巻第9-1785~1786
1785 人となる ことは難きを わくらばに なれる我(あ)が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間(あいだ)に うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 天(あま)ざかる 鄙(ひな)治(おさ)めにと 朝鳥(あさとり)の 朝立(あさだ)ちしつつ 群鳥(むらとり)の 群立(むらだ)ち去(い)なば 留(と)まり居(い)て 我(あれ)は恋ひむな 見ず久(ひさ)ならば 1786 み越路(こしぢ)の雪降る山を越えむ日は留(と)まれるわれを懸(か)けて偲(しの)はせ |
【意味】
〈1785〉人に生まれて来ることは難しいのに、偶然に人と生まれた私は、死ぬのも生きるのもあなたにお任せしましょうと思い続けているうちに、現実のあなたは、帝の仰せに従って遠い地方の国を治めるために、朝発って多くの人と行ってしまいました。あとに残された私はあなたを恋しく思うことでしょう。長くお目にかかれないことになってしまったら。
〈1786〉越の国に向かう、雪降る山道を越えていく日には、都にとどまっている私を心にかけて思ってくださいね。
【説明】
題詞に「神亀5年(728年)秋8月の歌」とあり、越の国(北陸地方)へ地方官として赴任する夫を送った妻の立場の歌であり、何らかの関係で頼まれて代作したものとみえます。1785の「人となることは難きを」は、仏説の言葉を言っているもの。「わくらばに」は偶然に。「君がまにま」は、生も死も君の心次第の意。「うつせみの」は「世」の枕詞。「命恐み」は、勅命に従い。「天ざかる」は「鄙」の枕詞。「鄙」は都から遠く離れた地方。「朝鳥の」「群鳥の」は、それぞれ「朝立ち」「群立つ」にかかる枕詞。「恋ひむな」の「む」は推量、「な」は詠嘆で、私は恋しく思うだろうなあ。1786の「み越路」の「み」は、接頭語、「越路」は、越の国へ行く北陸道。「懸けて」は、心にかけて。「偲はせ」は「偲へ」の敬語で、命令形。
窪田空穂はこの歌について、「金村の長歌は、時には統制力を欠き、熱情をそのままに抒べる傾向が勝つために、具象化の伴わないものになり、したがって調べは、実情から遊離して単に語そのものの調子になろうとする弱所がある。この歌はそれの際立っているものである。前半の仏説によっていっていることは、後半とは密接にはつながり得ないものである。また後半の旅立ちのさまは、類想の多いもので、ことに「朝鳥の」「群鳥の」といっている辺りは、当時謡い物として行なわれていたであろうと思われる古事記神代の巻の、八千矛の神の歌の影響を受けているものであることは明らかである。ほとんど創意のない作である」と述べています。
また、この歌は女性らしくないとして、刎頚の友の門出に際してのものとする見方がありますが、国文学者の金井清一は、「たしかに長歌は仏教思想から歌い起こして官命尊重の官人意識が露出していて女性の作らしくないが、それは作者の徹底を欠いた不手際からくるものであろう。反歌や、長歌の結びの部分などは十分に女性的であって、これを男性どうしの別れとするのは不具合である」と述べています。
笠金村(かさのかなむら)は奈良時代中期の歌人で、官人としての経歴は不明ながら、身分それほど高くなかったとみられています。『万葉集』に45首を残し、そのうち作歌の年次がわかるものは、715年の志貴皇子に対する挽歌から、733年のの「贈入唐使歌」までの前後19年にわたるものです。自身の作品を集めたと思われる『笠朝臣金村歌集』の名が『万葉集』中に見えます。
1787 うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 礒城島(しきしま)の 大和の国の 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の里に 紐(ひも)解かず 丸寝(まろね)をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐(い)も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に 1788 布留山(ふるやま)ゆ直(ただ)に見渡す都にそ寝(い)もねず恋ふる遠からなくに 1789 我妹子(わぎもこ)が結(ゆ)ひてし紐(ひも)を解かめやも絶えば絶ゆとも直(ただ)に逢ふまでに |
【意味】
〈1787〉自分は人間世界の者だから、そこをお治めになる天皇の仰せをかしこみ、家を離れ大和の里にある石上の辺、布留の里へ出かけていき、ただ一人下袴の紐も解かずごろ寝をしているために、着ている衣はよれよれになってしまった。見る物さわる物すべてにつけて、家族への思いが募るけれども、顔色に出たら人が悟ると思い、冬の夜が長くて明けないのに、寝ても眠られず、愛しい人の傍ばかりを焦がれている。
〈1788〉布留の山からまっすぐに見渡せる都にいる妻に焦がれて夜も眠れない。それほど遠くはないのに。
〈1789〉私の妻が結んだ衣の紐を、解きなどしようか、切れるなら切れるまで。じかに逢うまでに。
【説明】
題詞に「天平元年(729年)冬12月の歌」とあり、班田使として畿内を巡る旅を続けていた時の歌とされます。班田使とは、律令制において班田収授を行うために、京及び畿内諸国に派遣された官人をさします。ここで歌われている「布留の里」は、いまの天理市から石上神宮にかけての地。都からは約8kmでごく近い距離ですが、帰宅できず、長期にわたって任務に携わらなければなりませんでした。金村自身が班田業務に携わったのかどうかは定かではなく、あるいは班田使の立場に立った代作かもしれません。
天平元年という年は、時の政権を担っていた長屋王が失脚・自殺する事件があり、また、藤原光明子の立后という出来事があった、まさに激動の一年でした。ところが『万葉集』中の同年の歌には、12月に始動した班田事業を詠み込んだものが多く見受けられ、異彩を放っています。葛城王(後の橘諸兄)などもその任にあたっており、まさに官人総動員体制で行われたものの、荘園の所有者や耕作人たちの抵抗が大きく、新たな土地の確保に苦労するなど、その任務は過酷を極めたといいます。律令官人とその家族にとっては、とりわけ強い印象を残す出来事だったとみえます。
1787の「うつせみの」は「世」の枕詞。「礒城島の」は「大和」の枕詞。礒城は地名であり、現在の奈良県桜井市金屋に欽明天皇の礒城島禁刺宮がありました。6世紀の欽明朝以後の、大和政権が強大になって以後、「やまと」の枕詞として広く用いられるようになりました。「丸寝」は、着物を着たまま寝ること。「衣はなれぬ」の「なれぬ」は、よれよれになった。「色に出でば」は、思いが顔色に出たら。「出でば」は原文では「山上復有山」の5字で書かれており、「山の上に復(また)山有り」の意味を、「山」の字を上下に2つ重ねることによって「出」という字になることを示しています。このような表現方法は「戯書(ぎしょ/ざれがき)」と呼ばれています。「人知りぬべみ」は、人が気付いてしまうだろうから。「寐も寝ず」は、寝ても眠られず。「直香」は、その人の実体、あるいは、それしかないそのものから漂い出る霊力、じかに感じられる雰囲気の意。
1788の「布留山ゆ」の「布留山」は、石上神社の東方の山。「ゆ」は、起点・経過点を示す格助詞。「なくに」は、ないのに。1789の「解かめやも」は反語で、解こうか、解きはしない。「直に逢ふまでに」の「まで」の原文「左右」をマデと訓むのは、どちらか一方の手は「片手」で、両手を「真手(まで)」というところから来ています。「左右手」もマデと訓み、ここは「手」を省略したもの。『万葉集』の訓点作業に携わった梨壺の5人のうちの1人、源順(みなもとのしたごう)が「左右手」をマデと訓み解いた苦労が知られています。
※班田使関連の歌
→ 大伴三中の歌(巻第3-443~445)
→ 橘諸兄の歌(巻第20-4455)
旧仮名の発音について
家を「いへ」、今日を「けふ」、泥鰌を「どぜう」などの旧仮名は、そのように表記するだけであって、発音は別だったと思われがちですが、近世以前にあっては、その文字通りに「いへ」「けふ」「どぜう」と発音していました。
ただし、その発音は、今の私たちが文字から認識するのと全く同一ではなく、たとえば「は行音」の「は・ひ・ふ・へ・ほ」は「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」に近かったとされます。だから、母は「ふぁふぁ」であり、人は「ふぃと」です。「あ・い・う・え・お」の5母音にしても、「い・え・お」に近い母音が3つあったといいます。
また、万葉仮名として当てられた漢字では、雪は由伎・由吉・遊吉などと書かれているのに対し、月は都紀・都奇などとなっており、同じ「き」なのに、月には「吉」が使われていません。そのように書き分けたのは、「き」の発音が異なっていたからだろうといわれています。
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