲き続ける花。常夏、常宮、常闇などの語はありますが、常花の例はここだけです。「もが」は、願望の助詞。「無けむ」の「無け」は、形容詞「無し」の未然形。「む」は、推量の助動詞。3910の「玉に貫く」は、花に糸を通して邪気払いの薬玉を作ること。「楝」は、栴檀(せんだん)の古名で、初夏に淡い紫色の花が咲きます。ここの「玉」は、その花の蕾を指しています。「離れず」は、絶えず、間をあけず。
               
               この歌の次(3911~3913)に、すぐに兄家持が送ってきた返事の歌が載っています。題詞に「橙橘(とうきつ)初めて咲き、霍公鳥(ほととぎす)飜(かけ)り嚶(な)く。此の時候に対(むか)ひ、詎(あに)志を暢(の)べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、以(もち)て鬱結(うつけつ)の緒(こころ)を散らすのみ」とあり、気が沈み、晴れ晴れとしない心境が込められています。
              
              〈3911〉あしひきの山辺に居(を)れば霍公鳥(ほととぎす)木(こ)の間(ま)立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし
               ・・・山の近くに暮らしていると、ホトトギスが木々の間をくぐり抜けて鳴かない日がない。
              
              〈3912〉霍公鳥(ほととぎす)何の心ぞ橘(たちばな)の玉貫く月し来(き)鳴き響(とよ)むる
               ・・・ホトトギスは何を思って、橘の実を薬玉として貫く五月にやってきて鳴き立てるのだろう。
              
              〈3913〉霍公鳥(ほととぎす)楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで
               ・・・ホトトギスが楝の枝に飛んできてとまるようになったら、その花は散ってしまうだろう、まるで玉さながらに。
              
               これらの二人の往復書簡について、詩人の大岡信は、「ここで注意すべきは、二人の実生活の細部や現在の心境、家族の近況その他、現在の暮らしぶりを示すものは、何一つ歌われていないという点だ」と述べています。すなわちここには、「実生活の中に風流韻事を抱え込む生き方、あるいは風流韻事に傾倒することそのものに実生活の手ごたえをしっかり感じ取る生き方があったのだ」と。別の言い方で言えば、「上代の日本における美的生活者に他ならなかった」。
              
               この時24歳の家持は、内舎人として聖武天皇に従い、恭仁京に勤務していました。恭仁京の造営はこの年の前の12月から始められ、年が替わった閏3月には、五位以上の官人が奈良に居住することが禁じられ、恭仁京への移住が命じられました。8月には奈良の東・西市を恭仁京へ移すなど新都の整備が進み、11月になって天皇は新都を「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と名付けました。なお、この年7月の人事で、右大臣橘諸兄の子、従五位橘奈良麻呂が大学頭(だいがくのかみ)に抜擢され、大伴氏では、8月に大伴御中(三中)が刑部少輔(ぎょうぶのしょうふ)に、大伴百代が美作守(みまさかのかみ)、12月に大伴稲公が因幡守へと、国守クラスの起用が相次ぎました。
【PR】
巻第8-1482~1483
| 1482 皆(みな)人(ひと)の待ちし卯(う)の花散りぬとも鳴く霍公鳥(ほととぎす)我(わ)れ忘れめや 1483 我(わ)が背子(せこ)が宿(やど)の橘(たちばな)花をよみ鳴く霍公鳥(ほととぎす)見にぞ我(わ)が来(こ)し  | 
                  
【意味】
              〈1482〉皆の誰もが待っていた卯の花が散ってしまおうとも、鳴いているホトトギスの声を、私はどうして忘れることができようか。
            〈1483〉あなたのお庭の橘の花が見事なので、それを慕ってホトトギスが鳴くのを、私は見に来ました。
【説明】
               1482は、大伴清綱(伝未詳)の歌。『万葉集』にはこの1首のみ。「皆人」は、すべての人。ここは宴席の人々を指しています。「散りぬとも」は、散ってしまおうとも。「我れ忘れめや」の「や」は反語。取り合わせの卯の花と対比させて、ホトトギスの声に対する忘れ難い心を歌った歌。
              
               1483は、奄君諸立(あんのきみもろたち:伝未詳)の歌。『万葉集』にはこの1首のみ。「我が背子」は、宴席の主人を指しています。「宿」は、家の敷地、庭先。「花をよみ」の「よみ」は「良し」のミ語法。花が見事なので。「見にぞ我が来し」の「ぞ」は係助詞で、「来し」はその結びで已然形。宴席での主人に対する挨拶歌と見えます。
巻第8-1499
| 言(こと)繁(しげ)み君は来まさず霍公鳥(ほととぎす)汝(な)れだに来(き)鳴け朝戸(あさと)開かむ | 
【意味】
               人の口がうるさいからとあの方はいらっしゃらない。ホトトギスよ、せめてお前だけでも来て鳴いておくれ。朝戸を開けて待っているから。
【説明】
               大伴四綱(おおとものよつな)が宴席で吟誦した歌で、女の立場になって詠んでいます。「言繁み」は、人の噂がうるさいので。ただし、原文「事繁」とあるので、公務が多いので、と解するものもあります。「来まさず」は「来ず」の尊敬語。「汝れだに」の「だに」は、最小限の願望、せめて~だけでも。「朝戸開かむ」の「朝戸を開く」とは、夜、女に逢いに来た男を朝方に送り出すために朝戸を開けること。ここは逆に、待ちぼうけを食った女がホトトギスを迎えるために朝戸を開くと言っており、そうすることでせめて男を送り出すかのように思いなそう、との意が込められているとされます。
              
               大伴四綱は、天平初年頃に防人司佑として大宰府に仕え、大伴旅人の部下だった人。『万葉集』には5首の短歌を残しており、他にも、巻第4-629のような女の立場での宴席歌があります。宴席歌は、初めは儀礼のものであったのが、次第に興味中心のものに移り変わり、宴の性質にもよりますが、ここの相聞の歌のように、諧謔味を含んだものが喜ばれるようになったとされます。
巻第8-1652~1653
| 1652 梅の花(はな)折りも折らずも見つれども今夜(こよひ)の花になほ如(し)かずけり 1653 今の如(ごと)心を常(つね)に思へらばまづ咲く花の地(つち)に落ちめやも  | 
                  
【意味】
              〈1652〉梅の花は、手折っても手折らずにも見てきたけれど、今夜見る花の美しさには及びません。
              
              〈1653〉今のように変わらぬ心を持ち続けていれば、早々と咲いて散る梅のようなことにはならないでしょう。
【説明】
               1652は、他田広津娘子(おさたのひろつのおとめ)の梅の歌。娘子は伝未詳ながら、大伴家に深い関りのあった女性、あるいは家持の愛人の一人かといわれます。「如かず」は、及ばず。「けり」は、詠嘆。宴での挨拶の歌とみえます。『万葉集』には2首の短歌を残しています。
              
               1653は、県犬養娘子(あがたのいぬかいのおとめ)が梅に寄せて思いを発した歌。娘子は伝未詳ながら、坂上郎女と交際があったとみられる女性です。「今の如」は、今のように。「めやも」は、反語。娘子が初めて男と逢った夜に、折りから咲いている梅の花を比喩にして、夫婦関係の変わらないことを誓い、男に対してもそれを求めている歌とされます。『万葉集』にはこの1首のみ。
巻第8-1655
| 高山の菅(すが)の葉しのぎ降る雪の消(け)ぬと言ふべくも恋の繁(しげ)けく | 
【意味】
               高山の菅の葉を押し伏せて降り積もる雪のように、やがて消えると言うべきか、この恋しさは。
【説明】
               三国真人人足(みくにのまひとひとたり)の歌。三国真人人足は、慶雲2年(705年)に従五位下、養老4年(720年)に正五位下。『万葉集』にはこの1首のみ。上3句は「消ぬ」を導く序詞。「菅」は、山菅。「繁けく」は「繁し」の名詞形で、繁きことよと詠嘆した意。
大伴家の人々
              大伴安麻呂
               壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
              
              巨勢郎女
               安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
              
              石川郎女(石川内命婦)
               安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
              
              旅人
               安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
              
              稲公(稲君)
               安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
              
              田主
               安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
              
              古麻呂
               父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
              
              坂上郎女
               安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
              
              書持
               旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
              
              池主
               出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。 
【PR】
   | 
                古典に親しむ
                     万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。  | 
              
【PR】


        (藤原不比等)

【PR】