巻第9-1747~1748
1747 白雲(しらくも)の 龍田(たつた)の山の 瀧(たき)の上の 小椋(をぐら)の嶺(みね)に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝(え)は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しましくは 散りな乱(まが)ひそ 草枕(くさまくら) 旅行く君が 帰り来るまで 1748 わが行きは七日は過ぎじ竜田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし |
【意味】
〈1747〉竜田山の滝の上の小倉山に、枝がぶらぶらになるほど咲いている桜の花は、山が高くて風がやまず、春雨が続けざまに降るので、枝の先のほうはもう散ってしまった。下枝に残っている花は、せめてもうしばらくの間、散り乱れないでほしい。せめて難波へ旅立たれたお方が帰っていらっしゃるまで。
〈1748〉我らの旅は七日以上にはなるまい。だから竜田彦よ、それまでこの花を風に散らさないでおくれ。
【説明】
春3月、諸卿大夫らの人々が難波へ下った時の歌とあり、以下1752まで、都と難波を往復した際に詠まれた歌が続いています。「諸卿大夫」の「卿」は三位以上の人、「大夫」は五位以上の人。この「春3月」がいつだったかについて、神亀3年(726年)に、荒廃した難波宮の再建工事の最高指揮官として藤原宇合(不比等の子)が任命されており(巻第3-312)、『続日本紀』の天平4年(732年)3月26日の記事に、宇合ほか工事に携わった力役まで天皇から褒美をいただいたとあるので、造営工事の完成を祝う式典行事の折だろうとの見方があります。虫麻呂は、その随員として従っていたらしく、そうすると、歌中にある「旅行く君」は、虫麻呂の上司である宇合を指していることになります。
1747の「白雲の」は「立つ」と続き「竜田山」の枕詞。この枕詞は、虫麻呂だけが使っています。「竜田山」は、現在の奈良県生駒郡三郷町の龍田本宮(たつたほんぐう)の西にある山地。都から難波へ出る要路で、いわゆる竜田越え。「小椋の嶺」は、竜田越えの道にあった山。「咲きををる」は、満開の花の豊かなさま。「山高み」は、山が高いので。「風し」の「し」は、強意。「ほつ枝」は、花が早く咲く上の方の枝。「しましくは」は、しばらくは。「散りな乱ひそ」の「な~そ」は禁止で、散り乱れないでほしい。「草枕」は「旅」の枕詞。
1748の「行き」は、旅行きで、難波にいる間。「竜田彦」は竜田本宮の祭神で、風の神様。竜田越えとなる大和川渓谷は、西からの台風などが大和へ入る通路でもありましたから、竜田彦・竜田姫の風の神が祀られたのでした。「ゆめ」は(禁止の語を伴い)決して。「風にな散らし」の「な」は、助詞のみで禁止にする古形。
巻第9-1749~1750
1749 白雲の 竜田(たつた)の山を 夕暮に うち越え行けば 滝の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにきり 含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見(め)さずとも かにもかくにも 君がみ行きは 今にしあるべし 1750 暇(いとま)あらばなづさひ渡り向(むか)つ峰(を)の桜の花も折らましものを |
【意味】
〈1749〉竜田の山を夕暮れ時に越えて行こうとしたら、激しい流れのほとりの桜は、咲いた花は散りつつも、つぼみの花はこれからまだ咲き継いでいくでしょう。あちらこちらに花の盛りをご覧になれぬとしても、あなたは今こそおいでになるのがよいでしょう。
〈1750〉暇があったら、水に妨げられながらも川を渡り、向こうの峰の桜の花も折ろうものを。
【説明】
春3月に、諸卿大夫らの人々が難波に下ったときの歌。前の歌との連作。1749の「白雲の」は「竜田」の枕詞。「含めるは」は、蕾んでいるものは。「咲き継ぎぬべし」の「べし」は、推量。「こちごち」は、あちらこちら。「見さずとも」の「さ」は尊敬。ご覧にならなくても。「み行き」は、ご旅行、お出まし。1750の「なづさひ渡る」は、水に漬かって渡る。「向つ峰」は、向かいの峰。「折らましものを」は、反実仮想。
巻第9-1751~1752
1751 島山(しまやま)を い行き廻(めぐ)れる 川沿(かはそ)ひの 岡辺(をかへ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ 我(わ)が越え来(こ)しか 一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに 峰(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負(お)へる杜(もり)に 風祭(かざまつ)りせな 1752 い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも |
【意味】
〈1751〉島山を行き巡って流れる川沿いの、岡辺の道越えて来たのは昨日だったが、一夜だけ旅の宿りをしただけなのに、尾根の桜は、滝の瀬に散って流れている。我が君がご覧になるだろうその日までは、山おろしの風よ吹くなと願って越えて行き、風の神の名を持つ社で、風を鎮める祭りをしよう。
〈1752〉神の行き逢う国境の坂の麓に、枝もたわむほどに咲いている桜の花。この美しい光景を見せてやれる子がいたらよいのに。
【説明】
難波で一泊して翌日帰って来たときの歌。1748で「七日は過ぎじ」といっていた予定が、何らかの理由で早く帰ることになったとみえます。1751の「島山」は、蛇行する川に山が突き出て島のように見える所。「君」は、宇合のこと。「風な吹きそ」の「な~そ」は、禁止。「風祭り」は、風の災いを防ぐための祭り。1752の「い行き逢ひの坂」は、竜田越えの坂。隣国の神どうしが山の両側から登りつめて境を決めたという伝承のある坂。「咲きををる」は、咲いて撓んでいる。「もがも」は、願望。
巻第9-1755~1756
1755 鴬(うぐひす)の 卵(かひご)の中に 霍公鳥(ほととぎす) 独り生れて 己(な)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺(のへ)ゆ 飛び翔(かけ)り 来鳴(きな)き響(とよ)もし 橘の 花を居(ゐ)散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし 賄(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我(わ)が宿(やど)の 花橘に 住みわたれ鳥 1756 かき霧(き)らし雨の降る夜(よ)をほととぎす鳴きて行くなりあはれその鳥 |
【意味】
〈1755〉うぐいすの卵に交じり、ホトトギスよ、お前は独り生まれて、お前の父に似た鳴き声で鳴かず、お前の母に似た鳴き声でも鳴かない。卯の花の咲いた野辺を飛びかけっては、辺りを響かせて鳴き、橘の花にとまって花を散らし、一日中聞いていても聞き飽きないよい声だ。褒美をやろう、だから何処へも行くな。私の庭の花橘の枝にずっと住み続けておくれ、この鳥よ。
〈1756〉曇ってきて雨が降る夜空を、ホトトギスの鳴きながら遠ざかっていく。ああ、孤独な鳥だ。
【説明】
「霍公鳥を詠む」長歌と短歌。ホトトギスは、初夏に渡来し、秋、南方に去っていく渡り鳥です。親鳥は巣を作らず、ウグイスなど他の鳥の巣に卵を生んで世話を託します。長歌では、そんな習性のあるホトトギスを明るく詠んでいます。卯の花も橘の花も、ホトトギスと取り合わせの景物とされていました。「野辺ゆ」の「ゆ」は、~を通って。「ひねもす」は、一日中。「賄」は、褒美、贈り物。「遠くな行きそ」の「な~そ」は、禁止。「宿」は、家の敷地、庭先。「住みわたれ」は、ずっと住み続けてくれ。
1756の反歌では打って変わって、雨夜のホトトギスのしっとりとした情緒をうたっています。「かき霧らし」の「かき」は、接頭語。「霧らし」は、霧が覆って。「行くなり」の「なり」は、詠嘆。「あはれ」は、感動詞。作家の田辺聖子は、「あはれその鳥」の口吻は、現代語にはちょっと訳しようがないとして、古今調をとびこして、むしろ式子(しきし)内親王の「新古今ぶり」を思い出させる雰囲気を持つ、と言っています。
ホトトギスの母鳥は、ウグイスの巣に卵を1個だけ産みこみ、その卵は約10日で孵化し、生まれた雛は、まだ孵化していないほかの卵を背中に一つずつ乗せて、巣の外に放り出してしまいます。そうして巣内を独占し、仮親の世話を自分だけのものにして育つのです。人道というか、鳥道に外れているホトトギスの習性ですが、虫麻呂はそういうホトトギスの生き方をむしろ深刻に捉えています。生まれた時に親を知らない、そしてあちらこちらへと旅を続ける、こんなかわいそうな鳥があるだろうか、と。それは、天涯孤独の鳥ということであり、言っていることはホトトギスのことではありますが、放浪する人間、あるいは自身の姿をそれにおしあてているようでもあります。
1757 草枕 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる 事もありやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 雁(かり)がねも 寒く来(き)鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良(よ)けくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂へは止(や)みぬ 1758 筑波嶺(つくはね)の裾廻(すそみ)の田井(たゐ)に秋田刈る妹がり遣(や)らむ黄葉(もみち)手折らな |
【意味】
〈1757〉旅の憂いを慰めるよすがもあるかと思い、筑波嶺を登って眺めると、すすきの散った師付の田んぼに、雁が飛んで来て寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖も見えて、秋風に白波が立っている。そんなすばらしい景色を観ていたら、何日もの長旅で積もりに積っていた憂いも消えていた。
〈1758〉筑波山の裾まわりの田んぼの実った稲を刈ろう。そして、あの娘にあげたい黄葉を手折っておこう。
【説明】
筑波山に登る歌。常陸国に赴任していた虫麻呂は、国庁から眺めることのできる筑波山を慕い、この歌はあるとき自ら登って作った歌です。1757の「草枕」は「旅」の枕詞。「尾花」は、ススキの花穂。「師付」は、筑波山東麓の地。「田居」は、田んぼ。「雁がね」は、雁。「新治」は、筑波山北西にあった地名。「鳥羽の淡海」は、かつて茨城県下妻市から筑西市にかけてあった沼。1758の「裾廻」は、山の麓のあたり。「秋田」は、秋に稲の実った田。「妹がり」は、妹の許に。「手折らな」の「な」は、自身に対しての希望の意志。
1759 鷲(わし)の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我(わ)も交(まじ)はらむ 我(わ)が妻に 人も言(こと)問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日(けふ)のみは めぐしもな見そ 事も咎(とが)むな 1760 男(を)の神に雲立ちのぼり時雨(しぐれ)ふり濡(ぬ)れ通るともわれ帰らめや |
【意味】
〈1759〉鷲の巣くう筑波山にある裳羽服津のほとりに、声をかけ合って集まった若い男女が手を取り合って歌い踊る場所がある。人妻に私も交わろう、私の妻にも声をかけてやってくれ。これは、この山の神が遠い昔からお許しになっている神事である。だから今日だけは、あわれに思わないでくれ、咎め立てをしないでくれ。
〈1760〉男の神山に雲が立ちのぼり、時雨にずぶ濡れになったとしても、私は帰りなどしないよ。
【説明】
筑波の嶺に登って嬥歌(かがい)の会をした日に作った歌。嬥歌会(歌垣のことをいう東国の語)は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で嬥歌(歌垣)に参加して楽しんでいたようです。筑波山頂に男の神山(男体山)と女の神山(女体山)があり、男体山と女体山がつながる御幸が原が歌垣の場所だったようです。ただしこの歌自体は虫麻呂の実体験というより、当地の習俗の伝承を詠んだにすぎないとされます。
1759の「裳羽服津」は、地名ながら所在不明。「津」は、一般に海岸や水辺の港のある所を指しますが、ここでは、泉があってそのほとりに人が集まる所の意か。「率ひて」は、誘い合って。「かがふ」は「嬥歌」を動詞にしたもので、男女が唱和する、または性的関係を結ぶ意。「交はらむ」は、性交しよう。「言問へ」は、ここでは求婚の意。「うしはく」は、土地を治める、領する意。「禁めぬ」は、禁止しない、諫めない。「めぐし」の意は、かわいい、痛々しい、監視するなど諸説あります。「な見そ」の「な~そ」は、禁止。1760の「男の神」は、男体山。「帰らめや」の「や」は、反語。帰るつもりはない。
特殊風俗の詠まれた珍しい歌ですが、『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。
そのような性的解放とか乱婚が行われた理由について、文学研究者の渡辺昭五は、「それが豊かさをもたらす農耕民俗の信仰にある」とし、農村の稔りと密接な関係があると強調しています。一方、国文学者の西郷信綱のように、「いくら古代とはいえ性的解放の儀礼とやらのため『諸国男女』が大勢集まるなどというような多幸な事態が、そもそもありえただろうか。それはあまりにも幻想的であり、ことばの上だけで辻褄をあわせたものだというほかない」と懐疑的に見る向きもあります。
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歌垣について
歌垣(うたがき)は、記紀万葉の時代、特定の日時に、山、磯、市(いち)などに男女が集まって、飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして性的解放を行なった行事のこと。東国では「嬥歌(かがい)」とも言い、もともとは、国見と結びついた農耕儀礼として始まったとされます。語源は「歌掛き(懸き)」と考えられ、また東国の「嬥歌(かがい)」も「懸け合い」であると考えられており、古代の言霊信仰の観点からは、ことばうたの掛け合いにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従したのだ、と説かれます。
歌垣が行われた場所は、他国や他村との境界性を帯びた地が多く、常陸筑波山、常陸童子女松原、肥前杵島岳、摂津歌垣山、大和海石榴市、大和軽市などが知られています。貴族社会では歌舞だけが独立して芸能化し、奈良時代末期には中国から移入した踏歌(とうか)に取って代られることになりましたが、民間では後代にいたるまで存続しました。ただ、時代とともに農耕儀礼や呪的信仰の性格は薄れ、もっぱら未婚者のための求婚行事となっていき、特に都市部の市ではその傾向を強めています。
また、より後には遊楽化され、それらが、今日の民俗行事である野遊び、山遊び、花見、潮干狩りなどにつながっています。もっとも、上代のような露骨な「性の解放」の要素はなくなっています。
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(額田王)
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