巻第17-3900
織女(たなばた)し舟乗りすらしまそ鏡(かがみ)清き月夜(つくよ)に雲立ちわたる |
【意味】
織り姫は舟に乗って漕ぎ出したようだ。美しい鏡のように、清い月夜に雲が立ち渡っていく。
【説明】
天平10年(738年)7月7日の夜に、独り天の川を仰ぎ見ていささかに思いを述べるとある、家持が21歳のころの歌です。天の川を渡って逢いに行くのはふつう牽牛とされますが、ここでは織女が出かけて行きます。中国の七夕では織女が牽牛を訪問するかたちとなっているため、家持はこれを踏まえたとみられます。若い家持にとって、中国式の方にむしろエキゾティックな風情が感じられたのかもしれません。「織女し」の「し」は、強意の助詞。「まそ鏡」は、鏡を褒めていう語で、「清き」の枕詞。
なお、七夕伝説の牽牛と織女の立場が日本で逆転し、なぜ牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。――かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を「棚機つ女(たなばたつめ)」といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった、また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている。――
家持がこの歌を詠んだ日、宮中では、聖武天皇が相撲を御覧になった後、文人30人を集めて漢詩を作る七夕宴が催されたことが『続日本紀』に記されています。家持はこの宴会を意識して歌を詠んだのでしょうか。
巻第17-3916~3921
3916 橘(たちばな)のにほへる香(か)かも霍公鳥(ほととぎす)鳴く夜(よ)の雨にうつろひぬらむ 3917 霍公鳥(ほととぎす)夜声(よごゑ)なつかし網(あみ)ささば花は過ぐとも離(か)れずか鳴かむ 3918 橘(たちばな)のにほへる園(その)に霍公鳥(ほととぎす)鳴くと人(ひと)告(つ)ぐ網(あみ)ささましを 3919 あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれどもと霍公鳥(ほととぎす)鳴かずあらなくに 3920 鶉(うづら)鳴く古(ふる)しと人は思へれど花橘(はなたちばな)のにほふこの宿(やど) 3921 杜若(かきつばた)衣(きぬ)に摺(す)り付け大夫(ますらを)の着襲(きそ)ひ狩(かり)する月は来(き)にけり |
【意味】
〈3916〉橘の花のかぐわしい香りは、ホトトギスが鳴く今夜の雨で消え失せてしまっただろうか。
〈3917〉ホトトギスの夜鳴く声が慕わしい。網を張って捕らえたなら、花は散っても絶えずそこで鳴いてくれるだろうか。
〈3918〉橘の花が美しく咲いている庭に、ホトトギスが鳴いていると人が言う。網を張って捕らえようものを。
〈3919〉美しい奈良の都は旧都となってしまったけれど、昔なじみのホトトギスは鳴かずにいることだ。
〈3920〉鶉が鳴いて古びていると人は思うだろうけれど、橘の花が今も咲き匂っている我が家よ。
〈3921〉かきつばたを衣に摺って摺衣にし、着飾った男子が猟に出かける月がやってきたことだ。
【説明】
天平16年(744年)4月5日、独り奈良の旧宅にいて詠んだ歌6首。この年の2月に恭仁京の高御座や大楯が難波宮に遷され、その頃は天皇は近江の紫香楽宮に行幸し、内舎人の家持もそれに加わるべきところ、何らかの事情で奈良の旧宅にあってこの歌を詠んだものとみえます。2か月前に亡くなった安積皇子の喪に服していたのかもしれません。
→安積皇子が亡くなった時に大伴家持が作った歌(巻第3-475~490)
3916の「にほへる」は、もっぱら視覚について用いられますが、ここでは辺りに漂う橘の花の香りを表現しています。「かも」は、疑問。「うつろふ」は、衰える。3917の「なつかし」は、慕わしい、心惹かれる。「離る」は、絶える。3918の「網ささましを」の「ましを」は、反実仮想。3919の「あをによし」は「奈良」の枕詞。「もと霍公鳥」は、以前から来ている馴染みのホトトギス。3920の「鶉鳴く」は「古し」の枕詞。3921の「狩する月」は、薬狩りを行う5月。
なお、この年の天平17年(745年)正月7日の人事で、家持は正六位上から従五位下へ昇進しました。「官位令」によれば、従五位下は上国守・七省少輔・侍従・少納言などに相当します。また、一族のうち、大伴牛養が従三位に昇進しています。また、この年の5月には、聖武天皇が奈良に行幸(還御)し、平城京が再び都とされました。
巻第17-3953~3954
3953 雁(かり)がねは使ひに来(こ)むと騒(さわ)くらむ秋風寒みその川の上(へ)に 3954 馬(うま)並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波(なみ)見に |
【意味】
〈3953〉雁たちは都へ使いに行こうと鳴き騒いでいるようだ。秋風が寒くなってきたので、あの川べりで。
〈3954〉さあ、馬をつらねて行こうではないか、あの渋谿の清らかな磯へ寄せる波を見に。
【説明】
天平18年(746年)3月の人事で、29歳の家持は宮内少輔に任命され、次いで6月に越中国守に任命されました。当時の越中国は、射水・礪波・婦負・新川郡のほか、羽咋・鳳至・能登・珠洲郡を含む8郡からなり、国の等級では「大国」に次ぐ「上国」にランク付けされていました。この年齢での出世は早い方で、多くの部下を持つ身になったのです。それに伴い、彼のいわゆる青春彷徨の時代は終わったと見ることができましょう。ここの歌は、越中国に赴任して間もない8月7日の夜に、国守の館で宴が行われ、その場で詠んだ歌です。これ以降の歌が、本格的に巻第17およびそれ以後の巻を構成することになります。
3953の「雁がね」は、雁。「寒み」は、寒いので。3954の「渋谿」は、富山県高岡市渋谷にある景勝地。「礒廻」は、磯の入り込んだ所。なお、この宴には掾(じょう)大伴池主、大目(だいさかん)蓁八千嶋(はたのやちしま)、僧玄勝、史生(ししょう)土師道良(はにしのみちよし)らが参加しており、彼らが詠んだ歌も残されています。「掾」は国司の三等官、「大目」は四等官、「史生」は書記。
大伴池主の歌
〈3944〉女郎花(をみなへし)咲きたる野辺(のへ)を行きめぐり君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ
・・・女郎花の咲いている野辺を歩き回っていたら、あなたのことを思い出して、回り道して来たのです。
蓁八千嶋の歌
〈3951〉ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
・・・ひぐらしが鳴く季節には、女郎花が咲く野辺を散策しながら見るのがいいですね。
土師道良の歌
〈3955〉ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥(たまくしげ)二上山に月かたぶきぬ
・・・夜が更けてきたようだ。二上山に月が傾いてきた。
この時、国司の一員である掾として一族の大伴池主が着任していたことは、初めて地方に赴任する家持にとって、とても心強かったことでしょう。しかし一方では、詩人としての家持の成長をうながすかのように、天が用意してくれた絶好の機会ともなりました。さらに、それまで多くの女性と付き合ってきた青春彷徨時代に区切りをつける転機ともなりました。
3957 天離(あまざか)る 鄙(ひな)治(をさ)めにと 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 出でて来(こ)し 我(わ)れを送ると あをによし 奈良山(ならやま)過ぎて 泉川(いづみがは) 清き河原(かはら)に 馬 留(とど)め 別れし時に ま幸(さき)くて 我(あ)れ帰り来(こ)む 平らけく 斎(いは)ひて待てと 語らひて 来(こ)し日の極(きは)み 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 山川の 隔(へな)りてあれば 恋しけく 日(け)長きものを 見まく欲(ほ)り 思ふ間(あひだ)に 玉梓(たまづさ)の 使ひの来(け)れば 嬉(うれ)しみと 我(あ)が待ち問(と)ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを はだすすき 穂の出(い)づる秋の 萩(はぎ)の花 にほへるやどを〈言ふこころは、この人ひととなり、花草花樹を好愛(め)でて多(さは)に寝院(しんいん)の庭に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花にほへる庭(やど)」と謂ふ〉 朝庭(あさには)に 出で立ち平(なら)し 夕庭(ゆふには)に 踏み平(たひら)げず 佐保(さほ)の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ちたなびくと 我(あれ)に告げつる〈佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ〉 3958 ま幸(さき)くと言ひてしものを白雲(しらくも)に立ちたなびくと聞けば悲しも 3959 かからむとかねて知りせば越(こし)の海の荒礒(ありそ)の波も見せましものを |
【意味】
〈3957〉都から遠く離れた鄙の国を治めるためにと、大君のご命令のままに出かけて来た私を見送るといって、国境の奈良山を過ぎ、泉川の清らかな河原に馬を留めて別れたその時に、何事もなく無事に帰ってくるから、お前も変わりなく、無事を祈って待っていてくれと語ってやってきた。その日から今日まで、道は遠く、山川が隔たっているものだから、恋しさは日を重ねてつのるばかりで、会いたいものだと思っているところへ、使いがやってきた。嬉しやと、待ちかねて聞けば、でたらめの戯言なのか、何たること、いとしい我が弟よ、いったいどんな気持ちで、時は今でなくともいくらもあろうに、すすきが穂を出す秋の、萩の花が咲くその庭を(こう歌ったのは、彼は生来、花草や花樹が大好きで、たくさん母屋の庭に植えていたから。それゆえ「花薫へる庭」と言う)、朝の庭に出で立って踏みならすことも、夕べの庭に立って行ったり来たりもせず、佐保の内の里を通り過ぎ、山の梢の先に白雲となってたなびいているなどと、どうして私に知らせてよこしたのだ。(佐保山で火葬した。それゆえ「佐保の内の里を行き過ぎ」と言う)
〈3958〉無事でいてくれよと、あれほど言い置いたのに、白雲になってたなびいていると聞いて悲しい。
〈3959〉こんなことになると前々から分かっていたなら、この越の海の荒磯の波を見せておくのだったのに。
【説明】
題詞に「長逝せる弟を哀傷しぶる歌」とあります。天平18年(746年)9月25日、越中に赴任して間もない家持のもとに、京から弟・書持の訃報が届きました。すでに佐保山で火葬されたとの報せも含まれており、家持は奈良に赴くこともかないませんでした。わずか2か月前、家持が越中に赴任するとき、弟は馬で奈良山を越え、泉川(木津川)まで送ってくれたのでした。互いに別れを惜しみ、「ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく」と言い交わして別れたばかりだったのです。
3957の「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は都から遠く離れた地。「任け」は地方官として派遣すること。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良山」は、平城京の北、山背国との国境にある丘陵。「泉川」は、木津川。「斎ひて」は、身を慎んで祈って。「玉桙の」は「道」の枕詞。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「およづれ」は、人を迷わす言。「たはこと」はでたらめ。「はしきよし」は、ああいとしい。「汝弟」の「汝」は、親愛して添える語。「あしひきの」は「山」の枕詞。「木末」は梢、木の枝先。「白雲」は、煙の比喩。
巻第17-3960~3961
3960 庭に降る雪は千重(ちへ)敷(し)くしかのみに思ひて君を我(あ)が待たなくに 3961 白波の寄する礒廻(いそみ)を漕(こ)ぐ舟の楫(かぢ)取る間なく思ほえし君 |
【意味】
〈3960〉庭に降る雪は幾重にも積もりました。けれども私は、そんな程度ぐらいにあなたのお帰りをお待ちしていたのではありません。
〈3961〉白波が寄せてくる磯のあたりを漕ぐ舟が、梶を操る手を休める間もないほど、ひっきりなしに思い続けていたあなたです。
【説明】
題詞に「相(あい)歓(よろこ)ぶる」とある歌。家持が赴任した越中には、幸いなことに、彼の下役(掾:四等官の第3位。長官、次官の下)に同族の大伴池主がいました。池主との詩文の贈答は家持の着任後すぐに始まっており、ここの歌は、天平18年(746年)8月に、所管の地域の戸籍に関する報告書(「大帳」)を朝廷に提出するため、大帳使となって上京した池主が、11月になって無事に帰還したのを祝い、詩酒の宴を催した時の歌です。にわかに降ってきた白雪と海上の漁船を見て心を動かされて詠んだとあります。3961の「白波の~楫取る」は「間なく」を導く序詞。
巻第17-3962~3964
3962 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに ますらをの 心振り起こし あしひきの 山坂(やまさか)越えて 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に下(くだ)り来(き) 息(いき)だにも いまだ休めず 年月(としつき)も 幾(いく)らもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡(なび)き 床(とこ)に臥(こ)い伏(ふ)し 痛けくし 日に異(け)に増(ま)さる たらちねの 母の命(みこと)の 大船(おほぶね)の ゆくらゆくらに 下恋(したごひ)に いつかも来(こ)むと 待たすらむ 心さぶしく はしきよし 妻の命(みこと)も 明け来れば 門(かど)に寄り立ち 衣手(ころもで)を 折り返しつつ 夕されば 床(とこ)打ち払(はら)ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむそ 妹(いも)も兄(せ)も 若き子どもは をちこちに 騒(さわ)き泣くらむ 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 間使(まつかひ)も 遣(や)るよしもなし 思ほしき 言伝(ことつ)て遣(や)らず 恋ふるにし 心は燃えぬ たまきはる 命(いのち)惜(を)しけど 為(せ)むすべの たどきを知らに かくしてや 荒(あら)し男(を)すらに 嘆(なげ)き伏(ふ)せらむ 3963 世間(よのなか)は数なきものか春花(はるはな)の散りのまがひに死ぬべき思へば 3964 山川(やまかは)のそきへを遠みはしきよし妹(いも)を相(あひ)見ずかくや嘆かむ |
【意味】
〈3962〉大君のご命令に従い、ますらおの雄々しい心を奮い起こし、山を越え坂を越えてこの遠い鄙の地に下ってきた。息つく暇もなく、いまだ休めず、年月もいくらも経っていないのに、はかない世に住む人間のこととて、ぐったりと病の床に伏してしまい、苦しみは日に日に増さる。母君が、大船がゆれるように落ち着かず、いつ帰ってくるかと待っておられることと思うと心寂しい。いとしい妻も、夜明けには門に寄り添って立ち、袖を折り返し、夕方になると床をきれいに払い清め、一人さびしく黒髪を靡かせて床に伏し、いつ帰ってくるだろうと嘆いていることだろう。女の子も男の子も幼い子供たちは、あっちこちに動き回って騒いだり泣いたりしているだろう。けれども道が遠いので、使いをしばしば送る手だてはない。言いたいことを言うこともできずに、恋しさが募って心は燃え上がるばかりだ。限りある命は惜しく、何とかしたいと思うけれど、何の手だてもない。こうして、荒々しき男子たる者が、ただ嘆き伏していなければならないというのか。
〈3963〉この世はなんとはかないものか。春の桜がはらはらと散り乱れるのにまぎれて、死んでいくかと思えば。
〈3964〉山川を隔てて遙か遠くに離れているので、いとしい妻に逢うこともできず、こうして嘆いていなければならないのか。
【説明】
にわかに悪病に罹り、今にも死にそうになったときに、悲しい思いを述べた歌。作歌時期は天平19年(747年)春2月20日とあり、12月、1月の歌がないため、そのころから病気だったのではないかとみられます。おそらく数十日間も寝て過ごしたのでしょう。越中で迎えた初めての新春であり、寒さが原因だったのかもしれません。
3962の「任け」は任命して派遣すること。「まにまに」は、従って。「あしひきの」は「山」の枕詞。「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地。「うつせみの」は「世」の枕詞。「たらちねの」は「母」の枕詞。「母の命」は、ここでは叔母の坂上郎女のこと。「命」は、尊称。
「大船の」は「ゆくらゆくらに」の枕詞。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「妹も兄も」は、女の子も男の子も。「をちこちに」は、あちらこちらに。「玉桙の」は「道」の枕詞。「間使」は、二人の間を往復する使い。「たまきはる」は「命」の枕詞。3964の「そきへ」は、遠く隔たったあたり。
巻第17-3965~3966
3965 春の花今は盛(さか)りににほふらむ折りてかざさむ手力(たぢから)もがも 3966 鴬(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折(たを)りかざさむ |
【意味】
〈3965〉春の花は、今は盛りと咲きにおっていることだろう。手折ってかざしにできる手力がほしい。
〈3966〉ウグイスが鳴いては散らしているだろう春の花、その花をいつあなたと共に手折ってかざしにしようか。
【説明】
病床の家持が、2月29日に大伴池主に贈った悲歌2首。その前に、次のような内容の漢詩文による序文(池主に宛てた手紙文)が記されています。
――にわかに不慮の病にかかり、旬日を重ねて痛み、苦しんでおりました。ありとあらゆる神々に祈っておすがりしたおかげで、ようやく少し楽になりました。けれども、まだ体には痛みや疲れが残っていて力が入りません。まだお見舞いのお礼に伺うことができず、お逢いしたい思いはますます深まります。今、春の朝には、春の花が香りを春の庭園に漂わせ、夕暮れには、春のウグイスが春の林に声を響かせています。こんな季節には、琴と酒こそ望ましいもの。それに興じたい思いはありますが、杖を突いて出かける力がありません。ひとり部屋の帳(とばり)の陰に横になって、つたない歌を作ってみました。軽々しくもあなたのご机辺に奉り、ご笑覧いただこうと思います。――
3965の「にほふ」は色美しく咲く意。「もがも」は、願望。3966の「いつしか」は、いつ、早く。これに返した池主の歌が3967・3968にあり、その前にも漢詩文による序文が記されています。
――図らずもお便りを頂戴しました。文章の高尚さは雲をもしのぐほど。あわせて倭詩(和歌)を頂きましたが、その歌詞は錦を敷いたよう。それを吟じ朗詠し、あなたを恋い慕う気持ちを満たしました。春は楽しむべきものです。就中、暮春の風景は最も心惹かれます。紅の桃の花は明るく輝き、戯れる蝶は花を巡って舞い、緑の柳はしなやかに、鶯はその葉に隠れて歌います。ああ何と楽しいことでしょう。君子の淡き交わりは、席を近くしただけで心が通い、心が通えば言葉は無用です。ああ楽しいことよ、美わしいことよ。奥深い思いは賞美するに足ります。どうして考えることができましょうか、香り高い蘭と蕙(けい)とが、叢(くさむら)を隔てて同席することができず、琴や酒も無用となり、空しくこの令節(佳い季節)を過ごして、風物までもが我々二人を軽んじるなどということが。恨みとはまさにこのことで、とても黙っていられません。世俗の言葉で、粗末な藤布に錦を継ぐと言います。私のものはまさにそれです。いささかお笑い種といたします。――
〈3967〉山峽(やまがひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
・・・山間に咲いている桜を、ひと目だけでもあなたにお見せできたら、何の心残りがありましょう。
〈3968〉鴬(うぐひす)の来(き)鳴く山吹(やまぶき)うたがたも君が手触れず花散らめやも
・・・ウグイスが来て鳴いている山吹の花は、決してあなたが手に取るまで散ってしまうことはないでしょう。
この贈答はさらに続き、3月3日には長文の序に加えた3首の和歌(3969~3972)を池主のもとに送り、池主はすかさず翌4日に漢文の序と七言律詩を、さらに5日にも漢文の序と長歌および短歌2首を贈り、家持も負けじと同じ5日に漢文の序と七言律詩、および短歌2首を返しています。
巻第17-3969~3972
3969 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに しなざかる 越(こし)を治(をさ)めに 出でて来(こ)し ますら我(われ)すら 世の中の 常(つね)しなければ うち靡(なび)き 床(とこ)に臥(こ)い伏(ふ)し 痛けくの 日に異(け)に増せば 悲しけく ここに思ひ出(で) いらなけく そこに思い出(で) 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山き隔(へな)りて 玉桙(たまほこ)の 道の遠けば 間使(まつか)ひも 遣(や)るよしもなみ 思ほしき 言(こと)も通(かよ)はず たまきはる 命(いのち)惜(を)しけど せむすべの たどきを知らに 隠(こも)りゐて 思ひ嘆かひ 慰(なぐさ)むる 心はなしに 春花(はるはな)の 咲ける盛りに 思ふどち 手折(たを)りかざさず 春の野の 茂(しげ)み飛び潜(く)く うぐひすの 声だに聞かず 娘子(をとめ)らが 春菜(はるな)摘(つ)ますと 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)の裾(すそ)の 春雨(はるさめ)に にほひひづちて 通(かよ)ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣(や)りつれ 偲(しの)はせる 君が心を 愛(うるは)しみ この夜(よ)すがらに 眠(い)も寝(ね)ずに 今日(けふ)もしめらに 恋ひつつそ居(を)る 3970 あしひきの山桜花(やまさくらばな)一目だに君とし見てば我(あ)れ恋ひめやも 3971 山吹(やまぶき)の茂み飛び潜(く)く鴬(うぐひす)の声を聞くらむ君は羨(とも)しも 3972 出(い)で立たむ力をなみと隠(こも)り居(ゐ)て君に恋ふるに心どもなし |
【意味】
〈3969〉大君の仰せのままに、遠い越の国を治めるためにやって来た。ひとかどの官人である私としたことが、世の中は無常なものだから、ぐったりと床に伏す身となって、苦痛は日に日に増さるばかりなので、悲しいことをあれこれ思い出し、つらいことをいろいろ思い出して、嘆きは休まらず、思う空しさは苦しい。都とは山々を隔たっており、道は遠く、使いを遣る手だてもないので、言いたいことも伝えられない。限りある命は惜しいけれども、どうしていいか手がかりも分からず、家に引き籠っては溜め息をつき、慰める心も見あたらないまま、春の花が盛りだというのに、気ごころの合う仲間と花を手折ってかざすこともできず、春の野の茂みをくぐり抜けて鳴くウグイスの声も聞かずにいる。また、娘子たちが春の菜をつもうと、紅の赤裳の裾を春雨に美しく濡らして往き来しているだろう。そんな春たけなわの時に、いたずらに時を過ごしている。こうして心をかけて下さるあなたのお気持ちがありがたく、夜通し眠ることもできず、明けた今日も一日、お逢いしたいと思い続けています。
〈3970〉山に咲く桜の花を、一目なりとあなたと一緒に見られたら、私がこんなに恋い焦がれることがありましょうか。
〈3971〉山吹の茂みを飛びくぐって鳴くウグイスの、その美しい声を聞いておられるだろうあなたが、何と羨ましいことか。
〈3972〉外に出る力もないからと家に引き籠ってばかりいて、あなたのことを恋しく思っていると、心の張りもありません。
【説明】
3月3日、さらに池主に贈った歌。その前に、次のような内容の序文(池主に宛てた手紙文)が記されています。
――広大なご仁徳で、数ならぬこの身にご厚情をかけて下さり、計り知れない御恩情は、私の狭い心に慰めを与えて下さいました。ご愛顧を頂き、何に喩えてよいか分かりません。ただ、私は幼い時に詩文の道に赴いたことがなかったので、文章はおのずから技巧に乏しいのです。少年のころに山柿(さんし)の門に出入りしたこともなく、歌を作るにも適当な言葉が見つかりません。いま、「藤の粗末な布を錦の織物に継ぐ」というご謙遜のお言葉を頂いたため、私もさらに石を玉にまぜるような拙い歌を作りました。もともと私は俗人、その悪い癖で、黙って済ますことができません。そこで数行の歌を差し上げ、お笑い種とする次第です。――
文中にある「山柿の門」は、柿本人麻呂と山部赤人による和歌の古典的規範のこと。『古今集』の「仮名序」にある「人麿は、赤人が上(かみ)に立たむことかたく、赤人は、人麿が下(しも)に立たむことかたくなむありける」という一節は、家持のこの言葉を踏まえているのではないかといわれます。一方で、「山」は山部赤人ではなく山上憶良だとする説もあり、確かに家持は大宰府にあった少年時代以来、父旅人の親しい詩友だった憶良の作には親しんでおり、また憶良を尊敬をもしていました。しかし、ここで家持は「少年のころに山柿の門に出入りしたこともなく」と言っているのであり、また、何より人麻呂と並んで仰ぎ見る先人ということでは、やはり赤人のほうが適当だと感じますが、いかがでしょうか。あるいは「山柿」の「山」は「高い、最も高い」意味だとして、人麻呂のみを指しているとする見方もあります。
3969の「任けのまにまに」は、ご任命のままに。「しなざかる」は「越」の枕詞。「日に異に」は、日増しに。「いらなけく」は、心が痛むつらいことを。「嘆くそら」の「そら」は、気持ち、心境。「あしひきの」は「山」の枕詞。「玉桙の」は「道」の枕詞。「たまきはる」は「命」の枕詞。「にほひひづちて」は、色美しく濡れて。「しめらに」は、連続して、すべて。
3970の「あしひきの」は「山」の枕詞。「やも」は、反語。3971の「潜く」は、間を潜り抜ける。「羨しも」は、うらやましいことだ。3972の「力をなみ」は、力がないので。「心ど」は、しっかりとした心。
巻第17-3978~3982
3978 妹(いも)も我(あ)れも 心は同(おや)じ 比(たぐ)へれど いやなつかしく 相(あひ)見れば 常初花(とこはつはな)に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我(あ)が奥妻(おくづま) 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み あしひきの 山越え野(ぬ)行き 天離(あまざか)る 鄙(ひな)治(をさ)めにと 別れ来(こ)し その日の極(きは)み あらたまの 年行き反(がへ)り 春花(はるはな)の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ しきたへの 袖(そで)返しつつ 寝(ぬ)る夜(よ)落ちず 夢(いめ)には見れど 現(うつつ)にし 直(ただ)にあらねば うち行きて 妹(いも)が手枕(たまくら) さし交(か)へて 寝ても来(こ)ましを 玉桙(たまほこ)の 道はし遠く 関(せき)さへに 隔(へな)りてありこそ よしゑやし よしはあらむそ ほととぎす 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯(う)の花の にほへる山を よそのみも 振り放(さ)け見つつ 近江道(あふみぢ)に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家(わぎへ)に ぬえ鳥(どり)の うら泣けしつつ 下恋(したごひ)に 思ひうらぶれ 門(かど)に立ち 夕占(ゆふけ)問ひつつ 我(あ)を待つと 寝(な)すらむ妹(いも)を 逢ひてはや見む 3979 あらたまの年(とし)返(かへ)るまで相(あひ)見ねば心もしのに思ほゆるかも 3980 ぬばたまの夢(いめ)にはもとな相(あひ)見れど直(ただ)にあらねば恋ひやまずけり 3981 あしひきの山き隔(へな)りて遠けども心し行けば夢(いめ)に見えけり 3982 春花(はるばな)のうつろふまでに相(あひ)見ねば月日(つきひ)数(よ)みつつ妹(いも)待つらむぞ |
【意味】
〈3978〉妻も私も、心は同じ。寄り添っていても、ますます心惹かれるし、顔を合わせれば、常初花のようにいつも初々しく、心の憂さや見る目の痛々しさもなくていられ、ああ愛しい、心の底から大切に思うわが妻よ。大君の仰せを恐れ謹んで、山を越え野を行き、遠く離れた田舎の地を治めるために別れてきて以来、年も改まり、春の花が咲き散る頃になっても顔を見ることができないので、どうにもやるせなくて、夜着の袖を返して寝ると夜ごとに夢に姿は見えるけれど、現実に逢うわけではないので、恋しさが幾重にも募るばかり。近ければ、馬で一走りして、手枕を差し交わして寝ても来られるものを、都への道は遠く、関所もあって隔てられている。ああ、何かよい手段はないものか。ホトトギスが鳴く夏が早くやってきてほしい。卯の花の咲く山を横目にみつつ近江路をたどっていき、奈良の我が家を目指すだろうに。悲しげに鳴くぬえ鳥のように人知れず泣き続け、胸の思いにうちひしがれて、門に立っては夕占いにすがったりして、私の帰りを待ちながら独り寝を重ねていただろう、その妻に一刻も早く逢いたい。
〈3979〉年が改まるまで妻に逢えないと思うと、心もしおれるように思えてならない。
〈3980〉夢では妻としきりに逢っているが、直接逢っているわけではないので、恋しくてならない。
〈3981〉連なる山々に隔てられ遠く離れてはいるが、心が通い合っているので、夢で出逢えたよ。
〈3982〉春の花が色褪せるまで私に逢えないので、月日を指折り数えながら、妻は待っていることだろう。
【説明】
天平19年(747年)3月20日の夜中に、「たちまちに恋情を起こして作る」とある歌で、妻の大嬢への思いを歌っています。家持の病気は、この頃までには治っていたようです。前年に越中国守として赴任していた家持は、すでに結婚していたものの、この時には妻を同行しておらず、現代でいう「単身赴任」でした。
3978の「比ふ」は添う。「なつかし」は慕わしい。「常初花」は、いつも今咲いたかのように美しい花。「心ぐし」は、心が晴れ晴れしない。「めぐし」は、見るのがつらい。「はしけやし」は、ああ愛しい。「奥妻」は、心の奥深く大切に思う妻。「あしひきの」は「山」の枕詞。「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙」は、都から遠い地方、田舎。「あらたまの」は「年」の枕詞。「うつろふ」は、色褪せる、衰える。「いたも」は、非常に。「すべなみ」は、どうしようもないので。「しきたへの」は「袖」の枕詞。「玉桙の」は「道」の枕詞。「よしゑやし」は、たとえどうなろうとも。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「ぬえ鳥の」は「うら泣く」の枕詞。「うら泣く」は、心の中で泣く。「下恋」は、ひそかな恋心。「夕占」は、夕方、道を往来する人の言葉を聞いて吉凶を占う占い。「寝す」は「寝」の尊敬語。
3979の「あらたまの」は「年」の枕詞。「年返る」は、年が改まる。「しのに」は、しおれて。3980の「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「もとな」は、わけもなく、むやみに。3981の「あしひきの」は「山」の枕詞。「き隔りて」は、隔てて。妻の大嬢が夢に見えたことを言っています。3982の「うつろふ」は、色が褪せる。
巻第17-3983~3984
3983 あしひきの山も近きを霍公鳥(ほととぎす)月立つまでに何か来(き)鳴かぬ 3984 玉に貫(ぬ)く花橘(はなたちばな)をともしみしこの我(わ)が里(さと)に来(き)鳴かずあるらし |
【意味】
〈3983〉山はこんなに近いのに、ホトトギスよ、立夏も過ぎて月が改まるまで、どうしてここへ来て鳴かないのか。
〈3984〉薬玉として貫く花橘があまりに乏しいというので、この私の住む里に来てくれないのだな。
【説明】
天平19年(747年)3月29日、「立夏の四月は既に累日を経て、なほ未だ霍公鳥の喧(な)くを聞かず。因りて作れる恨みの歌」2首。左注に次のような説明があります。「霍公鳥は、立夏の日に鳴くものと決まっている。しかし、越中には柑橘類がめったにない。そこで大伴家持が、土地柄の違いを心に深く感じて、かりそめにこの歌を作った」。
3983の「あしひきの」は「山」の枕詞。「月立つ」は、月が変わる。「何か」は、どうして~か。3984の「玉」は、薬玉。5月の節句の習俗として、菖蒲草(あやめぐさ)と花橘を糸に貫き通して薬玉にこしらえ、それを飾って邪気を払いました。
なお、歌を作ったのが3月29日なのに「立夏の四月は既に累日を経て」とありますが、「立夏の四月」は実際の月が4月というのではなく、立夏が二十四節気の「四月節気」にあたることを示しています。二十四節気は、冬至から翌年の冬至までを24等分し、奇数番目を節気、偶数番目を中気と呼び、それぞれの季節にふさわしい名を与えました。さらにそれを12か月に振り分け、「冬至 十一月中気」を0番目として、「小寒 十二月節気」「大寒 十二月中気」「立春 正月節気」・・・のように定めました。従って、実際の月齢とは直接の関係を持たなくなっています。
巻第17-3985~3987
3985 射水川(いみづがは) い行き廻(めぐ)れる 玉櫛笥(たまくしげ) 二上山(ふたがみやま)は 春花(はるはな)の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放(さ)け見れば 神(かむ)からや そこば貴(たふと)き 山からや 見が欲(ほ)しからむ 統(す)め神(かみ)の 裾廻(すそみ)の山の 渋谿(しぶたに)の 崎の荒礒(ありそ)に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮(しほ)の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸(か)けて偲(しの)はめ 3986 渋谿(しぶたに)の崎の荒礒(ありそ)に寄する波いやしくしくに古(いにしへ)思ほゆ 3987 玉櫛笥(たまくしげ)二上山(ふたがみやま)に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり |
【意味】
〈3985〉射水川が流れめぐる二上山は、春の花の盛りにも、秋の葉が色づく時にも、家を出て山を振り仰いでみると、神の風格に満ちて尊く、山の立派な品格のゆえに見入らずにいられない。神が治めていらしゃる二子山の麓から突き出た渋谿の崎、その荒磯に朝なぎの時に寄せる白波、夕なぎの時に満ちてくる潮がずっと絶えることがないように、古の時代から今の世に至るまで、こんなにも、見る人誰もが心に懸けてこの山を称えることだろう。
〈3986〉渋谿の崎の荒磯に寄せる波のように、しきりに次々と昔のことが思われる。
〈3987〉二上山に鳴く鳥の声が恋しくてたまらない、そんな季節が今ここにやってきた。
【説明】
天平19年(747年)春3月30日に作った「二上山の賦一首(この山は射水郡にある)」とその反歌。左注には「興に依りて之を作る」とあり、越中国庁から見た二上山を讃えた歌です。「二上山」は、富山県高岡市の北方にある山。「射水郡」は、高岡市、氷見市とその周辺。「射水川」は、現在の小矢部川。「玉櫛笥」は「二上山」の枕詞。「にほへる」は、色美しくなっている。「そこば」は、甚だ。「渋谿」は、高岡市渋谷。3986の「しくしくに」は、しきりに、の意。
家持が越中守として赴任したのは29歳のときで、この年はその翌年にあたります。はじめての地方官の経験で、都を出て異郷のさまざまな風物に接した彼は、大いに詩魂をゆさぶられたようで、生涯で最も多くの歌を詠んだのはこの時期です。なお、この赴任は決して左遷ではなく、格別に不遇をかこったわけでもありません。名門貴族の子弟でも、一度か二度かは地方官に任命されましたし、越中国は古代の諸地方のうちでも上位に位置づけられていた地です。この年齢では、むしろ早い出世だったとされ、橘諸兄の後押しがあったのではと考えられています。
巻第17-3988
ぬばたまの月に向(むか)ひて霍公鳥(ほととぎす)鳴く音(おと)遥(はる)けし里遠(さとどほ)みかも |
【意味】
夜空の月に向かって鳴くホトトギスの声が、遙か彼方から聞こえてくる。里から遠い山の中にいるからだろうか。
【説明】
4月16日の夜中に、遠くでホトトギスが鳴くのを聞いて作った歌。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞ながら、ここでは夜の物である「月」に転じて掛けています。「かも」は、疑問。
巻第17-3989~3990
3989 奈呉(なご)の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば 3990 我(わ)が背子(せこ)は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜(を)し |
【意味】
〈3989〉奈呉の海の沖から白波がしきりに寄せてくるように、しきりにみなさんのことが思われることでしょう。このままお別れした後は。
〈3990〉あなたが玉であってくれたらなあ。そしたら手に巻いて見ながら旅行くことができるのに。あとに残して行くのが何とも心残りです。
【説明】
国守である家持が、正税帳(しょうぜいちょう)を太政官に提出するため入京することとなり、4月20日、大目(だいさかん)秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)の邸宅で開かれた送別の宴で作った歌。「正税帳」は、租税の出納簿のことで、毎年2月末までに報告する義務になっており、雪国の越中は4月末が期限になっていました。ただし、家持が出発したのは5月初旬であり、その遅延の理由は明らかではありません。「大目」は、国司の四等官の上位。
3989の「奈呉の海」は、高岡市伏木から射水市放生津潟にかけての海。「しくしくに」は、しきりに。3990の「もがもな」の「もがも」は、願望、「な」は、詠嘆。
3991 もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の 思ふどち 心(こころ)遣(や)らむと 馬(うま)並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 渋谿(しぶたに)の 崎(さき)た廻(もとほ)り 松田江(まつだえ)の 長浜(ながはま)過ぎて 宇奈比川(うなひがは) 清き瀬ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)海に 船浮け据(す)ゑて 沖辺(おきへ)漕(こ)ぎ 辺(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群(むら)騒(さわ)き 島廻(しまみ)には 木末(こぬれ)花咲き ここばくも 見(み)のさやけきか 玉くしげ 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通(がよ)ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと 3992 布勢(ふせ)の海の沖つ白波あり通(がよ)ひいや年のはに見つつ偲(しの)はむ |
【意味】
〈3991〉多くの官人たちが、仲間同志で気晴らしにと、馬を並べて、うちくちぶりの、白波が荒磯に打ち寄せる渋谿の崎をぐりと廻り、松田江の長い浜を通り過ぎて、宇奈比川の清らかな瀬ごとに鵜飼が行われており、こんなふうにあちこち見て回ったけれど、それでもまだ物足りないと、布勢の海に舟を浮かべ、沖に出たり、岸辺に近寄ったりして見渡すと、波打ち際にはアジガモの群れが騒ぎ立て、島陰には木々の梢いっぱいに花が咲いていて、ここの風景はこんなにも爽やかだったのか。二上山に生え延びる蔦のように、一同が別れることなく、来る年も来る年も、気心の合った仲間同士、こうやって遊びたいものよ、いま眼前にして愛でているように。
〈3992〉布勢の海の沖に立つ白波がやまないように、ずっと通い続けて、来る年も来る年もこの眺めを愛でよう。
【説明】
4月、布勢(ふせ)の水海(みずうみ)に遊覧した時の歌。「布勢の水海」は、富山県氷見市の南方にあった湖。「もののふ」は、朝廷に仕える文武百官で、「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、多くの役人。ここでは越中国府の役人。「思ふどち」は、親しい仲間同士。「心遣る」は、気を晴らす。「うちくちぶりの」は、語義未詳。「渋谿の崎」は、高岡市渋谷。「た廻り」は、行ったり来たりする。「松田江の長浜」は、高岡市から氷見市にかけての海岸の砂浜。「宇奈比川」は、氷見市北方を流れる宇波川。「鵜川立つ」は、鵜飼をする。「そこも飽かにと」は、それでもまだ十分でないと。「木末」は、梢、枝先。「ここばく」は、たいそう。「二上山」は、高岡市北部の山。「年のはに」は、毎年。
巻第17-3995
玉桙(たまほこ)の道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも [一云 見ぬ日久しみ恋しけむかも] |
【意味】
都への旅路についてお別れしてしまったら、お逢いできない日がずっと重なるので、恋しくてならないでしょう。(お逢いできない日が長く続くので、恋しくてならないでしょう)
【説明】
国守である家持が、正税帳(しょうぜいちょう)を太政官に提出するため入京することとなった家持のため、4月26日に掾(じょう)大伴宿祢池主(おおとものすくねいけぬし)の邸宅で送別の宴を開いたときの歌。「玉桙の」は「道」の枕詞。「さまねみ」の「さ」は接頭語、「まねみ」は、数が多いので。
介(すけ)内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきつなまろ)の歌
〈3996〉 我(わ)が背子(せこ)が国へましなば霍公鳥(ほととぎす)鳴かむ五月(さつき)は寂(さぶ)しけむかも
・・・あなたが大和の国へいらっしゃったなら、ホトトギスが来て鳴く五月は、寂しくてならないでしょう。
家持が答えた歌
〈3997〉我(あ)れなしとなわび我(わ)が背子(せこ)霍公鳥(ほととぎす)鳴かむ五月は玉を貫(ぬ)かさね
・・・私がいないからといって気落ちしないでください、あなた。ホトトギスが鳴く五月になったら薬玉を作って祝って下さい。
大伴池主の歌
〈3998〉我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)を花ごめに玉にぞ我(あ)が貫(ぬ)く待たば苦しみ
・・・我が家の庭の橘を、まだ花のあるうちに糸に通して私は薬玉にします。ただ待つのは苦しいので。
家持は5月に入京し、公務を果たしたのち遅くとも8月には越中に帰任したとみられています。
4000 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名かかす 越(こし)の中(なか) 国内(くぬち)ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多(さは)に行けども 統神(すめかみ)の 領(うしは)きいます 新川(にひかは)の その立山(たちやま)に 常夏(とこなつ)に 雪降り敷(し)きて 帯(お)ばせる 片貝川(かたかひがは)の 清き瀬に 朝夕(あさよひ)ごとに 立つ霧(きり)の 思ひ過ぎめや あり通(がよ)ひ いや年のはに よそのみも 振(ふ)り放(さ)け見つつ 万代(よろづよ)の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音(おと)のみも 名のみも聞きて 羨(とも)しぶるがね 4001 立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽(あ)かず神(かむ)からならし 4002 片貝(かたかひ)の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通(がよ)ひ見む |
【意味】
〈4000〉都から遠く離れた地でも特に名の聞こえた立山、この越中の国の中には、至るところに山が連なり、川も多く流れているけれど、国の神が支配しておられる、新川郡のその立山には、夏の真っ盛りだというのに雪が降り積もっており、帯のように流れ下る片貝川の清らかな瀬に、朝夕ごとに立ちこめる霧のように、この山への思いが消えることがあろうか。ずっと通い続けて年が変わるごとに、遠くからなりとも振り仰いで眺めては、万代の語りぐさとして、まだ立山を見たことがない人々にも語り告げよう。噂だけでも名を聞いただけでも羨ましがるように。
〈4001〉立山に降り積もっている雪を、夏の真っ盛りに見ても見飽きることがないのは、この山の貴さのせいであろう。
〈4002〉片貝川の瀬を清らかに流れる水のように、絶えることなく、ずっと通い続けてあの立山を見よう。
【説明】
題詞に「立山の賦」とある、天平19年(747年)4月27日作の長歌と短歌。「賦」というのは古代中国の韻文における文体の一つですが、ここでは詩歌の意味。越中国府から眺望できた「立山」は、富山県の東南部にそびえる立山連峰で、主峰の雄山は標高3,003mあります。古くは「多知夜麻」と称し、神々が宿る山々として信仰されてきました。
4000の「天離る」は「鄙」の枕詞。「越」は、北陸地方の古称で、福井・石川・富山・新潟の4県にあたります。「ことごと」は、残らず、ある限り。「しじに」は数多く。「統神」は、一定の地域を支配する神のこと。「領く」は、土地を支配する。「新川」は、越中の東半分の郡。「片貝川」は、立山の北の猫又山に発し、魚津で富山湾に注ぐ川。「年のは」は、毎年。「羨しぶる」は、うらやましがる。「がね」は、願望の助詞。
4001の「神からならし」は、この山の神の貴さのせいであろう。「ならし」は「なる・らし」の転。4002の上3句は「絶ゆることなく」を導く序詞。「あり通ひ」は、通い続け。
巻第17-4011~4014
4011 大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)そ み雪降る 越(こし)と名に負(お)へる 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ繁(しげ)き 鮎(あゆ)走る 夏の盛りと 島つ鳥(とり) 鵜飼(うかひ)が伴(とも)は 行く川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひ上(のぼ)る 露霜(つゆしも)の 秋に至れば 野も多(さは)に 鳥すだけりと ますらをの 伴(とも)誘(いざな)ひて 鷹(たか)はしも あまたあれども 矢形尾(やかたを)の 我(あ)が大黒(おほぐろ)に [大黒といふは蒼鷹の名なり] 白塗(しらぬり)の 鈴(すず)取り付けて 朝狩(あさがり)に 五百(いほ)つ鳥立て 夕狩(ゆふがり)に 千鳥(ちとり)踏み立て 追ふごとに 許すことなく 手放(たばな)れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣(な)らへる 鷹はなけむと 心には 思ひ誇(ほこ)りて 笑(ゑ)まひつつ 渡る間(あひだ)に 狂(たぶ)れたる 醜(しこ)つ翁(おきな)の 言(こと)だにも 我(わ)れには告げず との曇(ぐも)り 雨の降る日を 鳥狩(とが)りすと 名のみを告(の)りて 三島野(みしまの)を そがひに見つつ 二上(ふたがみ)の 山飛び越えて 雲隠(くもがく)り 翔(かけ)り去(い)にきと 帰り来て しはぶれ告(つ)ぐれ 招(を)くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づき余り けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網(となみ)張り 守部(もりへ)をすゑて ちはやぶる 神の社(やしろ)に 照る鏡 倭文(しつ)に取り添へ 祈(こ)ひ禱(の)みて 我(あ)が待つ時に 娘子(をとめ)らが 夢(いめ)に告(つ)ぐらく 汝(な)が恋ふる その秀(ほ)つ鷹(たか)は 松田江(まつだえ)の 浜(はま)行き暮らし つなし捕る 氷見(ひみ)の江(え)過ぎて 多祜(たこ)の島 飛びたもとほり 葦鴨(あしがも)の すだく旧江(ふるえ)に 一昨日(をとつひ)も 昨日(きのふ)もありつ 近くあらば いま二日(ふつか)だみ 遠くあらば 七日(なぬか)のをちは 過ぎめやも 来(き)なむ我(わ)が背子(せこ) ねもころに な恋ひそよとそ いまに告(つ)げつる 4012 矢形尾(やかたを)の鷹(たか)を手にすゑ三島野(みしまの)に狩らぬ日まねく月そ経(へ)にける 4013 二上(ふたがみ)のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢(いめ)に告(つ)げつも 4014 松反(まつがへ)りしひにてあれかもさ山田の翁(をぢ)がその日に求めあはずけむ 4015 心には緩(ゆる)ふことなく須加(すか)の山すかなくのみや恋ひ渡りなむ |
【意味】
〈4011〉ここは都から遠く離れた大君のお役所。雪が降り積もる越の国の、その名にふさわしい田舎なので、山が高くて、川は雄大。野は広く、草が茂りに茂っている。鮎が走る夏の盛りになると、鵜を操る鵜飼いたちが、ほとばしる川の清らかな瀬ごとに篝火をたき、流れをしのいで上っていく。
そして露霜が降りる秋ともなれば、野も鳥たちでいっぱいになるというので、男仲間を誘って鷹狩りをする。鷹といえば数々いるけれど、矢形尾(やかたお)の我が大黒(大黒とは鷹の名前である)は自慢の鷹。その大黒に白塗りの鈴を取り付けて、朝猟にたくさんの鳥たちを追い立て、夕猟には千鳥を追い立てて、追うたびに取り逃がすことなく、手を離れるのも手に舞い戻るのも思いのまま。大黒のような鷹は他に得難い。これほど手慣れた鷹はほかにないだろうと、心中得意になってほくそ笑んでいた。そんなとき、間抜けなろくでなしの爺(じじ)いが、私に一言の断りもなく、空一面に曇った雨の降る日なんかに、他の者に鷹狩りするとだけ告げて出かけた。その挙句、爺いは「大黒は三島野を後にして二上山を飛び越え、雲の彼方に飛んで行ってしまいました」と、帰ってきてしゃがれ声で告げた。しかし、大黒を呼び戻す方法も思い浮かばず、どう言っていいかもわからない。心中は烈火のごとく燃えさかったものの、惜しくて惜しくてため息がでるばかりだった。それでも、ひょっとして見つかるかもしれないと、山のあちこちに鳥網を張り、見張りをつけて、山を祀る神社に照り輝く鏡に倭文織物を取り添えて祈り続けた。こうしていると、一人の娘子が夢に出てきて告げてくれた。「あなたが恋い求める鷹は、松田江の浜を跳び続け、つなし漁をする氷見の入り江を過ぎ、多古の島辺りを飛び回り、葦鴨が群れる古江に一昨日も昨日もいました。早ければもう二日ほど、遅くとも七日の内には戻って来ますよ、そんなに恋い焦がれなさらなくとも」と。
〈4012〉矢形尾の鷹を手に乗せて、三島野で猟をあることのない日が重なり、とうとう月が変わってしまった。
〈4013〉二上山のあちらこちらに網を張って私が待っている鷹、その鷹のことを夢に告げられた。
〈4014〉山田の爺いがボケていたので、その日のうちに鷹を探し出せなかったのだろう。
〈4015〉心の中がほぐれることもなく、須加の山の名のように、すっかりしょげかえって逃げた鷹を恋い続けている。
【説明】
逃げた鷹を恋い慕い、夢に見て嬉しくなって作った歌。家持が大切にして飼っていた自慢の鷹を、鷹番の山田史君麻呂という間抜けな爺さんが、家持の許可を得ずに持ち出し、誤って逃がしてしまいました。家持は爺さんを罵り、悲しみにくれますが、夢の中に現れた娘子から、「国守さま、苦しみ悩むのはおやめなさい。逃げてしまった鷹を捕まえることができるのは、そんな先のことではないでしょう」と告げられ、嬉しくなった、そこで恨みを忘れる歌を作ったと、いうものです。結局、鷹が戻って来たかどうかは分かりません。たぶん戻って来なかったのでしょう。
4011の「み雪降る」は「越」の枕詞。「島つ鳥」は「鵜養」の枕詞。「露霜の」は「秋」の枕詞。「つなし捕る」は「氷見の江」の枕詞。「つなし」は、このしろの幼魚。4013の「二上」は、富山県高岡市の二上山。「をてもこのもに」は、あちらこちらに。これは東歌に2例ある表現で、家持が自作に活かしたものと見られます。4014の「松反り」は「しひにて」の枕詞。「しひにて」は、老いぼれてしまったのか、の意。4015の「須加の山」は「すかなく」の枕詞。
鳥狩(とがり)とも呼ばれる放鷹(ほうよう)は、仁徳天皇の時代に伝来したとされ、『日本書紀』には、天皇が鷹を司る役所を置いて、鷹を調教させたことが記されています。広い狩猟場や高価な鷹、それを飼育・訓練する鷹匠などが必要となるため、天皇や上流貴族のみの遊興であり、ふつうの役人や庶民にとっては高嶺の花でした。家持も、こよなく鷹を愛し、可愛がっていたことが窺えます。
巻第17-4017~4020
4017 あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小船(をぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ 4018 港風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉(なご)の江に妻呼び交(かは)し鶴(あづ)多(さは)に鳴く [一云 鶴騒くなり] 4019 天離(あまざか)る鄙(ひな)ともしるくここだくも繁(しげ)き恋かもなぐる日もなく 4020 越(こし)の海の信濃(しなの)の浜を行き暮らし長き春日(はるひ)も忘れて思へや |
【意味】
〈4017〉東風が激しく吹いているようだ。奈呉で海人たちが釣りする小舟が、浦陰に漕ぎ隠れて行くのが見える。
〈4018〉河口に寒々と風が吹いているようだ。奈呉の入り江では、連れ合いを呼び合って、鶴がたくさん鳴いている(鶴の鳴き立てる声がする)。
〈4019〉遠く遠く離れた鄙の地というのは、なるほどもっともだ。こんなにも故郷が恋しくて、心のなごむ日とてない。
〈4020〉越の海の、信濃の浜を歩いて日を過ごし、こんなに長い春の一日でさえ、京恋しさを忘れることはない。
【説明】
天平20年(748年)正月29日の作。4017の「あゆの風」は、越の俗の語には「東風」を「あゆのかぜ」という、との注記があります。現在でも富山県の人々が用いている言葉だといいます。「奈呉」は、高岡市から射水市にかけての海岸。4019の「天離る」は「鄙」の枕詞。「しるく」は、その通りに。「ここだくも」は、これほど甚だしく。4020の「信濃の浜」は、所在未詳。4018で妻を呼んで鳴く鶴を詠み、そこから奈良にいる妻の大嬢を思って4019、4020の歌を詠んだものとみえます。
巻第17-4021~4024
4021 雄神川(をかみがは)紅(くれなゐ)にほふ娘子(をとめ)らし葦付(あしつき)取ると瀬(せ)に立たすらし 4022 鵜坂川(うさかがは)渡る瀬(せ)多みこの我(あ)が馬(ま)の足掻(あが)きの水に衣(きぬ)濡(ぬ)れにけり 4023 婦負川(めひがは)の早き瀬(せ)ごとに篝(かがり)さし八十伴(やそとも)の男(を)は鵜川(うかは)立ちけり 4024 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の川の渡り瀬(せ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも |
【意味】
〈4021〉雄神川は、一面、紅色に照り映えている。娘子たちが葦付を取ろうと、瀬に立っているらしい。
〈4022〉鵜坂川は、渡る瀬が幾筋も流れているので、馬が歩く水しぶきで、私の着物はすっかり濡れてしまった。
〈4023〉婦負川の早い流れの瀬ごとに篝火を焚き、たくさんの官人たちが、鵜飼を楽しんでいる。
〈4024〉立山の雪が解け出してきたらしい。この延槻川の渡り瀬でも、鐙が浸かってしまった。
【説明】
天平20年(748年)、越中国守として「春の出挙」の務めのため諸郡を視察した折に、その時その所に応じて目についたものを歌った歌群9首のうちの4首です。「春の出挙」とは、春に公の稲を貸し出し、秋に収穫の中から利息をつけて返済させる制度のことです。農業推進と貧農救済のためであるとともに、諸国府の有力な財源でもありました。もっとも、家持の時代には、租税の一部として強制的に割り当てられるようになっていました。
実際の公の稲の貸し付けは郡司が行うので、国守である家持の任務は、各郡(群家)を巡回して貸し付け状況を点検するものでした。一つの郡内での政務には2~3日を要しており、越中国8郡のうち、国府のある射水(射水)郡を除く7郡を巡回しましたから、14~21日程度の日数を要した、あるいはもっと多くの日数を費やしたかもしれません。射水郡の点検は別の機会に行われたものとみられています。
管内の巡行は、国府から礪波郡(となみのこおり)→婦負郡(めひのこおり)→新川郡(にいかわのこおり)→能登郡(のとのこおり)→鳳至郡(ふげしのこおり)→珠洲郡(すずのこおり)の順路で行われ、その間に、各地の風物や情景を詠んだ歌を作っています。帰りは、能登半島先端の珠洲から海路で国府近くの津へ戻るというもので、巡行の時期は、2月から3月にかけての両月に及んだとみられています。気分は高揚しつつも、同時に楽しい旅であったらしく、行く先々での歌に、その気分が反映しています。
4021は、礪波郡(となみのこおり)の雄神川(おかみがわ)のほとりで作った歌。「礪波郡」は、富山県西南部の越前との境の地。「雄神川」は、岐阜県に発し、砺波平野を流れ富山湾にそそぐ庄川。「娘子らし」の「し」は強意。「葦付」は、淡水産の藻で、川もくずとする説があります。
4022は、婦負郡(めひのこおり)の鸕坂川(うさかがわ)のほとりで作った歌。「婦負郡」は、越中中央部の郡で、礪波郡の東隣。「鸕坂川」は、鸕坂付近を流れる神通川の古名か。「渡る瀬多み」は、川幅が広くなっていくつもの流れが生じている状態。
4023は、鵜(う)を潜らせて魚をとる人を見て作った歌。「婦負川」は、神通川の下流域での名かといわれます。「八十伴の男」は、朝廷に仕える多くの役人。鵜飼は、本来は夏に行われ、『隋書倭国伝』にも鵜飼についての記載があるほどに、古代から行われていました。その様子は『万葉集』に10首近く詠まれています。
4024は、新川郡(にいかわのこおり)で延槻川(はいつきがわ)を渡ったときに作った歌。「新川郡」は、富山県の東部、神通川より東の地。「延槻川」は、立山の剣岳から発する早月川(はやつきがわ)。「雪し」の「し」は、強意。「鐙」は、鞍の両側に垂れ下げ、乗る人の両足を踏みかける馬具。
巻第17-4025~4029
4025 志雄路(しをぢ)から直(ただ)越え来れば羽咋(はくひ)の海朝なぎしたり船楫(ふなかぢ)もがも 4026 鳥総(とぶさ)立て船木(ふなぎ)伐(き)るといふ能登(のと)の島山(しまやま)今日(けふ)見れば木立(こだち)繁(しげ)しも幾代(いくよ)神(かむ)びぞ 4027 香島(かしま)より熊来(くまき)をさして漕ぐ船の楫(かぢ)取る間(ま)なく都し思ほゆ 4028 妹(いも)に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしがは)清き瀬ごとに水占(みなうら)延(は)へてな 4029 珠洲(すす)の海に朝開(あさびら)きして漕(こ)ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり |
【意味】
〈4025〉志雄の山道をまっすぐ越えてくると、羽咋の海は朝なぎしている。こんな時に、舟と梶でもあればよいのに。
〈4026〉鳥総を立てて神に祈って船木を伐り出すという能登の島山。今日この目で見ると、木々が茂りに茂っている。いったい幾代を経ての神々しさなのだろう。
〈4027〉香島から熊来に向かって漕ぎ進んでいく櫂のように、休む間もなく都のことが思われる。
〈4028〉妻に逢わずにずいぶん経った。饒石川の清らかな瀬ごとに水占いをして妻の無事を確かめよう。
〈4029〉珠洲の海に朝早く船出をして漕いで来ると、長浜の浦に月が照り輝いていた。
【説明】
天平20年(748年)、越中国守として春の出挙の務めのため諸郡を視察した折に、その時その所に応じて目についたものを歌った歌群9首のうちの5首。公務の旅だったので、気分は緊張しつつも、同時に心躍る楽しい旅であったとみえ、行く先々での歌に、そうした気分が窺えます。また、いずれの歌にも越中の地名が出ており、都人である家持にとって、地方の景色、とりわけ日本海側の景色は珍しいものであり、一つ一つの地名にも心惹かれたのでしょう。
4025は、気太(けだ)の神宮に赴き参り、海辺を行く時に作った歌。気太の神宮は羽咋市の海岸近くの社。「志雄路」は、富山県氷見市から石川県羽咋市の南の志雄へ越える道。山肌を左右に見る急坂の峠越えから一転して目の前に開けた海の景色に感動しています。
4026は、能登の郡(のとのこおり)にして香島の津より舟を発し、熊来の村をさして往く時に作った歌。旋頭歌(5・7・7・5・7・7)の形式になっています。能登の郡は石川県七尾市と鹿島郡の地。香島の津は七尾市の港。熊来村は七尾市中島町あたり。4027の「香島より~船の楫取る」は「間なく」を導く序詞。4028の「饒石川」は、輪島市門前町を流れる仁岸川。「水占」は、水を利用した占いといわれるものの、具体的な方法は未詳。
4029は、珠洲郡(すずのこおり)より船発ちして治布(ちふ)に廻った時、長浜の浜に泊まって月光を仰いで作った歌。珠洲の郡は能登半島の先端の郡。「治布」は、所在未詳。斎藤茂吉はこの歌について、「何の苦も無く作っているようだが、うちに籠るものがあり、調べものびのびとこだわりのないところ、家持の至りついた一つの境界であるだろう。特に結句の『月照りにけり』は、ただ一つ万葉にあって、それが家持の句だということもまた注目に値する」と評しています。
家持の行政活動のなかで、出挙のための管内の巡行や、東大寺墾田地(荘園)の占定と開墾状況の検察は、国守として果たすべき重要な任務でした。また、家持の作歌の才能が開花したのは、越中国で過ごした5年間(746~751年)においてとされます。この間に作った歌は約220首に及び、全作歌数の約470首のうち半分近くを占めています。
巻第17-4030
鴬(うぐひす)は今は鳴かむと片待(かたま)てば霞(かすみ)たなびき月は経(へ)につつ |
【意味】
ウグイスは今に鳴くだろうとひたすら待っているうちに、霞がたなびくようになり、月は過ぎてしまいつつある。
【説明】
ウグイスの鳴くのが遅いのを恨めしく思って作った歌。「片待つ」は、ひたすら待つ。
巻第17-4031
中臣(なかとみ)の太祝詞言(ふとのりとごと)言ひ祓(はら)へ贖(あが)ふ命(いのち)も誰(た)がために汝(な)れ |
【意味】
中臣の太祝詞言を唱えて穢れを祓い、幣(ぬさ)を手向けて祈願する命は、いったい誰がためのものなのか。ほかならぬあなたのためだ。
【説明】
「中臣の太祝詞言」は、中臣氏が管理する祝詞。中臣氏は代々、祭事を職とし、祝詞の大半を管理してきた氏。「太」は、壮大の意の讃め言葉。「命」は、あるいは酒の無事な発酵をいっており、最後の「汝れ」で酒に呼びかけているともいいます。酒を醸す際に唱えた呪歌だろうといわれますが、窪田空穂は次のように言っています。
「国庁の任務として、春の祭の御酒を醸造するにあたり、家持は守としてそれに伴う行事に連なった際、その酒から春の祭、神に対しての祈願へと、当然なことを連想するとともに、その連想は、常に恋しがっている京の妻に及び、個人的な感傷となっていっての歌と解される」。
大伴家持について
718?~785年。大伴旅人の長男。万葉集後期の代表的歌人で、歌数も集中もっとも多く、繊細で優美な独自の歌風を残しました。
少壮時代に内舎人・越中守・少納言・兵部大輔・因幡守などを歴任。天平宝字3年(759)正月の歌を最後に万葉集は終わっています。その後、政治的事件に巻き込まれましたが、中納言従三位まで昇任、68歳?で没しました。
家持の作歌時期は、大きく3期に区分されます。第1期は、年次の分かっている歌がはじめて見られる733年から、内舎人として出仕し、越中守に任じられるまでの期間。この時期は、養育係として身近な存在だった坂上郎女の影響が見受けられ、また多くの女性と恋の歌を交わしています。
第2期は、746年から5年間におよぶ越中国守の時代。家持は越中の地に心惹かれ、盛んに歌を詠みました。生涯で最も多くの歌を詠んだのは、この時期にあたります。
第3期は、越中から帰京した751年から、「万葉集」最後の歌を詠んだ759年までで、藤原氏の台頭に押され、しだいに衰退していく大伴氏の長としての愁いや嘆きを詠っています。
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巻第17~20について
巻第17~20は、大伴家持の歌日誌ともいうべき巻で、家持の歌を中心に、彼をとりまく人々の作を収め、それらを年代順に配列しています。巻第17には、天平2年11月から同19年2月までの歌、途中から越中の国守時代の歌となっています。
巻第18には、天平20年から同21年までの、越中での歌が、巻第19には天平勝宝2年3月から同5年2月までの歌を収めています。家持が越中国守の任を終えて帰京したのは、同3年のことです。なお、巻第19の家持の歌の評価がもっとも高く、彼の会心作を集めたのだろうとされています。
巻第20に収められているのは、天平勝宝5年5月から天平宝字3年(759年)1月までの歌ですが、家持以外の作も多くあり、特に防人関係の歌が120首にもおよんでいます。
当初は勅撰集を企図したとされる『万葉集』ですが、その5分の1を編集者の歌日誌が占めるというバランスの悪さは否めません。編集途中に、何らかの理由で家持の歌日誌が資料のまま放出されたと考えられますが、そこにはどのような事情があったのでしょうか。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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