巻第9-1767~1769
1767 豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居(を)れば香春(かはる)は我家(わぎへ) 1768 石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(ほ)には出(い)でず心のうちに恋ふるこのころ 1769 かくのみし恋ひし渡(わた)ればたまきはる命(いのち)も我(あ)れは惜(を)しけくもなし |
【意味】
〈1767〉豊国の香春のこの里は私の家だ、紐の児と結ばれているのだから、香春は我が家のようなものだ。
〈1768〉石上の近くにある布留の里の早稲田ではないが、穂にも出さず、ひそかに心の中でずっと恋い焦がれているこの頃だ。
〈1769〉これほどに恋い慕うことを続けていると、命も私は惜しいこともない。
【説明】
抜氣大首は伝未詳。変わった名で、姓が「抜氣大」なのか「抜氣」なのか、「大首」も姓か名か分かっていません。都の役人だった作者が筑紫に赴任し、豊前国の紐児(ひものこ)という女性と恋に落ちて結婚しました。ここの歌は、その喜びを歌っており、紐児は豊前田河郡の遊女といわれています。宴席で歌った歌とする見方もありますが、題詞に「娶(めと)って」とあるので、やはり結婚してしまったのでしょう。
1767の「豊国」は、大分県と福岡県東部。「香春」は、福岡県田川郡香春町(かわらまち)。「いつがり」の「い」は接頭語、「つがり」は一つに繋がっている意。1768の「石上布留の早稲田の」は「穂」を導く序詞。「石上布留」は、いまの天理市から石上神宮にかけての地。「早稲田」は、早稲が植えられている田。「穂には出でず」の「穂」は稲穂でもあり、また顔の頬あるいは表面の意で、外には表さず、人目につかず。1769の「たまきはる」は「命」の枕詞。「命も我れは惜しけくもなし」は成句に近いもので、似た用例の歌が多くあります。
巻第9-1766
我妹子(わぎもこ)は釧(くしろ)にあらなむ左手の我(わ)が奥(おく)の手に巻きて去(い)なましを |
【意味】
あなたが釧であったらいいのに。そしたら、左手の私の大事な奥の手に巻いて旅立とうものを。
【説明】
振田向宿祢(伝未詳)が、筑紫の官に任ぜられて下った時の歌。「釧」は、腕輪で、手首やひじのあたりに巻いた飾り。「なむ」は、願望の助詞。「奥の手」は、左手を右手よりも尊んでの称とされ、左手は右手よりも不浄に触れることが少ないとしての上代の信仰によるとみられています。この風習は、いまも欧州に残っているといいます。「巻きて去なましを」は、巻いて持って行こうものを。
愛する人との別れに際し、その人を身につける品にして持って行きたいというのは類想が多くありますが、釧(腕輪)にしたいと歌っているのは珍しいものです。
巻第9-1770~1772
1770 みもろの神の帯(お)ばせる泊瀬川(はつせがは)水脈(みを)し絶えずは我(わ)れ忘れめや 1771 後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)れはや恋ひむ春霞(はるかすみ)たなびく山を君が越え去(い)なば 1772 後(おく)れ居(ゐ)て我(あ)れはや恋ひむ印南野(いなみの)の秋萩(あきはぎ)見つつ去(い)なむ子ゆゑに |
【意味】
〈1770〉みもろの神が帯となさっている泊瀬川、この水の流れが絶えない限り、私があなたを忘れることがあろうか。
〈1771〉後に残された私は恋い焦がれてばかりいるでしょう。春霞がたなびく山を、あなたが越えて行ってしまわれたなら。
〈1772〉後に残された私は恋い焦がれてばかりいるでしょう。印南野に咲く秋萩を見ながら去っていくだろう愛しい子ゆえに。
【説明】
1770・1771は、大宝2年(702年)正月、大神大夫(おおみわだいぶ)が長門守に任ぜられた時に三輪の川辺に集まって送別の宴をした歌。1772は、大神大夫が筑紫国に任ぜられた時(年次不明)に、阿倍大夫(あべだいぶ)が作った歌。大神大夫は三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)。壬申の乱の際。大海人皇子側について勝利に貢献。後に持統天皇の農事での行幸に自らの感触をかけて諫める等、天武・持統・文武の3天皇に仕えました。宴の場に三輪の川辺が選ばれたのは、大神氏が三輪山を奉斎する一族だったからです。
1770の「みもろ」は神が降臨する場所。ここでは三輪山。「泊瀬川」は初瀬の渓谷に発し、三輪山をまわって佐保川に合流し、大和川となる川。「水脈」は水の流れる筋。「忘れめや」の「や」は反語。1770は本人、1771は妻の立場の歌。「後れ居て」は、後に残っていて。「我れはや」の「や」は、詠嘆の強い疑問。
「みもろ」または「神なび」と呼ばれる山は、山容が秀麗なばかりでなく、その山裾を川が巡るように流れている必要がありました。その川を山が「帯」にしているという意味で、擬人化して「帯(お)ばせる」「帯にせる」などと表現されています。三輪山の山裾を流れる泊瀬川は、三輪山の霊威を下界に及ぼす川と信じられていました。
1772の作者、阿倍大夫は誰か不明ながら、時代的に見て阿倍広庭かともいいます(巻第6-975)。「印南野」は、明石から加古川にかけての野。「子」は、女に対しての愛称で、高市麻呂の妻のこと。広庭は、そういう称を用いることのできる縁者だったのかもしれません。正月に筑紫に赴任した夫を追いかけてこの妻が旅をするのは、萩の花が咲く秋だったと見えます。
巻第9-1778~1779
1778 明日よりは我(あ)れは恋ひむな名欲山(なほりやま)岩(いは)踏(ふ)み平(なら)し君が越え去(い)なば 1779 命(いのち)をしま幸(さき)くもがも名欲山(なほりやま)岩(いは)踏(ふ)み平(なら)しまたまたも来(こ)む |
【意味】
〈1778〉明日から、私はあなたへの恋しさがつのることでしょう。あの名欲山の岩を踏みならしながら、あなたのご一行が去ってしまわれたら。
〈1779〉命長く達者でいてほしい。そうすれば、名欲山の岩を踏みならしてまたやって来ようと思うから。
【説明】
1778は、葛井広成(ふじいのひろなり)が遷任して京に上る時に、娘子が贈った歌。送別の宴での挨拶の歌とみられています。「娘子」は九州の女性で、遊行女婦だったかもしれません。1779は広成が答えた歌。葛井広成は渡来人系で、はじめ白猪史(しらいのふびと)を称し、後に葛井連の氏姓をあたえられ、備後守などをつとめ、中務少輔(なかつかさのしょう)となった人です。
1778の「恋ひむな」の「む」は推量、「な」は詠嘆の助詞。「名欲山」は、大分県竹田市の木原山(きばるやま)か。「岩踏み平し」は、大勢で岩を踏んで平らにして。踏みつけての意を強調した表現。1779の「命をし」の「し」は、強意。「幸くもがも」の「もがも」は、願望の助詞。
歌風の変遷
万葉集は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。
第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。
第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。
おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。
第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。
第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年まで。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代でもあります。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといえます。
おもな歌人として、家持のほか、湯原王・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。
【PR】
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】