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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴池主の歌

巻第8-1590

十月(かむなづき)時雨(しぐれ)にあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに

【意味】
 十月の時雨にあって色づいたもみじの葉は、風が吹いたらそのままにに散ってしまうことだろう。

【説明】
 大伴池主(おおとものいけぬし)は大伴家持の同族で、生没年不詳ながら、天平18年(746年)ころ、越中守だった家持の配下にあり、家持との間に交わした歌を多く残しています。後に越中掾(じょう:国司の第3等官:従七位上相当官)に転じ、さらに中央官として都に帰っています。記録の上では、家持との交流は20年に及び、さらに少年期にまで遡れば、2人は30年来の知己だったのではないかともいわれます。しかし、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わって捕縛され、その後の消息が分からなくなっています。『万葉集』には29首の歌を残しており、勅撰歌人として『新勅撰和歌集』にも1首入集。漢詩もよくし、その才能は家持を上回っていたともいわれます。
 
 この歌は、天平10年(738年)10月、右大臣・橘奈良麻呂の邸宅で開かれた宴会で詠まれた歌11首とある中の1首です。橘奈良麻呂は橘諸兄の子で、諸兄の死後、光明皇后を後ろ盾として勢力を拡大してきた藤原仲麻呂を廃するため、757年、大伴氏、佐伯氏などと結びクーデターを計画しましたが、発覚して捕らえられ、獄中で没しました。

巻第17-3944~3946

3944
女郎花(をみなへし)咲きたる野辺(のへ)を行きめぐり君を思ひ出(で)た廻(もとほ)り来(き)ぬ
3945
秋の夜(よ)は暁(あかとき)寒し白栲(しろたへ)の妹(いも)が衣手(ころもで)着むよしもがも
3946
霍公鳥(ほととぎす)鳴きて過ぎにし岡(をか)びから秋風(あきかぜ)吹きぬよしもあらなくに
 

【意味】
〈3944〉女郎花の咲いている野辺を歩き回っていたら、あなたのことを思い出して、回り道して来たのです。

〈3945〉秋の夜の明け方は寒い。妻の袖を重ねて着る方法があればなあ。

〈3946〉ホトトギスが鳴いて過ぎて行った岡の辺りから、秋風が吹くようになった。妻と共寝するすべもないのに。

【説明】
 天平18年(746年)8月7日に、国守の大伴家持の館に集まって宴した時の歌。この宴は、家持が越中国守として着任した後に催した宴で、「館」は、国府庁の近くにあったとされます。この時、池主は国府の掾(じょう:三等官)で、家持が赴任する前からこの職にありました。初めて地方に赴任した家持にとって、先に一族の池主がいたことは何より心強かったことと思われます。二人の深い交遊はここから始まります。
 
 3944は、この歌の前の3943に家持の「秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも」(秋の田の稲穂の状態を見がてら、あなたがいっぱい手折ってきてくれた女郎花ですね)という感謝の挨拶歌があり、これに答えた歌です。「た廻り」は、巡り廻って。池主は、家持の感謝が照れくさかったのか、「秋の田の穂向き見がてり」ではなく、女郎花を愛する風流のために歩き回っただけと答えています。

 3945の「白栲の」は栲で織った白い布で「衣手」の枕詞。「よしもがも」の「よし」は、手段・方法、「もがも」は、願望。秋の旅情の侘しさを歌っていますが、窪田空穂は、「これは自身の侘びしさをいうのが目的ではく、同じ状態でいる家持の侘びしさを察し、いたわり慰めようとの心からのもの」と言っています。3946の「岡び」は、岡の辺り。「よしもあらなくに」は、ここは妻と共寝するすべもないのに、の意。3945・3946は、家持の旅情の寂しさを察してうたったもので、これに対して家持が答えています。

〈3947〉今朝の朝明(あさけ)秋風寒し遠つ人 雁(かり)が来鳴かむ時近みかも
 ・・・今朝の明け方は秋風の冷たさが身にしみる。雁の渡って来て鳴くときが近いからであろうかな。

〈3948〉天離(あまざか)る鄙(ひな)に月経(へ)ぬ然(しか)れども結(ゆ)ひてし紐を解きも開けなくに
 ・・・遠い地方でひと月過ぎたけれども、旅立ちに、わが妻が結んでくれた下着の紐を解き開いてはおりません。

 3947は、池主の「秋の夜は暁寒しに答えたもの。「遠つ人」は、遠い人の意で「雁」を擬人化しての枕詞。「朝明(あさけ」は、アサアケの約。「時近みかも」の「近み」は「近し」のミ語法。3948の「天離る」は、天と遠ざかった意で「鄙」にかかる枕詞。「鄙」は、田舎。都に対する地方の意。「月経ぬ」は、7月に来て8月になったこと。「しかれども」は「しかあれども」の約で、そうではあるが、しかしながら。「解きも開けなくに」の「開けなくに」は「開けぬ」のク語法で名詞形。この歌について窪田空穂は、池主がねんごろに家持の旅情を慰めているのに対し、「家持は素直にその心持を承け入れて、我も妻を思っているといっているのであるが、しかしその言い方は、改まった、むしろ野暮な言い方で、宴歌らしい洒落気なぞの全くないものである。純良ではあるが、我儘な、融通のきかない家持の風貌を思わせる和え歌である」と述べています。

巻第17-3949

天離(あまざか)る鄙(ひな)にある我(わ)れをうたがたも紐(ひも)解(と)き放(さ)けて思ほすらめや 

【意味】
 遠い田舎にいる私を、決して打ち解けてお思いになっては下さらないのでしょうね。

【説明】
 上の続きで、家持の歌がずいぶん改まったものだったので、それを訝しんで答えています。「天離る」は「鄙」の枕詞。「うたがたも」は、決して。「紐解き放けて」は、衣服の紐を解き放してで、ここは打ち解けくつろいでの意。「思ほすらめや」の「らめ」は現在推量、「や」は反語。お思いになっているでしょうか、そうではありますまい。家持が都の妻のことしか念頭にないような歌い方をしているので、どうせ田舎者の私なんぞに対しては、という気持を込めたものとされます。同じ「紐を解く」という言葉を使いながら、家持は妻を思って他の女性と関係しない意に用いているのに対し、池主は打ち解けてくつろぐ意に用いて、やや皮肉っぽく言っているものです。これにさらに家持が答えた歌が次に載っています。

〈3950〉家にして結(ゆ)ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰(た)れか知らむも
 ・・・家で妻が結んでくれた紐を、解いて開けることなく思いつめている心を、誰が分かってくれるでしょうか。

 「誰れか知らむも」の「か」は反語、「も」は詠嘆。家持は、私が紐を解き放けず思うのはあなたではなく妻であって、その心は誰も知らないでしょう、と弁解しています。窪田空穂は、「礼としてそういわずにはいられなかったろうが、そう思うところに、ますます家持の風貌の浮かぶ歌である。宴歌としてはすでに脱線している趣がある」と述べています。

巻第17-3973~3975

3973
大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み あしひきの 山野(やまの)障(さは)らず 天離(あまざか)る 鄙(ひな)も治(をさ)むる ますらをや 何か物思(ものも)ふ あをによし 奈良道(ならぢ)来通(きかよ)ふ 玉梓(たまづさ)の 使ひ絶(た)えめや 隠(こも)り恋ひ 息づき渡り 下思(したも)ひに 嘆かふ我(わ)が背(せ) 古(いにしへ)ゆ 言ひ継ぎ来(く)らし 世の中は 数なきものぞ 慰(なぐさ)むる こともあらむと 里人(さとびと)の 我(あ)れに告(つ)ぐらく 山びには 桜花(さくらばな)散り かほ鳥(とり)の 間(ま)なくしば鳴く 春の野に すみれを摘(つ)むと 白栲(しろたへ)の 袖(そで)折り返し 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 娘子(をとめ)らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋(ごひ)すなり 心ぐし いざ見に行かな 事(こと)はたなゆひ
3974
山吹(やまぶき)は日に日に咲きぬうるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ
3975
我が背子(せこ)に恋ひすべなかり葦垣(あしかき)の外(ほか)に嘆かふ我(あ)れし悲しも
  

【意味】
〈3973〉大君の仰せを恐れ謹んで、山や野をものともせず、この遠い田舎の国すらも立派に治めておられる大丈夫であるあなた、そんなあなたが何を心配されることがありましょうか。奈良への道を行き来する使いが絶えることなどありましょうか。家にこもって奈良を恋いため息ばかりつき、心中ひそかに嘆き続けているあなた、昔から言い継がれてきたではありませんか。この世にある人間は定まりなきものであると。気の紛れることもあろうかと、里の人が私に言うには、山のふもとには桜の花が咲き散り、貌鳥(かおどり)がひっきりなしに鳴き立てています。春の野にすみれをつもうと、真っ白な袖を折り返し、紅色の赤裳の裾を引いた娘子たちが思い乱れて、あなたのお出でを心待ちにしています。さあ一緒に見にいきましょう。約束しましたよ。

〈3974〉山吹が日を追うごとに咲いてきました。そのようにすばらしいと思うあなたがしきりに思われてなりません。
 
〈3975〉あなたを思うとどうしようもなく、葦の垣根の外から嘆くしかない私は、悲しくてなりません。

【説明】
 天平19年(747年)3月、病床にあった越中守大伴家持に贈った歌です。家持からの手紙に答えたもので、この歌の前に池主による、3月3日の節日に遊覧した時に作ったという四韻八句の詩(内容割愛)と、次のような意味の序文が記されています。
 
「昨日つたない思いを申し述べ、今朝はまたお目をお汚しします。重ねてお手紙を頂戴しましたので、こうしてまた整わぬ文を差し上げます。死罪にあたる無礼をも顧みず。
 あなたは、私のような下賤の者をお忘れにならず、何度もお便りを下さいました。そのご文筆は星の生気に満ち、すぐれた調べは他の人を寄せつけません。水のごとき智と山のごとき仁は珠玉の光を秘め、六朝の潘岳(はんがく)や陸機(りくき)に並ぶ文才は、もとより詩文の殿堂に位せられるべきものです。発想を自由に馳せ、詩情は道理を叶えています。七歩の才(魏の曹植が七歩歩く間に詩を作った故事)そのままに手際よくお作りになった数篇が紙面にあふれています。悩める者の重い苦しみを晴らし、恋する者の積もる思いを除いてくださいます。山柿の歌泉(赤人や人麻呂の歌)もこれに比べればなきがごとくで、巧みな筆の冴えは燦然と輝いて見えます。私にはこの文に接することができた幸せがあったのだと思い知り、謹んでお答えする歌を差し上げます。その歌はこのようなものです」
 
 3973の「大君命恐み」は、天皇の御命令を恐れつつしんで。この表現は奈良遷都ころから現れ、慣用されていった句。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山野障らず」は、山や野にも妨害されずに。「天離る」は「鄙」の枕詞。「鄙も治むる」の「も」は、さえも、をも、の意。「何か物思ふ」は、何で物思いをするのですか。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良道」は、越中から奈良へ通じる街道。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「使ひ絶えめや」の「や」は反語で、使いが絶えようか、絶えはしない。「隠り恋ひ」は、家に籠って奈良を恋い。「息づき渡り」は、ため息をつき続け。「下思ひに」は、心中ひそかに思い。「嘆かふ」は「嘆く」の継続。「古ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「告ぐらく」は「告ぐ」のク語法で名詞形。「かほ鳥」は、カッコウではないかとされます。「間なくしば鳴く」は、絶え間なくしきりに鳴く。「白栲の」は「袖」の枕詞。「うら恋」の「うら」は、心の中で、の意。「心ぐし」は、心が晴れず悩ましい意。「いざ見に行かな」の「な」は、勧誘を表す助詞。「ことはたなゆひ」は語義未詳ながら、約束の意、あるいは「ゆびきりげんまん」のような当時の呪文ではないかとされます。

 3974の「日に日に」は、これまでは「日に異(け)に」とあるのが普通で、新しい言い方とされます。「うるはしと」は、すばらしいと。「しくしく」は、しきりに、重ね重ね。3975の「恋ひすべなかり」は、恋しくてどうしようもなく。「葦垣の」は「外」の枕詞。この歌は、葦垣が越えられぬ隔てであったことを示しています。高天原に対応する世界が葦原中国(あしはらのなかつくに)と呼ばれ、世界開闢の混沌としたなかから最初に生まれた神がウマシアシカビヒコヂ(素晴らしい葦の芽の男神)と呼ばれるように、葦は霊力が強く神聖なものとされていました。その葦で作った垣も神聖とされ、越えることが禁忌とされたのです。

巻第17-3993~3994

3993
藤波(ふぢなみ)は 咲きて散りにき 卯(う)の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響(とよ)めば うちなびく 心もしのに そこをしも うら恋(ごひ)しみと 思ふどち 馬うち群(む)れて 携(たづさ)はり 出で立ち見れば 射水川(いみづかは) 湊(みなと)の洲鳥(すどり) 朝なぎに 潟(かた)にあさりし 潮満てば 妻呼び交(かは)す 羨(とも)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(しぶたに)の 荒磯(ありそ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻(たまも) 片縒(かたよ)りに 縵(かづら)に作り 妹(いも)がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に 海人舟(あまぶね)に ま楫(かぢ)掻(か)い貫(ぬ)き 白たへの 袖(そで)振り返し 率(あども)ひて 我(わ)が漕(こ)ぎ行けば 乎布(をふ)の崎 花散りまがひ 渚(なぎさ)には 葦鴨(あしがも)騒(さわ)き さざれ波 立ちても居(ゐ)ても 漕(こ)ぎ巡(めぐ)り 見れども飽(あ)かず 秋さらば 黄葉(もみち)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明(あき)らめめ 絶ゆる日あらめや
3994
白波の寄せ来る玉藻(たまも)世の間(あひだ)も継ぎて見に来(こ)む清き浜(はま)びを
 

【意味】
〈3993〉藤波は咲いて散ったけれど、卯の花は今が盛りとばかりに、山にも野にもホトトギスの鳴き声が鳴り響いているので、心もしおれるばかりにその声が恋しくなって、親しい仲間同志が馬に鞭打って出かけて眺めると、 射水川の河口の洲鳥たちが、朝なぎに干潟で餌をあさり、潮が満ちてくると、妻を求めて鳴き交わしている。心惹かれながらも横目に見て通り過ぎ、渋谿の荒磯の崎に沖の波が寄せてくる玉藻を採って長々と一筋によじり、縵に仕立て、妻に見せようと手に巻き付けた。 あの心も霊妙になるような布勢の水海で、海人の小舟楫を揃えて貫き出し、袖をひるがえしながら声を掛け合って漕いでいくと、乎布の崎には花が散り乱れ、渚には葦鴨たちが群れ騒いでいた。さざ波が立つように立ったり座ったりして見ても、あちょこち漕ぎ回って見ても、見飽きることがない。秋になって黄葉が映える時に、また春がめぐってきたら花の盛りの時に、どのようにもあなたのお心のままに、このように見物して心を晴らしましょう。この遊覧の絶える日などあるものですか。

〈3994〉白波が寄せてくる玉藻を、この世に生きている限り、ずっと続けて見に来よう。この清らかな浜辺を。

【説明】
 題詞に「敬(つつし)みて布勢の水海に遊覧する賦に和(こた)ふる」歌とあり、その前にある大伴家持の長歌・短歌(3991~3992)に和したものです。池主もこの遊覧に同行していたものと見えます。

 3993の「藤波」は、藤の花房が風になびくさまを波に見立てた歌語。「あしひきの」は「山」の枕詞。「うちなびく」は、物に感じる心の状態をいい「心」にかかる比喩的枕詞。「心もしのに」は、心もしおれるほどに。「そこをしも」の「し」は強意で、その点を、の意。「うら恋しみと」は、心の中で恋しく思うからと。「思ふどち」は、親しい仲間。「携はり」は、連れだって。「射水川」は、いまの小矢部川。「洲鳥」は、洲にいる鳥。「潟にあさりし」は、干潟で餌を探し求めて。「羨しきに」の「羨し」は、羨ましく心惹かれる意。「渋谿」は、高岡市渋谷。「片縒り」は、糸を縒るには普通2本を縒り合せるところ1本で縒ること。「うらぐはし」は、うるわしい、心も霊妙になるような。「布勢の水海」は、氷見市南方にあった湖。「白たへの」は「袖」の枕詞。「率ひて」は、声をかけ合って。「乎布の崎」は、布勢の水海にあった岬。「さざれ波」は、さざ波で「立つ」の枕詞。「かもかくも」は、とにもかくにも、どのようにも。「君がまにまに」は、あなた(家持)に従って。「かくしこそ」は、このように。「見も明らめめ」は、眺めて心を晴らそう。「め」は、上の「こそ」の係り結び。「絶える日あらめや」の「や」は、反語。

 窪田空穂は、この歌を評し、「きわめて要領よく和え歌としての心を遂げていて、その頭脳の明敏を思わせるものである。しかしこれを一首の歌として見ると、部分的にはいかにも巧みであるにもかかわらず、全体を貫いている気分は稀薄で、その点では家持の上の歌に遠く及ばないものである。一長一短であるが、歌人としては家持の下位に立つべき人である」と述べています。

 3994の上2句は、玉藻に「よ(節のこと)」のある意で「世」を導く序詞。「世の間も」は、この世にある間、一生の間。「清き浜びを」の「を」は、感動の助詞。

巻第17-4003~4005

4003
朝日さし そがひに見ゆる 神(かむ)ながら 御名(みな)に帯(お)ばせる 白雲(しらくも)の 千重(しへ)を押し分け 天(あま)そそり 高き立山(たちやま) 冬夏と 別(わ)くこともなく 白たへに 雪は降り置きて 古(いにしへ)ゆ あり来(き)にければ こごしかも 岩の神(かむ)さび たまきはる 幾代(いくよ)経(へ)にけむ 立ちて居(ゐ)て 見れども異(あや)し 嶺(みね)高(だか)み 谷を深みと 落ち激(たぎ)つ 清き河内(かふち)に 朝去らず 霧(きり)立ち渡り 夕されば 雲居(くもゐ)たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代(よろづよ)に 言ひ継(つ)ぎ行(ゆ)かむ 川し絶えずは
4004
立山に降り置ける雪の常夏(とこなつ)に消(け)ずて渡るは神(かむ)ながらとぞ
4005
落ちたぎつ片貝川(かたかひがは)の絶えぬごと今見る人も止まず通はむ
 

【意味】
〈4003〉朝日が背後から射し、神々しいその名のままに、白雲を幾重にも押し分けて天にそびえ立つ立山よ。冬も夏も絶えることなく、いつも真っ白な雪が降り積もり、古く遠い御代からそのままの姿であり続けてきたものだから、凝り固まった岩々は神々しく、幾代を経てきたことであろう。立って見ても座って眺め続けていても、その神々しさは計り知れない。峰が高く谷が深いので、落ちたぎる、清らかな谷あいの流れには、朝ごとに霧が立ちわたり、夕方になると雲が一面にたなびく。その雲のように心畏れつつ、その霧のように思いをこめつつ、流れる水の音の清らかさをそのままに、幾代にもわたって語り継いでゆこう。この川が絶えない限り。

〈4004〉立山に降り積もった雪が、夏の盛りにも消えずに残り続けるのは、神の御心のままでいらっしゃるからこそだ。
 
〈4005〉滝となって落ちたぎる片貝川が絶えることがないように、今見ている人も、この先ずっとここに通い続けるだろう。

【説明】
 大伴家持の長歌「立山の賦」(4000~4002)に和した、天平19年(747年)4月28日の作。4003の「そがひ」は、背後。「神ながら御名に帯ばせる」は、神であるままに御名として持っておられる。「天そそり」は、天にそびえて。「古ゆ」の「ゆ」は、~から。「こごし」は、岩がごつごつと重なり。「神さぶ」は、神々しい。「たまきはる」は「幾代」の枕詞。「異し」は、霊妙だ。「嶺高み谷を深みと」は、嶺が高く谷が深いので。「落ち激つ」は、水が落ちて激しく流れる。「朝去らず」は、朝ごとに。「雲居」は、ここは雲そのもの。「雲居なす」は、雲のように。「心もしのに」は、心も萎れて。「川し絶えずは」の「し」は、強意の副助詞。

 4004の「消ずて渡るは」は、消えないで続いているのは。「とぞ」は、下に「言ふ」が省略された形。4005の「片貝川」は、富山県のおもに魚津市を流れる川。「今見る人も」は、今立山を見ている人も、で、人は家持を指しているとされます。

 この歌について、窪田空穂は次のように評しています。「家持の歌は、細くはあるが滑らかさを帯びていたが、池主は反対に、太くはあるが騒がしくて、肝腎の統一感を持ち得ない点では、むしろ劣っている。思うに漢詩の影響を受けすぎ、部分的に、秀句を得ようとすることに心を奪われ、全体の統一をおろそかにしたためと思われる。構成が確かで、その連続も自然であるのに、感味の乏しいのはそのためと思われる」

巻第18-4073~4075

4073
月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔(へだ)てたりけれ
4074
桜花(さくらばな)今ぞ盛りと人は言へど我れは寂(さぶ)しも君としあらねば
4075
相(あひ)思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで
 

【意味】
〈4073〉月を見ていると、同じ一つの月が照らす国なのに、あなたの住んでいらっしゃるあたりは山が隔てています。
 
〈4074〉桜の花は今まさに盛りと人は言いますが、私は寂しくてなりません、あなたと一緒でないので。
 
〈4075〉私のことなど思って下さらないだろうあなたを、我ながら不思議と嘆き続けています。人が不審に思って問いかけるほどに。

【説明】
 越中から越前の掾(じょう)に転任した大伴池主が、越中守の大伴家持に贈った歌です。池主の転任は、天平19年(747年)5月から翌年春の間に行われた人事によるとみられますが、その後も隣国どうしで親しく交流が続きました。ここの歌は天平21年(749年)3月15日の作です。序文に次のような意味の手紙文が載っています。
 
「今月の十四日に深見村に参り、あなたのいらっしゃる北方の地をはるかに拝しました。いつの日も休むことなく御徳を思っておりますが、その上ここは御国の近くなので、にわかにお慕いする気持ちが強くなりました。さらに先のお便りに『春の名残りは尽きないのに、いつ会えるとも期待できない。生きているのに会えない悲しみは何とも言いようがない』とありました。紙を前にして心がつらくなるばかり、拙いお手紙を差し上げるにも形が整いません」
 
 深見村は越前国最北の加賀郡に位置し、池主が当地を訪れたのは、春の出挙(すいこ)を実施し監督するための巡行だったとみられています。4073は、題詞に「古人の云へる」とある歌。「同じ国なり」は、同じ越(こし)の国の意を言ったもの。「君があたり」は、家持のいる越中国府を指します。4074は「属物発思」とある歌で、桜に触れて思いを起こした歌。「君としあらねば」の「し」は、強意の副助詞。4075は「所心歌」とあり、思うところを述べた歌。「相思はず」は、自分は思っているのに相手は思ってくれないこと。「あやしくも」は、奇妙なことに。「も」は、下の「か」と呼応して疑問的詠嘆を表しています。これらの池主が贈った歌に対し家持がお返しに贈った歌が、4076~4079にあります。

〈4076〉あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ
 ・・・山がなければよいのに。月を見ると同じ里であるのに、山が二人を隔ててしまっている。

〈4077〉我が背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来(こ)ね
 ・・・親愛なるあなたの家の古い垣根の内の桜の花は、まだつぼみのままですよ。一目見にいらっしゃい。

〈4078〉恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり
 ・・・「恋う」とはうまく名付けたものです。言いようもなく苦しんでいるのは私の方です。

〈4079〉三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ
 ・・・三島野に霞がたなびいていて、それなのに、昨日も今日も雪が降り続いています。

巻第18-4128~4131

4128
草枕(くさまくら)旅の翁(おきな)と思ほして針(はり)ぞ賜(たま)へる縫(ぬ)はむ物もが
4129
針袋(はりぶくろ)取り上げ前(まへ)に置き返さへばおのともおのや裏も継(つ)ぎたり
4130
針袋(はりぶくろ)帯(お)び続けながら里ごとに照らさひ歩けど人もとがめず
4131
鶏(とり)が鳴く東(あづま)をさしてふさへしに行かむと思へどよしもさねなし
  

【意味】
〈4128〉この私を旅にある老人とお思いになって、針をお贈り下さったのですね。何か縫う物でもあればよいのですが。

〈4129〉頂いた針袋を取り上げて前に置き、裏返して見ると、おやまあ何ということか、裏地まで付いているではありませんか。

〈4130〉針袋を腰につけたまま、里という里を見せびらかして歩いてみましたが、誰一人とがめません。

〈4131〉遠い東に向かって針袋にふさわしい旅に出ようと思いますが、そのきっかけがありません。

【説明】
 天平勝宝元年11月、家持は、すでに越前の国に転出していた池主に何かの贈り物をしたようです。ところが到着したものは中身と表書きの名目とが違っていました。ここの歌は、題詞に「越前の国の掾(じよう)大伴宿祢池主が(家持に)贈ってきた戯れの歌」とある、池主が家持に贈った4首で、歌の前に、池主が書いた手紙の文章が載っています。

「突然の頂き物に、驚きとともに深い喜びにたえません。心中うれしく思いながら、ひとり座って早速に開いてみますと、表書きと中身が違っておりました。どうして違っているのか、その理由を察するに、無造作に荷札をつけられたのではないでしょうか。そうだと存じ上げながら一言申し添えますが、まったく他意はございません。およそ本物を他の物とすり替える行為は、その罪が軽くありません。不正によって得た財貨はその倍の財貨をもってただちに償わなければなりません。いまお便りをお送りし、使者を派遣します。すぐにご返事下さい。決して遅れてはなりません。
 勝宝元年十一月十二日、物をすり替えられた下級役人が、謹んで、すり替えた人を国府の裁判官に訴えます。
 別途申し上げます。愉快に思って黙っていることができず、四首の歌を作ってみました。眠気覚ましの代わりにでもなさってください」

 4128の「草枕」は「旅」の枕詞。「旅の翁」は、池主の方が年長だったのでこのように表現したもの。ちなみにこの年、家持は32歳、池主は36歳前後と見られています。「思ほす」は「思ふ」の尊敬語。「もが」は、願望。4129の「針袋」は、旅行に携帯する針を入れる袋。「おのともおのや」の「おの」は、驚きを表す感動詞。おやまあ何ということか。「裏も継ぎたり」は、針袋にはふつう裏地を付けなかったのでこう表現したものと見えます。4130の「照らさひ」は、見せびらかして。4131の「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。「ふさへ」は、ふさわしいの意か。「よしもさねなし」の「よし」は、きっかけ、「さねなし」は、決してない。
 
 上掲の手紙の文章の訳文では分かりにくいですが、池主は、文中で律令用語や公文書用語を物々しく書いて戯れています。左注には、これらに対する家持の返歌は紛失して見つけることができないとありますが、生真面目で若き律令官人としての矜持をもつ家持にそのユーモアは通じなかったとみえます。かなり癇に障ったらしく、ひょとして烈しく池主の文言を非難したのではありますまいか。そう推測させるのが、次掲の池主による第2信であり、彼は平身低頭するかのように家持に対して先便の非礼を詫びています。

巻第18-4132~4133

4132
縦(たた)さにもかにも横さも奴(やつこ)とぞ我(あ)れはありける主(ぬし)の殿戸(とのど)に
4133
針袋(はりぶくろ)これは賜(たば)りぬすり袋(ぶくろ)今は得てしか翁(おきな)さびせむ
 

【意味】
〈4132〉縦の関係からも、横の関係からも、とにかく奴として私はいたことでした。主のあなたの御門に。

〈4133〉針袋は確かに頂戴しました。今度はすり袋を頂いて老人らしくいたしとうございます。

【説明】
 4128~4131で家持に歌と手紙を贈った後、さらに池主が家持に贈った歌。歌の前に、池主が書いた手紙の文章が載っています。先の手紙に対する家持からの返事は載っていませんが、池主の文面はかなり家持を立腹させたらしく、ここではひたすら平身低頭して非礼を詫びる内容となっています。

「駅使(はゆまづかい)を出迎えるため、今月の十五日に、越前国管内の加賀郡にある国境まで参りました。あなたのおいでになる射水の郷が面影に浮かび、ここ深見村で恋しさをつのらせております。わが身は胡馬(こば)ではないものの、心は故郷から吹いてくる北風を受けながら悲しんでいます。月明かりの下をさまよっても、どうしようもありません。ようやくお手紙を得て開いてみますと、そのお言葉にこれこれとありました。先に差し上げた書状が、意に反して誤解を生じてしまったのではないかと心配しています。私が薄絹をお願いしたために、心ならずも国守をお悩ませしてしまいました。水をお願いして酒をいただくのは、もとより望外の喜びです。処置が私利のためではなく時宜に適っていれば、法に反していても決して悪吏とは申せません。繰り返し針袋の御歌を詠唱してみますと、言葉の泉は酌み尽くせません。膝を抱えてひとり笑い、旅の愁いを除くことができました。楽しさにうっとりとして日を過ごし、思い悩むこともなくなりました。拙文にて、意を尽くすことができません。
勝宝元年十二月十五日、物を無心した下級役人より、人に伏さぬ国守さまへ。別に奉る歌二首」
 
 4132の「縦さにもかにも横さも」は、越中にいて家持の下僚として縦の関係にあったた時も、越前に転任し関係が横になった今も、の意。「奴」は、下男。「主の殿戸」は、仕える主人の殿の御門で、奴の詰所。家持に対し無二の真実を持っていることを言っています。4133では、私はあなたの奴のように思っているので、あなたも私をそのように思って、さらに物を下さいと、すり袋を無心しています。「すり袋」が何であるかは未詳ながら、それを持つと翁(老人)のように見える物だったようです。

 なお、家持が立腹した理由について、伊藤博は次のように述べています。「家持が憤怒の掾を覚えたのは、このたびの手違いが家持一人にかかわるものではなく、妻坂上大嬢が大きく関連していたからではあるまいか。『針袋』は妻が丹精をこめて用意した品物と察せられた。裏地までついた針袋であれば、妻がかかわっていることは当然推察されるはずなのに、そのあたりを無視して裁判官気取りの言辞を展開した神経の粗さに、家持は不快感を覚えたのではあるまいか」。

巻第20-4300

霞(かすみ)立つ春の初めを今日(けふ)のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ

【意味】
 春の初めのめでたい時を、今日のようにこれからもお逢いできると思うと楽しゅうございます。

【説明】
 家持が少納言になって越中から帰京して2年後の天平勝宝5年(753年)に、池主は左京少進となって帰京しました。この歌は、天平勝宝6年(754年)正月、大伴一族が家持邸に集まって祝賀の宴を開いた時に詠まれたものです。「霞立つ」は「春」の枕詞。「春の初め」は、年頭。この3年後、橘奈良麻呂による反藤原のクーデター計画に与したことが露見して投獄され、その後の消息が失われています。この歌は、池主の最後の歌とされます。

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大原真人今城の歌ほか

巻第8-1604

秋されば春日(かすが)の山の黄葉(もみち)見る奈良の都の荒(あ)るらく惜(を)しも

【意味】
 秋がやってくるといつお春日の山の美しい黄葉が見られた奈良の都。その都が荒れ果てていくのが惜しまれてならない。

【説明】
 大原真人今城(おおはらのまひといまき)の「奈良の故郷を傷惜(いた)む」歌。「奈良の故郷」は、平城の旧都の意で、聖武天皇が天平12年(740年)12月から同17年9月まで平城京を離れたため、都は荒廃したのでした。大原真人今城は、大伴女郎の子。もと今城王で、臣籍降下して大原真人姓となった人。天平宝字元年(757年)従五位下、同8年、従五位上、その後、藤原仲麻呂の乱に連座してか無位となり、宝亀2年(771年)従五位上に復し、兵部少輔、駿河守等を歴任しました。『万葉集』には、13首。

 「秋されば」は、秋が来るといつも。「さる」は、移動することを言い表す語で、遠ざかる場合だけでなく、近づく動きについても用います。「春日の山」は、奈良市東方にある、春日山、御蓋山、若草山などと呼ばれる山々の総称。「奈良の都」の「都」は、原文「京師」で、ミヤコを表す漢語。「荒るらく」は「荒る」のク語法で名詞形。天平15年秋または同16年秋の作と見られます。

 なお、今城王の「王」というのは天皇の孫の世代の名のりであり、とくに天智・天武両天皇は多くの子をもうけたので、その孫や曾孫の世代の人々の数はますますふくれあがっていきました。その対策の一環として、姓を与えて臣籍に降ろすことが、天平の後半ごろから積極的に進められました。

巻第20-4475~4476

4475
初雪(はつゆき)は千重(ちへ)に降りしけ恋ひしくの多かる我(わ)れは見つつ偲(しの)はむ
4476
奥山(おくやま)のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ
 

【意味】
〈4475〉初雪よ、幾重にも降り積もれ。恋しさのつのる私は、それを眺めながらあの人を偲ぼう。

〈4476〉奥山に咲く樒(しきみ)の花の名のように、しきりにあなたにお逢いしたいと思い続けることか。

【説明】
 天平勝宝8年(756年)11月23日、式部少丞(しきぶのしょうじょう)大伴宿祢池主の家に集まって飲宴(うたげ)したときの歌。「式部少丞」は、式部省の三等官。作者は大原真人今城。今城は、じめ今城王を名乗っていましたが、臣籍降下して大原真人の姓を賜わった人。母方が大伴一族だったため、大伴家の人々と深く関わる立場にあり、家持とも親しかったようです。

 4475の「降りしけ」は、一面に降れ。「恋ひしく」は「恋ひき」のク語法で名詞形。4476の「しきみ」は、モクレン科の常緑高木で、初夏に淡黄色の小花を咲かせます。現在では仏前に供える樒(しきみ)ですが、この時代にはそうしたものではなかったようです。シキの音が何度も繰り返す意のシクを連想させるところから、この植物名を引いたと見られます。「名のごとや」の「や」は、末尾の「なむ」と応じて、詠嘆的疑問を表しています。「しくしく」は、しきりに。

 いずれも主人の池主に対する挨拶歌とされますが、池主の歌はなく、大原真人今城の歌しかありません。あるいは、4475の「見つつ偲はむ」の対象と、4476の「君」は、この場に居合わせなかった家持を指したものか、とする見方があります。それによると、まだ奈良麻呂の変が起きる半年前ではあるものの、君子危うきに近寄らず、先帝の諒闇(服喪)中でもあり、用心深い家持は、あれほど親しかった池主の茲許の動きに疑問を感じて、殊更に避け、あとから今城の報告受けたのではないか、というのです。

巻第20-4477~4478

4477
夕霧(ゆふぎり)に千鳥(ちどり)の鳴きし佐保道(さほぢ)をば荒(あら)しやしてむ見るよしをなみ
4478
佐保川(さほがは)に凍(こほ)りわたれる薄(うす)ら氷(び)の薄き心を我(わ)が思はなくに
 

【意味】
〈4477〉夕霧に千鳥が鳴いていた佐保道を、この先荒れるに任せてしまうのでしょうか。お逢いすることができなくなってしまって。

〈4478〉佐保川に薄く凍りわたっている氷のような、そんな薄っぺらな気持ちで、私があなたを思っているわけではないのに。

【説明】
 4477は、「智努女王(ちののおほきみ)の卒(みまか)りし後に、円方女王(まとかたのおほきみ)の悲傷して作る」歌。智努女王は、神亀元年(724年)に従三位ながら系譜未詳。ただし、題詞に、三位以上に用いられるべき「薨」ではなく「卒」が用いられているので同名別人とする説も。円方女王は、長屋王の娘。神護景雲2年(768年)に正三位。「佐保道」は、佐保の地を通る道。奈良市の北部を流れる佐保川の北の一帯で、長屋王の邸宅がありました。「荒しやしてむ」は、自分が通わなくなったために荒れていくことを、自分を主格にして放任的に表現したもの。「見るよしをなみ」は、逢う方法がないので。

 4478は、大原桜井真人(おおはらのさくらいまひと)が「佐保川の辺に行きし時に作る」歌。大原桜井真人は、敏達天皇の後裔、筑紫大宰帥・河内王の子で、もと桜井王、天平11年(739年)に兄弟の高安王・門部王らと共に大原真人姓を賜与され臣籍降下した人。和銅7年(714年)無位から従五位下に叙せられ、神亀元年(724年)に正五位下。このころ風流侍従の一人に数えられていました。「凍りわたれる」は、一面に凍っている。上3句は「薄き」を導く同音反復式序詞。これらの歌は、上の23日の宴席で大原今城が披露した古歌です。

巻第20-4479~4480

4479
朝夕(あさよひ)に音(ね)のみし泣けば焼き太刀(たち)の利心(とごころ)も我(あ)れは思ひかねつも
4480
畏(かしこ)きや天(あめ)の御門(みかど)を懸(か)けつれば音(ね)のみし泣かゆ朝夕(あさよひ)にして
 

【意味】
〈4479〉朝夕、ただ声をあげて泣くばかりで、焼いた太刀のようなしっかりした心など持っていられません。

〈4480〉恐れ多くも、天皇陛下のことを心に思い浮かべると、声をあげて泣くばかり。朝にも夕にも。

【説明】
 ここの2首も、上の23日の宴席で大原今城が披露した古歌です。4479は、藤原夫人(ふじわらぶにん)の歌。天武天皇の夫人で、通称は氷上大刀自(ひかみのおおとじ)。巻第2-104の作者である藤原夫人・五百重娘(いおえのいらつめ)の姉にあたり、いずれも藤原鎌足の娘。「焼き太刀の」は、良く焼き鍛えた太刀の、で、鋭い意から「利心」にかかる枕詞。「利心」は、しっかりした心。「思ひかねつも」は、思っていられない。何らかの事情で、天皇を激しく恨み悲しむことがあった折の歌と見えますが、その事情が何であるかは分かりません。

 4480は作者未詳歌。「畏きや」の「や」は感動の助詞で、恐れ多い。「天の御門」は、朝廷、天皇。「懸けつれば」は、心に思うと。「泣かゆ」の「ゆ」は、自発。4479の上2句と表現が似ていることから、併せて披露されたものとみえます。天武天皇の死を悼む歌ではないかとされ、側近する女官が詠んだものかもしれません。以上4首はいずれも悲しい歌ばかりであり、慌しい時勢を憂うことと関係があるのかもしれません。

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各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

万葉の植物

ウツギ
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

サクラ
日本の国花のサクラはバラ科の落葉高木で、多くの品種があります。名前の由来は、花が「咲く」からきたとされていましたが、「サ」は稲の神様で、「クラ」は居る所という説も唱えられています。稲の神様が田植えが始まるまで居るところがサクラで、サナエは稲の苗、サミダレは稲を植えるころに降る雨のことをいう、とされます。
なお、『万葉集』で詠まれている桜の種類は「山桜」です。「ソメイヨシノ」は江戸末期に染井村(東京)の植木屋によって作り出された品種で、葉が出る前に花が咲き、華やかに見えることからたちまち全国に植えられ、今の桜の名所の主役となっています。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ススキ
秋の七草の一つであるススキはイネ科の 多年草で、十五夜の月見の際にハギと共に飾られます。古来、ススキの穂を動物の尾に見立てて「尾花」と呼び、『万葉集』では他に「はた薄」とか「はだ薄」と詠んでいる場合があります。また「茅(かや)」とも呼ばれ、農家で茅葺屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用したりしていました。

スミレ
スミレ科の多年草で、濃い赤紫色の可憐な花をつけ、日本各地の野原や山道に自生しています。スミレの名前は、花を横から見た形が大工道具の墨入れ(墨壺)に似ているからとされます。スミレ属は世界に約500種あり、そのうち約50種が日本に分布しています。

センダン
センダン科の落葉高木で、古名は「あふち」「おうち」。生長が早く、大きくなると20mにもなり、夏には大きな木陰を提供してくれます。初夏に淡紫色の花が咲き、 秋には多くの黄色い実をつけます。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の諺にある栴檀は、これとは異なる木です。

モミジ
「もみじ」は具体的な木の名前ではなく、赤や黄色に紅葉する植物を「もみじ」と呼んでいます。現代では「紅葉」と書くのが一般的ですが、『万葉集』では殆どの場合「黄葉」となっています。これは、古代には黄色く変色する植物が多かったということではなく、中国文学に倣った書き方だと考えられています。さらに「もみじ」ではなく「もみち」と濁らずに発音していたようで、葉が紅や黄に変色する意味の動詞「もみつ」から生まれた名だといいます。

ヤブコウジ
『万葉集』では「山橘」と呼ばれる ヤブコウジは、サクラソウ科の常緑低木。別名「十両」。夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。この実を食べた鳥によって、種子を遠くまで運んでもらいます。

ヤマブキ
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。

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