巻第8-1658
吾背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪の嬉(うれ)しからまし |
【意味】
この美しく降った雪を、お二人で眺めることができましたら、どんなにか嬉しいことでしたでしょう。
【説明】
光明(こうみょう)皇后が、聖武天皇に奉られた御歌です。美しく降る雪を見つつ、夫への思慕を切々と伝え、呼びかけています。
光明皇后は藤原不比等の娘で、名は安宿媛(あすかひめ)。皇族以外から初めて皇后になった人で、病人や孤児のために施薬院や悲田院を設け、病人の体についた垢を自ら洗い落としたり、ライ病患者の膿を口で吸い取ったりしたという逸話もあります。興福寺の五重塔・西金堂や、新薬師寺、国分寺の設置など、多くの事業に参画したともいわれ、聖武太上天皇の崩御に際しては、遺品を東大寺に寄進し、それらは正倉院宝物として今日に伝えられています。
この宝物の中には、光明皇后が、中国の王羲之(おうぎし)筆とされる楷書の法帖を書き写した『楽毅論(がくきろん)』も残されています。正倉院の書跡中の白眉とされ、その力強く朗々たる筆跡で有名ですが、皇后のお人柄に触れようとするとき、末尾に記されている「藤三娘(とうさんじょう)」という署名に注目したく思います。藤原氏の三女という意味、あるいは母・三千代の名を入れたともいわれますが、ご自身のニックネームとして使っておられたのか、とても愛嬌あふれる表現です。また同時に、自分は藤原氏の娘であるという確かな誇りが滲み出ているように感じられてなりません。
この御歌について斉藤茂吉は、「斯く尋常に、御おもいのまま、御会話のままを伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、『嬉しからまし』の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味わい得ることの多幸を、私等はおもわねばならぬのである」と述べています。
巻第19-4224
朝霧(あさぎり)のたなびく田居(たゐ)に鳴く雁(かり)を留(とど)め得(え)むかも、我が宿(やど)の萩(はぎ) |
【意味】
朝霧がたなびく田に羽を休めて鳴いている雁を、引きとどめることができるでしょうか、私の家の萩は。
【説明】
左注に「芳野宮(よしののみや)に幸(いでま)しし時、藤原皇后(光明皇后のこと)の御作らせるなり。但し、年月は未だ審詳(つばひ)らかならず、十月五日、河邊朝臣東人(かはへのあそんあづまひと)の傳誦(でんしょう)してしかいう」とある歌です。天平勝宝2年(750年)に、京から越中にやって来た河辺東人が家持に伝えた歌だとされます。雁に男性を、萩の花に女性を連想するのは、この時代の詩情だったようです。
巻第19-4240
大船(おほぶね)に楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る斎(いは)へ神たち |
【意味】
大船に櫂(かい)をたくさん取りつけて、この我が子を唐の国へ遣(つか)わします。どうか守ってやってください、神々よ。
【説明】
左注に「春日にして神を祭る日、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首。即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ 参議従四位下遣唐使」とある歌です。遣唐使に任命された藤原朝臣清河(ふじわらのあそんきよかわ)は光明皇后の甥にあたりますが、国母の立場もしくは親愛の情から「我子」と呼んでいます。清河は天平勝宝2年(750年)9月に遣唐大使となり、同4年3月拝朝の後に入唐、阿倍仲麻呂とともに唐朝に仕えました。その後、帰国の途上に逆風に遭い漂着、同船の者は殆ど土人に殺されたものの、清河は助かって唐に留まり、結局、帰国することなく、宝亀9年(778年)ころ唐国で没しました。
なお、この歌の次に、遣唐大使となった清河の歌が載っています。
〈4241〉春日野(かすがの)に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花 栄(さ)きてあり待て帰り来るまで
・・・春日野にお祀りしている神の御座所の梅の花よ、このまま咲き栄えて待っていてくれ、私が帰って来る日まで。
ここの「梅の花」は、叔母の光明皇后のを譬えであり、皇后を称える気持ちを詠んでいるとする説もあります。
巻第8-1659
真木(まき)の上(うへ)に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜(よ)問(と)へ我(わ)が背(せ) |
【意味】
真木の上に降り積もる雪のように、絶え間なくあなたのことが思われてなりません。今夜いらして下さい。
【説明】
他田広津娘子(おさたのひろつめのおとめ)は伝未詳ながら、大伴家持の愛人の一人ではないかともいわれます。「真木」は、檜や杉など良質の木材になる木。上2句は「しくしく」を導く序詞。「しくしく」は、しきりに、絶え間なく。白い雪が降り積もる、しんしんとした静寂のなか、「さ夜問へ我が背」という簡潔で柔らかな結句が、祈りのように響く印象的な恋の歌です。
巻第19-4235
天雲(あまくも)をほろに踏みあだし鳴る神も今日(けふ)にまさりて畏(かしこ)けめやも |
【意味】
天雲をばらばらに蹴散らして鳴り響く雷神の恐ろしさも、今日の天皇の恐れ多さにかないましょうか、かないはしません。
【説明】
題詞に「太政大臣藤原家の県犬養命婦(あがたのいぬかいのみょうぶ)が天皇に奉った」とある歌。「太政大臣藤原家」は、藤原不比等の尊称、「県犬養命婦」は県犬養東人の娘で、名は三千代。はじめ美努王に嫁して葛城王(橘諸兄)、佐為王(橘佐為)を生んだ後、離婚し、不比等に嫁して安宿媛(あすかべひめ:後の光明皇后)を生んだ女性です。「命婦」は、後宮の女官のことで、自らも出仕して不比等の支えとなりました。天皇は聖武天皇ではないかとされます。
上の1658のところでご紹介した光明皇后による「藤三娘」という自身の署名は、藤原氏の三女という意味、あるいは母・三千代の名を入れたともいわれます。三千代は元は中流貴族の出身でしたが、不比等と結婚した後は、女官として宮廷に大きな影響力を持つようになりました。天武~聖武天皇の歴朝に仕えた功により、和銅元年
(708) 年に、元明天皇から「橘」 の姓を賜わっています。
「ほろに」は、ばらばらに。「あだす」は、荒らす、散らす。「畏けめやも」の「め」は推量、「やも」は反語。天皇が何かのお計らいをなされた時、側近していた命婦として天皇の威光を褒め讃えた歌ですが、国文学者の窪田空穂は「調べが重厚で、物言いの直線的なのに支えられて、調べがただちに感をあらわしているものである。女性の歌としては、珍しいまでに男性的なものである」と評しています。
この歌は、天平勝宝3年(751年)正月に越中で催された宴席において、久米広縄が伝誦したもので、上司の大伴家持が書き留めて、『万葉集』に載ることになりました。
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(光明皇后)
(藤原不比等)
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